第32節 -変わる心と変わらぬ願い-

 時刻は午後1時を示す少し手前。今からおよそ30分ほど前、司教館へ来て欲しいというメッセージをロザリアから受け取ったフロリアンは、目的地を目指して歩いていた。


 全て終わったのだろうか。


 昨日までとはまるで違う風景。正午までの出来事がまるで遠い過去のように感じられる。目まぐるしく変わりゆく街並みを見渡しながらフロリアンはそんな思いを抱いていた。



 小康状態となったプリンツィパルマルクトのデモは、警官隊によって完全に鎮圧され、デモへ参加していた人々の大半はドイツ刑法典130条に定められる【民衆扇動罪】によって逮捕された。

 元々、この刑法を免れるために表面上を宗派対立に見せかけていたという性質を持つデモであったが、最終的には実際に訴えかけたい内容をあらゆる方面から看破されこの結末に至っている。

 その方面という中には、もちろん自分達が全教会に対して行った働きかけというものも含まれる。

 宗派を問わず教会を巡り、地道に言葉による対話での呼びかけをしたことが功を奏したのだ。


 故郷に戻ってきた日、4月20日にロザリアとアシスタシアと待ち合わせをした旧市庁舎を通り過ぎ、共にコーヒーを飲んだカフェを通り過ぎる。

 このまま聖パウルス大聖堂前の広場を抜ければ司教館だ。

 生まれてからずっと目にしてきた場所ではあるが、中に立ち入ったことは無く、足を踏み入れるのは実のところ今回が初めてとなる。


 定刻。午後1時に目的の場所へと辿り着く。

 周囲には誰もいない。格子状の立派な門は解放されているが、このまま敷地内に入っても良いのだろうか。

 特に呼び鈴のようなものは見当たらない。当然だろう。一度本人達へ連絡を入れた方が良いのか。

 大きな建物の前に立ち、しばらく迷っていると建物の正面玄関が開く音が聞こえた。

 彼女達に連絡を入れようとスマートデバイスへ視線を落としていたフロリアンは玄関へ目を向ける。

 すると、黒い修道服に身を包んだアシスタシアがゆっくりとこちらへと歩み寄ってきた。


 彼女を目にする度に思うことだが、今という瞬間においても、彼女はこの世界の者ではないかのような荘厳さと美しさを放っている。

 神秘的と形容すれば良いのだろうか。言葉では表現しづらい。

 とはいえ、厳密に言ってしまえば彼女は確かにこの世の者ではないのではあるが……それにしてもだ。

 元々、女性と接することに緊張感を抱いてしまう自分としては、言葉を交わすまでの瞬間はいつも鼓動が高鳴ってしまう。

 何を話せば良いのか、と。


 フロリアンの目の前まで歩み寄ったアシスタシアは言う。

「足を運んで頂きありがとうございます。中でロザリア様がお待ちです。どうぞ、こちらへ。」

 無表情。普段と何も変わらぬ事務的な対応。だからといって冷たいというわけではない。実に彼女らしい所作だ。

 この感覚にはすっかり慣れてしまったフロリアンは、微笑ましいという表情を浮かべる。

 それを見て、不思議そうな顔でアシスタシアは言う。

「何か、私に変わった所でもありましたか?」

「いや、この1週間に体験した出来事が終息したんだなと思うと、ほっとしてしまってね。それと、貴女と会話することにようやく慣れたなと。」

「はい。長きに渡る苦難は過ぎ去りました。加えて、良きことではありませんか。接し難い、などといつまでも思われていては、こちらとしても少々寂しいものがございます。」

 彼女の返事を聞いたフロリアンは思わず驚きの表情を浮かべてしまった。

 この物言いは明らかにいつもの彼女のものとは異なる。どちらかというと、ロザリアの物言いに近いという印象だ。

 僅か1週間足らず、もっといえば数日という短い期間ではあったが、彼女達と共に過ごすことでこんな些細な変化にも気付けるようになった自分自身への驚きもあった。

「まったくだね。あとは、その硬い言葉遣いが柔らかくなるのを聞いてみたいという希望もあるんだ。」

 冗談のつもりでフロリアンは言う。

 彼女のことだ。きっと天変地異が起ころうとも、言葉遣いなどの根の部分が変わることなどないはず……

 そう思った矢先のことである。

 

