第32話 愛慾の底

 シャ…と、カーテンが動いた音に目を覚ますと、窓を覆うレースのカーテン越しに、朝の柔らかな光が寝室を明るく照らしていた。


 目を細めながら、ぼんやりと頭を上げ、どれくらい眠ったのだろうと、ベッドサイドの時計を見る。


 時刻は七時を回ったところ…。思ったよりしっかり眠れたようで、身体の疲れが取れていてホッとした。

 体力の低下は、霊力を使う時にどうしても影響してしまう。


 もしも悪鬼の襲撃に再び直面したら…、灯夜の最大限に引き出した霊力でなくては、命がけで守ってくれる仲間をも、危険にさらしてしまうだろう。


 このぶんならいつも通りに力を使いこなせそうだな…。


 洗濯したての気持ちの良い寝間着と、シーツに再び灯夜の意識は微睡み始めた。


「…おはようございます。そろそろ起きれますか?」


 いるとわかっていた葵の声に「おはよう」と答えようとした灯夜が…ふと、固まる。


 葵が朝起こしに来るのも、身の回りの世話をやくのもいつもの事だ。


 だが、昨夜は自分でベッドに入った記憶がない。また葵に運ばせてしまったかと、昨夜の記憶を手繰り寄せ…、はっとなって自分の身体を確認した。


「……昨夜、身体は拭きましたが、風呂はどうされます? 湯をためますか?」


「―――っ!!」


 慌てて自分の寝間着の前を握る灯夜に、ニヤリと笑った葵が、ベッドの脇に腰を降ろす。子供の相手をするように、灯夜のおでこに手をあて熱がないか確認した。


「ああ。大丈夫そうですね。回復が早くて何よりです」


 いつもとかわらない…、いや、いつもよりも機嫌がよさそうな葵にホッと息を吐き出した灯夜は「風呂は?」と、覗き込む黒翡翠の瞳に見惚れながらも「入る」と頷いた。


 いつも通り……。それは灯夜にとってありがたかった。

 正直、昨夜の…葵は、いつもと違った。

 だが、爆弾未遂や新野と池田の繋がりなど、かなり色々な事件と情報が交錯し、身体が人肌を求めたのだろうと思う。


 そう、人間は生死の危険を味わうと、人肌を求める生き物だから…。


「……葵。あ…いや…、昨夜の事だけど…」


 風呂の準備をしようと立ち上がった葵は、ピクリと肩をゆらした。再度、灯夜の脇に座り、じっと灯夜を見つめる。


 戸惑いに揺れるセピア色の瞳が、葵だけを映していると知れれば、葵の身体はじんわりと熱を持ちはじめた。

 固くつぼんでいた蕾が、開花するよう…、柔らかくゆっくりと…、確実に。


「……っ」


 急に甘い雰囲気を醸し出した葵に、灯夜は息を詰めた。

 そんな自分にも驚き、しかし葵の最近イライラしていた様子と比べれば、随分ましなのだと、早鐘を打つ心臓の音を意識しないように大きく息を吸いこんでから、照れをかくし言葉を吐き出す。


「昨夜…は、その…、悪かたったなっ」


「? ……あなたが、謝らなくてはいけない事があったとは思えませんが?」


 何を言い出すのかと…、艶めいた黒い瞳が、用心深く細められた。


「俺だけ…、先に、満足して眠ってしまって……」


 必死に言葉を続けようと努力していた灯夜は、葵の肩が小刻みに震えているのに気づき慌てた。


 また、何か怒らせたか?


 が、次の瞬間、葵が勢いよく吹き出した。


「ぶ!! ――――くくくっ」


 こんなふうに笑う葵を初めて見た灯夜もびっくりして目を見開く。


 だが、自分の事を笑われたとわかれば、正当な怒りで返すのが礼儀だ。


「!! なんだよ?! 何がおかしい?!」


「くく…っ。いえ…、あまりにも可愛くて…」


「?! かわいい―――?!」


「満足していただけたなら…、良かったです」


 言われた内容に、怒りが吹っ飛ぶ。


「! ―――やっ。ちが…っ!」

 

「……違うんですか?」


 否定しようと慌てるが、葵にそんな顔をされては、何も言えない。

 実際灯夜の身体は満足したぶん、しっかりと睡眠がとれていた。


「…葵は、ちゃんと眠れたのか…?」


 随分幼い顔で見上げてくる灯夜に、葵は意地の悪い流し目をおくる。


「……あの状態の私を放ったらかして、先に眠ったくせに、眠れたかと聞くのですか?」


 ぱっと、灯夜の頬が赤く染まった。だが、ここで項垂れないのが、男と女の違いなのかもしれない。

 灯夜は、目尻を下げながらも「…悪かった」と、真剣な顔で見返してくる。


 葵は、柔らかく笑って灯夜の色素の薄い髪をすいた。


「冗談ですよ。…私もあなたの姿に満足できてよく眠れました」


 本当に昨夜は良く眠れたのだ。

 灯夜の男の手に慣れていない反応は、葵を満足させていた。


 どんな女も男も、魅入らせる絶世の美青年が、葵の手で導かれた欲を追う様子は…、葵の独占欲を充分満たした。

 それなのに、もっと…もっと…と、欲しがる己の愛慾あいよくに底がない事を知る。


「……覚悟して下さい。私は、もうあなたに遠慮はしませんよ……」

 

 改めて、自分が灯夜を求めているのだとわかれば、誰かの手に渡すつもりなど毛頭ない。


 放しませんよ…。ぜったいに…。


 葵は細く心地の良い髪が、指の間に抜けていく感触を気が済むまで味わった。


 耳もとで甘く囁かれた灯夜は、何を? とは聞かない。

 黙って葵の好きにさせてやる。


 灯夜にとって…、今は、それが答えてやれる精一杯の方法だった。



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