第十五章 次代へ(2)
(もう、行ってしまっただろうか)
今日を逃せば、二度と会うことはないだろう。
恨んではいないと言ったその声で、自分では駄目なのだと答えを聞かされた。
それ以上、何も言えなかった。
「恭太郎、入りますよ」
襖の向こうから母の声が掛かり、恭太郎は慌てて居住まいを正す。
襖を滑らせて部屋に入った母の顔は、いつになく険しいものだった。
「母上、如何されましたか」
どことなく様子の違う母を訝って尋ねると、母はきつく
「成田家の姫との縁談、進めて良いのですね?」
母も、父・帯刀に急かされているのだろうか、ほんの僅か居丈高な雰囲気を漂わせている。
「今すぐでなければなりませんか。まだ、心の整理が付いておりません」
こんな心境で縁談に臨むのは、先方にも失礼だろう。
あの日きっぱりと拒絶された時の秋津の言葉が、今も深々と突き刺さったままだ。
思い出すだに胸が潰されそうになる。
「何とも情けないこと。それでも父上の子ですか」
母が正面に膝を着き、項垂れる恭太郎を真向から睨み付ける。
歳を重ねても容色衰えることのない母は、かつては家中でも一番の美人と評判であったらしい。
普段は父の側に控えて穏やかに微笑んでいるだけだが、それがこうまで憤りを顕にしているのは大変に珍しいことだった。
「わたくしの実家がどこであるか、貴方は知っていますか」
「? 御奏者の桐野家ですが……」
家格は比較的高いほうだが、禄も四百五十石と中身の家柄だろう。本来はあまり褒められた縁組ではなく、陰口を叩く者もちらほらあったと聞く。
母は一つ頷き、険しい声で続けた。
「ええ、桐野家からこの家に嫁ぎました。しかし桐野はわたくしを養女としただけの家なのです」
「……は?」
初耳であった。
「わたくしの生まれは、七十石取りの代官の家。決して元宮家と釣り合いが取れるような家ではありません」
家格の釣り合わない婚姻を成立させる為、第三者の養子縁組を挟むことは、ない話ではないが、如何せん随分と格差の大きなものだった。
「殿は八方手を尽くして外堀を埋め、身分に遠慮して頑なに固辞し続けるわたくしを、それはもう強引に掻っ攫ったようなものです」
「あの父上が?」
そうですよ、と母はあっさり答える。
「それは……、御苦労をされたのですね」
「まったくです」
はぁ、と短く吐息して、母は含みありげに恭太郎に視線を投げた。
「身分を弁え、お諫めし続けたわたくしの言葉など、あの頃の殿は一向にお聞き入れになりませなんだ」
「…………」
秩序を重んじ役目に忠実、主君への忠義も厚く、また主君からの信任も厚い。
自慢の父ではあったが、それ故に嫡子としてのし掛かる重圧は生半可なものではない。
だが母の語る父は、今の姿からは想像も及ばなかった。
まさに今の自分自身とぴたりと重なるような話だ。
「しかし、身分を返上する覚悟で請うても、それでも私では駄目なのだと言われましたので……」
「そんな重い覚悟で迫られれば、誰でも委縮しますよ」
それに、と母は続ける。
「殿は言葉に出さずとも、わたくしの本心を見抜いていましたよ。貴方はどうなのですか」
言の葉に乗せたものだけが、人の心の全てではない。
良きにしろ悪しきにしろ、常に揺れ動く。
あれも、本心からの言葉だったのだろうか。
と、恭太郎は押し黙った。
「まあ貴方が諦めるというのなら、このまま成田家とお話を進めますから、それはそれで結構ですけれど」
***
「やっと行ったか」
門扉のそばで恭太郎を見送った美代の背に、帯刀の声が掛かった。
玄関から前庭に出た帯刀の砂利を踏む音が近付く。
「はい、今し方」
「長年非人に紛れていた娘なんぞ……。美代、そなたも苦労するやもしれんぞ」
「あら、わたくしのように下手に生家の仕来りに染まっていないほうが、馴染むには早いかもしれませんよ。そのご様子では既にお調べになられたのでしょう?」
父子の一悶着から数日のうちに、配下の者が邸を訪れていたが、件の娘について知り得るだけの報告を持ってこさせていたのだろう。
「気付いておったのか」
「ふふ。ご様子を窺っていれば、自ずとわかるものですよ」
帯刀は奇妙に顔を顰めて美代を一瞥する。
「その娘、どうも検視から逃げ出した恭太郎を叱り飛ばしたことがあるらしい」
「まあ。それは頼もしいではありませんか」
「そなた同様、肝の座った娘ではあるな」
先日の意趣返しとでもするかのように、帯刀は取ってつける。
が、美代は素知らぬ振りで微笑み返した。
「御家老に何と説明すれば良いのか、全く……。根回しとて楽なことではないのだぞ。面倒な倅じゃ」
厳めしい顔をげんなりさせてぼやく帯刀に、美代は苦笑する。
「本当に、
「……月尾の島崎とやらに、使いを出さねばならんな」
「あら、お気の早い。恭太郎がしっかり捕まえて戻ってからになさいませ」
仏頂面はそのままに、帯刀は一つ仰け反るとこれみよがしに肩を上下させ、邸の中へと戻って行った。
「……」
「これは奥方様」
帯刀が背を消すのと殆ど同時に、開けたままの門扉から、安藤虎之助が顔を覗かせた。
ちょうど入れ違いになったらしい。
「安藤殿でしたね。恭太郎なら今頃は、街道を馬で駆けている頃ですよ」
***
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