「そう、そうね。では、行きましょうか。フロリアン。」


 今まで見たこともない上品な笑みを湛え、彼女は優雅に言った。

 あまりの変貌ぶりに言葉を失い呆然とするフロリアンであったが、彼女はすぐさまいつもと同じ無表情となって言う。

「戯れにございます。では、参りましょう。」

 返事をする間もなく、彼女は振り返って屋敷へと歩いて行く。

 戯れ?冗談だって?彼女が?

「あ、あぁ。」

 フロリアンは言葉にならない返事を何とかひねり出して彼女の後に続いた。

 そんな冗談を彼女が言うのか。いや、これを冗談にしておくには些か惜しい。常にそうであってほしいとすら思う。その笑顔は、あらゆる宝石などよりよほど美しいのだから。

 だが、これはこれで良いのだろう。極稀にしか見せないからこそ価値がある。今はそう思うことにしておこう。



 フロリアンがそんなことを思う中、誰に気付かれることもない彼女の変化は確かにそこにあった。

 この時、振り返った後に彼女が浮かべていた表情を知る者はいない。

 常に傍らにあるロザリアでさえ。

 フロリアンの前を歩くアシスタシアの表情は、喜びに満ちたような清々しい微笑みが浮かべられていたのである。


                 * * *


 聖ランベルティ教会の尖塔付近。黄金色の文字盤のある時計のすぐ傍で、アンジェリカは腰を下ろしてミュンスターの街並みをぼうっと眺めていた。

 冷たい春の風。いつもと変わらない曇天。まるで今の彼女の心を映すかのような曇り空である。

 風が吹くたび、頭上の3つの鉄篭が軋む音が響く。だが、その音は彼女に耳には届かない。


 街の喧騒も、風の音も、鉄篭の軋みも耳には届かず、彼女はただ遠くを見つめて歌を歌う。


My men were clothed all in green,〈私の家臣たちは緑の衣に身を包み〉

And they did ever wait on thee;〈これまで貴女に仕えてきた〉

All this was gallant to be seen,〈その姿はとても勇ましいものだったが〉

And yet thou wouldst not love me.〈それでも貴女は私を愛してはくれない〉


 誰にも聞こえぬ歌を、悲哀を感じさせる旋律を、透き通る声でただ独りきり。


Greensleeves was all my joy〈グリーンスリーブス、貴女は私にとっての喜びだった〉

Greensleeves was my delight,〈グリーンスリーブス、貴女は私の楽しみだった〉

Greensleeves was my heart of gold,〈グリーンスリーブス、貴女は私の心の支えだった〉

And who but my lady greensleeves.〈私のグリーンスリーブス。貴女以外に誰がいるというのか〉



 残されたものは何もない。

 長きに渡る準備を要した計画は、今日という日に全て無に帰した。

 街を覆い包んでいた赤い霧も消し去り、ウェストファリアの亡霊は完全に沈黙した。

 自らの居城としていたヴィルヘルム大学へ近付く必要ももはやない。


 あぁ、そうだ。いつだってこうなのだ。

 自分の元に何かが残された試しなどない。


 アンジェリカは呟く。

「あなざーみぃ、でぃふぁれんとみぃ、あるたーえご、あんじぇりか。あんじぇりか。私は失敗したわ。あの2人にしてやられた。マリア、ロザリア……いいえ、それともう一人。悔しい、悔しい。あと、とても痛かったのよ。あの子、まったく容赦がないんだもの。」


