第41話 戻り時計


 そうか。そういうことか。未知留がどうしたいのかがわかった。だとして、その戻り時計とやらが本当に過去に戻れるのか信じられないし、信じてもいない。どうやって一緒に過去に戻るというのか……


「今すぐ……でもいい。清恵ちゃん、今日、帰るの?」


「ううん、もう一泊するけど」


「でもね、これを使うと同じ今に戻ってこれるの。今、この瞬間にも戻れる。だからいつでもいいんだ。ご主人が一人で観光してくれてる今がいいかもしれない」


「ちょっと待って。そんなこと急に言われても……」


「急だけど、清恵ちゃんが今ここにいて、だから今がいいかもしれない。起きないかもしれないと思ってた奇跡が、今、この瞬間に起きたから、だから今がいいのかもしれない……大丈夫、もう戻る過去にはセットしてある。あと、この戻り時計に今、この瞬間の時間をセットすれば、ここに戻れるから」


 未知留の眼は清恵を捉えていた。が、私を見ていないその目に狂気を感じ、清恵はブルっと全身に鳥肌が湧くのを感じた。


「なんだか怖い。未知留ちゃんは一度経験しただろうけど、私は初めてだし……」


「大丈夫。私が経験したから。ね、行こう」


 そう言った未知留は、時計を持っていないほうの左手で清恵の腕に自分の腕を絡め、そして両手で時計のボタンを押した。それはあっという間の一瞬の出来事で、清恵は抗う暇すらないまま……



「清恵ちゃん、清恵ちゃん……清恵ちゃん」


 自分を呼ぶ声に目を覚ました。


「お母さん……あれ?ここ……」


「清恵ちゃん、未知留だよ。ほら、上手くいった」


 聞き覚えのある声がした。あの頃、毎日聞いていた声だ。未知留ちゃん……?


 ハッとした。ここ、未知留が住んでいたお寺の離れだ。


「えっ」


 目に入ったその姿にギョッとした。未知留がいる……あの頃のままの未知留だ。そう思ってから、まさかと思い、自分を見た。この手、この足、この身体……


「不思議だよね。そのまま、あの頃の身体になって戻ってる」


「ねえ、大丈夫なの?本当に戻れるの?怖いわ……」


「大丈夫。ちゃんと戻れるから。それよりも、早くしないと」


「早くって……」


「私が熱湯をかけられる前に……」


 そうだった。未知留の顔の痣、あれを消すためにここにきたんだ。


「お父さん、酔ってまだ寝てる。もう少ししたら起きてきて、また飲んで、そして私に……だから、その前に……あの日のように、ストーブを……」


「シィーっ」


 未知留が自分の口元に人差し指を当てて、その指の右手で父親のいる部屋との仕切りである襖の窪みに指先を当て、引いた。スローモーションのその仕草が、何かの合図のように清恵には見えて、清恵は一歩下がろうとした。その瞬間、未知留の手が清恵の手を掴んだ。


 嫌だ。怖い。清恵は首を振った。嫌だ、嫌だと首を振った。声を出してはいけないことは頭の中にあった。だから必死で首を振った。怖かったのだ。本当は、この日の一年後のあのことも怖くてたまらなかった。後悔もたくさんした。自分が、自分たちがやったことの意味は、大人になっていく清恵には十分すぎるほど思い知らされたし、誰にも知られてはいけないそのことが、一生の後悔として心にずっと影を落としていた。


 その瞬間、清恵は未知留引かれたその自分の手を引いていた。


「清恵ちゃん……」


「怖い」


「清恵ちゃん!」


 首を振った。「嫌だ。怖い」


「んっ……んーっ……」


「早くしないとお父さんが起きちゃう」


「嫌だっ」


「なんだお前ら。なんだっ」


 その声に弾かれるように、未知留は父親をまたぎ、その向こうに置かれたストーブに手をかけた。


「未知留ちゃんっ」


 倒されたストーブから火が立ち上がり、清恵は背を向け走り出そうとした。その瞬間、足元にある戻り時計に足先が触れ、無意識にそれを拾って走り出した。「清恵ちゃん」と自分を呼ぶ大きな声に振り返ると、未知留は横ばいの姿で清恵に手を伸ばしていた。その足は父親の手に強く掴まれているのがわかった。


 清恵は慌てて戻ると、未知留の手を掴み、必死で引っ張った。が、未知留の足を掴む父親の手が離れることがなく、未知留が起き上がることができないままだ。


 熱い……熱い……吸い込む空気が熱い……怖い、怖い、怖い……


 清恵はその苦しさで目も開けられず、流れる涙を拭おうとしたとき、未知留の手が清恵の手を離し、清恵のその手が持つ戻り時計を掴み取った。


「一人だけで戻らせないっ」


 大きなその怒声に弾かれたように、清恵は戻り時計を奪い返した。

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