第33節 -止められぬ運命-

『昨日までプリンツィパルマルクトで続いていたデモによる混乱はエルスハイマー氏の呼び掛けにより終息を見せ、現在は落ち着きを取り戻しています。

 ただ、昨日正午にメディア放送にて演説を最後に消息を絶ったエルスハイマー氏の行方は依然として掴めておらず、現在も警察による捜査活動が進められています。


 落ち着きを取り戻した街ではありますが、事件によって心身に影響を受けた人々のカウンセリング治療などは始められたばかりで、全ての人が元の生活に戻るまではしばらくの時間がかかりそうです。

 尚、各病院での患者受付体制の状況は、それぞれの病院のホームページから確認出来るということです。


 続いては、事件解決を受けて発表されたヴァチカン教皇庁の談話です。

 ローマ教皇の……』


 手元で表示したホログラムスクリーンを閉じ、マリアはふっと溜息をついた。

「ジャック・カロの作品〈大きな惨禍〉における15作品目。そのタイトルは〈病院〉だ。ねぇ?ロザリー、君はどう思う。」

「まさか、終息後の治療体制の構築にまであの子が気を回しているとは思えません。考え過ぎでしょう。」

「だといいのだけれど。」


 4月25日 午前10時。

 聖パウルス大聖堂を視界に収めるカフェの一画にマリアとロザリアの2人の姿があった。

 事件解決が無事達成されたことで、たまには2人でお茶の時間でもとらないかというマリアからの誘いにロザリアが応じたものである。


 カフェのオープンテラスの隅で、ひと際目を惹く美しい2人の姿は付近を通りがかる人々の視線を集めていた。

 特に、大学へ通うために付近を通りがかる男子学生たちの眼差しはひと際熱い。

 2人のうち、どちらかが軽く視線を向けただけで相手が舞い上がってしまうほどに。

 とはいえ、マリアもロザリアもそのような視線に気付いていながらも、特に気に掛けることはなく淡々とした会話のやりとりを続けていた。


 先にマリアが話した内容は他でもない。

 ウェストファリアの亡霊が及ぼした、心理的影響による被害を受けた人々のサポートを各病院が行うと発表したことが、アンジェリカの計略のひとつではないかという疑念についてだ。

 ただ、本人が赤い霧を含めて全ての仕掛けを撤収している以上、これが策のひとつであるという見方は深読みのし過ぎというものだろうという結論に至っている。


 曇り空ばかりが続く欧州の地には珍しい、優しい太陽の光が空から降り注ぐ。

 特に、一段と冷え込みが強かった今年の春は、事件の終わりと同時にようやく〈らしさ〉を醸し出したと言えるかもしれない。

 肌寒さこそ残るものの、やっと訪れた春の空気を吸いながら、2人は淹れたてのコーヒーの味を堪能する。


 温かなコーヒーから立ち昇る湯気を見やりながらマリアが言う。

「そういえば、こうして君と2人きりで腰を落ち着けて会話をするのは随分と久方振りだね。」周囲に会話の内容が聞き取られないよう、敢えてリナリア公国で使用されていた古語でマリアは言った。

「まだ数年ではありませんの?」彼女の意図に応えるようにロザリアも同じようにして返事をする。

「そうだったかな?そうだった気もする。」

 コーヒーカップの縁を指でなぞるマリアを見てロザリアは言う。

「マリー、貴女も随分と変わりましたわね。やはり、彼の影響でしょうか。」

「良い男だろう?私のものだ。」

「まぁ、これはこれは。貴女の口からそのような言葉を聞く日が訪れるとは感慨深い。加えて、意外と独占欲もありましたのね?何もせずとも、他者から慕われる貴女ですもの。そういう欲は控えめなものかと思っていましたわ。」

「千年越しの発見というやつかな?」

「話してみるものですわね。互いに分かり合う為には、それが一番良いと。」

「イベリスがそう言っていたのかい?」

 マリアはぼうっとした様子でコーヒーをじっと見つめた。ロザリアは、彼女がいつもと少し様子が違うことに気付きつつ、敢えて触れないように言う。

「さすがは勘の鋭い。えぇ、昨年ミクロネシアを訪れた際に。彼女も何も変わりないようで。ただ、彼への依存に関しては今の貴女と同じか……いいえ、逆ですわね。貴女の彼に対する依存が、彼女に似ているのですわ。」