 しばらくの無言。


「イベリスとアルビジア……お姫様が2人。光の王妃と眠りの妃。そして玲那斗か。大変だったのね。そう、貴女も失敗しちゃったか。私達、同じだわ。いつも同じ。うふふふ。」


 遠く遠い場所。もう1人の自分へと語り掛けた彼女は、確かに彼女の言葉を受け取ってそう言った。


「でも、次は成功させなきゃね。貴女と私で。いいえ、いいえ、絶対に成功するわ。全てはその為の余興。ハンガリー、ミクロネシア連邦、イングランド、ドイツ。この数年で色々と渡り歩いてきたけれど、やっと辿り着いた。私達はやっとスタート地点に立ち、そしてゴールしたに等しい。」


 アンジェリカは不敵な笑みを浮かべ、静かに微笑みながら破滅へと突き進む未来に想いを馳せる。

 難民問題、薬物問題、環境問題、宗教対立。それらに絡めた事件を通して得たものは多い。


 次なるは世界紛争。

 第三次世界大戦。

 滅びゆく世界に祝福を。


 目の前に広がって見えるのは炎の揺らめき。

 地平線の彼方を埋め尽くす戦火の輝き。

 こだまする歓声は兵士による絶望の叫び。


 来るべき日の光景を想像し、アンジェリカは声を漏らしながら笑う。

「うふふふふ、あはははは。楽しみね、楽しみね。鋼鉄の鳥は空を舞い、鋼鉄の魚が海を駆ける。彼方に眩い炎が輝き、人々は悲嘆の声で歓喜を謳う。」


 彼女の目が見つめるものはやがて訪れる未来の景色。

 アスターヒューの瞳が映し出すのはそう遠くない未来の景色。

 失敗に終わった18の秘蹟、数々の小さな事件。

 それらは真なる〈大きな惨禍〉への序章。



 不吉な予感を感じさせる笑い声だけを残した彼女は、一瞬でその場から姿を消し去っていた。


                 * * *


 アシスタシアに案内されるがままにフロリアンはとある部屋の前までやってきた。

 華美ではないが、優雅で上品な館内の廊下を歩くこと数分。どこの部屋とも変わらぬ扉が目の前にある。

 この部屋にロザリアがいるのだろうか。フロリアンがそう思うのとほぼ同時に、アシスタシアは扉をノックした。


「ロザリア様。彼をご案内しました。」

『どうぞ、お入りなさい。』


 主の許可を得てアシスタシアは扉を開けると、フロリアンに中に入るように手振りで促した。

 フロリアンはゆっくりと室内へと足を踏み入れる。24平米ほどの部屋でまず視界に入ったのは中央に置かれた長テーブルだった。気品のある白いクロスが敷かれたテーブルの上には湯気の立つ紅茶のポットと3人分のカップが用意されている。

