第五章 墨刑の日(1)
「あたしは戻らないよ」
岩屋を訪ねてきた十兵衛に、秋津は開口一番にそう言い放った。
山肌に突き出た巨大な岩盤が重なり合うようにして出来た洞穴で、奥に入るとニ、三人ほど寛げる余裕がある。
起居するのに筵を敷き、僅かな灯を最低限整えてあるが、他には寝る為に御堂から拝借した古い畳があるだけだ。
長屋から持ち出して来た物といえば、鍋と匙、それに茶碗が一つと、別れ際に母親から預けられた短刀が一振り。
形見のような物だが、長屋を出てからは何かと便利な短刀で、竹や木を削るのに重宝していた。
外で話そうと思ったが、十兵衛に押し切られ、岩屋の中で対座することになってしまった。
「だからもうほとぼりは冷めてるって言ってんだろう。吉次は勿論、今や誰もおめぇを責めるような奴はいねえんだ」
吉次というのは、秋津と揉めた非人の名だ。
「あたしなりのけじめのつけ方だ。皆の前で当分長屋を出るって宣言しちまったからには、はいそうですかってのこのこ帰れやしないよ」
「んなこたァ知ってる。おやっさんも今はおめぇの筋を通させてやろうって言っちゃあいるさ。だがな、おやっさんの歳も考えてみろ」
六十はとうに超え、六十五に届こうという高齢だ。
これがもし武家や町方なら、既に隠居の身だろう。
今のところは元気にしている源太郎も、もうあとどれだけ頭を続けていられるかは分からない。
「おれがこのところ頭の仕事を覚えさせられてんのは、おめぇも知ってるだろ? おやっさんを安心させてやりてぇんだよ、おれは」
「そりゃ十兵衛が跡目を継いでやりゃいいだけの話だろ。十兵衛ならみんなついてくるだろうし、早いとこ継いでやったら頭も安心するんじゃないの」
それは十兵衛と源太郎の間の話であって、秋津に直接関係してくるものではない。
実際に、十兵衛は長屋の人間とはうまくやっているし、人徳もある。長屋の非人たちは、十兵衛が頭を継ぐのを望む者ばかりだ。
「だァから、そうじゃねえって……ああもう!」
急に苛立ちを募らせたように、十兵衛はがしがしと乱暴に髪を掻き毟る。
「? な、何だよ、だって跡目のことならあたしにゃ直接関係ない話じゃないか」
唐突に苛立ったのを見て、秋津はぎょっと身を引いた。
「ああいや、悪い。まあなんだ、おれが頭を継ぐこたぁ構わねえんだ。ただその……」
十兵衛はちらりと秋津の目を見て、またすぐに外らす。
「何だよ、随分はっきりしないね。十兵衛らしくもない」
「うるせぇ、おれにだって言い難いことぐらいあらぁな」
「言い難い?」
そうまで引き延ばされると余計に引っ掛かるもので、秋津は眉根を寄せて首を傾げる。
じっと十兵衛を凝視するが、肝心の十兵衛の目は一切こちらを見なかった。
「……っだから! おれが頭になるからには、おめぇが長屋にいねえと困るんだよ!」
「はあ、なんでよ?」
「! ……なんでって、おめぇ、だからそいつはだな……」
しどろもどろに言い淀む十兵衛の顔を、秋津は訝って覗き込む。
すると十兵衛は余計に視線を逸らし、そっぽを向いてしまった。
「ああもう、今日はもういい! また出直してくらぁ!」
「は、だから説得なら何度来ても無駄だよ」
少なくとも次の春までは戻らないつもりで出たのだ。
十兵衛が何と言おうと、厳しい冬を長屋の外で過ごすことで自分なりのけじめを付ける。
そうしてこそ、長屋に戻ることも叶うだろうし、一応の筋を通したという体面も保てるものだ。
十兵衛は短く嘆息し、やおら立ち上がった。
「また来る。それと、明日は墨刑があるそうだ。おれは行かねえが、おめぇは人足で行ってこいよ」
言い置いて、十兵衛はどっと疲れたように足取り重く岩屋を後にした。
***
墨刑は牢屋敷に併設の見廻り詰所前の砂利の上で行われる。
盗みを働いた者の罰として肌に入れられるもので、左腕に文様と、額に悪の一字を刻み付けられる刑罰だ。
墨の入れ方は諸国で異なるらしいので、一度入れられるとどこで罪を犯したか凡そ分かってしまう。
秋津が牢番の指示で墨や針といった道具を揃えていると、恭太郎が目付と共に牢屋敷を訪れた。
墨刑程度の軽微な処刑の検分は、通常同心や目付くらいなもので、奉行や郡代がわざわざ出向いてくることはない。
そんな場にまで恭太郎が出てくるとは思ってもいなかったが、見習い故なのだろうか。大抵の事柄に同席している様子だ。
同様に、裁きの場にも詮議の場にも顔を出しているのだろう。
火熨斗を当てた裃は皺一つなく、整った面立ちも相俟って美丈夫然として映る。薄汚れた格好の自分とは、身分の違いを否応でも感じさせられた。
(恭太郎様もああしていれば、しっかり高官に見えるんだな)
ぼんやりそんなことを思っていると、詰所の縁側に設けられた席に着く恭太郎と視線が絡んだ。
と同時に、恭太郎がにこりと微笑みかける。
(!? 手伝い非人に笑いかけるなんて、馬鹿じゃないのあいつ)
手でも振ってきそうな満面の笑みで、見ているこちらが肝を冷やす。
秋津は咄嗟に視線を逸らし、筵の側に道具を揃え置くと足早に砂利敷きを出て控えた。
やがて腰縄を打たれた囚人の男が牢から引き出されてくると、牢の鍵役が出牢証文と引き合わせ、引き出されてきたのが本人に相違ないことを目付の前で証明する。
詰所前の片隅に控えて以後も、時折こちらを窺うような視線を感じたが、秋津は悉く気付かぬ振りを通した。
何か不手際があるならば別だが、下女のような仕事には慣れ切っているため、自分でもそつがないと自負している。
引き据えられた囚人が縄を掛けられたままで左肩が脱がされると、秋津はまた筵の囚人の近くに歩み出た。もう一人、手伝い非人の男が墨で文様を描くのを手伝うためである。
墨の文様の上から、先ほど秋津が用意した針を
比較的軽い刑と言っても、これはこれで苦痛を伴うし、墨が入れば生涯消えぬ刻印となる。
囚人はと言えば、太々しくそっぽを向き、
「早くしろや。墨の一つや二つ増えたところで痛くも痒くもねえ」
などと悪態をつく。
なるほど確かに、と秋津は思った。
その囚人の額には、既に悪の一字が刻まれていたし、腕の文様も既に一つある。
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