第34節 -永遠の誓い-

 楽しい昼食のひと時を終えたフロリアンとマリアは、食後の閑談を楽しんでいた。

 毎年幾度か逢瀬を重ねて語らい合うこのひと時は互いにとって何より至福のひと時だ。2人の間に笑顔が絶えることはない。

 既に1時間はこうして言葉を交わしているだろうか。時計の針は午後1時をとうに過ぎ去っていた。


 憩いのひと時を満喫する最中、マリアが言う。

「そうだ、フロリアン。ボートに乗ろう。湖の上から景色を眺めてみたい。」

 彼女が指差す方角に目をフロリアンは目を向ける。そこには2人乗りのスワンボートが数多く並べられていた。

「良いね、行こうか。」

 フロリアンが返事をするや否や、すっと立ち上がったマリアは腕を引っ張って“早く行こう”と催促する。


 かれこれ何年にも渡って彼女と親交を深めているが、このような無邪気な姿を見せることは非常に珍しい。

 現実に対して、どこか冷めた目で俯瞰しながら物事を観察しているような彼女が、目の前にあるものにこれほどの眩しい笑顔を見せるだなんて。

 これまでも、美味しそうな食事や美しい芸術を眺める時の表情は今と同じような眩しいものではあったが、今日という日の笑みはそれとは少し違って見える。


 まるで、このひと時が終わってしまえば会えなくなってしまうというような……

 何か、心の内に考えていることがあるのではないか。考え過ぎだろうか。

 そう。焦っているように見えてしまうのだ。


 手を引き愛らしい小走りで駆ける彼女に連れられるがまま、ボートの船着場へと辿り着く。

 スタッフに乗船代金を支払い、あとは好きなボートを選んで乗り込むだけだ。

「どのボートが良いかな?同じに見えるけど、よく見れば白鳥の表情が違うんだね。」

「へぇ。昔は全部同じだったと思うんだけど、変わったんだ。」

 両親に連れられてきた時の記憶をフロリアンは思い返していた。当時は全てのボートで白鳥の表情も同じであったはずだ。

 今は、笑顔やすまし顔、少し切なそうな顔をしたボートや気合いとやる気に溢れた表情の白鳥など様々なバリエーションがある。

「私が決めて良いかい?」

「もちろん。」

「では、この子にしよう。」

 マリアが選んだのは、弾けるような笑顔をした白鳥のボートだった。今の彼女の表情を写し取ったようでもある。

「決まりだね。早速乗り込もう。」


 フロリアンが先に乗り込み、今度はマリアの手を取って乗船をサポートする。揃ってボートに乗り込んだら腰を下ろして出発準備だ。

 マリアの隣に腰を下ろすフロリアンは、想像以上に彼女と密着することにどぎまぎとしていた。

 いくら彼女が小柄であるとはいえ、大人2人が乗り込めばこのようなものだろうか。

 ただ、当のマリア本人はさして気にする様子もなく湖の向こう側へ行くことを楽しみにしている様子だ。

「さぁ、出発進行だ!しっかりと漕いでくれたまえよ。」

 無邪気な満面の笑みを浮かべながら彼女は言う。

 フロリアンは大きく息を吸って気合を入れる。大役である。そう、これはチャンスだ。男として少しでも良いところを見せる貴重な場面。

 機構のトレーニングで培われた筋力を存分に発揮しなければならない。

「よし、それじゃ向こう岸近くまで行こう。」

 気合十分に返事をしたフロリアンは足元のペダルにしっかりと足を付け、力を込めて漕ぎ始める。

 水の抵抗を受けて重たいペダルも、回転を繰り返すごとに徐々に勢いを増して漕ぎやすくなっていく。

「良い感じだ。少し迂回しながら向こうを目指そう。」

 フロリアンが言い、マリアは頷く。


 船着場から離れ、アー湖の湖面へと旅立った。

 樹々が茂る両岸の間に広がる水面。陽の光を受けて輝く湖面は穏やかで、雄大な自然の癒しを存分に与えてくれる。

 自分達の他にも幾艇ものボートが湖へと繰り出し、それぞれが思い思いに自然の景色を楽しみながら満喫している。

「今日は良い風だね。気持ち良い。」マリアが言う。

「ずっと曇り空だったからね。今日が晴れて良かった。」

「自然の中の景色。街中で生活していると、こういった風景が無性に恋しくなることがある。」

「同感だ。水面も穏やかで良い。透明感や水質はちょっと頂けないけども。それでも、昔より随分と綺麗になった。」

 過去を懐かしみながらフロリアンは言った。幼い頃、両親と同じように湖に繰り出した時、興味本位で湖の水を口にしようとして怒られた経験を思い出していた。

