第28話
ひんやりとした感触が肌に伝わる。それでいて固く、体のあちこちが痛い。手首足首から鳴る小さな金属音が反響し、瞼の裏を灯す薄い光が朧げな意識を刺激した。
このまま横になっていたい。そう、思わせる感情が私の中にある。
でも、一度意識してしまえば自ずと体は望む方向とは別の方向に動き出してしま―――
「あ、あぁァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!???」
私の口から零れた絶叫がこの分からぬ空間に響き渡る。
徐々にハッキリしていく意識。そこで、真っ先に脳裏に浮かんだのは……驚愕の瞳を向け、顔から血を見せたミラ様の姿でした。
「わ、私は……」
恐る恐る自分の震える手を見る。
そこには少量ではありますが、確かに、あってほしくないと、間違いであってほしいと思う自分を否定する―――血が、ついていました。
間違いではなかった。手に残る肉を断つ感触、耳に響いたミラ様の驚き、床に広がっていた血だまり。私は覚えている―――その全てを。
ミラ様を傷つけてしまった、あの時の自分を。
「あぁァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!」
あんなに優しくしてもらったのに。これからの人生で仲間になってくれる人だったのに。実の姉のような、温かい人のはずだったのに。
私は、ミラ様が大切にしてきたものを深く傷つけてしまった。
「どうして、ど、うしてですかァァァァァァァァァァァァァァッ!!!」
自分でも分かります。
あれは、あの時と一緒でした《・・・・・・・・・・》。
自分の意識も意志も残っているはずなのに、体が勝手に動いてしまった。理性という枷が亡くなり、自分の全てを押しのけてまで動かなければいけないという何かが混ざってきた。
でも、どうしてですか?
私は、ファミリーの皆様を……ミラ様を傷つけたくはなかったはずなのに!!!
私はこれからの人生をあのファミリーで過ごすと、当主様の理想を見続けたいと思っていたはずなのに!こんなこと、一度たりとも望んだことはなかったはずなのに!
あの時の答えを見つける前に、あの時と同じことを繰り返してしまった―――
「叫ぶな、罪人」
甲冑を着た一人の騎士が目の前へとやって来た。
しかし、目の前といっても鉄合子を間に挟んで。
「裁判まで時間がある。それまでは大人しくしてろ」
鞘に入った剣で鉄格子を叩き、金属音で私を威圧する。
それを受けて、私は思わず肩を跳ねさせてしまった。
公爵家の娘だった頃の自分であれば、騎士からはこのような態度は受けなかったでしょう。
それも全て、私が罪人に成り下がってしまったから。
目の前に現れた騎士はゆっくりと背中を向けて歩き出し、薄暗い光の中へと消えていった。
「…………」
ここは恐らく王都の地下牢。
私が初めて連れて来られた場所……だと思うのですが、階層は前と同じか分かりません。
王国随一の厳重さを誇る王都の地下牢は罪が重ければ重いほど階層が深い場所に収監される。
今の私と以前の私。脱走した罪も合わさって以前よりも深い階層で囚われているはずです。
その証拠に、私と騎士以外の人間の声や音が一切聞こえてこないのですから。
(……皆様、今頃無事でしょうか)
意識はありましたので、あの時の状況は少しだけ把握しているつもりです。
といっても、ライダ様がミラ様を抱えて逃げてくれた。というところまでしか分かりません。
無事なら嬉しいです……当主様も合流できているといいのですが。
(ミラ様……)
無事の中に、ミラ様がいることを祈る。
この手で傷つけてしまったが、それでも無事であることを祈ってしまう。
傍から見れば矛盾かもしれない。自分が無事でなくさせたというのに。
『意外と目が覚めるのが早かったですね、ソフィア様。まだ半刻しか経っていませんよ』
部屋の中で一人の騎士のそんな声が響きました。
『それにしても、ソフィア様がこんなことを……私は想像がつきません』
『おい、私語は口を慎め』
『し、失礼いたしましたっ!』
暗がりの向こうで、一人の騎士が怒られてしまう。
蝋燭の火でしか灯されていないこの場所では近づかない姿は薄暗くて見えません。どんな表情をしているのかも、分かりません。
口にした騎士は以前私と会ったことのある騎士なのでしょうか?
