第20話 接吻

 体力と霊力の限界だった灯夜は、ジュリが待つ車に乗った途端、倒れ込んでしまった。


 心配するジュリに運転を促し、葵と黒田で灯夜の濡れた服を着替えさせる。だが浅い息を繰り返している灯夜の身体は、小刻みに震えて止まらず、あれほど冷え切っていた身体は燃えるように熱い。


 とにかく温めなくてはと、ジュリが車の暖房を熱いほどきかせ、帰路を急いだ。


 「はぁ、はぁ…」と、灯夜の色を失った唇から漏れでる熱い息だけが、車内に響いている。時折、対向車のヘッドライトで浮かぶ彼の顔が、くっ…と、苦しげに形の良い眉を寄せるたび、灯夜を囲む男達の身体にも、熱い欲がふつふつと育っていた。


 黒田の側近が、所在無さ気に目をそらすのは、灯夜の壮絶な色香のせい。

 目を閉じれば、熱い息が甘い吐息に聞こえてしまい、より一層妄想の中で彼の露わな姿を想像してしまう。


 これ程迄に、男も女も虜にする灯夜の色気は罪に近い。


 圧倒的な力の差を見せつけた彼の、限界迄の死闘。それゆえの高熱に、せめて今度は自分が彼を守らなくては…と、喉が渇くような強烈な庇護欲にかられ、熱を持った身体が指の先まで痺れてくる。強さと儚さは、時に男の性欲を掻き立てていた。


 ジュリも心配気に、何度もバックミラーを覗いている。灯夜の息遣いが聞こえている間はまだ良い。しかし、タイヤが水をきる音と、運転席の前で規則正しく動くワイパーの音。それだけしか聞こえなくなると、途端に不安になってしまうのだ。


「ミスター、い…、息してますか?」


 思わず確認を求めてしまうジュリ。攻撃的な運転操作とは対照的で、彼女はとても優しい。


「はは。大丈夫だよ。こう見えて、灯夜はタフなんだ。なぁ、秘書君?」


「…ええ」


 ジュリを安心させる為、笑って答えはしたものの、黒田も、葵も、灯夜が高熱と、に耐えているのかわかっていた。

 灯夜はその背に大きな翼を持つ…。あれ程の霊力を使えば、その翼が背中の皮膚を突き破って、広げようとするのを抑えきれないでいるのだろう…。

 

 灯夜の額に汗が浮く…。

 葵は、濡れそぼった彼の髪をタオルで拭きながら、額の汗も拭う。そうして…、そろそろ灯夜も限界なのだと悟っていた。


 今すぐ、車から降りるべきか…。


 車には、黒田と葵の他に黒田の側近一人が乗っているが、灯夜の背にある翼を、ジュリとこの男は知らない。

 二人が信頼出来ないという訳でなく、ただ単純に葵が見せたくなかった。


 二人が灯夜の月光色の翼を見たらどんな顔をするだろう。ビロードのような羽の感触に触れたら…、どんな欲求が生まれるかは想像するのは容易い。


 かといって、この状態の灯夜を降りしきる雨の中、外に連れ出すのはあまりに危険すぎた。


 …でも、ここで翼を開放されたら、隠す手立てがない。


 葵は意を決すると黒田へ目配せした。葵の意図に、黒田は片方の眉を上げると、ジェラシーを滲ませながら鋭い目を光らせる。


「…俺が変わるかい?」


「…この場合、どちらが自然なのかは、おわかりになるでしょう?」


「どちらか…ね」


 黒田は諦めたように肩を落とすと、車の後ろに灯夜と葵を残し、自分の側近がすわる前の座席に移動する。座って後ろとの仕切となるカーテンをきつく閉めた。

 

 シャ…。


 カーテンがきっちり閉められ、取り敢えず葵が灯夜を独占できたのは良い。だが、こんな狭いところで翼を広げてしまったら、翼へのダメージも軽くはない。しかも薄いカーテンを隔てた向こうには、黒田の他に、ジュリと灯夜の色香にあてられた男がいる。


「…っ」


 また…、灯夜の苦しげな声が漏れた。震える自分の身体を抱き締め、必死に背の痛みに耐えている。その顔は彼を見慣れている葵にとっても誘惑そのものだった。


 灯夜のこの声を聞かせたくない。特に黒田には…。


 葵は、灯夜の熱い身体をぐっと引き寄せ、起こした灯夜の身体を自分の胸でささえた。少しでも楽になるよう背中をさすって痛みを逃してやる。


「く…っ」


 だが、灯夜は触れられるのも苦痛なのか、葵の手を払う。力が入らない腕で突っ張り、葵から距離をとろうと身体をひねった。

 

 たぶん無意識なのだろう…。しかし腕から逃れようとされた事により、葵の独占欲に火がつく。


 …誰であろうと、この立ち位置は渡しませんよ。


 この時の葵は、…きっと、灯夜の耐え難い色香に贖うすべを忘れてしまっていたのだと思う。


 葵は、灯夜の熱い息を漏らす唇を、自分の唇で塞いでいた。


 彼の唇は、手で触れた時よりずっと熱い…。とろけるような柔らかさで、上も下も完熟したマンゴーのよう。


 一度唇を重ねてしまうと、そのあとに膨らむ欲求は、留まる事などありえない。


 ホテルにつくまでの間、葵は灯夜が苦痛を漏らす度、その熱い息ごと自分の唇で塞いでいた。

 意識が朦朧もうろうとしている灯夜は、自分が何をされているのか気づいていないのかもしれない。固く閉じた瞼を震わせて、ただ必死に高熱と背中の痛みに耐えている。


 …身体が回復すれば、あなたは何も覚えてはいないのでしょう…。だが、それでいい。


 葵が唇を重ねると、少しだけ灯夜の身体の硬直が緩む。それだけが葵にとって救いだった。


 ジュリの運転する車がホテルにつく頃には、空は白み始め、雨も霧に変わり暁の光を待ちわびていた。

 あれ程荒れ狂っていた空は、払暁ふつぎょうと呼ぶに相応しい朝を迎えようとしている。闇は祓われ、太陽が照り渡るのを邪魔をしないようにと。


 そして葵と黒田の手でホテルの部屋へ運び込まれた灯夜は、扉が閉まった瞬間…。


 バサリ!! …と、部屋いっぱいに月光色の翼を開放した。広げた翼は、本人の意志とは違って、淡く発光している。しかし混濁を繰り返していた意識は、このあと完全に途切れてしまった。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る