「王妃様には及ばないだろうさ。それはそれとして、彼女と再会した時に何を話そうか迷っているんだ。私の予感が正しければ、数か月以内に顔を合わせることになる。」

「思うことをありのままにお話すれば宜しいのでは?」

「それを君に言われると、なんだろうね。どうも腑に落ちない気分になる。」

 決して本心を明かさぬ不可視の薔薇。そんな彼女から〈ありのままを語れば良い〉と言われ、マリアはロザリアに笑みを向けて言った。


「それはそれとして、貴女がご執心の彼について初めてお会いした時から感じるものはありましたが、実際に行動を共にしてみて確信したこともありますわ。」

「へぇ?例えばどんな?」

「その前に、ひとつ聞いておきたいことがありますの。」

 ロザリアの言葉を聞きながら、マリアはコーヒーを一口ほど飲む。

 柔らかな唇をカップに当て、深みを味わう様にじっくりと飲み下す。

 コーヒーの味を堪能すると、カップを置いて返事をする。

「ひとつと言わず、ふたつでもみっつでも聞くと良い。」

「では、遠慮なく。マリー、貴女は貴女の理想とする計画について、諦めるつもりはありませんの?」

 マリアは視線をロザリアに向け、瞳の奥を覗き込むように見据えてから言う。

「そのつもりはないよ。私は私が理想とするものを実現させる為にここまで来た。アザミを筆頭に、志を共にしてくれる仲間もいる。」

「では、あの子達3姉妹も全てを承知の上で貴女に寄り添っているのですね。」

「もちろん。他に、君の手引きによって私の元に来たアヤメとアイリスもそうだ。」

「そうですか。わたくしとしては、貴女がただ純粋にこの世界の秩序と安定の為に生命を全うするのであれば手出しは無用と考えておりましたが。」

 寂しそうな表情で言うロザリアを見て、マリアは意外だという風に言う。

「潰えぬ命に、どうやって終わりを与えようかと考え続けていた君らしくない言葉だね。不死殺しまで生み出しておきながら。その心変わりは誰かに感化されたのかい?」

「はい。確かに、数年前までのわたくしは貴女方をどのように葬るかを常に考えておりました。貴女がご執心の彼という存在すら、その為に利用価値があるとしか思っていなかったことも事実です。ですが彼と行動を共にした結果、気が変わった。つい数日前に頭に浮かんだ考えですわ。」

「なるほど、そういう。」

 先に言った〈確信したこと〉の内容を悟り、マリアは言った。


「それとマリー、彼は気付いています。貴女の出自について。今回の事件を通じて確信をもったことでしょう。彼にとって、あの夜アンジェリカが貴女の名前を出した時点で疑念は確定的となった。どうなさるおつもりですか?」

「君がそのことで私の心配をするだなんてね。アザミにも同じことを言われたよ。ただ、私は彼と出会って、親交を深めたその瞬間から常に覚悟を持って彼と接してきたんだ。いつ、彼が真実に気付いても良いようにと。しかし、イベリスという存在が近くにいながら、気付くのはむしろ遅かったくらいだ。」

「知ってしまえば、これまでと同じようには接することが出来なくなるかもしれない。今の貴女にとって、それはもっとも避けるべき事象ではありませんか。」

「不思議なものでね。僅かばかりだが可能性というものを信じてみたくなった。定められた未来を視て、決まりきった結末を手繰り寄せることしかしなかった私が、今さら可能性だなんて。そんな不確定な未来を信じることが嫌で、可能性を否定する為に抱いた理想を実現させようとしているというのに。」

「わたくしは憂いています。貴女は、貴女が為そうとしていることをすべきではない。彼と出会った時点で、世界に対する貴女の復讐は終わっているのですから。」

「復讐?違うね。私は迷いなくこの世界を変える。躊躇も未練も後悔もない。それに、アンジェリカと違って私は壊したいのではない。より良き未来というものを実現させたいだけさ。君だって分かるだろう?」

 ロザリアは軽く息を吐きながら言った。

「人の手によらない完全なる管理社会。その為なら罪を犯してもない人々を裁いても良いと。……ディストピアですわね。」

「反理想郷。いいや、私にとっては完璧なる理想郷だとも。人が変わらないのなら、人ではない者に統治させれば良い。話自体は単純なものだ。」

「人では無い者……」


 この時、ロザリアはフロリアンが言っていた話を思い出していた。

 直線的な科学の発展と共に成長を遂げた叡智〈AI〉。その進化の果てにあるもの。彼とチームを共にするルーカスという青年が垣間見た暗い現実。

 文明の利器が素晴らしいものであることを否定したくなるような未来。

 マリアの言う未来は、その予兆で溢れている。


 ロザリアの思考を遮るようにマリアは言った。

「彼に尋ねられれば素直に答えるさ。この後、デートの約束もあることだしね。」

 周囲の誰もが聞き取れるよう言語を変え、流ちょうなドイツ語を使って。

 対するロザリアは敢えて意図に応えず、イタリア語で言う。


「Le gioie più grandi vanno sempre divise con chi si ama.」(最も大きな喜びというものは、常に愛する者とわかちあうものだ。)


 マリアはきょとんとした表情でロザリアを見る。

 同意と皮肉と忠告。それらが織り交ぜられた彼女らしい言葉の選び方だ。

 言わんとしていることを理解したマリアは少女らしい笑みを浮かべながら言った。

「違いない。」


 穏やかな日差しがテラスに降り注ぐ。

 日の光を浴びて神々しく輝く二輪の花は、それからしばらくの間は他愛のない会話に興じた。

 互いに一人の友として。


                 * * *


『ねぇねぇ?ホルス……これ、全然変装になってないよ?逆に、目立ってないかな?』

 ブランダの不安そうなささやきが姉妹達の頭の中に響く。

『しーっ☆堂々としてれば大丈夫!』

『私はノーコメントで。』

 自信満々に答えるホルテンシスにシルベストリスは口をつぐむ。

「いえ、どう考えても怪しすぎます。」

 姉妹達のテレパシーによる会話を見透かしたかのようにアザミが言うと、ホルテンシスはやれやれと言ったジェスチャーを両手でしながら言った。

「それ、アザミが言っても説得力ないよー。目深帽子とか『私は不審者です』って言ってるようなものじゃん?」

「わたくしは良いのです。いざとなれば……」


 姿ごと消せるもんね。

 ホルテンシスは思いながら不満をあらわにするように膨れて見せた。


 今日のホルテンシスはピンク色のウサギ耳付きの上着に、左右で長さが非対称の黒いアシンメトリースカートを合わせ、さらにハート形のサングラスを装着するという、実に賑やかな服装をコーディネートしていた。

