第五章 墨刑の日(2)
初犯でない上に、反省もしていない様子だ。
それでも針の筅は苦痛なのだろう。時々耐えかねて身体を震わせ、顔を歪めてもいた。
盗みの常習犯でも、痛いものは痛いらしい。
筅の跡に両手で更に墨を刷り込んでいくのを眺めていると、潜めた声が耳に入る。
「おい、何ぼんやりしてんだ、手桶寄越せ」
「あっ、ああ、はい」
水の入った手桶を囚人の腕に寄せると、墨を洗い流してしっかりと拭う。
手伝い非人の男も手馴れたもので、綺麗に墨が入っていた。
これで墨の入りが足りないと、針に墨を付けてまた刺し直す羽目になる。
手早く済んで有難いと思う反面、この囚人の反省の色のなさを見るに、もう少し痛い目を見せたほうが良かったのではないかとも思う。
「さて、それでは墨の乾いた頃にまた検分するとしよう。元宮殿もそれまで休まれては如何かな」
「ああ、ならばそうさせて頂きましょう」
一連の作業が終わるのを見届け、目付が見飽きたようにやれやれと欠伸をする。
この後、囚人はまたも縄打たれたまま牢屋敷に留め置かれ、墨の乾いたところで検分を受けることになる。それで漸く出牢を許されるのだ。
道具を片付け詰所の砂利を綺麗に敷き直せば、秋津の仕事はそこまでだ。
大して人手の要らない刑罰で、本来は墨を入れる非人一人でも十分なのだろうが、恐らくは十兵衛が捩じ込んでくれたものと思われる。
囚人が戻され、目付もさっさと詰所の奥に入ってしまうと、秋津もそそくさと片付け仕事に取り掛かる。
が、恭太郎は縁側の席から砂利へ降り、一直線に秋津の許へ駆け寄った。
「おまえも来ていたのだな」
「えっ、ええ……仕事があると言われましたんで」
「そうか。私も本来は入墨で検分に来ることもないのだが、これも見習いの一環でな」
にこにこと笑って話す恭太郎に、秋津は些か狼狽する。
人目がなくなったとは言え、ここは詰所だ。
中には目付もいるし、もう一人の手伝いも近くで道具を手入れしている。
「その、すいません。あたしはまだ仕事が残ってますんで、これで」
こんなところで気さくに非人に話しかけてくる高官がどこにいるのか。
(ここにいたけどさ……)
声を掛けてきたことを諫言しようかとも思ったが、ここで気安く会話しているのを見られるのも良くない。
すると、恭太郎もはっとしたように周囲をきょろきょろと見回す。
一応は二人きりだが、どこに目と耳があるか分からない。
「す、すまん。おまえの姿を見ていたら、つい……」
「ついじゃないですよ、あたしに構う暇があるならさっきの目付や同心と話すほうがよっぽど有意義ですよ」
長くなりそうなのを遮り、秋津は砂利に残された筵を手繰り、格好だけ一礼してその場を離れた。
***
姿を見掛けただけで、心が浮き立つ感覚がした。
着飾ることは愚か、襤褸を纏って髪を垂らした非人の娘。
本人曰くまだ恵まれた境遇なのだと言うが、決して楽な暮らしではないだろう。
その眼は強く、何かに媚びるということもしない。
これまで穢多や非人などとは人別帳の中に名を見るくらいで、直接的な関わりなどなかったし、物乞いをする者を見れば哀れと思って僅かばかり銭を投げてやったことがある程度だ。
秋津が仕事を終えて牢屋敷を出た後、恭太郎は目付と共に囚人の入墨を検分した。
墨も入り、囚人の縄を解いたは良いが、いずれまた盗みを働くように思えてならない。
その者の出自を調べれば、度々飢饉に見舞われる、領内でも特に痩せた土地の出身であることが分かっていた。
食い詰めて城下に流れ込み、まともな職にもありつけずに盗みを繰り返しているのだろう。
悪態をつきながら同心に付き添われ、牢屋敷の門前に放り出される。
その様を眺めつつ、恭太郎は暫し思案した。
その隣で、目付の男は乱暴に扇子で仰ぎ、嘲り嗤う。
「まったく、次には即刻追放してやる。どうせあの類はすぐに再犯だ」
「確かに、反省の色は見えなかったように思うが……」
「他所からの流れ者のようだが、あのような下賤の者に城下を荒らされたのでは堪らんわい。近頃は盗人が多くてまことに困ったものよ」
「あの者の住んでいた村は、常に貧しいと聞いている。盗みは許されないことだが、まずは村々の収穫量と年貢の均衡がとれているのか、そこを見直した上で救済策を取らねばなるまい」
根底から是正していかねば、ああいう罪人は増える一方だ。ひいては城下の治安悪化も懸念される。
「左様ですなぁ。いやはや、流石は帯刀様のご嫡男。物事の捉え方が違っておられる」
「いえ、代官時代に少し耳にした事があっただけのこと。暮らしが立ち行かず、欠落する者があとを絶たぬ村がある、と」
「ふむ、やはり元宮殿には代官や郡奉行が適任なのではあるまいか? 我々の職務は罪人を罰することにある。
犯罪人には苛烈な刑を以て罰する。それでこそ、再犯を防ぐことが叶う。
目付の男はそう言うが、何のことはない、単純な嫌味だ。
処刑場での検視に耐え切れず、失態を演じたことは既に町奉行の配下にあって知らぬ者は殆どない。
荒事の多い職務に腰抜けの上役は要らぬ、と、暗にそう言いたいのだろう。
己の失態の大きさを実感する。
それが挽回できない限り、憤りのままに何か言い返したところで余計に立場を悪くするだけだろう。
もう何度、歯噛みしたか分からない。
「此度の墨刑執行の報告を。元宮殿、お願い出来ますかな」
返答に窮していた恭太郎にそう言い残して悠々とその場を去りゆく男の背を、ただ睨みつけるのみであった。
***
それから奉行所へ戻り、検分報告を纏めて登城するのだが、恭太郎はその道すがら城下の町並みを一人眺め歩いた。
こうして見れば、城下は平穏そのものだ。
道行く人々の表情も明るく活気付いている。
しかし、少し町を外れると、近年では無宿者、つまりは物乞いがちらほらと見受けられるようになったのも事実。
特に農村からの欠落者が目立つようだ。
最近では商家が軒を連ねる界隈にまで、路地に筵を敷いている者の姿を見かけるようになった。
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