第九章 疑心(2)

 他の物はどうとでもなる。

 だが、あれだけは替えのきかない物だ。

 力を入れて立ち上がり、ふらつく感覚を引き摺って漸く数歩。

 障子戸に手を掛けた、その瞬間だった。

 側頭部に杭を穿たれたような痛みが走り、ぐらりと傾いだ身体は障子戸に凭れ掛かると再びうずくまってしまった。

(頭が痛い──)

 目が飛び出すかという激痛に悶えていると、何処かでぱたぱたと足音が立つのが聴こえた。

 痛みで動けずにいると、間もなく恰幅の良い女が慌しく駆け寄って来たのだった。

「ちょっとあんた、何してんの!? まだ寝てなきゃ駄目だろ」

 蹲ったままの秋津の肩が支えられ、寝床へ戻すためか抱え起こされる。

「安心しな、ここは考庵先生の診療所だよ。あんた昨日の火事で気をやってたとこを運ばれて来たんだ」

 手慣れているのか、あれよという間に蒲団に戻されてしまう。

 一時走った鋭い痛みの波が引き、ずきずきとした鈍痛に変わる。

「短刀が無いんだ。短刀を取りに行かなきゃ」

「短刀? ここに運ばれた時にはホラ、それしか持ってなかったけど?」

 そう言って枕元の櫛を示す女に、秋津は尚も言い募る。

「あたしの服を返してください。すぐ出て行きますから」

「まだ無理でしょ、先生が良いって言うまでは休んでなきゃ!」

「どの道、あたしは診療所のお代なんて払えやしないし、厄介になるわけにはいかないんです」

 医者にかかる金も、薬代も高価だろう。とても秋津に払えるような額ではない。

「なんだなんだ、目が覚めたか」

 聞き慣れない男の声がしたと同時に、少々縒れた濃紺の十徳を均しながら壮年の男の顔が部屋を覗いた。

「ああ先生、ちょっと言ってやってくださいよ、金がないからすぐ出て行くって言うんですよ」

 ここぞとばかりに告げ口する女に、考庵はからからと笑声を上げながら秋津の床の傍らに座り込む。

「お代なら元宮様が持って下さるそうだから、心配ない。あんた良い方に助けられたなぁ」

 笑窪を見せて笑う考庵の言葉に、秋津は眉宇を潜めた。

「元宮様があんたをここまで運んで下さったんだ。後で事情を聴きたいから、それまではここで療養させるようにと仰ってなー」

 そういうわけだから、気にせず休めば良いと言う。

「元宮……恭太郎様が、そう言ってたんですか」

「ああ。火事のあった御堂にいたんだろう? またどうしてそんなとこにいたんだ?」

 尋ねながら、秋津の手首を取り脈を計る。

「そこの岩屋に、住んでるから」

「……そうか。何処かの村から流れてきたのか? それとも、女衒ぜげんから逃げて来たとか」

 重ねて質問を繰り出されるが、そのどれにも首を横に振る。

「あたしは、元々刑場の手伝いで暮らしている者です。名は秋津……」

 考庵は表情一つ変えずにふむふむと頷く。

「てっきり遊郭にでも売られて行く道中で逃げ出して来たのかと思ったが、城下の抱え非人だったか」

「恭太郎様のご親切は有難いけど、あたしは住処に戻ろうと思います。事情を聴きたいってことなら、後であたしが自分で奉行所でも城でもどこでも出向きます」

 またぞろ床を出ようとする秋津を、考庵は虚を突かれたように慌てて押し戻す。

「元宮様が今一度おいでになるまでは、あんたをここから出さないよう言われているんだよ。用が済めば、元宮様だって帰して下さる。少しの間だ、辛抱して療養していなさい」

「そうだよ、郡代心得の元宮様直々のお言い付けなんだよ? ここで勝手に出て行ったら、あんたが火を付けたって疑われるかもしれないし。悪いことは言わないからさ、大人しくしておおきよ」

「何か用事があれば、こっちの波留に言うといい」

 考庵の言葉に、波留というらしい女に視線を向ける。

 ふくよかな顔を綻ばせ、うんうんと同意している様子だった。

 二人に揃って優しく諭されると、秋津も返答に困る。

 恭太郎はきっと、秋津が火を付けるなどとは考えないだろうが、あれだけの火事だ。

 奉行所が調べを進めているとすれば、疑わしいと印象付けるような行動は慎むべきだろう。

 気は急くが、渋々沈黙せざるを得なかった。

 

 ***

 

 町奉行の職位には、依包よりかね善右衛門という男が就いていた。

 隠居も間近という年齢だが、五年ほど前に与力から町奉行に任ぜられた人物である。

 少々癖のある同心たちを纏め上げてきたその手腕は確かなようで、それなりの人望もある。

 その日早くに登城した恭太郎は、その依包と顔を合わせることとなっていた。

「それでは、何者かによる放火であると?」

 恭太郎が御堂の火事について委細説明すると、依包は渋面を作った。

「あんな場所に火を付けて、一体何の得があるのか……」

 続けざまに怪訝な面持ちになり、依包は解せぬといったふうに首を傾げた。

 疑問に思うのも無理からぬことだ。

 窃盗や殺しと併せて放火に及ぶ事件も多い中、値打ちのあるものは何もなく、殆ど人も来ないような場所だ。

「しかし、おなごが一人で岩屋に住み着いているというのはいかん。今後も事件を誘発するぞ。抱え非人ならば、長屋に暮らしているのではないのか」

「依包殿、それについては怪我も負っていたため、今は城下の診療所で治療を受けさせています。岩屋へも、もう戻らぬよう計らうつもりです」

 恭太郎の言葉に深く同意を示すように、依包は一つ大きく頷く。

「火付けについても、その場で同心の野辺に調べるよう申し付けたのですが、問題はないでしょうか」

 同心は町奉行、与力の許で動く。段階を飛ばした命令系統で、後に混乱があっては困る。

 その意味で依包には了承を得ておく必要があった。

「なぁに、構いませんぞ。これが火付けであるとすれば、町の者たちも落ち着かん。早急に捕えねばなるまいて」

 火付けは重罪だ。たとえ殺しや盗みの余罪がなくとも、火刑に処されるのが通例だ。

 たとえ大きな被害が出なかったとしても、それは変わらない。

(──私が駆け付けねば、秋津は死んでいた)

 もし間に合わなければ、あのまま岩屋の中で息絶えてしまっていたに違いない。

 想像すると今以てぞっとする。

 あれから一夜明け、今頃は目を覚ましただろうか。

 医者は命には別条はないと言ったが、やはり自分の目で確かめなければ安堵は出来ない。

「……ろう殿、恭太郎殿!」

 不意に大きな声で呼び掛けられ、はっと瞠目する。

「恭太郎殿。突然ぼんやりして、どうなさった」

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る