 彼女だけではない。ブランダもいつも通りのダメージ加工の入った青と黒のゴシックドレスをパンク風にアレンジした服を纏い、大きな丸いサングラスを着用している。 

 シルベストリスも同じようなもので、赤と黒の和装を改造したゴシックドレスを纏い、やはり大きな丸いサングラスを着用していた。

 普段であれば背丈の関係からも非常に目立つアザミの、ブラウスと上着、ロングスカートに目深帽子という組み合わせが一番地味に見えるほどである。

 マリアとロザリアがくつろぐカフェの隣に併設されているカフェのオープンテラスの隅に陣取る一団は、周囲を見回る警官に声を掛けられても文句は言えないほど明らかに異質な空気を放っている。


 尚、先程ブランダが〈変装〉だと言及したのはサングラスの部分に限定された話で、本人達からすると服装自体は非常に日常的なものという認識だ。


 アザミは何日か前に〈仮装大会〉だとロザリアに指摘されたことを思い出していた。

「見つけてくださいと言わんばかりだと思います。未だにあちらの2人がこちらに視線を向けないことが奇跡だというほどに。」

「気付かない振り、してくれてるのかな?マリア様。」

「きっとマリア様の頭の中は彼のことで一杯だからー★」

「ホルス、悪い顔をしているわ。」悪だくみをするような笑みを浮かべるホルテンシスにシルベストリスは言った。


 ブランダはサングラスをかけていることが落ち着かないという風に言う。

「こういう、サングラスって、昔の日本で〈パリピグラサン〉って呼ばれていたんだって。」

「パリピ?不思議な響き。」

 ホルテンシスは首を傾げながら言う。すると隣からすかさずシルベストリスが言った。

「party people」

「おぉ~なるなる☆ぱりぴぱりぴ。うん☆良い響き!確かにパーティに参加するときのアイテムとしては申し分ないね。そうだ、今度マリア様にもこれをかけてもらおう♡-♡」

【絶対にダメ!】

 ブランダとシルベストリスが息を合わせて言った。



 温かな日差しが注ぐ中、実にゆったりとした会話に興じる姉妹達の様子を微笑ましくも思いながら、アザミは視線をマリアから離さなかった。


 今自分達がこうしてこの場にいるのはただの思い付きによる行動だ。

 ロザリアとの会話を楽しむマリアが、この後フロリアンとの待ち合わせをしていると知った姉妹達が〈どうしても見届けたい〉と迫ってきたので、断り切れずに覗き見という名の偵察に付き合わされているのが実情である。

