第三章 違背の子(1)
はじめて刑場の手伝いをした時、直視することなど出来なかった。惨い刑罰は今でも正視に耐えない。
その光景から目を背けていた時、秋津が見ていたのは殆ど十兵衛だった。当時はまだ少年だった十兵衛が槍持ちをすることはなかったし、十兵衛のほうも秋津を気遣ってくれていたものだ。
秋津よりも先に手伝い人足として刑場に来ていた十兵衛は、元々肝の据わった男でもあったし、秋津が手伝いをするようになる頃にはもう大概のことに慣れていたのだろう。
そういう十兵衛は頼もしかったし、はじめは刑場でも常に十兵衛のそばにひっついて回っていたものだ。
もう何年も前のことを思い返したのは、きっと恭太郎の問い掛けのせいだろう。
「恭太郎様」
鼻削刑執行の朝、刑場に来た秋津は真っ先に恭太郎の姿を探し出し、駆け寄った。
初めて検視役筆頭を務める恭太郎は、一糸の乱れもなく髷を結い、糊のきいた裃に身を包んだ姿で、秋津にはそれだけで雲上人の如く立派に見えた。
「ああ、秋津か、良かった。来ると言っていたのに姿が見えなかったから、心配していた」
鼻削刑程度では立会役人の数も少なく、恭太郎もその少ない他の役人たちとは些かの距離を置いて控えていた。そうでなければ秋津が話しかけることなど出来なかっただろう。秋津の声に振り返った恭太郎は青年にしては柔らかな笑顔で答えた。
「おまえのお陰で、少しは覚悟が出来た」
まだ不安そうな色はあるものの、昨日よりは幾らか血の気の戻った顔色だ。少なくとも笑う事が出来るくらいには気を持ち直すことが出来たらしかった。
「そう。それなら良いんですけど」
つられて微笑みかけた秋津の目に、恭太郎の手許が映る。拳は固く握られていた。
痩せ我慢をしている。拳を見ただけで秋津はそう思った。僅かに気を持ち直したことは確かだろうが、恐れる気持ちがなくなったわけではない。
「検視っていうのは、刑の執行を一部始終見ていなきゃならないもんなんですか」
「いや、手違いなく刑が行われたかどうかを見届ける必要はあるが、一部始終というわけでは……」
「じゃあ、罪人が刑を受けている間は目を背けてあたしを見ていればいいですよ。恭太郎様があたしを強いとお思いなら、心の目と耳を全部あたしに向けていればいい」
すると恭太郎は虚を衝かれたようにぱちりと瞠目した。
「刑場に来たばかりの頃、あたしはそうしていた。その場凌ぎでもいいんだ、そもそも処刑なんか真正面から眺めるようなもんじゃないんですから」
正視に耐えないその感覚は理解出来るし、見ずに済むならそれに越したことはない。寧ろわざわざ挙って処刑を見物にやって来る民草のほうが解せなかった。
身分にもよるが、民の暮らしはそう豊かなわけではない。特別に重税を強いられていることはないが、それでも日々を食い繋ぐだけで終わってしまう。娯楽に興じる余裕があるのは、位の高い重臣家やよほどに大きな商家、豪農くらいだろう。
その他大勢の民たちにとっては、こうした処刑は一種の娯楽であった。日常の中にぽっと投入される非日常。これが日頃自分たちの納める税で暮らしていながら、権高に振る舞う者の処刑ともなれば胸のすく思いがするのだろう。
秋津とて非人というまっとうな社会から逸脱した身分であればこそ、民の心の内は想像の範疇だが、それを肯定したいとは思わなかった。
恭太郎ははじめ、ぽかんと秋津を見ていたが、やがて深く頷いた。
「そうだな、心に留めておこう」
***
川縁に近い場所に粗末な筵を敷いた上に罪人の男が据えられ、与力や同心といった役人らと執行に携わる非人とがぐるりとそれを囲む。
刑場に着くと大抵が恐怖心から暴れ、喚き散らして抵抗するものだが、稀に従容として執行を待つ者もある。この日の罪人もまた、多分に漏れず前者のようだ。
「おれは利用されただけだ、ただの使い走りで盗人の片棒を担ぐつもりなんてなかった」
どうも強盗の荷運びに加担した罪だというが、罪状の確定までは虚勢を張れていても、いざ刑場に引き立てられると保身に走る。
これも見慣れた光景だ。
そんなつもりじゃなかった、もうしない、やめてくれ、助けてくれ。
次々と飛び出す懇願の言葉にも、役人達は耳を貸さず、淡々と処刑の段取り通りに進めていく。
最後の最後まで虚勢を張り続けられるほど肝の据わった罪人は殆どいなかった。
引っ立てられて喚く罪人を筵の上に打ち据えるのも、非人の男達だ。
こればかりは女の力で抑えられるものでもない。
刑の執行が滞りなく済むまで、秋津の出番は無かった。
愈々削ぎ役の非人が短刀を取り出すと、両の肩を一人ずつに抑えられた罪人の顔色も一層青褪める。
罪人の膝の前に木桶が添えられ、短刀の刃を鼻先に宛がわれると、罪人の喉から、ひっ、と引き攣れた声が漏れ、顔面には脂汗が玉を作って滲み出した。
少し下がったところにいた秋津も、罪人の慄然とした様子が窺える。発狂寸前といったところか。
十兵衛が罪人に轡を咬ませる時にも、激しく顔を左右に振って抵抗し、手を煩わせていた。
「いい加減に観念しろ。荷運びの見返りを存分に受け取ったくせに、鼻が惜しいとは笑わせる。命まで取られぬのだ、有難い話であろうが」
忌々し気に吐き捨てるのは、検視与力の男だ。
苦々しく顔を顰めてはいるものの、執行に対して躊躇や恐怖は抱いていないようで泰然とした様子である。
与力に並んで検視席に腰を据える恭太郎も、今日は幾分落ち着いているらしい。
(やっぱり顔は強張ってるな)
たが、逃げ出すようなことはあるまいと何となく感じ取れた。
やがて、なんとか轡が噛まされると、刃先がぐっと罪人の鼻先に押し付けられ、鼻の肉を下から上へと一気に削いだ。
轡のせいでぐうっとくぐもった呻きが上がり、鮮血は諾々と溢れ、桶にぼとぼとと音を立てて流れ落ちる。
その様を見届けた与力も流石に渋面を作りながら、非人たちにさっさと片付けろと言わんばかりの合図を送る。
その瞬間には直視出来なかったらしい恭太郎も、全てが終わったと知るとそろそろと罪人へ視線を戻したようだった。
秋津もようやっと自分の仕事に取り掛かる。
(はあ、恭太郎様のように逃げ出すわけじゃあないけど、罪人の鼻を切った血なんて、出来れば触りたくもないんだけどねえ)
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