第二章 郡代見習い(1)

 

 

 翌日は刑場からの徴用もなく、秋津はふらりと長屋に住む十兵衛の許を訪れた。

 事実上、長屋を追われたも同然の身では、大手を振って長屋界隈を歩くことは出来なかったが、長屋の皆がそれぞれの縄張りに稼ぎに出た頃を見計らえば、出入り出来ないこともない。

 十兵衛が出かける大凡の刻限は知っていたし、それが他の者より若干遅い時間であることが幸いとなっている。

「おう、来たか」

 傾いて立て付けの悪い戸を引き開けると、莚の上にごろりと横になる十兵衛が片手を上げた。

 四畳ほどの板敷きが一間、その手前に狭小な土間があるだけの、粗悪な長屋の一部屋だ。

 だが、それでもまだまともな環境だと言えるだろう。

 同じく非人と呼ばれる者の中には、定住する場所も手伝い仕事の宛てすらない者も多い。

 あばら家同然とはいえ雨風を凌げる家があり、定期的な仕事にあり付けることは、随分と恵まれていると言えた。

「十兵衛、あんた今日はどうするの? 屑や木端を集めに行く気はないのかい」

「ああ、今日はあんまり気分が乗らねえな。なんせおめぇ、昨日のアレは結構堪えたからな」

「何言ってんのさ。あの程度で塩梅あんばい損ねるような男じゃないだろ? あたしは昨日の稼ぎじゃ足りないんだ。頼むよ、一緒に一稼ぎしようよ」

 秋津がにっと笑ってみせると、十兵衛は散切り頭を掻いて、やれやれと苦笑いながら起き上った。

「……まったく、秋津にゃ敵わねぇな」

 億劫そうに言う十兵衛を引っ張るようにして、秋津はじりじりと暑い城下へ繰り出していった。

 

 ***

 

 刑場での稼ぎなど、たかが知れていた。

 囚人が身に着けていた物が役得として非人の手に渡ることはあっても、得た物はすべて非人頭に差し出さねばならない。徴収した物を非人頭が銭に替え、改めてそれを人足に分配する決まりになっていた。

 罪人の遺物の中にはそれなりに値の張る物もあるだろうに、秋津の手許に配られる頃には二、三十文ほどに目減りしているのが毎度のことだ。

 恐らく、幾らかは役人の手に渡っているのだろう。

 加えて非人頭の懐に入っている部分も大きいのに違いない。

 だがそれを責める気になったことは、取り立てて一度もなかった。

 徴収した遺物を銭に替え、役人にあるかなしかの袖を振っているのは非人頭当人だろうが、実際に人足として働く非人に銭を分配するのは、他でもない十兵衛だったからだ。

「ところで、昨日の女だけどな」

 縄張りの中の家々を訪ねては反故紙を貰い受けて歩くさなか、十兵衛はふと思い出したように口を開いた。

「罪状は、やっぱり密通だったらしいぞ。おまけに牢破りまでしようとしたんだそうだ」

「へえ。密通に牢破りか。それじゃ磔も当然のお裁きだったわけだ」

 一口に密通と言っても、その意味は幅広い。

 婚姻前の男女が関係を持つこと自体を密通と言うし、それだけで死罪になることは、実はあまりない。

 余りにも身分の違い過ぎる間での密通や、近親間でのそれならば、程度によっては死罪。比較的軽く済めば笞刑の上での追放、大概は宮刑や墨刑の上で非人身分に落とされる。

 相当に身分が高いか裕福な者ならば、財産刑で済むことも稀にあった。

 身分の低い女が密通に加えて牢破りとくれば、磔に処されるのも頷ける。

 罪を重ねれば重ねるほど、刑も重くなるものだ。

 もし囚人に情状酌量の余地があったとしても、そこに牢破りの罪が重なると、役人にも斟酌のしようがなくなってしまう。

「牢さえ破らなきゃ、磔にされずに済んだかもしれねぇのにな」

 口振りはいつもと変わらぬ軽い調子だったが、十兵衛は言ってからぶるりと身震いして頭を振る。

「しかし、ありゃあ二度と御免だな。まったく夢見が悪くてしょうがねえ」

 血脂の臭いに加えて、女の苦悶する呻き声に一晩中悩まされた。と十兵衛は言う。

 秋津にも、その気持ちは解る気がした。

 ただ見ていただけの、それも努めて直視しないようにしていた秋津でも込み上げてきたのだから、実際に槍を突き立てた十兵衛は生きた心地もしなかっただろう。

「惨い死にざまだったなぁ。あの新顔なんざ、一の槍でとっとと逃げ出しちまったんじゃねえか?」

「新顔?」

「ほら、近頃になって検視役人が一人増えたろ。やけに気の弱そうな奴が」

 そこで秋津は漸く、昨夕御堂に迷い込んで来た青年の顔が思い浮かぶ。

「ああ、あいつね。昨日うちの前で吐いて行ったよ」

 気弱な上にとんでもない置き土産を賜ったことを思い出して、秋津は苦虫を噛み潰した。

「はぁ? 何だって?」

「だから、御堂にまで逃げて来たんだよ、あの役人」

 十兵衛はぽかんと口を開け、ややあってから盛大に笑声を上げた。

「何だあ、そりゃあ?! あいつ、そんなところまで尻尾巻いて逃げてったのか!?」

 げらげら無遠慮に大笑いすると、道沿いに軒を並べる家の戸口から、機嫌の悪そうな老人が顔を出した。

「おい、うるせぇぞ。ちょうど屑が溜まってたんだ、これ持ってさっさと帰ぇれ」

 言うや否や、老人は籠に溜めた紙屑を往来にばら撒く。

「ああ、こりゃすいません。毎度助かりますよ。そら秋津、おめぇも手ぇ貸せ」

 十兵衛が途端に態度を変えて屑拾いを始めると、老人はふんと鼻を鳴らして乱暴に戸口を閉めた。

 腰を屈める十兵衛に倣い、秋津も同様に散らばった屑を掻き集める。

「んで、さっきの続きだがよ。あの役人、今の郡代ぐんだい様の嫡男だって話だ」

「郡代!? そりゃまた随分えらい身分じゃないか」

 藩政全体の責任者となる家老職の下に、主な重職として城代、番頭、そして郡代の三つがある。

 中でも下々の暮らしに最も深い関わりを持つのが郡代だ。刑場での処刑執行、領内での犯罪の取締り、年貢の徴収なども郡代の管理下にあった。

 いわゆる町奉行や代官は、郡代の下に配置された役職なのである。

「まあそんなわけだからよ。いくらあいつが腰抜けでも、馬鹿にした態度を取っちゃなんねえぞ?」

「十兵衛、そいつはあたしに言うより自分に言って聞かせたほうがいいんじゃないの」

 

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