それとも───
『我々の印象がどうあれ、殺害しようとしていたことは事実だ。それはあの時に警備していたお前も見ただろう?』
『は、はい……そう、ですよね』
『評判、素行など我々には関係のない話だ。事実こそ信じる───それに、あのレイシアファミリーのアジトにいたことが証明にはなるだろうがな』
『……まぁ、悪党集団と一緒にいるということはそうなのかもしれませんね』
『といっても、そのアジトも副団長率いる我々で潰した。誰も捕らえることはできなかったが、ここに来た以上二度目は許されない。前回は我々の失態によって大悪党にしてやられたが、次は逃がさない───もう、居場所などどこにも作らせない《・・・・・・・・・・・・・・》』
「ッ!?」
ただの会話の中にあるその言葉が、唐突に現実を突きつけてきた。
だからなのか、一気に胃の中身が込み上げてくる。
「はぁ……はぁ……」
吐き出しそうになったものを飲み込み、荒い息を整えようとする。
だけど、整えたところで現実は変わらなくて───
(私に、もう居場所はありません……)
元いた場所も、新しく作ってもらった居場所も、私自身が壊してしまった。
仲間を、自分の手で傷つけてしまったことによって。
(もう、このままでもいいのかもしれませんね)
殺人未遂であれば辺境への追放も考えられたのかもしれません。
……いえ、妃になろうとする立場の人間が人を殺めようとした時点で国の評判が下がってしまう。順当に処刑も考えられたでしょう。
更に、罪人にとって脱走は重罪。罪の意識がなく新たに罪を犯す可能性があるとされ罪も重くなる。故に、今回の裁判では処刑される可能性が極めて高い。
であれば、もう一回逃げ出しましょう……ということは考えません。
そもそも、以前はどうして警備の人が倒れていたのかも分かりませんから。
(それに……死んでしまいたいです)
あれだけよくしていただいた人をこの手で傷つけてしまった。
一度味わい、幸せだと感じたあの場所にはもう私の居場所などない。
世界中どこを探しても───私を迎えてくれる居場所など、もうないのですから。
ならば、このままいっそ───
『何? 面会者だと?』
そう思っていた時、不意に騎士達が騒ぎ始める。
『はい、どうやら裁判が始まる前に一度、と』
『何を考えているんだ? 今更取り調べをすることもないと上が決めただろ?』
『そうなのですが、どうしてもとバレッド侯爵家のご
バレッド侯爵家のご息女───その言葉を耳にして、私は思わず腕についているミサンガを握り締めてしまいます。
『……お連れしているのなら仕方あるまい。通せ』
『ハッ!』
ギィィ、と。扉の開く音が聞こえる。
ヒールの音が徐々に空間に響き渡り、やがて近くで音が鳴り止んだ。
「大丈夫ですか、ソフィア様」
そして、私は顔を上げる。
目の前にいたのは、お別れを告げ「また」と再会を約束した……親友の姿でした。
「それにしても、相変わらずここは暗くてなんか臭いですね。ソフィア様の顔がちゃんと見えないじゃないですか。もうちょっと明るくできないんですか?」
「……できません」
「お堅いですね、ほんと」
横には騎士が二人。外出用の服を身に纏い、肩口まで切り揃えている髪が薄暗さに溶け込む。
「どうして、ここにイリヤが……?」
罪人と面会など、危険があるからと騎士や尋問官以外の者は滅多にしない。
にもかかわらず、どうしてイリヤが私に面会などしてきたのでしょうか?