「自然再生の取り組みは世界中が一丸となって取り組んでいることだからね。少しずつ、あるべき姿に戻っていくと良い。」

「昔、幼い時に両親に連れて来てもらったことがあるんだ。その時、ここの水を口にしようとして叱られたよ。いつか、飲用できるくらいになるかな?」

「それはどうだろうね。なかなか難しそうな気がするけど。」

「まったく、同感だ。」


 2人は他愛のない話に花を咲かせながら、目的地と決めた辺りまで進めていく。

 フロリアンはゆらりゆらりとボートを漕ぎ進めながら周囲を見渡す。だが、やはり一番は隣に座る彼女の横顔だ。

 同じように周囲の景色を眺めるマリアの横顔。美しく愛らしい表情は自身の心をこれ以上ないほどの幸福感で満たしてくれる。

 そんな時、ふとマリアがフロリアンの方へ振り向き視線が合う。

 フロリアンが周りの風景ではなく、ずっと自身の横顔を眺めていたことに気付いたマリアは悪戯な笑みを浮かべて見せた。

 その後、マリアは視線を再び周囲の景色に向け直すが、そっとフロリアンへもたれかかるような姿勢を取って体を預けた。


 彼女からさわやかな柑橘系の甘い花のような香りが漂う。

 フロリアンの鼻孔を刺激するとても良いその香りは、彼の表情だけでなく身も心も溶かしそうなほどの幸福感を生み出していた。


 しばらくの間、会話のない時間が続く。

 だが、この瞬間にも互いが想っていることはきっと同じはずだ。


 こんな時間が、永遠に続けばいい。


 単純でありながら、とても難しい。

 されど、今このひと時だけは。



 2人の乗ったスワンボートが湖のちょうど中央付近まで辿り着いた時、フロリアンが言った。

「この辺りで良いかな。湖の中央だ。きっと。」

「ありがとう。そしてお疲れ様。」

「ここからは自動運転にしようか。外周をぐるりと回ってみよう。」

「良いね。」マリアは笑顔で同意した。


 時代の発展と共にこうしたレジャーアトラクションにも自動運転は普及していた。

 GPSと双方向通信ナビゲートシステムによる機能だ。好みの運行コースを決め、あとは全て機械にお任せという手軽さである。

 細かい航行規定の定められた海上と異なり、一般の人々が自由気ままに行き交うこうした場所では、ボート同士の衝突という大きな課題がこれまではあった。

 しかし、自動車にも一般的に搭載されるようになった自動運転技術の応用で、事前危険探知による障害物回避や運行速度調整、高性能AIなどがボートにもシステムとして搭載されたことでその課題は一気に克服されることとなる。

 先進技術の恩恵によって自動運転サービスが普及した後も、事故らしい事故は発生していない。

 今ではあるところまでは足で漕ぎ、その後はシステムにお任せで遊覧したり船着き場まで戻ったりというパターンは多くの人々が使用している楽しみ方のひとつだ。

 遊覧を楽しみたいが漕ぎ続ける体力に自信がないという人々にも人気のサービスである。


 フロリアンは自動運転の機能を選び、湖の外周を航行するコースを選んで決定する。速度はゆったりと。これからおおよそ20分ほどかけてのんびりとした遊覧コースを航行する。


 ボートが自動運転モードに切り替わって間もなく、フロリアンは聞くべきかどうかずっと迷っていたことをマリアへ切り出した。

「マリー、君に聞いてみたいことがあるんだ。」

 マリアはその言葉にふっと振り向き、わずかばかり息を呑むような表情を浮かべた後、すぐ笑顔となって言う。

「何だい?」

「君の故郷の話を聞いてみたいんだ。ミュンスターは僕の故郷で、今君と一緒に同じ景色を見ながら同じ景色について話をしている。だから、えっと。うまく言葉には出来ないんだけど、君の故郷の話を聞いて、その景色を想像して共有してみたいと思って。」

 話す間、ぼうっとした表情を浮かべていたマリアであったが、静かに頷きながら言う。

「良いとも。何から話したら良いか迷うけど。」

 マリアは視線を前に向け、遠くの一点を見つめるようにして話し始めた。


「私の故郷は大陸から離れたとある離れ小島でね。雄大で美しい自然が広がる良いところだった。


 丘に行けば潮の香る海風が吹き抜けて、草原に行けば色とりどりの花が咲き誇り、森へ向かえば木漏れ日が優しく注ぐ。現実というものを全て忘れて、自然の中に身を任せていられるような素敵な場所だったんだ。

