第21話 葵 憤激

 熱い…。

 暖炉の炎から、ぬるりと腕だけが伸び、灯夜を引きずり込もうとする…。

 この程度の悪鬼、封じれるはずなのに灯夜の身体はズルズルと暖炉の中に引き込まれていた。灯夜は床に爪を立てて必死に地べたを這う。しかし爪が剥がれ…、血まみれの指で這っても、這っても、一人…、二人…と、数を増やした悪鬼が足に絡みついてくる。

 炎はパチパチと音をたてて真っ赤に燃えさかり、灯夜を手招きするよう揺れていた。


 ああ…駄目だ…。身体が燃える。この炎はきっと地獄からだ。熱い! 熱い!


「うーん…。たす…け…て」


「…灯夜様」


 だ…れ? もう、終わって…いいのか…。そうか。じゃあ、楽になれる…。


「灯夜様。戻って来てください…。灯夜様! 灯夜…」


……… 


 ヒヤ…と、おでこに気持ちの良い冷たさを感じた灯夜は、悪夢から目を覚ました。枕を高くして横向きに寝かされ、抱きまくらをあてがわれている。


 よほど身体が緊張していたのか、自分のいつものベッドに安心すると、どっと疲れが押し寄せてきた。


 ベッドの横には、険しい顔の葵が座っている。


 …悪夢から救った声は、葵だったか?


「…気づかれましたか?」


「あ…あぁ」


 喉がヒリついていて、うまく声が出てこない。沈みそうなだるさから、風邪をひいたのだと自覚する。

 実際雨の中、コートも着ずに大粒の雨に打たれ続けていたら、灯夜でなくても風邪を引くだろう。


「…ご気分は?」


「…よく、ない」


 身体のだるさは最悪だし、頭もガンガンする。

 だが汚れた身体は、丁寧に拭かれて暖かな衣類に着替えさせられていた。泥に埋もれた足も、気持ち悪さは感じない。


 それに出しっぱなしの背の翼からは、爽やかなミントのような匂いがしていた。葵がハーブの湯で、翼も拭いたのだろう。


 …マメなやつだな。


 身体に負担がかからないよう寝かす体制も世話焼きの葵らしい。


「まだ朝の四時です。もう少し眠ってください」


「四時? …どのぐらい寝てた?」


「…帰宅したのが、一昨日の朝五時ぐらいでしたので…、丸二日でしょうか?」


「そうか…」

 

 倒れた灯夜を葵が世話をやくことは、時折ある事なので、今更、着替えや、裸を見られることへの羞恥心などない。だが…、今回は葵も疲れていたのではないのか。


 …悪鬼を封じ、ジュリの車に乗り込んだ所までは覚えている。霊力の使いすぎで身体は限界だったが、残っていた気力を全て使って、背中の翼を押さえつけた。それから…。


「え?! わ――っ!! ゴッ、ゴホッ!」


 突然頭に浮かんだ葵の顔に、灯夜は咳き込みながらベッドから飛び起きた。葵が慌てて止める。


「まだ無理です! どうしました?! 何処か、痛みますか?」


 確かに、思うよう力が入らない。


「いや。…なにか、すごい夢を見たような」


「夢…ですか?」


「あ、あぁ。夢だ…」


 灯夜は抱きまくらを抱えるよう、再びベッドに横になった。おでこから滑り落ちたタオルを戻し、ほう…と、息をつく。取り敢えずは頭の隅に追いやった。


「…桜は?」


「…桜サマは大事をとって一日病院に入院しましたが、大きな怪我はなかったご様子で、今はご両親のもとで休まれておいでです」


「そうか…。良かった。義隆よしたかは?」


 灯夜にしてみれば、別になんでもない確認事項のやり取りだったのに、葵は怪訝な顔をした。


「ん?」


 灯夜も訝しげな目で葵を見返す。だがフイ…と、目をそらした葵は、灯夜のおでこにあったタオルに手を伸ばすと、それを水で濡らし直した。


「…義隆と、何かあったか?」


「いいえ。なぜですか?」


 いつも通りの葵だ。しかし無理に冷静を保っているくらいはわかる。疲れもあるのだろうが、珍しく葵がイラついていた。


「…俺が、倒れるまで霊力を使ったから怒ってるのか?」


「いいえ。あなたのやる事に、助言は出来ても命令はできませんので」

 

 …嫌味な言い方だ。


「…黒田支部長でしたら、昨日、藤宮本部にご報告へ行かれたままこちらには戻られておりません。あなたが気が付いたら連絡しろとは、言われております」


「…本部からは、何か言ってきてないか?」


「今は、あなたを休ませろとしか…。黒田支部長に、連絡をいれますか?」


 …あれから、池田は何処へ身を隠したのか。他の術師達の動向や、悪鬼を集団で操る秘密…、それにあの黒い悪鬼についても何かわかった事があれば知りたい。


「あぁ。そうだな。そうしてくれ」


 灯夜はただ黒田に連絡をいれろと、言っただけなのだが、やはり葵の不機嫌は明確だった。


「葵?」


「…っ。では、明日にでも連絡をしておきます」


 こんなに、喜怒哀楽を顔に出す男だったか? しかし、どうせ理由を聞いても、答えないのだろう。

 取り敢えず、連絡は早く取りたい。


「いや、今日中に…、急ぎで連絡をいれてくれないか?」


 灯夜が思っていた事を口にすると、とうとう葵が濡らしていたタオルを床に投げつけた。


「―――っ。なぜ…、ですか?!」


 葵の突然の激怒に、灯夜も驚いて体を起こす。しかし灯夜の鈍さは、葵の感情を逆なでした。


「あなたは、二日寝込んでいたんです。体力も、霊力も、限界で! たった今、気が付いたばかりで、その翼でさえ隠せないほど、霊力が弱まっているんです! それでも…、そんな身体でも、今すぐに、あの男に会いたいのですか?! それともその翼を彼に見せて触れさせたいのですか? ええ! 美しいです! あなたという存在は、悪魔に魂を売ってでも、手にいれたいと願い出る者が後を絶ちませんしね!」