「本当に様子を見に来たんですよ。私も一応侯爵家の人間ですからね、それなりに無理をすれば面会だってできるもんです!」
イリヤの声に緊張感も恐怖も何もありません。ただ、いつも通りの声音で語りかけてくる。
「せっかくの再会なんで、席を外させてもらえませんか?」
「それはできかねます。相手は罪人、イリヤ様の身に何かあれば───」
「じゃあ、あなただけ残ってもう一人は部屋の外に出ててくださいよ。おちおちと会話もできないじゃないですか」
「しかし……」
「二度は言わないですよ?」
有無を言わさない言葉。それを受けて、騎士の一人が逡巡すると、ため息を吐いてもう一人の騎士に向かって外に出るよう指示を飛ばした。
「まったく、ほんとにお堅いんですから……そう思いませんか、ソフィア様?」
そんな言葉を投げかけてくるイリヤ。私は、何も言葉を返せなかった。
何故なら───
(どうして、イリヤはこんなにも普通でいられるのでしょうか……?)
罪を犯したのは私です。イリヤは極端な話を言えば関係のない話。
でも、状況が状況です。辛気臭さも、緊張感も、恐れも同様も何もない───いつもの私と接するように語りかけてくる。それが違和感しかありません。
普通、この状況でいるのであれば少しぐらいは戸惑ったり悲しんだり……何かしらの反応があるのではないでしょうか?
「それにしても……捕まっちゃいましたね、ソフィア様? 大丈夫って言ったはずなのに───あれから二日も経ってないですよ?」
「そ、それは……」
「まぁ、王国騎士が何人も集まれば仕方ないのかもしれないですけどね」
……いや、そもそもおかしいではありませんか。
私はまだ空腹感をそれほど覚えていません。それはつまり、あれからまだ時間が経っていないということ。騎士達の話でもそれは分かっています。
それなのに、どうして面会にすぐ来られるのでしょうか? そもそも、どうして王国騎士が何人も集まったと知っているのでしょう?
罪人が捕まったという情報は少なからず流れるかもしれません。ですが、その経緯までは普通は語られない《・・・・・・・・・・・・・》はずなのに。
それこそ、予め知っていたかのような口ぶり───
「どう、して……イリヤはそのことを知っているのですか?」
「ふぇっ? おかしなことを聞きますね」
何を当たり前のことを、という顔。
その顔に、私は「どうして?」という疑問しか浮かばない。
「それにしても……ふむふむ、ちゃんと起動してくれてよかったですよ。それに、ちゃんとミサンガもつけていてくれたみたいですし、私は一安心です」
「き、起動……? なんのことですか!?」
「う〜ん……結構複雑にしたのにちゃんと起動した。これは貴重な成果ですね。回収して今後の研究に活かしたいです。ま、どちらにせよ必要なことですし回収は容易っちゃ容易ですね」
話が、噛み合っていません。
どうして噛み合わないのですか? イリヤは、先程から何を言っているのですか?
そんな疑問を浮かべる私を置いて、イリヤは唐突に鉄格子を開けようと手を伸ばして必死に扉を揺さぶった。
「イ、イリヤ様……? 一体、何をされてるのですか?」
「扉を開けようとしてるだけですよ? っていうより、開かないです」
「開けてはいけません! いくら鎖で繋がっているとはいえ、相手は罪人。何があるか分かりませんし、そもそもこの扉には鍵が───」
「なら、鍵を貸してください」
「……は?」
唐突に、イリヤが騎士に向かって手を差し出した。
その言動に騎士も、私も開いた口が塞がらない。
普通に考えれば、捕らえられている罪人の牢をなんの理由もなく開けるなどできるわけもない。それはイリヤも分かっているはず、なのに……。
「聞こえなかったんですか? 鍵を貸してくださいって言ったんですよ」
「……いくらイリヤ様のご命令でも、牢を開けるなど許される行為ではありません」
「いいじゃないですか、開けるぐらい」
「ですから、それはできませんと───」
騎士があり得ない言動を見せるイリヤに苛立ちの声を上げる。
その瞬間───
「じゃあ、もういいですよ」
シュパ、と。まるで紙をナイフで斬り裂いたような音が一瞬だけ響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます