瞬間~雪乃~
第7話 後悔
金婚式も終え、「随分と長く一緒にいたんだねぇ。雪乃といられて幸せな人生だった」そう言い、穏やかな笑みを湛えていた夫に「六十年目も一緒に迎えられたらいいわね」と、そう返したのは七年前だったか。
いつも通りの朝ご飯を済ませ、新聞を持ったままソファに寄りかかり、あらあら、おじいさんはもううたた寝をしているのかと、洗濯物を干しながら窓の中を覗いていた。そうして干しながら目に入っていた庭の雑草を、昨日の雨で土の湿り気が残る今が抜きやすくていいかと、庭仕事の時にはいつも使う、長男の和真が買ってくれた車輪の付いた小さな椅子に腰を下ろし、雪乃はそのまま目立ち始めた雑草を、ひとしきり抜いた。
雨の翌日、新緑の生命が眩しく空に映える、五月の初めの朝だった。
「よっこいしょ」立ち上がる時にはそう口に出すようになった雪乃が立ち上がり、歳をとっても汗ばむことに心地よい生を感じながら、熱くなり始めた日差しを避けるために家に入った。
手洗いを済ませ、冷蔵庫から麦茶を二人分の湯飲みに入れ、和彦のいるソファの前のテーブルにそれを置いた。和彦はまだ眠っている。気持ちよさそうに眠っているところを邪魔したらいけないと、一人喉を潤しながら、私も今朝はまだ新聞を読んでいないからと、和彦の指の隙間から新聞を抜いた。
そうしている間中、和彦は身動き一つしなかった。
ふと違和感を感じ、和彦の顔、身体をジッと見た。
「あなた。あなた。ねぇ、ねぇ、おじいさん……」
揺り動かした身体は支えをなくしたように、横に崩れた。
あああ、おじいさん、おじいさん……どうしよう、おじいさん……
慌てた雪乃が最初に電話をしたのは、同じ市内に住む娘の晴美だった。娘と言っても、すでに50歳の半ばを過ぎた娘で孫もいるが、同じ市内にいるため、何かにつけて連絡は取っていたし、よく顔を見せに来ていた。まあ、顔を見せるというより、年寄りの二人暮らしが心配で見に来ていたのだ。
それから何をどうしたのか記憶にない。病院で臨終を知らされ、夜には県外に住む長男の和真夫婦が来たのは覚えている。
「じゃあ俺らはいったん帰るから。これからのことはまた相談しよう。母さん、一人で大丈夫か?なんか困ったらまた姉さんに電話しろよな」
「母さんのことは大丈夫よ。私は明日も来るし、和真は次は四十九日に来るでしょ?その時にまた話そう」
帰る?ああ、そうか……もう和真たちは帰るのか。話そう?何を話すんだろう……これからのこと?これから何が変わるというのだろう。
和彦の葬儀を終え、泊まっていた和真たちが帰り、「じゃあ私も帰るわね。明日また来るから」と晴美も帰って行った。外はもう真っ暗だ。
「おじいさん、おじいさん」
四十九日まで和室に設えられた祭壇には、位牌とその向こうに笑顔の和彦と、和彦が入る骨壷があり、どんなに呼びかけても和彦からの返事はなかった。
たった一人。雪乃は一人になったその部屋で。寄る辺の全てを失ったことを知った。晴美が嫁ぎ、東京の大学に行くことが決まり家を出た和真は、その地で仕事に就き結婚もした。お父ちゃんもお母ちゃんもとっくに死んだ。雪乃には和彦が全てになっていた。その和彦も逝ってしまった。
「和彦さん」そう夫に声をかけ、小さくなった和彦を胸に抱き、しばらく呆然としていた。和彦と最後に何を話しただろう。頭の中には一緒に過ごした最後の朝の映像が、映画を観ているように思い返されていた。
「今日は天気がよくなったから、昼前に散歩にでも行くか。里山の総合公園の藤が見頃だろう。あそこの茶屋であんころ餅でも昼用に食ってくるか」
「ああ、いいですねぇ。いつものコースで、あそこのあんころも久しぶりだわ」
年寄りの足で普通に歩けば家から10分ほどのところにある総合公園には2km近い散歩コースがあり、天気のいい日には2人でゆっくりと時間を気にすることなく運動のために歩いていた。季節ごとにいろんな花が咲くその公園では、そうして花の見頃のたびに昼を楽しむこともしていた。
「行けませんでしたねぇ……」
今年は桜の頃には今一つの天気の日が多く、天気がよくなった日には、茶屋は混んでいて、「またにしよう」と、並ぶのが嫌な和彦はそう言って通り過ぎていた。「どうせすぐに藤の季節だ」そうも言っていた。
明日、行ってみようか。藤の花はまだ咲いているだろうか……
昨夜、そんなことも思ったが、朝起きたら何もする気が起きなかった。朝ご飯と思ったが、自分一人なら何も作る気が起きなかった。ご飯に梅干しでもあればいい。そこにお茶をかけて流し込めば終わりだ。
顔を洗い、お湯を沸かす間に雨戸を順に開け、和室の雨戸をあけたとき、祭壇で笑う和彦を見てハッとした。
「そうだ、和彦さんにご飯やらなきゃ」
食べるのは自分だけじゃなかった。本当は自分だけだけれど、本当には食べない和彦にもご飯を供えなければと思った。それは亡くなった人のためであり、生きている自分が生きていくためにも必要なことだった。
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