第13話 守る者の誇り

 ホテル蒼月館そうげっかんから、灯夜と葵が自室のあるホテルに戻った頃には、空は夜の闇に染まり、冷たい小雨がパラパラと降り出していた。

 昼間は暖かいのに夜はすっかり冷えこむ。


「降り出したな…」


「ええ…」


 メインエントランスに車が寄せられると、ホテルスタッフのドアマンが一礼してから車のドアをあけた。


  彼の名は、きしという。ホテルの格によってドアマンの質が上がると言われるホテル業界で、藤宮グループのラグジュアリーホテルのドアマンを任されるのは最上級の名誉だろう。


 膝丈の黒いドアマンコートに、コートと同じく黒のドアマンハット。外国の顧客も多いホテルで、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、様々な言葉を流暢に使いこなす岸は、まさしくホテルの顔だ。


「桜が帰っていない?」


 その岸から、桜と左馬武が戻っていないと聞かされ、灯夜と葵は顔を見合わせた。


「二人が蒼月館を出てからどれくらい経つ?」


「おそらく三時間以上はたっているかと…」


「車は、うちの車を使っているんだよな?」

 

「ええ…」


 葵自身が車に乗り込む二人を見送ったのだ。それは間違いない。運転手も知った顔だった。


 灯夜が車を降りると、自然と葵が彼の後ろを歩き、岸が灯夜の少し前を歩く。


「…ケーキを買って帰るとは言ってたが、それにしては遅すぎだよな」


 当たり前のようにガードしながら歩く二人の間で、灯夜が唇に指を当てながら考えを巡らせる。何かを考える時に見せる灯夜の癖のようなものだろう。

 自然と小首が傾むき、長いまつ毛から見えるセピア色の瞳が無防備に瞬きを繰り返す。


 小綺麗に化粧を施した女が、運悪く絶世の美青年を見てしまい、ポカーンと、大きく口を開けて立ち尽くしてしまった。


 しかし灯夜が女に気づくはずもなく、彼の前を行く岸が、女から灯夜を隠すようホテルの扉を開けた。


 エントランスに飾られた和をイメージした装花が美しく出迎え、そこにふわりと外の風が、ロビー内に流れる。冷たいはずの外気が、灯夜がそこを歩くだけで熱っぽい視線の残像があとに残っていった。


 彼の歩きは、何でもない仕草なのに、舞台ダンサーのようで人の目を引く。

 それは…、まるで月光を浴びて蕾からゆっくりと花開く『月下美人』のようで、目の前で見れば見惚れてしまう。

 月下美人の花言葉は『艶やかな美人』。彼ほどその言葉が似合う男はいないだろう。


 夜風に揺らめく真っ白な花びらを見れば、振れてみたいと思うように、灯夜の色素の薄い髪は、指ですいた時の感触を知りたくて、触れずにはいられない…。

 ただただ、魅惑の色気を身体全体で放出している本人は、どこまで自覚があるのだろうか。


 後ろから葵のため息が聞こえたような気がした岸も、ため息の意味を理解でき、目礼で同意した。

 時折顧客に「ごゆっくりお過ごしください」と、にこやかな笑顔で会釈をしつつ、岸は一人一人の客の顔を確認している。フロントスタッフより、顧客の顔を覚えているのはドアマンとして優秀と言えよう。


 岸は歩きながらも、今現在解っている情報を小声で話だした。


「お二人が乗っていた車ですが…、位置が判明できません。途中で車を捨てたにしても、車に取り付けてある追跡装置から割り出せる筈です。それが出来ないという事は、運転手が故意に外した可能性があります…」


「スマホからのGPSは拾えないのか?」


「駄目です。電波をひろえませんし、壊されたか…、電源を切られているのか。二人の乗った車が蒼月館を出て、五分程は各箇所の監視カメラで追えたのですが…、その後はあらゆるカメラに追跡システムをかけましたがヒットしません」