 周囲は館内の廊下と変わらぬ素朴な造りとなっており、変わっているところといえば十字架や宗教絵画などのキリスト教由来の装飾品が数多く置かれていることくらいだ。


 フロリアンは部屋の奥へと目を向ける。

 そこには白いセーターとグレーのロングスカートという私服姿をまとった、黄金色のロングヘアの女性が窓の外を眺めながら佇んでいた。


 彼女はふわりと振り返り、フロリアンの方へ歩み寄って言う。

「ようこそおいでくださいました。積もる話もございますが、まずは気を落ち着かせてからにいたしましょう。どうぞ、席へお掛けくださいまし。」

 ロザリアはフロリアンへ言うと、自らは対面の位置に座する為に反対側へと回る。

「アシスタシアも案内ご苦労様。こちらへおいでなさい。」

「はい。」

 アシスタシアは部屋の扉を静かに閉め、ロザリアの元へと向かう。


「正午のメディア放送は見ていたよ。あれが計画の最後だったんだろう?」

 フロリアンは椅子へ腰を下ろしながらロザリアへ言った。

「おっしゃる通り。何もかも、全ては司教の言葉によって終わりを迎えました。貴方がここを訪れる時には、プリンツィパルマルクトの騒ぎも既に終息していたかと思います。」

 ロザリアは答えながらアシスタシアと共にフロリアンの対面に腰を下ろす。

「そうだね。人通りが戻るのはまだ少し先だろうけど、終わったんだなという感覚は感じられた。ただ、実感が湧かないんだ。」

「ただ眺めていたら終わった、ということで無理もありません。計画の終わりに自ら何を為したというわけでもありませんから。特殊な事例ということができるでしょう。」


 ロザリアは手元のティーポットからカップへゆったりとした上品な所作で紅茶を注ぐ。

 すると部屋の中にほのかな薔薇のような香りが広がった。甘美で豊かな香りだ。

 人数分の紅茶を注ぎ終えたロザリアは、フロリアンへとカップの受け皿とともに差し出す。


「ありがとう。良い香りだね。」

「心落ち着く香りです。わたくしの好きな茶葉なのですけれど、貴方のよく知る人物からの差し入れで頂きましたわ。」

「僕が?」

「はい。マリアからの贈り物です。」


 フロリアンははっとして紅茶に視線を落とした。

 そしてハンガリーでニルギリという茶葉を用いた紅茶を優雅に楽しんでいた彼女の表情を思い出す。


「とても分かりやすいその表情。やはり、彼女のことになると嬉しそうなお顔をなさいますのね?」

 口元を手で覆いながらロザリアは微笑む。

「え?あぁ、何年か前のことを思い出したんだ。ちょうど貴女と初めて会った時期のことだ。」

「ハンガリーでの出来事ですわね。よく覚えていますわ。わたくしを忌避されるような眼差しで見られていたことも、遠き日の思い出というものですわね。」

「忘れてくれないか。今はもう違う。」フロリアンも笑いながら言う。


 静かで穏やかな時間。

 香り立つ紅茶を3人で囲み、外から差し込む大気の光が淡いながらも春の訪れを予感させている。

 時計の針の音だけが響くような空間の中で、全てを成し遂げた一行の憩いの時間は始まる。


「そうそう、お茶の共には甘味が必要ですわね。」

 ロザリアはそう言って右手をぱちんと弾く。するとどこからともなく女性使用人の格好をした人物が現れた。

 フロリアンが驚いた表情をするのを見てロザリアが言う。

「驚かせてしまい申し訳ありません。僅かばかりの怠惰をお見逃し頂ければ。」

 女性使用人の姿をした人物は彼女が瞬間的に生み出した人形であった。知らなければ普通の人間だと錯覚するほど精巧につくられている。

 人形は配膳用カートを押しながらフロリアンの傍まで近付くと特に言葉を発することもなくデザートの乗せられた皿をテーブルへと置いた。

「ザッハトルテ。お好きですか?」

 目の前に差し出されたデザートはドイツ名物のチョコレートケーキだ。非常に濃厚なチョコレートの味わいが奥深い逸品である。

