第八章 噂(3)
恐る恐る伺う医者には目もくれず、恭太郎は秋津の手を取り両の手で包み込んだ。
「身寄りはない。この娘は非人で、火事のあった御堂のすぐ側に棲み着いていたのだ。こうなっては暮らすにも暮らせまい。療養中の一切は私が責任を持つ。──火事の件でも、確かめたい事があるのでな」
恭太郎が放った最後の一言で、医者も目を見開いた。
元宮家の者が、なぜ非人の女一人にここまで親切にするのか、漸く納得がいった、というように頷く。
火事の現場に倒れていた、たった一人の人間だ。
いずれ事情を訊くこともあるだろうし、秋津には安全な場所にいてもらうほうが良い。
「ああ、そういうことですか」
「但し、くれぐれも、ここで療養させていることは内密にしてもらいたい」
じっと見詰める先の瞼は、まだ開く気配はない。
あと少し駆け付けるのが遅ければ、命を落としていたかもしれない。
あの時虎之助が馬を貸してくれなければ、どうなっていたか。
そう考えると、俄に呼吸が苦しくなる。
未だ顔色は優れないが、町医者の世話になればもう心配はないだろう。
(目を覚ますまでそばに付いていてやりたいが……)
死の淵を覗いた秋津が、目覚めて一番に何を思うのか。
それを知りたくもあったし、叶うならば真っ先にその目に映るのは自分であって欲しいと思った。
恭太郎は固く瞑目し、自らの胸の身頃を押さえた。
「私は行かねばならない。もし娘が目を覚ましても、何でも良い、何か理由をつけてここから出さぬように頼みたい」
「相分かりました。元宮様が仰るなら、その通りに」
恭太郎は今一度秋津の頬を指で軽く撫でると、立ち上がり大小を差し直した。
外に馬を繋いだままだ。
(虎之助、すまん。もう少し借りるぞ)
***
火は山へ延焼することもなく消し止められた。
だが、古い御堂は全焼であった。
普段は誰も立ち入らない御堂への廃参道の麓に、火事を聞きつけて町の者たちが見物に集まっていた。
こうした野次馬が出てくる前に秋津を連れ出せたのは幸いだったかもしれない。
人々の脇をすり抜け、恭太郎は馬を引いて境内へと向かう。
「まさかこんなとこが火事になるなんてねぇ」
「でも前から不気味なとこだったし、かえって良かったんじゃないの」
「けど誰もいないとこで火の手が上がるなんて、変な話じゃない。幽霊の仕業じゃないだろうね、気味が悪い」
「馬鹿ねえ、おばけが御堂を燃やすなんて出来るわけないわよ。大方、物乞いが棲み着いて不始末やらかしたんじゃない? それか、付け火かもねぇ」
野次馬の口々から飛び交う憶測の中を潜り、漸く境内に出ると、恭太郎の目に見覚えのある顔が飛び込んできた。
「元宮様! どちらに行っておられたんですか」
岩屋に入る前、恭太郎を引き留めた同心の男だ。
時折務めで見かけていたようにも思うが、三十路ほどのやや小柄な男である。
「奉行様が探しておられましたよ。もう、あんな無茶をして、何かあったらどうなさるおつもりですか!」
「すまん、心配をかけた。ええと、確か、名は……」
「野辺ですよ、野辺新吾! びっくりしましたよ、まさかあの中に本当に人がいるなんて」
野辺は天を仰ぎ、すぐにがっくりと肩を落とす。
逐一挙動の大袈裟な男だが、仕事振りは実直であると評されているのを幾度か耳にしたことがある。
恭太郎はその表情の目まぐるしさに苦笑し、次いで完全に焼け落ちた御堂に視線を流す。
燃え残った瓦礫の山からは諸所に細く立ち昇る煙が棚引き、境内に立ち入っただけで焦げた臭いが鼻を突く。
この瓦礫を片付ける段取りに入る前に、恭太郎には確認しておきたいことがあった。
「火は消し止めたようだな」
「はい、何とか。まだ暑い時分で助かりましたよ。山に燃え移られたら堪りませんからね」
「そうだな。延焼を防げたのは幸いだった。だが、少し確認したいことがある。ちょっといいか?」
恭太郎が同心の顔を窺うと、彼もまた妙な顔をしてこちらを窺った。
「さっきの岩屋だ」
ついてくるように目配せし、恭太郎は燃え後の脇をぐるりと回って岩屋に近付く。
「一体何です、そこに何かあるんですか?」
「岩屋にはさっき私が助け出した娘が、一人で住んでいた」
岩屋の前まで来ると、焦げて千切れた下草の中にしゃがみ込む。
同心の男もそれに倣った。
「岩屋の中は煙で満ちていたが、何かが燃えた形跡は無かった。そして、これだ」
下草が刈り取られ、剥き出しになった地面に簡素な焚き火の跡が残っている。
石を組んだ形跡と、その中に薪の燃え残りが殆どそっくり現存していた。
「あの娘の火の不始末が原因なら、こんなに薪は残っていないだろう」
「! とすると、この火事の原因は……」
同心もまた、焚き火の跡をまじまじと覗き込んでから、恭太郎の顔を凝視する。
「この御堂には、私も何度か出入りした事がある。境内までの道も殆ど獣道同然で、他に普段から行き来する者もない」
「……放火、ってことですか」
怪訝そうに小声で呟く野辺に対し、恭太郎は吐息でもって返す。
可能性がある、というだけだ。
何の証拠もない。
「不審火には違いないだろう。ここへ駆け付ける途中、怪しい者はなかったか?」
「うぅーん、そう言われても……。火を消さなきゃっていうんで、周りに目もくれずに飛んできたもので」
特に気が付いたことは無く、仮にあったとしても倉皇とした状況下では気付くに気付けないこともある。
「ここに着いた時には、御堂はすっかり火に呑まれてましたからね。裏側なんて崩れ始めていて……そうしたら元宮様が御堂の裏側に向かって行かれるもんだから、正直焦りましたよ」
いくら何でも、倒壊しそうな場所に突っ込んで行くのは無謀だ、とか何とか呟き始めた野辺だったが、恭太郎ははたと気付いて立ち上がる。
(……御堂の裏側から崩れ始めた、か)
秋津の安否ばかりが気に掛かって、あまり目に入っていなかったらしい。
「──この火事、やはり火を付けた者がいる。調べて貰えるか」
【第九章へ続く】
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