 晴れた日に、夜になると満点の星空が煌めく。深い黒に近い青色のキャンバスに光を散らせたような、それは見事な星空だった。

 私には1人親友がいてね、たまに彼女と一緒に星空を眺めたりもした。今と同じように、他愛のない話に花を咲かせて、現実の嫌なことや苦しいことも全部忘れて。

 ただただ目の前に広がる景色を眺めながらお喋りに興じる。とても幸せな時間だったと思う。


 変わらない毎日というのは何よりも幸福でね。

 他に何もないところではあったけど、季節によって色合いと景色を変える美しい自然がすぐ傍にあって、気兼ねなく会話が出来る友人が傍にいるということだけで満足だった。」


 フロリアンは彼女の話に静かに耳を傾けた。そして、彼女の故郷がどこであるのかをはっきりと理解した。

 これまで、マリアはスイスのジュネーヴでずっと生活をしていると言っていた。これは嘘ではないが、彼女の根源を辿るという意味では少し違う。

 まず、スイスは大陸の一国であるし、そもそも海が存在しない。今、彼女が語っている故郷はまったくの別の国ということだ。

 そして、彼女の話す内容は身近に存在するある人物が話してくれたこととほとんど同じであった。

 イベリス。リナリア公国の姫君。亡国の新王妃。千年前に滅びた国家の、忘れ形見というべき魂の存在。

 彼女もまた同じ話をし、その話の中で〈1人の親友がいた〉と言っていた。その人物とはもしや……

 予感が頭を巡る。しかし、敢えて直接的にそのことを言及する気にはなれない。いや、したくはないのだ。

 ロザリアやアンジェリカとの関連性からももはや疑う余地などどこにもありはしない。

 それでも、自分は彼女を1人の人として想っていたい。そして、願わくばこの幸せな時間が長きに渡って続けば良い。そう思っている。


 フロリアンは彼女の横顔に目を向け、赤い瞳をじっと見つめながら話を聞いた。


                 * * *


「転舵、取ぉり舵20。ようそぉろ ♡-♡」

「ちょっと、少しは漕ぎなさいよ。」

 双眼鏡を携え、操船指示を繰り出すホルテンシスにシルベストリスが言った。2人の乗るスワンボートはマリアとフロリアンの乗ったボートの遥か後方で様子を窺っている。

「あぁ!マリア様が彼に身体を寄せてる!ずるい!」

「貸しなさい。」

 漕ぐのを止めてホルテンシスから双眼鏡を掠め取ったシルベストリスは前方の様子をじっと観察した。

「良いムードじゃない。でも少しじれったいかも。」

「ねー。もっとぐぃっと行くべし☆ぐぃっとぉ!」

 のらりくらりとペダルを漕ぎながらホルテンシスは言った。

「ホルスの言う通りにしたらロマンスは無くなりそうね。」

「勢いっていうのは大事だよ?襲い掛かるつもりでぐぁっと!ね♡」

「まるで野生の猛獣じゃない。マリア様はそんなことなさらないわよ。」

「分かってないなー、トリッシュ。恋の駆け引きは、待ちと攻めを使いこなさないといけないの。」

「あのお二人に至っては、既に駆け引きも終わって育む段階では?」

「そう言われるとそうなんだけどさ?未だに正式にお付き合いしてますっておっしゃらないのが不思議で不思議で仕方ないんだよねー。」

「そう簡単に言えない事情があるから、でしょ。マリア様が彼のことを大切に想っていらっしゃるからこそだと思うわ。」

「それもそうなんだけど。ちょっぴりじれったいって、やっぱり思う。」

 ホルテンシスは再び双眼鏡を構えて2人の様子を窺う。特に変わった様子はないが、どうやら人力で漕ぐのを止め、自動運転に切り替えるらしい。

「ふむふむ。白鳥のおしりに〈Auto〉の表示有りけり。自動運転に切り替えてゆったり遊覧ときましたか。」

「位置取りから察するに外周を回るんだと思う。かなりゆっくり回るみたいだけど、追いかけるならもう少し近付いていた方が良いわ。」

「ヤー!ホルスちゃんに任せなさい♡」

 双眼鏡を仕舞い、ホルテンシスはペダルに足を乗せていそいそと漕ぎ始めた。

 速度を上げて2人へ近付こうとする中、脳内にブランダの声が響く。


『トリッシュ、ホルス。右後ろに気を付けて。他の船が同じコースに近付いてる。』

 声の通りにホルテンシスが後ろに目を向けると、おしゃべりに夢中のカップルのスワンボートが確かに近付いてきていた。

 危険な距離というほどでもないし、衝突するようなコースでもないが念の為離れておいた方が良さそうだ。

『ダンケ!ありがとう、ブランダ☆』