「もちろん。故郷に帰ってきたという気分になるね。」フロリアンはロザリアの問いに間髪いれずに応える。

「それは良かった。こちらはわたくしからの差し入れです。ちなみに、アシスタシアの好物でもあります。」

 フロリアンはアシスタシアに目を向ける。そこにはいつもと変わらぬ無表情ながらも、眼差しだけは確かに輝かせた彼女の姿があった。

 さりげなく自身の好物だと曝露されたアシスタシアはロザリアに言う。

「ロザリア様、唐突に何を……」

「良いではありませんか。こうした機会が今後訪れるかどうかもわからないのです。もう少し、互いのことをお話しておきたいと思いませんか?」

「それは、一理ありますが。」

 ロザリアは人差し指を下唇に当てて、茶目っ気たっぷりにアシスタシアへ目配せをした。

 人形が3人にケーキの配膳を終えたところでロザリアが言う。

「どうぞ、召し上がってくださいまし。ささやかな祝勝会、と参りましょう。」


 彼女の合図で3人はケーキと紅茶に手をつける。

 フロリアンは甘く濃厚なケーキと豊かで香り高くコク深い紅茶を堪能しながら視線をアシスタシアへと今一度向ける。

 そこにはやはり幸せそうな笑みを浮かべながらケーキを堪能する彼女の姿がある。


 そういう表情もするんだな。


 心の中で思う。

 実際にはそれほど表情が変化しているというわけではない。知らぬ者からみれば間違いなく無表情であろう。

 しかし、この1週間を共に過ごしてきた今の自分には分かる。

 あの表情は、彼女が幸せを噛み締めている時の表情だ。


 そんなことを思っていると、ふとロザリアが言う。

「ここへ貴方様を呼び寄せたのは事件に関する経過の最終的な報告をする為でもあります。優雅なお茶の時間にはふさわしくない話題となりますが、お聞きいただければ幸いにございます。」

 彼女は紅茶を一口飲み、カップを受け皿に置いて続ける。


「ミュンスター騒乱、或いはミュンスター暴動と呼ばれる事件は本日の正午に行われたエルスハイマー司教の演説により全てが終焉を迎えました。アンジェリカの野望、計略は尽き、事件に深く関わりを見せていた赤い霧の存在も綺麗さっぱりと消失しています。


 貴方様がこの地へ訪れた第一目標であったウェストファリアの亡霊も完全に存在を消し、わたくし達の感覚においても痕跡の確認はとれなくなりました。


 プリンツィパルマルクトから聖パウルス大聖堂近辺で勢いを強めていたネオナチ親派のグループは警察により民衆扇動罪で逮捕。

 各宗派においては事前活動が功を奏し、最終的に事件へ関与をする者は1人もいなかったようです。

 事件の発端となり、間接的にでも事件に関与してしまったことから自責の念を抱くヴィルヘルム大学の学生たちについては心理カウンセリングや必要な対応が施されるとのこと。


 簡単にではありますが、お伝えできる報告は以上となりますわ。」


 フロリアンも紅茶を一口飲み、同じように受け皿において言う。

「本当に終わったんだね。息をつく暇もない日々であったかと思えば、最後は何もせずに事件が終結しているだなんて、不思議な気分だ。」

「貴方様の協力があればこそ、ですわ。機構の持つ先進技術も去ることながら、何より貴方という存在があったからこそ得られた完璧な結果であるとわたくしは思っています。」

「僕が力になれたことなんてあったのかな?」

 首を横に振りながらフロリアンが言うと、アシスタシアが言った。

「アンジェリカの対応に関する一連の出来事については、貴方の行動がなければどのような結末を辿っていたかわかりません。彼女の目を完璧に我らへ引きつけ、尚且つある程度まで動きを封じることも成功していた。その功績は偉大だと言って過言ではありません。」

「まったくもって、アシスタシアの言う通りですわ。あの子の意識を別の考えに向け続け、こちらの動きを深く考察させる時間を取らせなかったという事実だけでも大したものです。意外なところで、あの子の本心というものを聞くこともできましたから。」