 当のマリアからは“姉妹達を頼む”とだけ申し付けられている。どこにも出掛けるなと言わない辺り、こういう事態になることを彼女は未来視しているのだろう。

 姉妹達のわがままに振り回されている感はあるが、アザミとしてもこれはこれで楽しいものだ。

 あわよくば、普段はお目にかかれないマリアの乙女顔を見られるかもしれない絶好の機会でもある。

 付き合わされているとはいえ、どちらかというと進んで協力していると言った方が良いだろう。

 そして何より……


「そろそろ移動しましょう。場所はアー湖。そこで待った方が良いかと。」


 これだ。アザミはシルベストリスの言葉を聞いて、自分が求める機会というものが訪れることを確信した。

 大天使の加護による近未来予測。このような使い方をすることが正しいのかどうかはさておき、彼女が言うからにはほぼほぼ確定された未来ということになる。

 似たような思いを抱いているのか、ホルテンシスもブランダも素直に賛成した。

「おーけー☆先回りしてお昼ご飯にしよう!近くに美味しいレストランがあったと思うんだよねー。」

「どんなお店?ホルスの美味しそうって見立ては、当たるよね。」

「ふっふっふー。私に任せなさい☆外さない自信、あるよ。」

 唐突にかっこいい声を出してホルテンシスは言う。

「はいはい、分かったから。早く行きましょう。マリア様とロザリアさんの視界に入らないように、そっとね。この状況で関係者だと思われたくないだろうし。」

 ブランダとホルテンシスの背を押しながらシルベストリスが言った。


 4人は誰よりも目立つ服装をしながら誰よりも気配を消して一斉に立ち上がり、決まったばかりの目的地へと向けて歩き出す。

 アザミに連れられて歩く姉妹達の姿は、母親に連れられて歩く仲の良い娘たちといった様相だ。

 そうしてマリアとフロリアンが過ごすひと時に興味を募らせながら、まずはお腹を満たす為にキーポイントと指定されたアー湖へと向かうのであった。


                 * * *


 正午、晴れ渡る空の元、アー湖を臨む牧草地をフロリアンは訪れていた。

 ヴェスターホルトシェ州立公園付近にある牧草地。目の前には巨大な3つの円形のモニュメントが堂々と置かれる。

 ジャイアントプールボールスと呼ばれる現代アート作品だ。巨大なビリヤード玉の名の通り、中央に境界線の入ったまん丸で大きな白い彫刻である。

 ミュンスターにはこうした現代アート作品が街中の至るところに展示されており、待ち合わせ時のランドマークに事欠くことがない。

 今日の待ち合わせはマリアからの誘いであった。昨夜、直接連絡を受けて一緒に昼食をとろうと約束したのだ。


 マリアから誘いの連絡を受ける少し前、実のところフロリアンはセントラルへ帰投する為の準備に取り掛かっていた。しかし、その予定はすぐに延期されることとなった。

 というのも、事件解決を受けて機構へ帰投の連絡を入れたところ、週末は故郷でゆっくり過ごしてから戻っても良いという連絡を受けたからである。

 まるで、事前にこのことを予期していたかのような流れ。以前から〈間が良い〉のはマリアの特徴のひとつだが、今回もその間の良さが発揮されたということだろう。


 外気温は20度。ぽかぽかとした陽気が春の訪れを告げている。

 彼女との待ち合わせで心が弾まなかったことはない。今この瞬間も、どうしようもないほどに彼女と会うことを楽しみにしている自分がいる。

 ただ、いつもとひとつ違うのは、やはり彼女の出自についてのある可能性について考えていることだ。

 数年前にハンガリーのブダペストで出会って以後、今に至るまで謎の多い人物ではあったが、今回の事件を通じてあるひとつの仮定に思い至った。

 ロザリア、アンジェリカといった人物と深い関わり合いを持つとなれば、示される答えは恐らくひとつ。

 彼女もリナリア公国という失われた亡国貴族の末裔、あるいは関係者なのではないかというものだ。


 イベリス、ロザリア、アイリス、アンジェリカといった人物達と出会ってきて話をしてきた中に、どうにも素性の掴めない人物が1人だけいたことは確かだ。

 イベリスが親友と呼び、アイリスがお姉様と慕った人物。ことあるごとに言葉を濁してきたロザリアの対応、直接マリアの名を持ち出したアンジェリカの言葉。

 数々の記憶を振り返りながら思う。


 もしかすると彼女は……


 フロリアンが悶々とした考えを巡らせていると、後ろから自分の名を呼ぶ無邪気な少女の声が聞こえてきた。

「フロリアン。」

 自身の鼓動が一気に高鳴るのを感じた。つい先程まで考えていたことがすぐに頭の片隅へと追いやられる。フロリアンは喜んで後ろを振り返り、彼女に最上の笑みを贈りながら言う。

「やぁ、マリー。」

 そこには、珍しく少し息を切らせたマリアの姿があった。ブロンドゴールドの緩やかなウェーブがかったミディアムヘアと宝石のような赤い瞳。普段と変わらぬ黒いゴシックドレスに身を包み、太陽の光を受けて眩しいほどの輝きと美しさを放つ少女。

 いつも傍に控えるアザミの姿は無く、1人でここまで来たようだ。

「すまない、待たせてしまったかな?」

「いいや、早く到着し過ぎてしまったのは僕だ。君に会うのが待ち遠しかったからね。」

「ふふ、嬉しいことを言ってくれる。」

「マリーはどうかな?」

「私に同じことを言わせようとしているのかい?」

 期待の眼差しを向けて言うフロリアンを焦らす様にマリアは言う。そしてふっと微笑みながら言った。

「もちろん、私も待ち遠しかったよ。」


 2人の笑顔がはじける。

 フロリアンにとっては陰鬱とした事件が解決した後の純粋な休暇とあって、何も気兼ねすることもない。

 最高の条件で迎えた彼女との約束。そして先の言葉はこれまで重ねてきた肉体的、精神的な疲れを一瞬で吹き飛ばすに十分過ぎるものであった。


「それじゃ、早速昼食にしようか。どこに行く?」

 嬉しそうな表情を浮かべるフロリアンから、少し目線を逸らしながらマリアは言う。

「あぁ、それなんだけど。実は、お昼を用意してみたんだ。サンドイッチ。」

 これはまた珍しく、もじもじと頬を赤らめながら言う彼女の手には確かにサンドイッチが収められていそうなバスケットが握られている。その手はぎゅっと力を込めて握られているようだ。

