第22話 葵と岸の関係

「お呼び出しに従い、参りました」


 葵がドアを開けると、そこには優雅に頭を下げた岸が立っていた。岸は急な呼び出しにも関わらず、早朝からきっちりとホテルの制服を着込んでいる。黒いドアマンコートは着ていないが、同色のハットと一緒に手にした姿はさすが様になっていた。葵が、急遽灯夜の看病を頼んだのが岸である。


「…悪いな。入ってくれ」


「失礼します。…眠ってる?」


 寝室を覗いた岸は、部屋のあるじが眠っていることに気づき、言葉と態度を崩す。プライベートで葵と酒を飲む時の友人の顔に戻ると、葵を見た岸が顔をしかめた。


「酷い顔だな」

 

 葵も自覚はある。なんせ二日寝ていない。高熱でうなされる灯夜の看病で休む暇がなかったのもそうだが、自分が眠っている間に、目覚めた灯夜が何処かへ行ってしまわないかと不安だったのだ。


 黒い悪鬼の正体を追って…? 確かに、灯夜はあの悪鬼に何か気づいている。だが…、その事ではない。

 本当は…、何度も唇を重ねる葵を不快に感じた灯夜が自分のもとから離れて行ってしまうのではないか…。そんな不安がどうしても拭えなかったのだ。

 しかし目が覚めた灯夜は、いつもと変わらない。ホッとした中に、物足りなさを感じてしまうのは…、未練なのか。


 だったら…、もっと強く求めればよかったのか? その機会は部屋に戻ってからいくらでもあったはず…。


 葵は頭を降って、灯夜の肌の残像を散らす。


「少し…、自分の部屋で寝てくる」


 さすがに疲れが見える葵の様子に、岸も心配になった。


「…寝酒でも用意するか? 少しと言わず、今日一日休んだらどうだ?」


「いや、午後には予定が入っている。それに、昼食を灯夜様とご一緒するよう言われたから」


「ふーん…」


 いやに甘く灯夜の名前を呼ぶ葵に、岸が敏感に反応する。

 岸のひやかす目線に、葵は素知らぬふりを通すが、観察力に長けた岸がニヤリと笑った。


「…進展があったのなら、聞かせてもらいたいんだけど?」


「…別に。たいしてない。灯夜様は、夢だと思われてるみたいだしな…」


「まさか…。高熱にうなされている相手を押し倒したとか?」 


「……」


「え! そうなの? おまえ…それはちょっと」


「ばか。そんな訳ないだろ。ただ…」


「ただ?」


 ニヤニヤと、岸が先を促す。


「…灯夜様の苦しげな声を、誰かに聞かせたくなくて…」


 葵は、なんとなく、たまったもやもやを吐き出したくて、帰路の車内の出来事を話した。

 灯夜が眠る寝室の扉を少し開けた状態で、葵と岸、互いに向かいあったリビングのソファーに座る。

 寝る前だからと、いつもはコーヒーを好む二人が紅茶の茶葉がゆっくりと開くのを待った。 


 リビングにアールグレイの爽やかな柑橘系の香りが漂う。紅茶の茶葉に柑橘類のベルガモットで香りづけをした落ち着いた香りは、疲労を抱えた身体でも十分に楽しめた。

 一人の男として恋愛相談をする友人同士には、ベルガモットのみずみずしさと、ほろ苦さを感じる香りは、よく似合う。


 紅茶のシャンパンと言われるダージリンや、力強いコクをもつ豊かな味わいが特徴のアッサムより、アールグレイはプライベート感が味わえちょうど良い。


「ふーん。…なるほどね。愛しい男の熱い声を他人に聞かせたくなくて、自分の唇で塞いだと?」


「……最低だろ?」


「ああ。最低だね」


 自嘲気味に笑う葵が、二つのティーカップに綺麗に色づいた紅茶を注いだ。

 カップを手にとり、一口飲んだ岸が「あとで、ダージリンとアッサムの茶葉も届けるよう頼んでおくよ」と、ここで紅茶を飲む約束を取り付ける。


 まあ、今日の岸の睡眠を削った代償としては、ここでティータイムの時間をとるくらい良いだろう。


「で…、友人として言わせてもらえばだけど」


 岸が普段のドアマンとしての顔とは程遠い、意地の悪い顔をした。


「感情のまま動くのも、いいと思うぜ? おまえが人間らしく見える」


「どういう意味だ?」


「普段のおまえは、憎らしいくらい冷静だからな。好きな相手に対してまで、熱くなれないのは、異常だと思ってたよ。独占欲なんて当たり前に皆、持ってるものだぜ?」


「…あの時は、どうしても自分のものだと思いたくて」 


「まあ、騒ぎの後で…、普通の感覚では無かったと思うしな。黒田支部長が側にいたなら、なおさら譲れないだろうし…」


「その男の名前を出すなっ」


「…彼はできる男だけに、なかなか無視できないね。灯夜様も、…彼を信頼しているし。…彼も、軽い気持ちで灯夜様を口説いているわけじゃないみたいだしな」


「知ってる。たぶん…何かあれば、彼は躊躇いなく灯夜様の為に、身を投じるんだろうな…」


「…それは、おまえも一緒だろ?」


「ああ」


「愛しい人を欲しいと思うのは普通だし、大事な人を守りたいと思うのも普通だよ。だけど、相手の意識がない時にキスするのは反則かな?」 


 岸が飲み終わったティーカップを片付けだした。


「…さっ、そんな事より、やる事は?」


「…時々、タオルを濡らし直す事くらいだ。もし、うなされてるようなら起こしてやってくれ」

 

「了解。とにかくお前が戻るまではこの部屋に誰も入れないから安心して寝てこい」


「ああ。よろしく頼む。時間は…、大丈夫か?」


「チェックインのピーク時間までには、下に降りたいかな」


「わかった。昼前迄には戻るから。あっ、黒田支部長が来ても入れるなよっ」


「はいはい。わかってる。了ー解。だいたい彼はまだ本部だろ?」 


 くくっ…と、笑いながら、自室に戻る前にもう一度寝室を確認する葵に岸も続く。


 灯夜の熱はだいぶ落ち着いたのか、変わらず静かな寝息をたてていた。真っ白なシーツに隠しきれない大きな翼が、月光色に輝いている。灯夜の体重を持ち上げる大きな翼。羽の一枚一枚の密が濃く、顔を埋めたらさぞ気持ちが良いだろう。


「少しくらいは、あの翼に触れていいか…って、殺気を出すな。冗談だっ!」


 岸は灯夜の背に翼があることを知っている者の一人。以前同じように灯夜が倒れたときに、葵が岸に頼んだ経緯があった。


 だからといって、灯夜に触れる事が許されたわけではない。


 やはり残ると言い出した葵を、さっさと自室で寝て来るよう急かして部屋から追い出す。

 静まり返った薄暗い寝室で、改めて眠る灯夜の顔を覗き込んだ。

 長い睫毛が影を作り、色気を醸し出すセピア色の瞳は見えない。だが、胸元を緩めた服から鎖骨が見え、透き通る肌は匂い立つ程の色香。

 室内にドクドクと脈打つ自分の心臓の音が聞こえるほどだ。


「…これは、かなりの忍耐が必要だな」


 岸は、だいぶぬるくなった灯夜のタオルを水で濡らした。




 

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