命がけで守ると誓った天使が先に逝くのを許さない

高峠美那

第1話 美青年


「君に何もはない。もう…忘れていいんだ」


 暗がりの中、静かで優しげな青年の声が響く。

 ゆらり…と、真っ黒な塊だった影が揺らいだ。それは徐々に人形ひとがたに見えるものに変わる。女性であったであろう事は、影でもわかる長い髪と、細い手足。


 美しい青年のまなざしは、穏やかで全てを包み込むような温かさが感じられた。


 青年の口角が微かに上がる。影は力を抜いたように再び揺らいだ。

 まるで握手を求めるかのような、女性を抱きとめようとしているかのような、そんな仕草で青年の左手があがる。


 途端とたん、強い光が暗闇の中に放たれた。


 光は影を包み込むと、いっそう光を増して黄金色おうごんしょくの炎と化す。炎に包まれながら、影は眠りにつくよう身を委ねて彼の左手に吸い込まれるように消えていった。


 あとには、青年の手のひらの中に小さなアズキ色の小石が一つと、何事も無かったかのような暗闇。


 柔らかな温かい風だけが、高層ビルの間を駆け抜けていった。



「ふぅー」


 青年は大きなため息とともに、ビルの間から見える明かりを目指して歩き始める。重く感じる身体は、少し時間をかけすぎたからかもしれない。

 それでも、結果良しと気持ちは幾分軽い。


 目がくらむ…ネオンおび。道を行き交う人混みの喧騒。


 ガクリ…と、青年のひざから力が抜けるよう身体が傾むいた。


 マズイ…。 

 

 慌てて壁に手をつこうとしたが思ったよりも力が入らない。

 途端、彼の身体を両脇にするりと入った腕が支えた。


「まだ駄目です。もう少し頑張って」


「あ、あおいか?」


「はい…。もう少しで止めに入るところでしたよ。…霊力ちからの使いすぎです」


 確認しなくても、自分の身体を支えたのが、葵である事はわかっていたのだが、それでもつい言葉に出てしまった。

 攻めるような目つきとは裏腹に、葵の腕はひどく優しい。葵とは長い付き合いだがこの男は、いつもタイミングが良いな…。


「この先の道沿いに、車を回してあります」


「…ああ」


 なんとか葵の腕を借りて、身体に力を入れ直した時、風にのって甘い匂いが近づいて来た。二十代前半くらいの女性二人が、躊躇ためらいがちに話しかけてきたのだ。一人ではできないけど、二人なら…という心理だろう。


「あの、大丈夫ですか?」


 ほほを色づけた顔は、なんとも奥ゆかしい。いや、男に声をかけている時点で表現が違うのか?


「ご心配ありがとう。連れが少し酔ってしまったみたいでね。夜風にあたればすぐさめるから、気にしないで」


 葵の落ち着きある声は、すぐそばにいる人間に聞かせる声より幾分大きい。


 まわりを見渡せば、終電間近で急ぎ足のまばらな人通りが、そこだけ時間を忘れたように足を止めている。見惚れた眼差しを向けるのは、ほぼ女性だ。その他の何人かは好奇心だろう。意図して葵はこの場にいる人間すべてに聞かせるように言っていた。


 日本人にしては背が高くがっしりとした体格の葵は、女性には好印象だろう。だが今は群がるハエを追い払うような目で、周りを見渡す。

 もう少しうまく立ち回れば女はよりどりみどりで近づいてくるものを…、そんなふうに考えてしまうのはいつものことだ。


 何時だったか…葵に外見を褒めた事がある。

 すると流し目とタメ息をこちらに向け、げんなりと返された。


「あなたに言われても実感がわきませんね。あるじは、微笑一つで女性を失神させるほどの美しい御姿おすがたですから」


 なるほど……。ナルホド?


 一度目をつぶり身体の隅々の血を温めてから自身の力で前に一歩出た。意識して笑顔を作ると、そばにいた女からため息のような声が漏れる。


「あなた方のようなキレイで優しい女の人が、不用意に男に声をかけてはいけませんよ。それに、そろそろ急がないと終電に間に合いません。気をつけてお帰りを」


「……あ、はい」


 女性は夢心地のような顔から、ハッとして現実に戻るとそれでも名残惜しそうにその場を去った。


 実際最寄り駅の地下鉄は、これでもかって程ホームが遠い。たしか十二番目にできた地下鉄で、当初は十二号線というなんともお役所のやっつけ仕事でついた名前だった。改名されたからと言って、それが万能に受け入れられるとは限らないだろう。


 一人、二人と動き出せば、自然と目的を思い出したように時間の流れは動き出す。


「ふぅー」


 何とかこの場をやり過ごして再び身体から力を抜くと葵が身体を支え直した。 


「歩けますか?」 


 こくりと頷くが、正直もう声も出したくない。だが歩かなければ車までたどり着けないわけで、まさか葵に抱きかかえられたまま歩くわけにもいかず、なんとか足に力を入れる。


 葵にしてみれば、この状態の主を抱き上げて何が悪い…と思う。だが、彼ににらみつけられ拒否された。

 確かに、男がお姫様抱っこなどされて歩いていた日には、目立つ所かその日のネットで大炎上なのだろう…。


 だったら、その顔で無駄に笑顔を振りまくのはやめてほしいものだな…。


灯夜とうや様、結晶をお預かりします」


 葵の落とされた小声が少し尖っていても、この状態の灯夜には、気づかれはしない。

 彼が胸元に入れていたアズキ色の石を、葵の持っていた小さな木箱に収めた。


「つっ!」


 再び、葵の腕に灯夜の身体が傾く。

 灯夜の美しい顔が激痛に歪んだ。


 石を収めた事で責任は果たせた。ならば後は、帰るのみ…。だが、気が緩んだ灯夜の身体は限界にちかい。


「く……っ」


 奥歯を食いしばりなんとか痛みにあがなっているが、歩くための力はなさそうだ。


 葵は灯夜の腰をグイと引いた。彼の全体重を横から抱える。すると、灯夜の熱くて荒い息が直に伝わり、自分の中心が熱を持ち出すのを感じたが、あえて無視した。


 この程度の事で身体が反応するとは…、自分の中の欲に、いい加減あきれるな。


 葵自身も、大きく息をつき彼を支える腕に力を入れる。


 車までは…、ひどく遠く感じた。灯夜は、葵のスーツをシワになる程ぐっと握りしめ、痛みに耐えている。時々震える唇から漏れ出す、なんとも艶のある吐息。


 「も、う…っ」と、耐えかねたように震える手で葵の腕を掴んだ灯夜を、抱き上げて車に乗り込み、すぐにドアを閉める。葵の手指示で車は滑るように動き出した。


「くー…っ、 はぁっ!」


 バサッ!!


 瞬間、灯夜が痛みを解放した。驚く程の大きな音が車内に響く。

 だが、スモークが貼られた車が帰宅で行き交う人の視線に止まることはなかった。


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