 彼女が手にぎゅっと力を込めて握るのは、何か不安なことを感じた時の癖だとフロリアンは知っている。自分がどういった反応を見せるのかが気になっているのだろう。

 とはいえ、マリアの不安感は間違いなく杞憂に終わる。フロリアンは爆発しそうな喜びを必死に耐えながら言う。

「作ってくれたのかい!?」

 目をきらきらとさせながら、身を乗り出す様にして言ったフロリアンに驚いたようにマリアは返事をする。

「あ、うん。良ければ、どうかなと思ってね。」

「嬉しい!もちろん頂くよ!」

 隠しきれていない嬉しさと興奮で目を輝かせるフロリアンを横目に、ようやくほっとした様子でマリアは小声で言った。

「良かった。」

 その後、満面の笑みを浮かべながら続ける。

「向こうに落ち着いて昼食がとれそうな場所があるんだ。行こう。」


 マリアはそう言うと、フロリアンに負けないほどの笑みを湛えたまま、ぱっと彼の手を取って引っ張っていくのであった。


                 * * *


「目標、〈びっぐぷーるぼーるす〉よりベンチに移動。これより昼食に入る模様。」

 静かなる闘志を秘めたような、僅かに声を震わせつつも棒読みで彼女は言う。

 ハート形のサングラスを頭部に上げ、手に持った双眼鏡で公園を見つめる怪しげな人物。

 周囲から見れば不審者以外の何者でもない。桃色髪をカントリー風の三つ編みに結った少女は悔しそうに続ける。

「マリア様の手作りランチ……?あぁぁん……そんな豪華なもの、私達ですら滅多に食べられないのにぃ!!」

「ちょっと、落ち着きなさい。ホルス!凄く目立ってるから!」

 駄々をこねる子供のように切なそうに嘆くホルテンシスの首根っこを引っ張りながらシルベストリスは言った。

「もう~、やっぱりどう見たって、不審者じゃん。」呆れた表情でブランダも言った。

 彼女達の様子を見ながらアザミは1人で笑いをこらえている。


 姉妹達とアザミは、マリア達が訪れている公園のすぐ傍にあるハンバーガーレストランの屋上で昼食をとっている真っ最中であった。

 シルベストリスの近未来予測に従って、アー湖周辺を一望できる場所で2人を張っていたのだ。

「ねぇアザミ!アザミはじっくり見てなくて良いの?マリア様のデート!」

 笑いをこらえつつもすまし顔をしたアザミにホルテンシスが食って掛かるが、アザミは普段と変わりなく冷静に返事をする。

「はい?あぁ、わたくしはわたくしの方法でしっかりと。前後左右上空と死角はありません。」

「良いなー、私も死角なく見たいー。あんなにもじもじとした乙女チックなマリア様、見たことがないよ……恐るべし、恋!」


 こちらもこちらで負けず劣らずの不審者だった。

 ブランダはアザミの何気ない言葉に溜息を洩らした。一連の自分達の行動が親愛なる彼女の邪魔になっていなければ良いと切に願う。


「はいはい。彼とマリーはしばらく動かないでしょうし、貴女達もじっくりと眺められるようにしますから。落ち着いて昼食にしましょう。」


 淑やかに言い切るが、これはこれで凄い言葉ではなかろうか。端的に言えば堂々と盗撮すると宣言したようなものである。

 ブランダは唯一良心で理性を保っていそうなシルベストリスに目を向ける。だがしかし、彼女も彼女でアザミが用意したスマートデバイスのホログラムモニターへの転送映像を、射るようにして目をくぎ付けにしている。

 ブランダはもはや内心で頭を抱えていた。


「ほらほら、ブランダも!見逃しちゃうよ!」

 真面目な顔をして興奮気味にホルテンシスが言う。太陽の光を受けて頭上で光るハート形のサングラスによって真剣さは台無しとなっているが、並々ならぬ本気度は伝わってくる。

 本音で言うと見たい。しかし、邪魔になってはならない。邪魔をしてはいけない。これは年に数回しかない彼女と彼の貴重な逢瀬なのだから。


 ブランダの心が葛藤を繰り広げる中、アザミがいう。

「わたくしの〈目〉が彼らの邪魔になることはないでしょう。それに……」

 耳元で囁くようにアザミは続けた。

「乙女心を発揮するマリーの姿が眺められる。このような機会、もう無いやもしれませんよ?」


 理性が壊れ崩れ去る音が響く。ブランダの葛藤も抵抗も虚しく、次の瞬間にはシルベストリスやホルテンシスに混ざってしっかりと公園で昼食を楽しむ2人の姿に釘付けになっていた。

「見て見て!マリア様のサンドイッチ、良いなぁ。」

「美味しそう☆お料理の腕前、やっぱり凄いよねぇ。ってか、パンに具材を挟むだけであんなに豪華になる?普通。」

「彩りも食べやすさも完璧です。」

「ってかさー、あのお二人。あの親密さで正式に交際してないって信じられる?」

「事実婚……違うね、事実、事実、何だろう?」

「尋ねられたことがないからおっしゃらないだけでは?」

「そうなのかなー。あっ、あのジャムサンド美味しそう♡」

 姉妹達は手元の分厚いパティが特徴のハンバーガーやチップ野菜サラダ、バジルとトマトのピザ、フライドポテトとベーコンの付け合わせなどを頬張りながらホログラムモニターを凝視する。

