第一章 刑場の娘(3)
明らかに具合が悪いようだったが、こちらから声をかける気にはならなかった。
苦しげに蹲るその人が、その身形からして侍であることが判ったからだ。
しかし、岩屋へはどうしてもその人を避けては行けず、どうしたものかと暫時逡巡する。
この御堂は参拝する人が絶えてから、既に十数年、いや、もしかするともっと経っているかもしれない。だからこそ秋津も住処に選んだわけで、ここを訪れる者などいないと思っていた。
非人風情が武家の者に気軽に話しかけるのも憚られたが、無言で素通りするわけにもいかない。
ざくざくと故意に大きな音を立てて下草を踏みわけ、秋津は少し歩調を緩めて武士のほうへ歩み寄る。
すると、向こうも漸く秋津に気付いたのか、はっと驚いたように顔を上げた。
髷が多少解れてはいるが、明らかに立派な身分のある者だ。
それもそのはず。先刻の処刑場で見かけた、例の新顔役人である。
やはりと言うべきか、彼は今日の検視でも処刑開始後間もなく、席を立っていたのだった。
(姿がないと思ったら、こんな所まで逃げて来てたのか)
よく見れば、蒼褪めた顔でこちらを見上げる青年の足元に、僅かだが吐瀉した跡がある。
残酷な処刑を非人任せにして、当の検視役人がすたこら逃げ去り、挙句人の家の傍に吐瀉物を置き土産とは。
道理で、こちらを窺う青年の眼に涙が滲んでいるはずだ。
「私を連れ戻しに来たのか?」
吐いて掠れた青年の声が、意外なことを言い出した。
「え?」
「おまえの顔はいつも刑場で見かける。他の役人に言われて、私を連れ戻しに来たのだろう」
「違いますよ」
どうやら彼は、自分を刑場に連れ戻すよう命じられて秋津がやって来たのだと、思い違いをしているらしい。
現にそんな命令は受けていないので、即座にありのままを返答したのだが、彼はそれでも一向に立ち上がろうとしない。
このまま無視して通り過ぎてやっても良かったが、いつまでもこんなところに居座られたのでは岩屋で休む気にもなれない。
「連れ戻しに来たわけじゃないですが、そろそろご帰宅しなさったらどうですか? それとも、ウチに何か用でもおありなんですか」
業を煮やして、やや
「う、うち……?」
青年はきょとんと眼を丸くして、秋津の顔とすぐ目の前の朽ちて煤けた御堂を交互に見る。
建物自体はまだ辛うじて建っているが、とても人が住めるようなものではなかったし、今にも倒壊しそうなほど老朽化しているのだ。
「確かにここは廃寺になって久しいようだが、こんな御堂に住んでいるのか?」
「いいえ、この裏手の岩屋に住んでます。でもこの御堂にはあたし以外誰も来ない。だから、ウチだって言ったんですよ」
「岩屋? そんなところに住んでいるのか?」
廃寺や岩屋に非人が寝泊まりするのは、然して珍しいことではない。寧ろごく当たり前の光景だ。
呆れてそう説明してやると、青年はようやっと地面から膝を離す。
夕陽のせいで赤い気配が漂う中でも、その顔色の悪さははっきりと見て取れた。上背もあり、顔立ちも悪くはないのに、顔色のせいか少し病弱そうな印象だ。
「そんなことより御役人さん、見たところ具合も悪そうだし、暗くならないうちに麓へ降りたほうがいいですよ」
この辺りは夜になると野犬が出るから、と付け加え、秋津は少々脅しをかける。
蒼い顔を更に蒼くして、青年はまじまじと秋津の顔を覗き込んだ。
「……この上、野犬まで出るのか」
「そうだよ。喰われたくなきゃ日のあるうちに降りるんだね」
「おまえは降りないのか?」
「さっきも言いましたよね? ここがあたしの住処だ、って」
「ならば、二親は共に住んでいるのか?」
「二親なんて、顔も知りませんね」
非人の心配をしようだなんて、偉い御役人が一体どういう風の吹きまわしか。
大した身分も権力もない同心の奴らでさえ、非人に対する扱いは酷いものだというのに。
そもそも位の高い役人がこうして非人と言葉を交わすこと自体、あるまじきものなのに。
「この付近にも、非人長屋があったはずだと思ったが、おまえはそこに住まないのか?」
その非人長屋に居辛くなって、ここへ移って来たのだ。
とは、敢えて言わなかった。
そんな素性を話しても、何の得にもなりはしないし、殊更話が長引きそうな気がしたからだ。
気付けば御堂の裏に続く森にも、山鳥か鴉の群れが巣に帰って来たのだろう。ぎゃあぎゃあと
「あたしには、ここは住み慣れた場所なんですよ。滅多に人が寄り付かないから、気楽なもんです」
冷たく跳ね付けるように言い捨て、秋津は青年の脇を擦り抜けた。
擦れ違い様に見た青年の面持ちには、ほんの僅かばかりの戸惑いが覗いていたようだったが、秋津は青年を尻目に、そのまま岩屋へと入って行く。
背後で青年が何か言う声がしたが、秋津がそれに答えることはなかった。
***
荒れ果てた境内は夕刻の緋に染まり、山の雑木に囲まれて昏い影を落とす。
青年は秋津が去った後も暫し、その場に立ち尽くしていた。
こんな場所に、人が住んでいる。
それもまだ若く、華奢な娘が一人で。
処刑の凄惨さに居た堪れなくなって夢中でここまで逃れて来たのだが、束の間とは言えそれを忘れていた事に気が付いた。
処刑場の手伝いをする非人というのは、皆このようなところに住処を持っているのか。
それとも、あの娘だけがこんな暮らしを強いられているのだろうか。
日没を目前にして、境内には今にも魑魅魍魎の類が蠢き出しそうな雰囲気が色濃く漂う。
建材が腐って崩れかけた御堂の軒も、苔生した石塔や石段も、あらゆるすべてが酷く寂しげに見えた。
ただここにいるだけでも背筋の寒くなるものがあるというのに、あの娘は平気なのだろうか。
ましてや、野犬が出るような危険な場所でもあるのに。
青年は境内をぐるりと眺めてから、今一度秋津の去ったほうを見遣る。
御堂の裏手に続く森は境内にまで迫り出し、そこは既に空の暮れるよりも一足早く宵闇を作っていた。
【第二章へ続く】
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