第8話 瞬間
「お母さん、昨夜一人で大丈夫だった?」
「大丈夫って?なんだや?」
「いや、だから一人で寂しくなかった?」
「一人って、一人じゃないよ。おじいさんがいるじゃない」
そう言って、雪乃は祭壇で微笑む和彦に目を向けた。
「そういう意味じゃなくてさ、いや、まあそうなんだろうけど、そうは言っても一人でいたわけでしょ?夜、眠れたかなと思って」
「眠れたよ。いつも通りだ。なんにもかわらん」
「はいはい。ね、お茶でも飲もうよ。入れるからあっち行こう。ほらほら。あたし喉が乾いちゃったわよ」
晴美は父の和彦が亡くなってから、はじめて一人で夜を過ごした雪乃が一人で心細かったのではないか、昨夜はもう和真たちも帰ったんだと、朝になってようやくそのことに気が付いた。父、和彦の完全定年後は、ほとんどを二人で過ごしていた母だ。どこに行くにも二人で、それぞれ別々に旅行に行くこともなかった二人が、数十年ぶりに一人になったのだ。もっと気を配ればよかった、寝る前に一本電話を入れればよかったかと、朝のバタバタした時間にそう思い、不安に駆られて家事もそこそこにして実家にきたのだった。
「あんたは
晴美の夫、亮太は定年後の再任用も終え、今は会社の系列で週三の臨時社員をして、技術を余すことなく若手に引き継いでいるところだった。
「いいのいいの、あの人最近DIYに目覚めちゃって、休みの日にはあれこれ考えちゃあホームセンター行っちゃあしてるから。なんか趣味でもないと老後することなくてボケちゃっても困ると思ってたから趣味を見つけてくれてちょうどよかったわ」
「そうは言っても昼前には帰りなさいよ。おじいさんが亡くなってからずっとこっちに来てて、亮太さんも落ち着かなかったらで、あんたらも普通の日常に早く戻りなさいよ」
「うん、わかってるって。ふぅ……美味しいわ、このお茶。お母さん、お茶だけはいいの飲んでるよね」
「お父さんが煩かったからねぇ。お茶農家の出だけはあるわよね。あの日もお茶でもと思って入れてやって……」
「ここで眠るようにだったんだね。自分の家で、痛みも辛さも、きっとなんにも感じなかったんじゃないかな」
ソファに座り、すぐ横の座面を擦るようにして晴美は言った。ここはお父さんの場所だよと、そこに座らないのは晴美らしい。
「あたしは外にいてね……洗濯もん干したらすぐここに戻ればよかった。庭いじりなんかしないで、もう少し早く気づいてやれれば……」
雪乃は窓の外からリビングを覗いて和彦を目にしたその朝を、頭の中で思い返しながら、ふと、以前和彦が言っていたことを思い出した。
「あとは雪乃より先に逝ければいいなぁ。逝くときには、手でも握っててくれな。お前の手を握ってれば、きっと怖くないさ。そうして握っていれば、きっと次の世でも、お前と一緒だ」
「あなたが先に逝くようなこと言ってるけど、じゃあ逆だったとしても、ちゃんと私の手を握ってくださいよ」
そう言い合って笑っていた。
私たち、幸せだったよね……おじいさん。
その瞬間、手、握っててやれなくて、ごめんね。
雪乃は目に滲んできた涙を誤魔化すように、欠伸をして見せた。
「あんた、やっぱもう帰りなさいよ。あたし今から里山公園に行ってくるから。あそこの茶屋のあんころ餅を買ってきたいのよ。あの日、おじいさんと行こうって話してたから、買って来ておじいさんと食べたいわ」
「あ、そう。じゃあ私も一緒に行こうかな。あんころ買って帰るわ。亮太さんもあんころ好きだし。駐車場まで車で行こうよ」
「あんたももういい歳なんだから車ばっかだと足腰にくるよ。あたしらいつも家から歩いてったんだから」
「はいはい。でも今日は車にしよう。あんころ買って、お母さんをここまで送ったら帰るし」
そんなわけで、今日は晴美の言う通り、車で駐車場まで行き、そこから遊歩道をほんの15分ほど歩いて茶屋であんころ餅を買ってきた。晴美がいなければ、藤の花をもう少し時間をかけて見られたのにと思わないでもないが、やはり今日は一緒に来てくれてよかったかもしれない。たった30分ほど歩いただけなのに、なんだか疲れた。
あんころ餅を祭壇に供えて、雪乃はそこで和彦と一緒に食べた。甘すぎず、美味しいあんころ餅で、和彦が好きだった煎茶の渋みがとても合って美味しかった。
「手、握っててやれなくてごめんね。あたしが逝く時には、ちゃんと手を繋ぎに来てくださいよ。次の世も一緒にいられるようにね」
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