「ジャムはわたくしが作りました。」変わらず澄ました様子でアザミが言う。

「マリア様が隣で付きっきりだったんでしょ?実質マリア様の料……」

 フライドポテトにサワークリームをたっぷりと付けたものを頬張りながらホルテンシスが言うと、アザミは溜め息をつきながらモニターの映像を打ち切ろうとする仕草を見せる。

「凄いよね!色合いも綺麗だし、ジャム美味しそう!うんうん☆はぅ!」

 ばしっという音が響く。

 ホルテンシスは慌てて取り繕ったが、言うと同時にシルベストリスがホルテンシスの背中を強めにはたいたのだ。

 余計なことを言うな、という意味である。


 アザミは焼き立てのクロワッサンとオレンジジュースを楽しみつつ、目の前の姉妹達の様子を見てふっと微笑む。


 貴女達のそうした幸せそうな様子を見られるのであれば、マリーも怒りはしないでしょう。そして、きっと彼も。


 娘たちを見つめる母親のような表情を浮かべ、モニターに映るマリア達に一生懸命な姉妹達を見守った。


                 * * *


「っくしゅん!」

 マリアがとても可愛らしいくしゃみをする。

「寒いかい?陽が照っていても動かなければ少し冷えるね。」

「いや、大丈夫。きっと誰かさんたちがどこかで私の噂でもしているんだろう。例えばハンバーガーレストランの屋上とかでね。」

「ん?」

 この近くにそういったレストランは一か所しかない。フロリアンは視線だけをとある建物の屋上へと向ける。

 すると双眼鏡を構えてこちらを観察する桃色髪の怪しげな少女が、後ろからきたもう1人の少女に引っ張られて、丁度退場していく姿が見えた。

 見覚えのある姿だ。むしろ印象が強すぎて忘れようにも忘れられない。

「シルベストリス、ホルテンシス、ブランダ。彼女達かい?」

「まったく、すまないね。あの子達、私が君と一緒に出掛けると聞いた途端からそわそわしていたんだ。きっと奥にはアザミもいるだろうさ。」

「気にしないよ。」

「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ。あの子達の行動力には驚かされてばかりでね。」

「気になる気持ちもなんとなく分かる。彼女達、マリーのことが大好きなんだな。」

「あぁ、可愛い子達だ。」

 マリアはそう言ってとびきりの笑みを湛えた。そして持参したバスケットの蓋を開けて言う。

「さぁ、そろそろ食べようか。遠慮はいらないよ。好きなものをとってくれたまえ。」

 バスケットの中には色とりどりの具材が挟まったサンドイッチが並ぶ。

 たまご野菜サンド、チキンサンド、ツナマヨネーズサンドの他、デザート系のフルーツジャムサンドと付け合わせのポテトフライまで用意されている。

 サンドイッチは全て手に取りやすく、食べる際も崩れて食べづらくならないようにクッキングシートで綺麗に包まれており、細かいところまで彼女の気遣いが感じられる逸品だ。

「美味しそう!」

「口に合うと良いんだけど。」

「マリー、もしかして中の具材も全て手作りかい?」

「そうだよ。久しぶりに張り切ってしまった。フルーツジャムはアザミの手作りだ。」

「凄い。とても嬉しいよ。」

 フロリアンは彼女が作った特製サンドイッチを早速手に取って頬張り、幸せな笑みを浮かべる。

「美味しい。凄く美味しい。」それ以上に気の利いた言葉が浮かばなくなるほど幸福な味わいだ。本当に美味しいものを食べた時に無言になる感覚とはこういうことを言うのだろう。