 アシスタシアに続いて言ったロザリアの言葉について、フロリアンは常々考えていたことを言った。

「ロザリア、そのことなんだけど。」

「アンジェリカのことについてですか?」

「いや、貴女についてのことだ。」

「わたくしの?」

 思っても見なかったという表情を浮かべてロザリアが言う。

「僕は、ぜひとも貴女の本心というものが聞いてみたかった。ここで過ごしたおおよそ1週間、結局最後まで貴女自身の心の在り方だけは視えなかった。」

「知ったとて、あまり意味を成さぬものですわ。」

 ロザリアはケーキを口に運びながら言う。自分自身のことにまるで興味が無いという風に。

「ここで持ち出して良い話かどうかわからないけど、僕のチームにいる彼の話を少ししましょう。」

 フロリアンが言うと、ロザリアの眉がぴくりと僅かに反応を見せた

「ルーカス・アメルハウザー三等准尉。ミクロネシアで貴女も直接話をした彼についてです。」

「彼が何だというのです?」上品に咳ばらいをしながらロザリアは言った。

「貴方に対して、彼がどうしてあのように突っかかった態度をとるのか、僕には心当たりがある。それが、先程お話した“貴方自身の心の在り方”というものです。」

 ロザリアはケーキを食べる手も紅茶を飲む手も止め、フロリアンへ視線を向ける。

 何か気になることでもあるのだろうか。アシスタシアもそれとなくロザリアへ視線を向けて話の行方を静かに見守っているようだ。

 ようやく目を向けてくれたロザリアへフロリアンは話を続ける。


「貴女は先日、文明の利器は素晴らしいと言った。僕もそう思う。けれど、一つ過信してはいけないことがある。近代に入って人々の生活に深く入り込むことになったAIという存在について、准尉は大きな懸念を持っている。彼は常々口にしているんです、AIというのは“結局人間の都合の良いように、言わされる答えを決められた存在だ”と。


 昔、彼はドイツの一般企業でAI研究の第一人者として働いていた。来る日も来る日もAIと向き合い続ける日々のことを僕に色々話してくれたことがある。その中でふと准尉が漏らした言葉があるんだ。


“求められる答えを、都合の良い答えを返すだけの機械を作って何の意味があるのか”


 いつもは陽気でひょうひょうとした准尉が、その時ばかりは真剣な表情で思い詰めたように言った。過去によほど思うことがあったんだと思う。」


 フロリアンがそこまで言った時、ロザリアはそれが何のことを指しているのかしっかりと把握した様子であった。

“まるで同じ”なのだと。


「僕の憶測だけど、准尉は貴女のことが苦手だとか、嫌いなわけでは決してないと思う。差し出がましいようだけど、決して本心を明かさず、求められる答えだけを他者に与え続ける貴女の生き方に思うことがあったのではないかと、ね。だから、僕も個人的に気になった。本当の貴女の心の在り方というものが。」

 静かに耳を傾けていたロザリアは悟ったような表情で言う。

「そうですか。それはまた。」

「いつか准尉ともう一度話をする機会があったら、その時は心で思ったことを伝えて見たら良い。そうすれば、彼は前とは違う接し方で貴女と話をするはずだよ。本当は、あの時の僕達の中で誰よりも貴女のことを気に掛けていたのは准尉なんじゃないかって今でも思う。」

 ロザリアは深い息をついて言う。

「万が一にでも、口を利くことがあればそのようにいたしましょう。」

 憎まれ口のように言った彼女の表情は、しかしとても穏やかなものであった。

 その様子を見て安心したフロリアンは大事なことを付け加える。

「ただし、僕がこの話を喋ったということは決して伝えないように。」

 ロザリアは微笑みを見せながら幾度か頷いてみせる。その後、再びフロリアンへ視線を戻して言った。

「良いお話をして頂いたお礼というわけでもありませんが、ひとつわたくしの承知している最新の情報をお伝えいたしましょう。そのお話にある彼も含めて、イングランドにいる貴方のチームは現在、セルフェイス財団に対する〈強制調査権〉を発動して事態の収拾にあたっています。」

「強制調査権だって?」


 フロリアンは眉をひそめた。

 世界各国と独自の協定を結ぶ機構だけが持ち得る最大の特権。各国に対する治外法権の一種。

 機構の強制調査権とは、必要だと認められた調査に対して、政府の許諾の元で当該国の法の制約を受けずに現地で活動できる権利を指す。

 それが発動されたという事実は、余程の事態が発生していることを示す。

「万能の化学薬品、自然を取り戻す奇跡の薬、〈CGP-637GG〉。その薬品の効能について、一般認知されているものとは大幅に乖離した重大な疑義があるとのことで、機構から英国政府を通じて発令されたようですわね。ただ、重要なのはそのこと自体ではなく、そちらに関してもあの子が深く関わっているという事実です。」

