第八章 噂(2)
倒れ伏す秋津を見付けたのは、その直後のことだった。
「──っ秋津!」
煙と煤と埃とに塗れた姿を一目見て、心の臓の縮まる思いがした。
俯せに倒れる秋津を見た瞬間に、四肢が硬直し、思考の糸がぷつりと切れた。
暫く動けずに凝視していた気もするが、はっと我に返るまでには寸毫の間もなかったようにも感じる。
次の瞬間には、ぐったりと力の抜けた秋津の身体を抱え起こしていた。
「おい、秋津! 私だ、恭太郎だ。おい!」
岩屋に満ちる煙に咳込みながら、恭太郎は必死に呼び掛ける。
だが、呼び掛けても頬を叩いても、返事はない。
目は閉じたまま、身動ぎもしなかった。
(まさか──)
嫌な予感が脳裏を過ぎる。
鼓動が早鐘を打ち、喉からまろび出そうなほどに大きくなる。
熱いはずなのに、背筋が凍りつくような感覚にすら襲われた。
もしも、ここで秋津を失うようなことになったら──
とにかく、一刻も早く此処から出さなければ。
そう思うが早いか、恭太郎は秋津の身体を抱え上げる。
と同時に、秋津の手から何かがからんと音を立てて滑り落ちた。
見れば、白木の鞘に納まった短刀が一振り。
恐らく、これを持ち出そうとして煙に巻かれたのだ。
ならばと恭太郎は短刀を拾い上げ、急ぎ足で岩屋を出たのだった。
***
「
がたがたと立て付けの悪い引き戸を開け、吉治は上り框に腰を掛けてからのんびり言った。
煙管をふかして一つ煙を燻らせた源太郎は、無言のまま今一度煙管に口を付ける。
話はちゃんと聞こえていると見て、吉治は片脚を框に載せて身を乗り出す。
「十兵衛はいねぇのかい。あいつの大事な秋津のことで、最近ちょっと妙な話を聞いたもんでね」
そこで漸く源太郎も吉治に目を向ける。
「秋津のことだって?」
「そうさ。まだ長屋に戻ってきていないんだろう?」
何とか連れ戻そうと、十兵衛が形振り構わず説得に当たっていることは、長屋の者は大抵が知っていた。
「そうさな、あいつも頑固者だからなァ。一度言い出したことは貫き通すんだよ」
「ところがだ。番太の連中に聞くところによると、どうも良い仲の男がいるらしいんだよ」
やや声を潜めた吉治の話に、源太郎はあんぐりと口を開けた。
そんな話は聞いた事もなかったし、秋津と言えば十兵衛にくっついて回っている印象が強い。
確かに年頃ではあるが、育てた自分の目線で見ても、勝ち気であまり可愛げのない娘だ。
だからこそ、そんな秋津をよく面倒見ている十兵衛に託そうと考えていた。
「そいつぁどういうこった。十兵衛以外の誰と良い仲になったってんだ。あいつにそんな色気のある話なんざ、聞いたことがねえぞ」
「それがなァ、俺も耳ィ疑ったんだが、とんでもねえお相手なんだよ」
吉治は勿体振ってなかなかその相手とやらの名を明らかにしない。
源太郎も業を煮やして、思わず吉治の傍へ寄って行った。
「で、誰なんだ? その相手ってのは」
問い詰める源太郎に、吉治はほんの一瞬、逡巡の色を浮かべる。
「郡代の元宮様のところの、恭太郎様だ」
今度こそ、源太郎の開いた口が塞がらなかった。
「……はァ? ハハ、なんだそりゃあ」
「俺も最初は笑っちまった。そんな大層な身分の男を、あの秋津が捕まえられるわけがねえってな」
乾いた笑いを漏らす源太郎に、吉治は神妙な面持ちで言い返す。
嘘とも冗談とも言わないところで、源太郎も愈々血の気の引くのを感じた。
「刑場の手伝いしてるだろ、あいつ。どうも聞いた話じゃ、恭太郎様のほうが秋津に気があるらしいんだ」
「秋津のほうはどうなんだ?」
「さあ、そこまでは俺も聞いちゃいない。恭太郎様がご執心なら、せめてもの救いだと思うが、秋津には一度、頭から釘を刺しておいたほうがいい」
それと、と吉治は続ける。
「十兵衛の耳にも、すぐに入るだろうが……、短気を起こしちゃならんと伝えてやってほしいんだが」
単なる噂なら、それに越したことはない。
だが、火のないところに煙は立たない。
大身家の跡取りが非人の娘に執着するとは、俄かには信じ難い。
そして秋津もまた、そこまで明らかな身分差のある相手に流され、受け入れるような娘でもないと思っている。
「もしかして、と思うが、秋津が長屋に帰って来ないのは、本当のところそれが理由なんじゃねえのかなと思ってさ」
ぼんやり呟く吉治の話に、源太郎は眉宇を潜めた。
十兵衛の再三に亘る説得も功を奏していないようだし、生来の頑固さ故なのか、それとも吉治の言うように他の理由があるのか。
源太郎は首を捻った。
「十兵衛の奴、今日は一度も顔を出しやがらねえんだ。その様子じゃおめぇも会ってねえんだろう?」
「なんだ、頭のとこにも来てないのか……珍しいこともあるもんだな」
吉治も鼻で息をつき、改めて源太郎の顔を見遣る。
「まあ噂に過ぎねえわけだし、これが罷り間違ったことにならなきゃいいんだが。頭が十兵衛に任せてるのは知ってるが、少し介入してやったらどうだい」
「……十兵衛のケツを叩いてやったんだがなァ。あいつもあいつで、どうも不器用で困る」
どっと重い溜息を洩らし、源太郎はうなじを掻いた。
二人の元に火事の報が届いたのは、この直後のことだった。
***
「元宮様、もう心配は要りませんよ。発見が早かったのが良かった。少々火傷もありますが、じきに目も覚めるでしょう」
駆け込んだ町医者にそう言われても、恭太郎は秋津の傍を立とうとはしなかった。
清潔な寝具に横たえられた秋津の顔は、煤や埃を綺麗に拭われ、静かに呼吸を繰り返している。
「暫く、ここで静養させたい。叶えてもらえるだろうか」
じっと秋津の寝顔を見詰めたまま、恭太郎は囁く程度の声で尋ねる。
「それは勿論、構いませんが……。しかし、こちらはその、どちらの──」
医者の口調は歯切れの悪いものだった。
暗に、恭太郎が直々に抱えて運び込んだ様子から、どういう素性の者なのかを探るような言い回しだ。
「失礼ながら、穢多か非人のようにお見受けしますが……身寄りはあるのですか」
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