「気に入ってくれて良かった。今日の具材はちょっぴり自信作なんだ。」

「チキンの味付けが絶妙だね。」

「東洋料理の味付けを真似したものだよ。」

「深くて優しい味がする。新鮮なんだけど、不思議と懐かしいような。」

「ふふ、まだまだあるからたくさん食べてくれたまえ。あと、そうそう。」

 マリアはカバンの中からおもむろに水筒を取り出して言う。

「温かい紅茶もあるんだ。」

 二人分のコップを取り出し、注いだものをフロリアンに手渡す。

「ありがとう。良い香りだね。この香りもなんだか懐かしい気がする。」

 淡い柑橘系のフルーティーな香り。この上品な香りには覚えがあった。

「ニルギリだよ。」

「ハンガリーのときの!」

「覚えていてくれて嬉しい。この紅茶はクセがないし、すっきりしているからね。そこのレモンを絞ってレモンティーにしても美味しいんだ。砂糖はお好みで。」

「じゃぁ、早速。」

 フロリアンは差し出された小瓶に入れられたカラフルな角砂糖を一つ溶かし、サンドイッチの傍に添えられた半月型のレモンを絞った。

 瞬間、爽やかなレモンの香りが漂い、さっぱりとした気分を感じさせた。フロリアンは紅茶を一口飲んで言う。

「素敵だ。凄く。」

「喜んでもらえて何よりだ。さて、私も頂こう。」

 マリアも手近にあったたまご野菜サンドを手に取って頬張る。



 ただ傍にいて、共に食事をとるだけで満たされる幸福感。長きに渡って味わったことのなかった幸せがここにはあった。

 ロザリアの言葉が頭の中に思い起こされる。


〈最も大きな喜びというものは、常に愛する者とわかちあうものだ。〉


 違いない。

 だが、それはきっと今だけの現実。

 これから自分が歩む道の先には、この幸福を奪い去る結末がきっと待ち受けているのだから。

 マリアは心の内で〈今だけの幸せ〉を噛み締めた。 


                 * * *


 誰もいないはずの聖パウルス大聖堂の高祭壇。

 事件後の司教失踪を受け、しばらくの間は閉鎖されるはずの空間に彼女の姿はあった。

 どこからも出入りできない鍵の掛けられた空間に侵入できた少女。

 勝利の十字架のたもとで、彼女の声は悲しい旋律を奏でる。


Thou couldst desire no earthly thing,〈貴女は世俗的なものを望むことはできない〉

but still thou hadst it readily.〈それなのに、貴女は容易くそれらを手にしてしまった〉

Thy music still to play and sing;〈貴女の音楽は今もまだ歌われ演奏されているが〉

And yet thou wouldst not love me.〈それでも貴女は私を愛してはくれない〉


Greensleeves was all my joy〈グリーンスリーブス、貴女は私にとっての喜びだった〉

Greensleeves was my delight,〈グリーンスリーブス、貴女は私の楽しみだった〉

Greensleeves was my heart of gold,〈グリーンスリーブス、貴女は私の心の支えだった〉

And who but my lady greensleeves.〈私のグリーンスリーブス。貴女以外に誰がいるというのか〉


 高祭壇へ向かう階段に力なく座り込み、虚ろな瞳で上方を見上げる。

 つい先日まで、この場所に訪れればそこにいたはずの司教の姿を思い浮かべ、彼と話した何気ないやり取りや日常を思い出していた。


 他者の命に感傷などしない。

 他者の命の重さなど知らない。

 愚者には罰を、裁きを。

 罪人に与えられるのは死という名の救済である。

 それが天命だ。それが天命なのだ。


 自分にとっての正義、自分にとっての正しさ、自分の存在意義。

 自身の半身と誓い合った理想、夢。

 世界全てが間違っていて、世界の全てが罪であるというのなら……


 罰を与えなければならない。裁きを与えなくてはならない。

 それこそが、愛。そのはずなのだ。



 その時、ぼうっとした頭で思いを巡らせる少女の耳に聞き慣れた足音が近付いてきた。

 ゆったりとした歩調。気味が悪いほど上品な足音の主は間違いなくあの人物だ。


「ごきげんよう、アンジェリカ。」

 名前を呼ぶ人物へ視線を向ける。黒い修道服に身を包む黄金色の髪をした女性。現実から浮いて見えるような青い瞳の持ち主。

 特に返事をせずにいると、彼女は目の前まで歩み寄って続けた。

「悪企みをしたことについて、赦しを乞いにいらっしゃったのかしら?」

「冗談じゃないわ。」

 相変わらず高飛車な物言いに気分を害されたアンジェリカはようやく一言だけ言い返した。

「それでは、どなたかに会いに?」

「いるわけないでしょう。」

「はい、そうですわね。なぜなら、彼はわたくしが殺したのですから。」


 殺した。


 彼女の言葉にアンジェリカは強い反応を示す。

「ようやく瞳に色が戻りましたわね。その美しい紫色の瞳。アスターヒューと呼ばれる色合いなのでしょう?貴女の姓にふさわしい色。輝きを失ったままというのも、実にもったいないことかと。」

「何が言いたいの?ロザリア。」

「山ほど。言いたいことを述べるのであれば今日という一日が終わっても言い終わらないでしょうね。」

「うへぇ、止めてよね。あんたと夜まで一緒だなんて想像したくもないわ。」

「まぁそう言わずに。狩りに来たわけではありませんの。少し気を楽にしてお話しましょう?アンジェリカ。」

 ロザリアはそう言って彼女の隣に腰を下ろした。アンジェリカもそれを受け入れながら言う。

「お話し?拳の語り合いでも始めるつもり?しばらく腐れ縁の連中との暴力は御免被りたいわ。例の神様と、マリアの連れに酷い目に遭わされたばかりなんだから。お腹も背中も貫かれて、腕を切り落とされて、挙句に顔まで潰されて。思い出すだけで痛くなってくるわ。」

「マリアの……あの子達が?貴女の怒りを目の前にして怯むことがないなどと、見かけによらず果敢でしたのね。それはそれとして、自業自得ではありませんか。考えもなく勢いよく突っ込むからそうなるのです。」

「見ていたような口ぶりじゃない。」

「声が聞こえたものですから。〈うわぁ、痛そう〉と。なんとなくですけれど、そうした言葉が出る時というのは勢いよく落下しただとか、何かにぶつかったという時ではありませんか?キャビネットに足の小指をぶつけた、だとか。」

「はいはい、私の受けた痛みは小指の痛み程度ってわけね。」

「あれは、とても痛いでしょう?」

「知らないわよ、あんたの痛みの基準と一緒にしないで頂戴。それに、あの神様相手じゃ捕縛も出来ないし、数を揃えるにもこっちが疲れるだけだし、飛び道具なんて使った日には真っすぐ打ち返されて私が針山になるのが関の山だもの。試したけど、正面から突っ込む以外にやりようがなかったのよ。そしたら足を引っかけられて、頭から落とされたってわけ。」