 一気に怒鳴りちらす葵の言葉を、灯夜はじっと黙って聞いていた。正気に戻った葵が、いたたまれなくなると、大きくため息を吐く。


「……葵」


「はい…」


「お前、二日間寝てないだろ?」


 ポタ…。ポタ…。

 サイドテーブルにこぼれた水が、床を濡らしていた。室内機の風音だけが辺りを包む。


「…私が本気で言っているのに、はぐらかすのはやめて下さい。私の事は、いいです」


「別にはぐらかしているわけではない。俺はお前の事が聞きたいだけだ」


「…あなたを雨の中、薄着で霊力の限界まで使わせてしまったのは、私の責任ですから」


「お前の責任? どうしてそうなる?」


「あなたのサポートをするのが私の仕事です。補佐としての役目を怠りました」


「補佐…ね。じゃあ、あるじの言う事は絶対だよな」


 憤懣ふんまんやるかたない葵の態度につられて、灯夜の言葉もキツくなる。葵の寝不足は明確だ。


「今すぐ、自分の部屋に戻って寝ろ!」


「! ですが…」


「俺も、もう少し寝るから…」


 おそらく二日間まったく葵は寝ていない。暗い部屋では良く見えないが、目の下に、薄っすらクマができている。色男が台無しだ…。それでも葵は一歩も引こうとしない。


「おそばにおります」


 背筋を伸ばし、当たり前のように灯夜の横に座る。肩を抱き、灯夜の身体を布団に倒した。


「…じゃあ、俺も起きるよ」


「っ。灯夜様…」


「葵。俺をもう少し休ませてくれるって言うなら、お前も休んでくれ。頼むから…」


 灯夜が心底困ったように眉尻を下げた。灯夜の茶色い瞳は未だ熱に浮かされ潤んでいる。


「…わかりました。では、かわりの者をこさせます」


「いや、いいよ。このまま寝るだけだし…」


 ホッとしたように灯夜が柔らかく笑った。本人に自覚は無いが、それだけで灯夜の雰囲気が色濃くなる。


「まったく。…あなたを、一人で寝かせておくなんて、できる訳ないでしょう。誰かつかせないのであれば、私がここであなたと一緒に起きております」


「はぁ。わかったよ。誰かよこしてくれ。それでお前は、さっさと寝ろ」


「…では、手配します」


 葵はスマホ画面に手早く打ち込む。すぐに既読がつき、了解という文字が返信されて来たのを確認してから、何かを考えだした灯夜を横目に、葵はタオルや床にこぼれた水の片付けを始めた。


「…黒田支部長に、ご相談されたい事でもあるのですか?」


 若干黒田の名前には引っかかりを感じるが、それでもだいぶ落ち着いた葵が、灯夜に聞いてみる。

 灯夜は、唇に指を当てて部屋の壁を見つめていた。


「…葵」


「はい」


「お前、俺の両親が死んだ理由を知っているか?」


「…車の事故だとしか」


 灯夜の両親? なぜ、急に?


「そうだよな。俺も、そう聞かされている…。子供の頃の記憶だから、曖昧だけど。夫婦仲は良かったと思う。仕事で…、一緒にいた時間は短かったけどな…」


「…あの黒い悪鬼と何か関係が?」


 突然、灯夜が両親の話をする理由…。一昨日の事件以外思い当たらなかった。


 しかし、灯夜も確信があるわけではないのか…。それ以上は何も言わない。


 ふと、葵は昨日入ったメールを思い出す。


「…そういえば、昨夜桜サマのお母様があなたに御礼が言いたいので、取り次いでほしいと連絡がありました」


「叔母なら、何か知っているかな…」  


 灯夜は独り言のように小さくポツリと呟いた。何処か寂し気な様子に、葵も黙って灯夜の言葉を待つ。


「じゃあ、今日の午後下のラウンジで会うと連絡してくれ。時間は叔母に任せる」


「…なにも今日でなくても。動けますか? それと翼が…」


「大丈夫。喉は痛いけどな。それに翼をしまうくらいの体力は戻ってるよ。でも、今はしまう必要は無いだろう?」


 灯夜は桜色の唇の隅を、ニコ…と上げて葵を覗き込む。葵が灯夜の翼を気に入っている事くらいは随分昔から知っていた。


 葵もいつもとかわらないやり取りに安心して頷くが、少しだけ寂しさを感じてしまう。


 もう、以前のようにはいかないな…。


「もう少し眠れば霊力は回復する。それに、ここのラウンジなら外に出るわけではないし、問題ない。連絡を頼む」


「…承知しました」


「葵…」


「はい」


「二日間、ありがとう。心配かけたな…」


「…いいえ」


「葵…」


「はい」


 灯夜が枕に顔を沈めて目を閉じた。


「朝食はいらないから、昼を…一緒に食べよう…」


「はい」


 暫くすると、すう…すう…と、灯夜から規則正しい寝息が聞こえてきた。





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