第17話 桜 脱出

 コツ、コツ、コツ、コツ…。


 長い廊下に男の足跡が響く。男の腕に抱き抱えられているのは放心状態の桜だった。

 雨が強くなってきたのか、屋敷の窓を大粒の雨がはじき、周りの木々のザワザワと葉を揺らす音が、桜の恐怖を煽っている。


 桜はこの男の事を何も知らない。手足は相変わらずきつく縛られたままで、擦れて血が滲んできている。じつはかなり痛く、歩く事もままならないので、移動に人の手をかりるのは、しかたがないのだが、今の桜に「歩け…」と、言われたところで歩けただろうか。


「…うそよ。きっと何か考えがあって…」


 乾いた唇から漏れた声は、この若者に聞かせるものではない。しかし桜の精神的なショックが、今、自分の危機という状況に、気持ちが追いついていなかった。


 桜が左馬武と一緒に連れ込まれた屋敷は、江戸時代、参勤交代が重なったときに大名や藩の家老などが宿泊した「脇本陣」を、当時の雰囲気はそのままにリフォームされた日本瓦の豪邸。


 場所は八ヶ岳の南麓に広がる標高千〜千四百メートルの別荘地。秋は紅葉、冬はスキーなど、魅力のある観光地であり、グルメ、ショッピング、アートなど多くの観光・体験スポットに若者があつまる。

  バブルの頃は、夏でも涼しく過ごしやすいこの地に、別荘を持つのが金持ちのライフスタイルだったのだが、今はそうした別荘が売りに出されたところで、買手もつかないまま放置されている建物も多い。 


 そんな別荘地で歴史を感じるこの豪邸は、二十年位前まで、政治家や著名人が観光に来た時に利用する藤宮の高級旅館だった。

 時代とともに旅行客の年齢層は下がり、高級旅館としての役目に終止符を打ったのは、観光客の減少も大きい。

 今は関西地区の重鎮、池田克重いけだかつしげが譲り受け管理している建物だった。

 部屋数はホテルのように多くはないが、二階のゲストルームだけでも九部屋はある。


 桜を抱いた男は、二階の角部屋に入ると無表情で桜をベッドへおろした。ベッド脇の小さなスタンドに明かりをつける。

 小さな明かりは、真っ白なシーツに艶めかしい太ももを露わにした桜の姿を映し出した。ベッドで横たわる桜は美術館の絵画のよう。


 あまりにも破廉恥な姿に、もっと乱暴に扱われると思いきや、思いのほか丁寧に桜はベッドへおろされていた。

 男は、桜の縛られている手足に負担がかからないよう横に寝かせ、枕を頭にあてがう。だが、そうした気遣いを見せるわりには、男の顔には感情の変化がなく恐ろしい。

 

「さて、すぐに行為に入るのもムードがありませんし、何か飲みますか? 少し、待っていて下さい」


 男は桜から離れると、ドアの鍵を内側からかける。部屋の隅に置かれていた冷蔵庫をあけ、ペットボトルを一つ取り出した。

 冷蔵庫の眩しい光は、シックなゲストルームの内装を照らしだす。

 男はペットボトルのキャップを外すと、何かを探すようにきょろきょろしてから、ビニールに入ったストローを見つけ、それをペットボトルに差し入れて、桜の顔へ突き出した。


「どうぞ、飲んで下さい。口が乾いているのではないですか?」

 

 口を開いたら泣き出してしまいそうなのだと言えたら、どんなにラクだろう。わけのわからない罵声を泣き叫んでも、受け止めてくれる男は、ここにはいない。桜はきつく唇を噛んだ。


 そんな桜に、男は、柔らかなシーツをはだけた足にかける。話し方は、至ってその辺にいる若者とかわらない。


「くくっ。毒なんて入っていませんので。嫌だなー、そんなに警戒して。僕を選んでくれたのは桜さんじゃないですかー」


「違うわ!!」


 叫んでしまった桜の頬を、温かい涙がすーと伝った。


 …そう。違う。わたしじゃない。この男を選んだのは、なお…だ。


 池田克重は自分達の息子に桜を娶らせ、血によって霊力の強い子供を産ませようと言い出した。

 馬鹿らしい! と蔑んだ桜に「一度目がダメでも二度、三度、君が子供が産めれる間は生かしといてあげるから」と、言い放ったのだ。


 彼等の五人ほどいる息子達から、選ぶ権利を与えてあげると言われ、頭に血が登った桜が一か八か飛びかかろうとした時、桜のボディガード、左馬武さまたけ 直久なおひさが池田の勧誘に…、のったのだった。


「桜様はメンクイです。初恋のお相手は、藤宮の若き当主でございますから。そちらの隅におられます若者はなかなか凛々しい。桜様のお相手にかなうのではないでしょうか?」


 池田の側にいる二人が木下と浅野だと、桜はこの時知らされた。そしてたまたま別荘にいたのが池田の息子二人と、木下の息子。浅野は息子を連れてこなかった事に悔やんでいた。

 左馬武は三人の男から、木下の息子を「どうですか? あなたの好みにあった若者だと思いますが…」と、桜に宛てがった。


 なぜ…? 


