第15話 アメリカン・ル・マン・シリーズのチャンピオン
再びエレベーターが降下を始めた事に気づいた岸は、インカムで車をメインエントランスに回すように伝えてから、大きく息を吐いた。
…やはり、早かったな。
手足が冷たく、心臓を打つ音が
何度も繰り返してきたはずの出迎えに、緊張しているのだろうか?
嵐がくる前触れのような焦りと、土臭い匂いが地面から競り上がってきている。岸は自らの身体に「落ち着け!」と、
きゅっ…と、白い手袋をはめなおし、エレベーターの中央に立つ。
よし…と、顔を引き締め、深く頭を下げるとエレベーターが到着するのを待った。
チン!
品の良い音とともに、エレベーターの扉がゆっくりと左右に開く。
「…待たせたか?」
開口一番、葵のイヤミが飛んできた。
一呼吸してから岸は、頭を上げる。
え?!
「…葵、よせ」
灯夜に制された葵は、それ以上は何も言わない。
葵の怒りはもっともで、潔く甘んじるつもりでいたが、灯夜まで捜索に動くと思っていなかった。
先月のパーティーの事件でうけた怪我は、まだ完全には完治していないはずでは…。
思わず「大丈夫ですか…?」と声をかけそうになり、迂闊に怪我の状態を喋るべきではないと改める。
「お出かけでございますか? 車をメインエントランスにご用意致しました」
接客モードで話出せば、にこやかな笑顔はドアマンのつとめ。黒いハットをかぶったその下のドアマンの顔は、常に笑顔を維持していなければならない。
岸は五人を先導して先程とは逆の動きでロビーを通り抜け、エントランスに飾られた装花の前を横切る。
すると藤宮グループの若き
赤く色づいた葉と、まだ若葉のような青々とした緑の葉のコントラストが美しいモミジが弾くように揺れる。竹の緑、黄色のユリ、珍しい真っ赤なカサブランカが絶妙な配置で飾られていた。
「…さっき帰って来た時も思ったが…、今日の花は美しいな」
帰るという言葉は、ホテルスタッフにとっては最高の褒め言葉。
だが…、まるで、出征に出る兵士が、もうここに帰れないのだと悟って、我が家に残す者への最後の賛辞か
「…恐れ入ります。今週の装花は、日本の美をイメージしたのだとフローリスト(花担当のスタッフ)から聞いております」
「そうか…。素晴らしい仕事ぶりだと伝えてくれ」
「…っ。はい。きっと…、彼等も喜ぶと思います」
岸は、手袋をはめた両手を強く握り、湧き上がる不安を押し込めた。
「彼等? 花係は男性もいるのかい?」
自分が着ているロングコートを脱ぎながら、黒田が明るい声で言う。
なぜ今から外に出るのにコートを脱ぎだすかと思いきや…、彼のコートは灯夜の肩にかけられた。
「…はい。当ホテルのフローリストは男性三人に女性一人です。花を扱う仕事が女性だというのは時代遅れですよ」
「おや? 岸くんは俺をオジサン扱いするの?」
「何をおっしゃいますやら…」
「まあ、確かにホテルの花となると、大きな装花になるからな。なるほど。キレイだ。だが…、見ろ? 灯夜の方が美しい…」
灯夜が黒田のコートに「女じゃないんだから、よせ…」と、押し返すも、黒田はその手を握って引き寄せ、再びコートを灯夜の肩にかける。
黒田の絶対に折れない態度に、諦めた灯夜が大人しく黒田のコートの中でため息をついた。
岸は、葵の不機嫌なオーラを、当然ながら気づいている。この男をホテル内に入れた事に申し訳ないと目礼しつつ、灯夜に目を送り、葵に「彼をお連れして良いのか…?」と、軽く唇だけ動かし読唇で尋ねてみる。
葵の首が微かに縦に動いたが、その後キツく睨まれた。
…これはあとで、葵に埋め合わせが必要だなぁ、と内心でため息をつく。
灯夜付きの葵には、仕事上は敬意を払って敬語を使う事もある岸だが、歳は同じ二十九。実は互いの意見を話しながら酒を交わす仲。
葵の灯夜に対する思いが、主従程度でないことを本人に気付かせたのは岸であった。
メインエントランスに出ると、先ほどまでの小雨が、本降りになっていた。気温もぐっと下がったようで、岸の着ている黒いドアマンコートが風を孕んでブワッと広がる。
風上に立ち、雨粒を背に受けながら五人を待っていた車へと促した。
ブラックカラーの八人乗りのワゴン。
ダークな輝きを放つ漆黒メッキのフロントグリルが、よりいっそう品格と存在感を高めたミッドナイトカラー。
「運転手は、私の姉が努めます」