 フロントの前を素通りしエレベーターに向かう。灯夜の姿を目にしたフロントスタッフやベルスタッフは、例え距離があっても、皆揃って頭を下げていた。


 VIP専用エレベーターが開くと、灯夜と葵を中に促し、岸は扉の中央で頭を下げる。


「後は上で、お話をお聞き下さい。灯夜様…、あなたが無事お帰り下さいまして安心いたしました。桜お嬢様の無事を祈っております」


 エレベーターの扉が静かに閉まる。完全に閉まる寸前、灯夜は『開』のボタンを押した。

 岸は、再び開いたエレベーターにピクリと肩を揺らしたが手を揃え頭を下げ続ける。


「岸…」


「はい」


 灯夜に呼ばれ、岸が頭を上げた。


「…しばらく、ここもの出入りが増えるかもしれない。ホテルを楽しまれるお客様には最高級のおもてなしを丁重に。その他の目的の客は決してホテルに入れるな」


「…おまかせ下さい」


「岸、おまえも、十分に気をつけてくれ」


「はい…」


 灯夜を見る岸の顔が、ほんの少し困ったように眉を寄せた。

 しかし再び扉が閉まりかかると、岸は腰をおり、一流ドアマンの丁寧なお辞儀で灯夜達を見送った。


 そのまま灯夜と葵を乗せたエレベーターは最上階へと直行する。流石は高級ホテルのエレベーターだけあって僅かな振動しか感じない。


「念のため聞くが…」


 密室のエレベーターで、灯夜が言いにくそうに葵に話かけた。


「なんですか?」


 葵は若干不機嫌な声で答えてしまい、素知らぬ素振りで冷静を保つ。


 実はあのパーティーの一件以来、葵は自分が冷静でいれる許容範囲が狭まっている気がしていた。


「…注意すべき事柄でしょうね」


「えっ? なに?」


 思いのほか、きょとんとした灯夜の顔。


「いいえ。何でもございません」 


 密かに息を吐いた葵に、灯夜は形の良い眉を寄せ怪訝な顔をしたが、無表情な葵に、何かを問うのは諦めたようで、話を続けた。


「桜と、左馬武の二人だが…。二人がプライベートの時間をどこか他のホテルで過ごしているという…可能性は考えられないか?」


「あぁ。なるほど。そうですね。桜サマ、お一人でしたら十分その可能性もありますが、一緒にいるのが彼女のボディガードの左馬武ですよ。彼に限って、このような時に、それはないかと思われます。たとえ…、そのような目的が本当にあったとしても…、律儀に連絡を入れてくる男でしょう」


「…そうだな」


『桜 様と二人で〇〇ホテルにおります。ことが済み次第、二時間程で戻ります』


 とかか…。


 葵も灯夜も同じ事を思い浮かべたようで、揃って苦い顔をした。


「二人の事はお気づきでしたか?」


「いや、今日、桜がケーキを買って帰りたいって言ってたから、左馬武と二人で食べたいのだろうと思って。…やっぱりそうなのか?」


「少なくとも桜サマは、そのように拝見します。…ショックですか?」


 葵はいたずらっぽく言ったのだが、灯夜は不思議そうに「いや」と答える。


「まったく…。あなたは、色恋沙汰には本当に鈍いですね。桜サマの初恋の相手は、あなたですよ」


「…そうだったのか? でも、子供の頃だろ?」


「まあ、そうですが…。とにかく、桜サマは好意を左馬武に持った所で、彼が、ガードする対象者である大切なお嬢様に、そのような感情を持てるかどうかは疑問ですね」

 

「命懸けで守る相手に、恋愛感情を持ったら厄介だからか?」


「いえ。そういう意味では…。ただ、命懸けで守るということは、自分の命を守って、同時に相手の命も守らなければなりません。それでないと、自分が死んだ後に相手を殺されているのでは、守ったとは言えませんから」


「…死んだら後の事なんてわからないだろ?」


「ええ。その通りですが、たとえ命をおとして守る事が出来たとしても、残された者に悲しみを与えるだけでしたら不本意ですよ」


「……」


「ですので、中途半端な感情では行動に移せません。守るべき相手を愛するのなら、それなりの…、本気の覚悟が必要なんです」


「…俺がおまえ達の事を、所詮、藤宮のコマの一部…と、思っていると考えはしないのか?」


「あなたが、そういうお人でしたら、とっくに藤宮は傾いているでしょう。今いる優秀なスタッフも存在しておりません…。皆、あなたの下で働ける事に誇りを持っているんですよ」


「…そうか」


 チン!


 エレベーターが最上階についた事を知らせた。

 葵は扉の前に立ち、灯夜をいつものように壁の隅に隠す。このホテル内での襲撃は考えにくいが念のための用心だった。


 エレベーターの扉はゆっくりと左右に開いた。


 


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