 左馬武が、藤宮…、いや、灯夜を裏切るなどと思いもしなかった。最初は何かの作戦で、敵におちたふりをして、池田達の内情を探るつもりなのかと思った。でも、彼は「たいした魔力も持たない小娘のお守りはうんざりだ」と、桜に冷水を浴せ、衝撃を受けた彼女に、さらに追い打ちをかけるよう、見ず知らずの男を宛てがい寝ろと言うのだ。


 …わたしのボディガードがそんなにイヤだった? 


 幼少期から桜を知っている左馬武は、桜の事を灯夜と同様に大切な人だと言っていた。  


 わたし…、嬉しかった。わたし…、なおの事、好きなんだって、やっと気付いたのに!


 本当に彼は以前から、年下の灯夜に平伏へいふくすることに不満を持っていたのだろうか。そんな素振りは一切感じなかった。

 桜みたいなわがまま娘にもへいつくばって、毎日、毎日…苦痛を味わっていたって言うけど、この場所で彼が桜に最初に言った言葉は「自分が不甲斐ないせいで…」そこには、桜の事を守るプライドが確かにあった…。


 一度流れ始めた涙は、止め方がわからない。ただ流れて顎を伝い、ボロボロになったワンピースを濡らしていく。

 灯夜とのランチの為におろした、お気に入りのワンピース。どんな形だったかさえわからずに、桜の肩と袖に辛うじて引っかかっていた。


「僕は泣いてる女性を抱く趣味はありませんので…。リンゴはお嫌いですか?」


 木下の息子だと紹介された男は、軽薄な感じのしゃべり方で再度ペットボトルのジュースを桜に向けた。桜が飲みやすいようにストローを固定し、口まで近づける。

 

 プライドと勝気を総動員させていた桜は、泣き顔を見られて、気持ちが維持できない。子供のように、向けられたストローへ口をつけて吸い込むと、冷たくて甘酸っぱいリンゴの味が乾いていた口いっぱいに広がり、かつえていた感情と喉を潤した。


 冷たいリンゴジュースが身体に行き渡るように、桜の心にも少しだけ冷静差が戻ってくる。


「…親に命令されたからって、あなたは今日初めて会った女を抱けるの?」 


 桜に敬語を使うあたり、この若者は、桜の素性を知らされているのだろう。


「僕を選んでもらって光栄ですよ。他の男を選んでいたら…、ちょっと厄介でしたから」


「厄介? わたしが…、他の男を選んでいたらどうなっていたの?」


「いえ…。僕がヤキモチ焼いて暴れてるって事です」


 ギシ…と、木下が桜の横に手をついた。動けない桜を宥めるように、髪を撫でる。


「…大丈夫です。優しくしますから」


 桜はフルフルと首を振った。


 怖い! 嫌だ! こんな、好きでもない男に抱かれるなんて!!


「あー、あまり無理に動くと手と、足にキズが残ってしまいますよ」


「だったら、外してよ!!」


「そうですね。僕もこのような状態のあなたを抱くのはちょっと不本意です。逃げないと約束するならほどいてあげますよ」


 木下が顔を近づけてくる。


「…そのかわり、僕にキスして下さい」


「えっ!」


「それじゃなきゃ、解きません」


 まるでいたずらっ子のような男の顔は、どこまで本気なんだろう。だが、この手足さえ自由になれば、何か打破できるかもしれない。


「わかったわよっ」 


 そっぽを向いた桜に、お利口さん…と、木下は桜の頭を撫でる。

 

「はい。じゃあお願いします」


 木下はゆっくりと桜の耳に顔をうずめ…、身体を強張らせた桜の耳に囁いた。


「…いいですか。大きな声は出さず聞いてください。この部屋だけでなく、全ての部屋にカメラが仕掛けられています」


 ビクリ…と、肩を揺らした桜を安心させるように、木下は優しく続ける。


「紐を解いたら僕を殴るか、蹴るかして逃げて下さい。あそこに椅子がありますね。外は雨ですが椅子を窓ガラスにあてて割って下さい」


 急に変わった木下の口調と、思いもよらない逃げ出す手引。桜は不安を見せないよう恥じらう素振りで顔を枕につけ、小声で聞いた。

 どのくらいの音がカメラで拾われてしまうかわからないが、彼が話すトーンなら大丈夫なのだろう。


「窓から逃げるの? ここ二階でしょ?」


「大丈夫。既に助けが来ています」


「灯夜サン?」


 木下は桜の肩に顔をうずめたまま頷く。


「…わたしを逃したあなたは、大丈夫なの?」


「あなたが手加減なく殴って下されば…。できますか?」

  

 他に選択などある訳がない。信頼していたボディガードはいないのだから…。


「…出たとこ勝負になりますが。きっと大丈夫です」


 木下の、小さいが力強い声が返ってくる。泣きそうになった桜は、解けられた腕で木下の背中に手を回した。

 身体を浮かせた木下が意志の強い瞳で、桜を見下ろす。これが彼本来の瞳なのだろう。


 ブツリ…と、音がして足首も開放される。初めてニヤっと笑った木下につられて、ぐっと涙を堪えた桜が満面の笑みを返した。


 

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