第七章 火の手(3)

 正直なところ、悩んでいた。

 帰ってこいと言われているうちに、長屋へ戻ったほうが良いのかもしれない。

 十兵衛がああして気に掛けてくれているから、まだこうして生きていられるのだ。

 それがなくなれば、本物の無宿者となってしまう。

 恭太郎はどうも十兵衛に対して不信感を抱いていたようだが、秋津にとっては兄のようなものだ。

 兄妹のような関係が夫婦に転じたとしても、信頼は揺るがないだろうとも思う。

(でも、なんで──)

 あの時、恭太郎の腕に掻き抱かれるように捕らわれていた。

 初めこそ意気地のない惰弱な男と侮っていたのが、思っていたよりもその力は強く、頬に押し当てられた胸も厚く広かった。

 ただただ驚いたが、不思議と嫌だとは感じなかった。

 本来雲上の存在にも等しい身分を持ちながら、足繁く通い、手土産にまで気を回し、気さくに話し掛けてくる。非人の自分にとっては面倒な相手だと思っていた。

 何故、唐突にあんな行動に出たのか。

 その理由を探しても答えは出ない。

 十兵衛に不信感を抱いていたようだから、或いは心配の余りに抱き締めてしまったのか。

(勘違いなのか、って言ってたっけ)

 何を以てそう言ったのかは判然としないが、きっと恭太郎は思い違いをしている。

 長い間考え込んでしまったが、秋津は取り留めもなく脳裏に沸き上がるものを打ち消すように立ち上がった。

 水を張った手桶を抱え、御堂の方へ足を向けた、その時だった。

 御堂のある山の麓に、濁った黒雲が掛かっている。

(雲──?)

 違う。

 鬱蒼とした木々の間から立ち上るそれは、低い雲などではない。

「火事!?」

 気付くや否や、秋津はその場を駆け出していた。

 見る間に広がる黒煙の勢いから、堂宇が焼けているのだと分かる。

 ともすれば周囲の木々にまで延焼し、山火事にまでなりかねない。

 早く番所に通報しなければ、と思うと同時に、秋津ははたと気付く。

(短刀を置いたままだ──)

 いつもは懐に入れていたのが、今日は何となく代わりに櫛を忍ばせていた。

 だが、幸か不幸か短刀は岩屋の中だ。

 火の手が回るまでにはきっと猶予がある。

「火事だ! 御堂が火事だっ!! 誰か、誰か番所に──」

 街のほうへと走りながら、秋津は声の限り叫んだ。

 人通りの多い城下の街中に駆けていくにつれて、往来の町人たちが秋津に注目しては騒めく。

「どうした、何事だ」

 通りをこちらへ歩いて来た侍が、駆け行く秋津の前に立ちはだかった。

「刑場の近くの御堂だ、煙が上がってる! 早く火消しを……!」

 御堂の方向を指差しながら、秋津は思わず侍の袖を掴む。

 侍はそれを咎めることなく秋津の指し示すほうを仰ぎ見て、その顔を顰めた。

「あれは……、煙か。よく知らせてくれた、すぐに火消しを呼ぼう」

 その一言で、秋津は再び踵を返し、今度は黒煙の立ち上る御堂のほうへと走り出した。

「あっ、おい! 一人で行くのは危険だぞ!?」

 後ろで侍の声がしたが、秋津は耳も貸さず御堂へと急いだ。

 

 

【第八章へ続く】


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