第十三章 島崎家(1)
安藤虎之助が江戸詰めの松木へ宛てて文を出したのは、ちょうど火付けのあった翌日のことだった。
遊学するにあたり、藩から支度金を受けてはいたが、元々安藤家はそれほど裕福ではない。
代々土蔵奉行を勤めてきた家だが、家禄は六十石程しかなく、遊学には持ち出しも相当額あった。
松木は安藤家の親類にあたるが、安藤家の懐事情も酌んでくれたものか、虎之助の遊学中には随分世話になったものだ。
その松木に例の話と立浪紋の関連を尋ねる文を認めたことは、恭太郎には伏せていた。
何かが判る確証はどこにもなく、何事も判明しなければ、この話はそのまま捨て去ろうとさえ考えてもいた。
その文の返書が届いてまた四、五日経った頃、松木から更に追伸とも取れる文が届けられたのだ。
珍しく厚い雲に覆われた、薄暗い日のことだった。
いっそ雨でも降れば良いものを、曇天は日差しを遮るのみでほんの一滴の水も落ちて来ない。
「今年は本当に、雨らしい雨が降りませんなァ」
「そうだな」
受け取りながら二言三言交わした後で、虎之助は受け取った文を片手に自室に籠った。
その紙面を滑らせるように文机の上に広げる。
文は長く、虎之助は一通り目を通し終えると額に手を当てた。
「月尾……島崎与十郎、か」
特に興味もなかった虎之助は、大奥に関する、それも十何年も前の話を気に留めることはなかった。
が、先頃恭太郎に聞いた話はこれだろう。
それだけでもどうしたものかと思うのだが、今日の文には更に驚くべき一文があった。
「これは、知らせないわけにもいくまいなぁ……」
単に思い付きと、恭太郎を窘める材料になればと考えただけの文だったが、余計なことをしたかもしれない、と虎之助は頭を抱えた。
***
月尾藩の島崎彦之進は元々江戸詰めであったが、一連の騒動の後、役替えとなり家禄も大幅に削られていた。
国許でもその話は瞬く間に広がり、家中でも随分と肩身の狭い思いをしたという。
江戸城内での顛末だけならまだ穏便に済んだかもしれないが、その後がまずかった。
若党の手引で沙汰を待たずに出奔したばかりか、中間を斬り殺して逃げたのだ。
こうなれば藩も黙っているわけにもゆかず、りよと若党の行方を追う手筈を整える。
だがこれがなかなかに周到で、二人の行方を追うのに実に一年半もの月日を費やした。
いよいよ沙汰止みかという時に、下手人の若党を見付けたという。
しかしこの時りよはその場におらず、若党のみを捕えるに留まったらしい。
若党の口から語られた話はごく僅かで、りよとその娘が生きていることだけは判明したものの、その後のりよの行方は杳として知れず、藩もついにこの沙汰を止めるに至った。
この時点で、りよは逃げ切っていたのだ。
しかし幼子を抱えながら逃亡していたりよにそれを知るすべはなかっただろう。
その後も何年も市井に紛れながら転々と暮らしていたらしい。
「月尾藩も下手人を捕えたことで区切りを付けたのだろうが、そのりよという女も大したものだな」
虎之助はそこまで話すと、茶を啜った。
すっかり冷めてしまっているが、良い茶だ。
さすが大身の家は茶も違う、と笑う。
「しかしな、恭太郎。大事なのはここからだ」
虎之助は湯呑を置くと、じっと恭太郎の目を覗いてから、やや声を下げて言った。
「りよは自ら立ち戻った後で結局尼寺へ送られたが、一年と持たずに死んだそうだ。島崎家はりよの兄が家督を継ぐことを許されて、今も存続している」
「家があるのか?!」
恭太郎は思わず声を高くしたが、慌てて噤む。
その様子に、虎之助は辟易しているといったふうに吐息した。
「恭太郎。今一度訊くが、その秋津という娘をどうするつもりなんだ?」
婢に捩じ込むのが精々で、その先はない。
血筋が武家だとしても、その身の上は非人だ。
貧困や被災によって非人に落ちた者ならば、その縁者が身元を保証すれば身分を回復することが出来る。
非人の中でこれを足洗いとか出世と呼んだが、罪人にはこれが赦されない。
親の代からの非人素性もまた、同様に足を洗うことが出来ないとされていた。
「非人というだけで、周りもそういう目で見るんだぞ」
「困難であることはわかっている。だが、……私はそれでも、妻に迎えるなら秋津の他にはいないと思っている」
「はぁー……」
大きな溜息とともに大袈裟な身振りで頭を抱える虎之助に、恭太郎は内心でむっとする。
言い返そうと口を開いたが、一呼吸早く虎之助が声を発した。
「島崎家の現当主が、与十郎殿といって……まぁ秋津の従兄にあたるわけだが。その与十郎殿が、生きているなら引き取りたいと言っているそうだ」
「引き取る? 秋津をか」
意外な話だった。
血縁とはいえ、見も知らぬ、非人に紛れて暮らして来た娘を引き取りたいとは。
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