第九章 疑心(3)

 依包が呆れたように微かに息を吐くのが聞こえた。

「……ああ、申し訳ない。少しぼうっとしていたようです」

「ははは、まあ昨今は盗みやすりも増えて、あまり平穏とも言えませんからな。心労が溜まるのも無理もない。しかし、近頃では検視役も随分と慣れてこられたようですな?」

 依包はじっと恭太郎の目を見詰め、皺の深い細面な顔を緩ませる。

「検視の土壇場で逃げ出したと聞いた時には、どうしたものかと頭を抱えたものだが……。近頃の恭太郎殿を見ていると、帯刀様にも良いご報告が出来そうだ」

 実に嬉しそうに眦を下げる依包に、恭太郎は不思議と居心地の悪さを感じた。

 褒められているのだろうが、同時に過去の所業を咎められているような気にもなる。

 死に至る刑の執行でなくとも、やはり刑罰や拷問そのものには強い嫌悪が生まれることに、変化はない。

「まあ、それは兎も角、いつまた火が付けられるやも知れぬ。町中に火が付けばそれこそ大惨事。早々に調べを進めるよう、お頼み申しますぞ」

「そうですね……。同心の報告があるまでに、私も調べを進めてみるつもりですが、依包殿のほうに何か情報が上がればそれも是非にお聞かせ願いたい」

「相分かった。この件、郡代の帯刀様にも報告せねばなるまいが……恭太郎殿は如何する」

 暗に郡代への報告に同行するかと誘うような気配だったが、恭太郎はそれを辞し、先に城を後にすることにした。

 

 ***

 

 城を出た恭太郎は、奉行所へ戻るや否や即刻裃を解き、平服に替える。

 そうして休む間もなく、診療所へと向かったのである。

 本来なら奉行所でまた一仕事するところなのだが、依包にも話した通り、一応火事の経緯を聞き出さねばならない。

 ──というのは、実のところ建前に過ぎなかった。

「ああ元宮様、お待ちしておりましたよ」

 引き戸を開けると、待ち構えていたかの如く波留が声を掛けた。

「今朝には目を覚ましたんですがね、何でも短刀が見当たらないとかで、ずっと帰りたいって言ってるんですよ。先生と私で何とか引き留めたんですけど、なかなか頑固な子でねぇ」

 早いところ話を聞いて帰してやったらどうだ、という波留のぼやきはさて置き、恭太郎は胸に張り詰めていたものがすっと解けるような気がした。

 もう二度と目覚めなかったら、という不安が心のどこかにあったのだ。

「そうか、目を覚ましたか」

「ええ、まだ時々頭痛や眩暈を起こしてはいますけど、話は出来ますから」

 自然、声が弾み口角も上がってしまう。

 だが、帰りたがっていると、今し方そう聞いたのが不意に引っ掛かった。

 まだ目覚めたばかりで、不安や混乱が大きいのかもしれない。

 命の危機に瀕していた事を考えれば、それは当然だ。

 探している短刀というのは、あの時秋津が手に掴んでいた物に違いない。

(立浪紋の入った、守刀──)

 古来、武家に好まれて使用されてきた紋である。

 この紋と、母が奥女中であったという話と併せて鑑みれば、出自を辿れることもあるかもしれない。

 判明しなかったとしても、秋津本人にとってこの短刀は大事な物なのだろう。

 あの場から持ち出そうとして、あと一歩のところで昏倒したのだ。

(すぐに返してやるべき……だろうな)

 これまでに自身の生立ちについて話していたことはあったが、短刀の存在にまで触れた話は聞かされていない。

 別段隠していたわけでもないだろうが、どこかで一線を引かれている気はしていた。

 己の立場を弁え、自らを律することにおいて、恐らく秋津の意志は固い。

 どうすればその壁を取り払えるのか。

 秋津のいる部屋へと案内される間、そればかりを考えていた。

 

 

 【第十章へ続く】 

 

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