第29話 戻り時計

 あの日を境にして、自分が自分じゃなくなった。 


 あの事故。あれがなければ自分は太ったりしなかった。そもそも太るという感覚などあの頃にはなかった。動き回って遊んでいた小学生の頃、健康診断では毎回BMIは『痩せている』で、『標準』になったことは一度もなかった。


 中学生になっても、特に体重を測ることを意識してしたことなどなかった。学校の健康診断で測るくらいで、事故に遭う前に測ったのは十月頃だったか、後期の健康診断の時で、それが45kgだったのだ。四月に測った時とほとんど同じだ。四月の時も、その前に測った時とそう変わらないなと思った覚えがある。つまり悠里の体重は身長の伸びが止まりかけた時から変わってないのだ。だからずっとそうなんだろうと思っていた。家の洗面所に置かれた体重計は、それまでは悠里ではなく、両親が主に使っていたものだ。


 それなのに……


 あの事故を境にして、悠里は違う世界を生き始めたのだ。太っていく悠里のいる世界へ。ずっと考えていた。あれがなかったら自分は太ることもなく、もしかしたら部活だって団体戦に出て活躍できたかもしれない。事故に遭うまでは、すごく練習を頑張ってたのに……


 それなのに……


 それなのに……


 事故のせいだ。事故のせいだ。事故のせいだ。あれがなかったら、あれがなかったら……


 ずっとそう思っていた。


 あの日に私の世界線は変わった。


 悠里は学校が終わると、スマホをもってトイレに向かった。帰り際にトイレに寄る子たちがチラホラいたが、コの字型に設えられた窓側にある個室に空きがあり、足早に入るとスマホをを開き、まだ誰にも買われていませんように……そう心で願いながらそのサイトを開いた。


 あった。

 

 あった。まだ誰にも買われていない戻り時計、千円だ。悠里は迷わずポチっとした。これが本物かどうかわからない。いや、多分偽物だ。過去に戻ってやり直せるなんて、そんなことあるわけがない。あるわけないけれど、もしかしたら……


 そうして悠里は戻り時計を手に入れた。


 多分、ただの時計だろう。戻り時計を手にしたあなた。過去に戻ったつもりで自分の選択が正しかったのか、もう一度今までの人生を振り返ってみましょう。なんて、そんなこと書かれたものが入ってたりして。


 揶揄する気持ちで箱を開け時計を取り出した。半月の形をした時計だ。時計というものは、針のある丸いものかデジタルの長方形だと思っていた悠里にとって、初めて目にする形だった。


「なるほどね、月の形の時計……いかにも、戻り時計っていいそうな形だ」


 やっぱり、こういうことだったんだとため息が漏れた。珍しい形の時計をそう呼んでるんですよという、ただの時計だ。悠里はため息とともに時計を箱に戻そうとし、底に置かれた紙に気付いた。


 随分と古い紙のようだ。何年もたたまれていたような古ぼけた紙を開いてみると、そこには『取扱説明書』と書かれていた。


 取扱説明書か。時計なんてどれも使い方に違いはないでしょと仕舞おうとして、ふとその余白に何か書かれていることに気付いた。前の持ち主が何か書いたのだろうか。


『三回とも必ず今現在の時点に戻ることをお勧めします』そう書いてある。


 えっ?どういうこと?


 悠里は自分の鼓動が大きく鳴り始めたことに気付いた。ドキドキしている。これ、もしかしたら本物?使った人がいる?はやる気持ちを抑えつつ、説明書に目をやった。



    戻り時計取扱説明書


後ろの過去ボタンを使い、過去の戻りたい日時をセットする。


後ろの未来ボタンを使い、過去の戻りたい日時から戻りたい時点をセットする。ただし、今現在より未来の時点へは戻れない。


セットをしたら、両端にある二つのボタンを同時に押す。


戻り時計は計三回まで使用可能。



 戻り時計取扱説明書?……戻り時計?本当に?本当にこれ、本物?


『三回とも必ず今現在の時点に戻ることをお勧めします』


 そう書かれているその下のほうには、


『三回目は元の過去を変えずに購入前に戻ることをお勧めします』と書いてある。使えるのは三回までで、でも三回目には購入前にってことは、過去を変えないほうがいいって言ってるのかな……でも、上には三回とも今現在に戻れって……あっ、そうか。今現在に戻れっていうのは、過去を変えてから戻る時間を今にしろってことなんだ。なるほど、今に戻ればいいんだ。過去を変えて今に戻ったとき、自分は事故に遭わずに痩せたままで過ごした三年半でどう過ごすはずだったかの記憶がそこにあるってことなんだわ。痩せたままで、部活で団体戦に出られたのか、高校生になって、夏にはみんなで海やプールに行って、素敵な思い出がある今に戻れって、そういうことなんだ。


 悠里は自分が思い描いた過去からの今がそこにあると疑わなかった。『三回目は元の過去を変えずに購入前に戻ることをお勧めします』という文言の意味を、深く考えることはしなかった。


 そこには、希望しかなかった。

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