「ジュリです」
岸と、雰囲気がよく似た美人。
「先月まで、アメリカの藤宮ラグジュアリーホテルで働いていました。ミスタートウヤ。Congratulations on your appointment as president.《社長就任おめでとうございます》」
運転席からジャンプするよう降りたった彼女は、岸よりも軽快さが伺えた。
「彼女は、昨年度のアメリカン・ル・マン・シリーズのチャンピオンです。車の運転技術は私の知っている限り、姉の右に出る者はいません。ご安心してご乗車下さい」
「ヒュ―――ゥ」
黒田付きの浅黒い肌の男が口笛を鳴らした。ジュリを知っているのだろう。
「この日本で、派手なカーアクションは起きないと願うがな」
黒田が灯夜の肩を抱くようワゴンに乗り込む。この場合、黒田が盾となって灯夜をガードしていると知っている葵も、黙って車に乗り込んだ。
「皆様のお帰りお待ちしております。どうぞお気をつけて」
一礼した岸は、車の扉をしめる。風がいっそう強まってきたようて岸のコートがバタバタとなびいた。
激しさを増した雨粒が、地面から跳ねている。
小魚が大型魚に追われ、海面に追い詰められて群れで跳ぶナブラとは、こんなような現象なのだろう…。
当に今、どちらが大型魚で、どちらが追い詰められている小魚なのだろうか。
灯夜達が乗った車が降りしきる雨の中、ホテルから出て、目視で見えなくなるまで、岸はその場を動くことはなかった。
「今、黒田支部長が桜お嬢様の捜索に出られました。社長と長篠もご一緒です…」
冷たい雨に打たれながら、岸がインカムを通しフロントに伝えた。フロントがすぐに藤宮本部へと連絡を入れるだろう。
「怪我人が出なければ良いが。…どうか、無事にお戻りになって下さい」
岸の祈りが、葵や灯夜に聞こえる事はない。だが、オープンのままになっていたインカムから、風と雨音に混ざってホテルスタッフの耳に届いていた…。
ミッドナイトカラーの葵達が乗ったワゴンは、首都高速を出て都心から離れて行く。
都心から少し離れて改めて見ると、高層ビル群のネオンがこれ程美しく見える物かと、不思議な気分になる。
「…まるで、光の海だな」
葵と同じように夜のネオンを振り返って見ていた灯夜が柔らかく呟やいた。
静かだった車内に、男達の緊張が溶け出す。
「あんたの事知ってるぜ」
一番後ろの座席から、浅黒い肌の男が、ハンドルを握るジュリに声をかけた。
「American Le Mans Series 通称:ALMS。北米各地を転戦して行われているスポーツカーレース。昨年の優勝者だって言ったがあんた三年連続優勝してるだろ?」
「イエス…」
「なんでそのことを言わないんだ? 自慢していいことだぜ!」
「私や、キミのように外国で生活している期間が長い者と、日本人が持つ感覚とでは考えが少し違うのだと、弟から聞いている」
「そうなのか?」
男は心底不思議そうな顔をするが、くだらない話をするなという雰囲気に飲まれ押し黙った。
「社長。あなたの事は、弟から良く聞かされています。弟は、あなたの事を『A man who can entrust everything to him.』と…」
ジュリがミラー越しに灯夜を見る。
「…そんなふうに言われるのは、慣れていなくて。申し訳ないが、普通に接してくれればいい」
「ふつう?」
「…全てを預けても良い男」
黒田がジュリの英語を直訳する。葵も灯夜を見た。
規則正しく車のワイパーが、右から左、左から右を繰り返し、その度に対向車のヘッドライトの明かりがにじむ。
車の屋根を打つ大粒の雨音と、ただ繰り返すワイパーの音に、なんの緊張感もうまれない。
だが…。
パ――――――!!!
ジュリがクラクションを押しながらブレーキを強く踏んだ。タイヤが左に滑る!
大型トレーラーのヘッドライトに車内が真昼のように照らされた。
正面から突っ込んでくる!!
葵は灯夜に覆いかぶさると揺さぶられる車の中、キツく灯夜の頭を抱き締めた。
「つかまって!!」
ジュリがハンドルを切りながら叫ぶ!
ガガガ―――!!!
キュルルルルルㇽ―――――…。
車の側面がガードレールに擦れ、激しく揺れる!
グワ〜ン!と、車が大きくS字を描いてスピンした。
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