「まぁ、勢いよく突っ込んだというのは図星でしたのね?可哀そうに。考えを巡らせた末に辿り着いた答えが、お顔からの飛び込みであったなんて。」

 ロザリアが言った瞬間、指を弾く音が聖堂に響く。すると、どこからともなく現れた無数のアイスピックが超高速で彼女を目掛けて飛来した。

 だが、ロザリアは小さく息をつき、飛来する物体を目視するでもなく、自身の周囲に青い炎を出現させると軽くあしらう様にその全てを撃ち落としてみせた。

「戯れを。」呆れたような声でロザリアは言う。

 軽々と全ての投擲を薙ぎ払ったロザリアに対して、盛大な舌打ちを送りながらアンジェリカは言った。

「ほんっとうに腹立つわね、あんた。人を苛立たせることに才能を全振りしているとか、本当に聖職者なの?」

「さぁ、どうでしょうか。」

 返事を聞いたアンジェリカは脱力するようにがっくりとうなだれて言う。

「あのねぇ……その答えはダメでしょう。立場的に。」

「神を受け入れながらも、救いを信じようとしない不届き者。その在り方が正しく聖職者であると言えるのかどうか。」

「それも私の知ったことではないわ。面倒くさそうな話をするなら逃げるわよ?」

「お待ちを。」

 立ち上がろうとするアンジェリカの顔を覗き込むようにじっと見つめながらロザリアは言った。

 こうなっては逃げようもない。

 アンジェリカは深い溜め息をつきながら立ち上がることをやめて言う。

「まったく、ミクロネシアの時といい今回といい。人様が事に失敗した後になって現れては長々と話をするのはどうしてなのかしら。」

「こういった時でなければ、貴女は話を聞こうとしないでしょう?」

「はいはい、敗者に立つ瀬無しってね。分かったわよ。それで?何が聞きたいのかしら。」

 

「どうして、彼を殺さなかったのですか?」

 アンジェリカはしばし考えを巡らせるように押し黙る。そして軽く息を吐きながら言った。

「彼に直接伝えた話、聞いていなかったの?貴女達2人と厄介な神様、それに加えて黒い精霊までいる状況の中でどうやって手が出せるっていうのよ。神様もそうだけど、バーゲストも特別。ちょっとでも変な気配を出しただけで串刺しにされそうなほどのプレッシャーだったんだから。」

「何もあの夜のあの場に限った話ではありません。彼の言った通り、それ以外にも貴女にはいくらでも彼を殺す機会はあったはずです。」

「マリアの鬱陶しいお守りがあって近付けなかったし?」

「いいえ。遠目から見て、あの石の力はせいぜいが〈持ち主が忌避する相手〉に対して効果を発揮する程度の代物。故に、フロリアンが貴女と話をしたいと心に決めた時点で、貴女はいつでも彼に近付くことが出来、また直接その手で殺害することも容易くできたはず。」

「あら?そうなの。気付かなかったわね。」

「戯れを。わたくしは、貴女の本心を尋ねてみたいのです。」

 その言葉を聞いたアンジェリカは鼻で笑いながら言う。

「貴女が?貴女が私の本心を聞きたいですって?あはははははは!」

 声を上げて笑うアンジェリカは、ロザリアの目を見据えて続ける。

「不可視の薔薇。他者に決して本心を明かさない。そんな貴女が他人の本心を?傑作ね。」

 尚も肩を震わせながらアンジェリカは嗤った。彼女を横目にロザリアは言う。

「やはり、殺さなかったのではなく、〈殺せなかった〉のですね。」

「きゃはははは……は?」

 アンジェリカはロザリアを睨みつける。

「その表情、まさに図星を突かれたというところでしょうか。そしてその理由を自分自身で理解できていない。」

「何が言いたいの?」

「そうであるならば……貴女は、いえ。貴女たちはまだ引き返すことが出来ます。本当に大切なものを失う前に。」


 2人の間に静寂が訪れる。しばらくの無言を通した後、アンジェリカはすっと立ち上がって言った。

「話はそれだけかしら?」

 ロザリアの返事はない。

「そう。なら、もういいわね。」

 アンジェリカはゆっくりと歩き出す。聖堂内に無作法なヒールの音を響かせて、一歩一歩をしっかりと踏みしめるように。この先の道行きに対する決意を表すように。

 しかし、その途中でふと立ち止まって言う。

「ねぇ、ロザリア?貴女の本心って何?」

 視線を少しだけ後ろに向け、憐みを湛えるようにして続けた。

「それが言えないのなら、貴女は本当の意味でただのお人形さんよ。他者の望む答えしか返せない、憐れな存在。その紛い物の体と同じように、心の底に至るまで、そのものじゃないかしら。私達はね、人形の言葉なんて聞きたくないの。人形に明かすことのできる本心も無い。他人の心を気に掛ける前に、貴女は貴女自身と向き合うべきだと思うわ。」


 言葉を言い終えたアンジェリカはいつものように一瞬でその場から姿を消し去った。

 後に残されたものは赤紫色に輝く煙の如く流れる光の粒子。

 空から差し、ステンドグラスから注がれる陽の光がその粒子を煌めかせる。


 彼女の残り香ともいうべき粒子の煌めきを見ながらロザリアは言う。


「らしいことを、言うものではありませんわね。あの子にまで言われてしまうとは。」


 勝利の十字架のたもとに咲く、不可視の薔薇は穏やかな表情で囁いた。



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