第八章 噂(1)
音を立てて燃え上がる炎は、堂宇全体を呑み込んでいた。
境内に駆け上がり、乱れた呼吸を整える間もなく、秋津は堂宇の裏手にある岩屋へ向かおうと火の手の上がる堂宇へ近付く。
火は勢いを増し、濛々と黒い煙を吐き上げ続ける。
堂宇の扉は完全に焼け落ち、中は渦を巻くようにうねる炎で満ちていた。
辺りには火の粉が散り、息をするのも苦しく焼け付くような熱い風が纏わりつく。
身を低くして袖で口元を覆い、炎を迂回して裏手に回ろうと試みたが、煙と熱気は想像以上に秋津の喉を容赦なく焼いた。
(この勢いじゃ、岩屋の中は──)
げほげほと咳込みながら、漸く岩屋の前まで辿り着く。
近くに燃え盛る炎の熱で、岩肌すら熱くなっていた。
まだ下草に燃え移ってはいないらしく、今ならまだ岩屋に入ることも出来そうだった。
(短刀だけ取って、すぐに出よう)
煙る岩屋の中は視界も一層悪く、止まらぬ咳と煙の染みるせいで涙が溢れた。
たかが短刀一振りとは言え、母との繋がりを示す唯一の物。
万が一にも火事の中で失うわけにはいかない。
手探りで這いつくばるように暗い岩屋の中を進み、古畳の脇に隠し置いた短刀を探す。
流れ込んだ煙は行き場を失い滞留していたが、まだ辛うじて地面近くにまでは充満していないようだった。
だがそれでも煙に燻されながらの熱気は確実に秋津の目と喉を蝕む。
外からは時折、めきめきと軋む音や乾いた木材のがらんという音が聴こえてくる。
御堂の建材が火に巻かれて焼け落ちたのだろう。
崩れて岩屋の入り口を塞がれでもしたら大事だ。
秋津は焦燥感を覚え、探る手も荒く乱暴になる。
(どこ!? 今朝確かこの辺に──)
畳を押し退けると、何か硬い物が地面に擦れる音がした。
(あった……!)
と、畳を引っ繰り返し、音を頼りに地面に手を叩き付けていく。
掌に鞘に納まった短刀が当たると、秋津は咄嗟にそれを掴んだ。
どうやら無事だったことにほっと安堵したのも束の間、短刀を握り締め、煙の中を藻掻くように出口へ向かう。
外で燃え盛る炎の音と建材の崩れる音に混じって、人の声がしていることに気が付いた。
火消しや奉行所の者達だろう。
先程の男が報せてくれたのに違いない。
そう考えたところで、意識が急速に朦朧とし始めた。
もう少し、あと少しと這い出して行こうとするが、近くで消火しているはずの人々の声が何故か遠い。
(ああ、まずいな……)
視界が悪い上に、急速に目の前が暗くなるのを感じた。
頭の中にぼんやりと幕が張り、胃の腑や胸が圧迫されるように重苦しい。
あと少しで出口に辿り着く、というところで、手足の力が抜け秋津はその場に伏してしまった。
***
恭太郎が火事の報を受けたのは家の下男からだった。
虎之助と話している最中、学館に慌てて駆け込んで来たのがそれである。
火事で急な招集が掛かり、恭太郎の
「それで場所は何処なのだ」
「刑場に近い、今は廃された御堂らしいと……」
聞くや否や、恭太郎は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「虎、すまないが話は終わりだ。すぐに行かねば」
すっくと立ち上がり、恭太郎は取るものもとりあえず学館を飛び出して行った。
幸いにもまだ日中だ。
きっと秋津は不在だろう。
冷静にそう思う一方で、言い様のない焦燥に駆られた。
あんな場所に火の気などない。
秋津が火を使ったとして、不始末などあるだろうか。
付け火という可能性もある。
(頼む、無事でいてくれ──)
形振り構わず駆けながら、恭太郎は渾身からそう祈った。
遠く黒い煙の立ち上るのを臨み、切れる息で喉が閊えた、その時。
「恭太郎!!」
後ろから大声で呼ぶ声がし、思わず声の主を振り向くと、馬上から飛び降りる虎之助の姿があった。
着地するとほぼ同時に、手綱を恭太郎へ差し出す。
「こいつに乗っていけ。学館の馬を拝借してきた」
見れば馬術用の馬のようだ。
「虎之助、これは……」
「勘違いするな、お前の恋路には反対だ。用が済んだらすぐに返せよ」
「し、しかし……」
「いいから早く行け! 秋津が火事場にいるかもしれんのだろう!?」
仏頂面のまま、虎之助は恭太郎の胸へ押し付けるように手綱を引渡す。
押し切られるように手綱を受け取ったが、恭太郎は即座にその背に跨った。
「恩に着る。ありがとうな、虎!」
「ああ、さっさと行け」
手綱を引き絞ると、恭太郎は馬腹を蹴って一路御堂へ向けて駆けたのだった。
***
「秋津! おい、此処に娘がいなかったか!?」
先に駆け付けた者たちが消火に当たる喧騒の中を、恭太郎は誰にとも無く尋ね回った。
煙と炎の熱気が辺りを揺らがせるが、秋津の姿はない。
燃える御堂は無残に崩れ、屋根も落ちている。
「秋津!! 何処だ、何処にいる!」
呼び掛けながら岩屋に足を向けた瞬間、恭太郎の肩を掴み止める者があった。
「元宮様、そちらは駄目です! 既に煙が回って──」
「止めるな! 人がいるかもしれんのだ!」
「そうは参りません、何かあれば、郡代様に申し訳が立ちません!」
恭太郎を引き止めた同心の男が、煤のついた顔を引き攣らせて声を張る。
だが、恭太郎も引き下がるわけにはいかなかった。
「すぐに戻る!」
必死に食い止める男の傍らに水桶を認めると、それを引っ掴み頭から水を浴びた。
「そんな洞穴に何がいると言うんです! お戻りください!」
恭太郎はなおも止めようとする男の手を振り解き、身を屈めて岩屋の中へと潜る。
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