「アンジェリカが奇跡の薬品に?」

「いずれ詳しく知ることになるのでしょうから、ここでは詳細までは申し上げません。しかし、ミクロネシアでの一件や、此度のミュンスター暴動に関してもそうであったように、あの子は何かをひとつずつ確かめている節がある。もし、貴方が機構へ今回の報告を上げる際には、そのことも少しだけ気を配って見た方がよいかもしれません。それが近い将来の為になるやもしれませんから。」


 ロザリアの忠告にフロリアンは思考を巡らせる。

 アンジェリカが企んでいること。確かに彼女は、この世界の破壊が自身の望みであると言い切った。

 ひとつずつ何かを確認した先にあるもの。今までより規模の大きな事件。


「イベリスのことに始まり、機構はリナリアに関係する者の因果を避けることは出来ない。アンジェリカが何を計画しているかは分かりませんが、ことが起きた時、貴方がたは全員揃って事件に巻き込まれることになるでしょう。」

「ロザリア、どうして君がそんな話を?」

「なぜ知っているのか、という問いに関して積極的には答えられません。」

「そうか、わかった。チームの件については今夜辺り確認してみよう。それにしても頭の痛い話だ。僕としては、彼女が本当の意味で望むものを得たいと言ってくれさえすれば良いのだと思ったんだけど。」


 ロザリアがそうした情報をどこで入手しているのかは気にはなるが、あえて追及することでもないだろう。

 彼女には機密文書館というものがある。機構の情報の一部も集められるという世界に類を見ない歴史貯蔵庫。

 そうしたものを管理する中で、機構とも何かしらのパイプがあるのかもしれない。彼女のような特殊な立場であればあり得ない話でもないと考えた。


 フロリアンが考えを巡らし、黙り込んでいるとロザリアが言う。

「少し、話がしんみりとしてしまいましたわね。祝勝会と言っておきながら、何か趣の違う会になってしまいました。」

 彼女はそう言ってフロリアンへ手を伸ばす。お茶のお代わりはどうかという意味だろう。

「ありがとう、頂くよ。」

 受け皿ごと受け取ったロザリアはティーポットをゆっくりと傾け静かに紅茶をカップへと注いだ。


 そしてロザリアが紅茶で満たされたカップをフロリアンへ差し出したとき、珍しくアシスタシアが言った。

「フロリアン、差し支えなければで構いません。この地でお会いした初日に私達にしてくださったお話。もっと聞かせて頂けませんか?」

 初日の会話。コーヒーショップで話した旅の話のことに違いない。

 あの日、アシスタシアが目を輝かせた風に話に食いついてきたのは偶然ではなかったのだと、この時フロリアンは改めて感じ取った。

「もちろん。次はどこの話をしよう。」



 2人のやり取りを傍で眺めていたロザリアは穏やかに笑う。

 アシスタシアが会話に気を取られ、気付かない間に紅茶のお代わりを注ぐ。

 この先、どんな困難な出来事があったとしても、2人が互いに交わしているような会話が平和に出来る日々が続きますよう。


 千年前に心の中だけで祈ったこと。


 不安、孤独、恐怖、苦悩。私はそれらを遠い過去に捨ててきた。

 秩序、信仰、解放、救済。私はそれらを尊び現代を生きている。


 誰にも明かさぬ本心は今も胸に秘めたまま。

 不可視の薔薇と呼ばれるこの身が、いつしか忌憚なく誰かに本音を伝えることが出来る日がくることを……そうした日々が真なる意味で訪れることを、ただ願う。



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