第七章 火の手(1)


 

 苛立つのは、随分と久しぶりの感覚だった。

 次の非人頭だというあの男に対して、腹の底で煮え立つような苛立ちを覚えた。

 嫌がる秋津を力尽くで引き摺って行こうとするその光景に、考えるよりも早く足が動いていたのだ。

 気が付けば間に割って入っていた。

 守らなければ、と自然に思ったし、男に手を引かれる様を見るのが不快だった。

(私も、あの男と同じなのだろうか)

 訪ねて行けばまた来たのかと呆れ顔をされるし、声を掛ければ困り顔で余所余所しく流される。

 本当は迷惑に感じているのだろうか。

 あれほどに嫌がっていた割には、後から男を庇うような言動さえあったし、何より男に添うことそのものを受け入れるような口振りだったのが、胸中に靄となって蟠っている。

 半ば押し付けるように渡した柘植の櫛も、今頃どう返そうかと悩ませているかもしれない。

 髪を梳いてやった直後に見せた、少しはにかんだような秋津の顔。

 目にした途端、心の臓をぎゅうと握り潰されたような感覚が走ると同時に、あの男に対する苛立ちが沸々と湧き上がるのを抑えられなかったのだ。

 きっとあの十兵衛という男はまた秋津を連れ戻しに来るだろう。

 秋津自身も春には長屋へ戻るつもりだと言ってもいた。

 非人身分である以上、あの男に従うほうが幸せなのかもしれない。

 少なくとも飢えたり住む場所を追われたりすることはない。

 秋津の為を思えば、早く長屋へ戻るよう勧めてやるのが最善なのだろう。

 分かっていながら、情動のままに抱き締めてしまった。

 恭太郎は掌を見詰め、その柔らかさと温かさを思い起こす。

「秋津……」

「誰だ? それは」

 不意に声をかけられ、恭太郎ははっと顔を上げた。

「虎之助か」

「大丈夫か、ぼんやりして。講釈も殆ど上の空だっただろ」

「いや、すまん。少し疲れていたようだ」

 月に二、三度ほど、学館では本士たちを集めて儒者による講釈を行う。

 時に御前講釈などもあるため、学館を訪れる者の年齢層は実に幅広い。

 今の今まで講釈があったのだが、出席していながら殆ど内容は頭に入っていなかった。

 ぞろぞろと出席者が退室してゆくのにも気付かずに、座したまま物思いに耽っていたようだ。

「思い悩んでいるようなら、話くらい聞くぞ」

 眉尻を下げて窺う虎之助と目が合い、恭太郎は慌てて頭を振った。

「ああいや、悩みと言うか、少し心の整理がついていないだけだ」

「ふうん? それで、秋津というのは誰だ? おまえもそろそろ身を固めるのか?」

 にんまり笑い、虎之助はどっかりと対面に胡座をかいて頬杖を突く。

 家格の高い家ほど嫡子の婚姻は早くから考慮されるものだが、恭太郎の場合は未だ許嫁もいない状態だ。

 それもまた、父・帯刀の意向であった。

 後継に相応しいと父が認めて初めて、恭太郎に添わせる娘を良家から迎えるという。

 全てにおいて、父の裁量で取り決められるのだ。

「ハハ、まだそんな話は出て来ないな。虎之助こそ、どうなんだ」

「おれは随分昔から許嫁はいるぞ? 正式に迎えるのはもう少し先になるかもしれんが、一応な」

「ああ、そうか……そうだったな」

 ある程度の家柄の嫡子ならば、十二、三歳で許嫁を決めていることもある。

 虎之助も恭太郎も未だ妻を迎えておらず、一般には遅い部類だ。

 虎之助が今以て祝言を挙げていないのは、他でもない江戸への遊学が原因だろう。

「聞き慣れぬ名だが、おまえが思い悩むってことは、町方の娘か? 町方の娘でも、武家の養女となれば縁組することも叶うかもしれないぞ」

 そう塞がずに話してみろ、と虎之助は尚も促す。

「悪いがそういう相手ではないんだ。刑場での検視の際に、よく話すようになったおなごがいるんだが、……その娘の名だ」

 食い下がるように催促していた虎之助の目が、矢庭に鋭くなったのが見て取れた。

 さもありなん、顰蹙ものだろうと恭太郎自身も思う。

「……刑場で、だと?」

「そうだ」

「それは、家中の娘か。それとも……」

 射貫くような視線を向け、虎之助の面持ちは先ほどまでとは打って変わって強張ってしまった。

 その先に続く言葉は、学館の中では口にするのも憚られたか、虎之助は言い掛けて口を噤む。処刑を執行する場に、家中の娘がいようはずもなかった。

「手伝い人足として働く娘なのだが、これがなかなか気が強くてな。幾度も叱咤されているんだ」

「……恭太郎、まさかとは思うが、その娘と深い仲になっているわけではないだろうな」

 深い、というのが一体どの程度のことなのか判然としないが、恭太郎は静かに首を振る。

「そんなわけがないだろう。あれにはあれの事情がある。秋津にとっては私の存在など蚊帳の外だろうよ」

「……」

 自嘲気味に言う恭太郎の様子を具に改めるように見、虎之助は突如恭太郎の肩に掴みかかった。

「悪いことは言わん。それはやめておけ、いいな。二度とそのおなごに会ってはならん。奉行や与力に変に気取られれば、帯刀様のお耳にも入るに違いない」

「お、おい、虎之助。そんな仲ではないと言っただろう? そこまで深刻に受け取らないでくれ」

 やや気圧されて、恭太郎は苦笑する。

 しかしそれでも、虎之助の気勢は削がれなかった。

「おまえは知らんのだろうが、一つ忠告しておいてやる。町奉行の配下にある者が、おまえを噂しているのを聞いたことがある」

「噂……?」

 

 ***

 

 学館での教授方というのは、江戸で学んだものを活かすには打って付けの職務だが、恭太郎のような大身の身分とは違い、虎之助の安藤家はそれだけで暮らしを立てていくことは困難だった。

 勘定方に出仕を命ぜられ、加えて門弟を募って私塾を開き、非番の日は家中の子弟を相手に算術を、また下級武士を相手に砲術を教えることにしたのである。

 これがやってみるとなかなかの忙しさであったが、番入直後の若い家中もちらほらと門下に入り、まずまずの運び出しだろう。

 そんなある日の授業を終えた後だった。

 

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