第九章 疑心(1)
その日初めて十兵衛が源太郎のもとを訪ねたのは、日没頃のことだった。
一時は長屋も騒然とし、幾人か火消し人足に駆け付けたものの、朽ちた御堂が焼け落ちたのみで、それ以外の物的人的被害を出さずに無事鎮火すると、また平素の静けさが戻っていた。
火事のあとでも蜩の声はどこからともなく聴こえてくる。
未だ微かに焼けた臭いが漂ってきてはいたが、昼間のそれほどではなかった。
「十兵衛、おめぇ今日は何処に行ってやがったんだ。中々の騒ぎだったんだぞ」
戸口を潜った十兵衛に、源太郎は開口一番そう尋ねた。
「火事だろ、俺も聞き付けてすぐに御堂に駆け付けたんだ」
「大体おめぇ朝から顔を出さなかっただろう。部屋ァ覗いてもいねえし、こういう時はなぁ、長屋からも火消しに行かせなきゃならねえんだぞ」
「悪かったよ。ちょっと、気が滅入ってたもんでよ……」
どこか悄然として、いつもの覇気がないように見えた。
俯いたままで一向に源太郎の目を見ようとしないのが気になりつつも、源太郎は更に問う。
「それで、火消しに加わったってのか?」
「いや、あいつがいるかもしれねぇと思って、御堂に向かったんだ」
けれど、現場には何処にも見当たらなかった。
「それから方々探し回ったんだが、どこにもいねえんだ。さっきもまた、もしやと思って御堂の岩屋に戻ってみたが、もぬけの殻だった」
ぼそぼそと喋る十兵衛の掠れた声に耳を傾け、源太郎は背筋にひやりとしたものが走るのを感じた。
「……おい、人の被害は無かったってぇ話だぞ?」
「随分探し回ったが、何処にも見当たらねぇんだ。日も暮れるってのに、岩屋にも戻ってねえ」
「今日は確かに俺も秋津を見ちゃいねえが、あれだけの火事だ、何処か他に移ったんじゃねえのか?」
たとえ非人であっても、人別帳に名のある以上、万が一の事があれば被害の通達はあるはずだ。
彼方此方探し回っていたのなら、間が悪く行き違いになっただけとも考えられる。
そう窘めようと口を開きかけたと同時に、十兵衛の声がそれを遮った。
「ここにも、来なかったんだな──」
俯いた十兵衛の顔は前髪に隠れて暗く影を落とし、その表情まで窺い知ることは出来ない。
「まあ一先ず休め、あいつのことだから明日には顔を出すんじゃねえか? 報せが何もねえならまず無事でいるはずだ」
十兵衛にそう返しながら、俄にざわついた源太郎自身の胸中を落ち着かせる。
昼間のうちに訪ねてきた吉治の噂話を思い出し、源太郎も些かの混乱を覚えていた。
あの噂が真実で、秋津が元宮恭太郎の手を取って欠け落ちしたのではないか。
火を付けて騒ぎを起こし、それに乗じて城下を出奔する事も……と過って、源太郎は首を振る。
(いや、相手は元宮様だ。そんなすぐに露見するような真似はしねえよな)
「兎に角だ、十兵衛。おめぇが心配するのも分かるが、闇雲に突っ走るんじゃねえぞ。明日にでも秋津が顔を出せばそれでよし、長屋の連中にも秋津を見かけたら俺か十兵衛に知らせるよう声はかけておく」
心なしか顔色の悪い十兵衛に、更に件の噂話を話題に出す事は流石に躊躇われた。
見た事もない憔悴振りで、この状態の十兵衛に秋津が次期郡代に見初められているようだ、などと話すのは酷だろう。
当然、源太郎が言わずとも、十兵衛の耳に入るのは時間の問題なのだが。
「なあおやっさん。秋津が戻って来ねえのは、おれに何か含むところがあるからなのか? 何か聞いてねえか?」
「! おいおい、なんでそうなる」
「おれァあいつを可愛がってきたつもりなんだよ」
土間に仁王立ちしたまま、十兵衛の声も、その握った拳も小さく震えているのがわかった。
「お、おい……」
「それがなんだ、あんな腰抜けに大人しく助けられやがって……!」
怒りか嘆きか、ただ事でない雰囲気を漂わせる十兵衛を前に、源太郎は思わず息を忘れた。
言葉を尽くして落ち着かせようと試みたのも虚しく、結局十兵衛はまた秋津を探して出て行ってしまったのだった。
***
(……きれいな天井)
柔らかな曙光が差す中に、見覚えのない天井の木目がぼんやりと映る。
剥き出しの岩肌でもなく、長屋の古ぼけて雨漏りだらけの汚い天井とも違う。
頭も瞼も重く、微かに頭痛があるせいで、自分が生きているのだと分かった。
長い間眠っていたように思うが、明るい陽射しに朝が来たのだ
身体は重く、頭痛と喉のいがらっぽさの他にも、腕や足に傷があるのだろう。ひりひりとした痛みを感じる。
障子戸で仕切られた、六畳ほどの部屋に寝かされていたのだと気付き、秋津はゆっくりとその上体を起こした。
ぐるりと見回してみても、やはり見覚えはない。
加えて火事場で煙と煤に塗れた身体もさっぱりと拭われ、身に着けたものも汚れ一つない清潔な単衣に着替えられている。じわじわと痛む左の腕を抑えると、単衣の生地の下で包帯が巻かれているのが分かった。
一体、ここは何処なのか。
恐らく誰かに助け出されたのだろうが、岩屋から出ようと這っていたところまでで記憶は途切れている。
「……短刀」
ぽつりとこぼれ出た自分の声で、一気に目が覚めていくのを感じた。
(ああそうだ、短刀を取りに戻ったんだ)
咄嗟に自分の枕元を振り向くと、懐紙を添えて置かれた柘植の櫛が見えた。
恭太郎から半ば押し付けられるように受け取った物だ。
しかし、秋津の身近に置かれていたのはそれだけで、肝心の短刀は影も形も見当たらない。
助け出された時に、岩屋に置き去りにされてしまったのかもしれない。
あの時、懐に入れるか帯に挟むかしていれば良かったと、ひどく後悔した。
これでは何のために危険を侵したか分からない。
火事はあれからどうなったのか、岩屋にはまだ踏み入ることが出来るのか。
(早く確かめに行かなきゃ)
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