 そしてホルテンシスは言う。

「取ぉり舵10。あと10m進んでちょい右に角度戻して♡-♡」

「分かってる分かってる。もうやってるから。」

 ブランダの助言を同じく聞いたシルベストリスはいち早く行動で応えていた。

「いよぉし。このまま真っすぐマリア様に近付こう☆よぉうそろ~♪」




 マリアとフロリアンがスワンボートで湖に繰り出したと見るや否や、同じように船着き場まで駆けつけてボートを漕ぎ出して行ったホルテンシスとシルベストリス。

 彼女達を見送ったブランダとアザミはすぐ近くのベンチに座ってくつろいでいた。

 ブランダの手にはアザミに買ってもらったジェラートがある。甘いアイスに舌鼓をうちながら、遥か遠くへと旅立った姉妹達とマリア達の2組の動きを見ているところだ。


「危険は回避しましたか。」

「トリッシュがいれば、事故は起きないと思うけど。念の為、ね。」

「はい。2人とも、マリーのことに夢中で気が付かないなどということがあってはなりませんから。身内のことで他の方にご迷惑をおかけするわけにはまいりません。」

「アザミってさ、そういうとこ、意外としっかりしてるよね?」

「ありがとうございます。意外とというところが気に掛かりますが。」

「マリア様とは、違った意味で、お母さんみたいって、たまに思うんだ。トリッシュとホルスもよく言ってる。」

 ブランダの言葉を聞き、アザミは彼女へ視線を向ける。

「私達は、生まれてから物心がついたときには、もうお母さんはいなかったから。本当のお母さんがどういう人なのか、まったく知らないけど。でもね、なんとなくだけど、そうかなって。」

「歳月が経つのは早いものですね。本当に年端もいかない貴女達を引き取ってから随分経ちました。」

「アザミやマリア様にとっては一瞬の時間でしょ?」

 ブランダはアザミの方を向き、にっこりと笑いながら言った。

「感覚だけで言うとそうでしょう。ただ、わたくしにとってはかけがえのない時間です。それはきっと、マリーにとっても同じこと。あの子は、貴女達のことを本当に大切に思っていますから。」

「改めて言われると、ちょっぴり照れるね。そういうお話、マリア様はあまりなさらないけど、大切にされてるって実感はすごくあるんだ。私達のわがままもよく聞いてもらえるし、今だって、2人の……特にホルスの、ねちねちした視線には気付いているはずなのに、それをお許しになっていらっしゃる。私達は、あの方の優しさに応えたい。」

「その言葉を聞けば、マリーは喜ぶでしょうね。」

「そうだといいな。うん。」

 再びアイスを口に運びながらブランダは笑顔を咲かせる。


 アザミは遠くにいるマリアとフロリアンへ視線を変える。

 きっと、今2人はとても大事な話をしている。おそらくはマリアの出自に直接関係のある話だ。

 気を使ってというわけではないが、自身の監視の目を近くに飛ばしてもいないので何を話しているのかは分からない。

 だが、2人なら大丈夫だろう。不思議とそう信じることが出来る。


 そんなことを思いながらアザミはふと思いついたことをブランダへ言う。

「そうだ、ブランダ。1枚写真を撮りましょう。」

「え?好きだね、アザミも。」

「ここにいた証というものは大切です。今の貴女の可愛らしい笑顔、マリアが見たらきっと喜びます。」

「そうかな。それじゃぁさ、アザミも一緒に写ろう?」

「私は、その。」

「ダメ。いつもそうやって、自分が写ることは避けるんだから。」

 ブランダはそう言うと、すぐ近くを通りがかった人に流ちょうなドイツ語で写真を1枚撮ってほしいと話しかけた。


 こういった役回りはいつもならホルテンシスがこなし、ブランダは離れたところで待っているのだが、今日は様子が違う。

 昨日の事件が終わった後から、少しだけ物事に積極的になったように見える。

 今も、ただ写真をお願いしているだけではなく、さりげない世間話に興じている。周囲から見れば珍しい恰好をしているからか、話が弾んでいるようだ。

 アザミは彼女の小さな成長を見て取って微笑む。この証に、写真に写ることも悪くはないかと考えを改めた。


 通行人へカメラを渡したブランダはアザミのすぐ傍に戻って腰掛ける。

「Bitte.」

 快く了承してくれた通行人の女性へブランダが言う。

 女性は笑顔で2人を見て、軽く手を振って合図をした。

「1.2.3. Käsekuchen!」

 撮影が終わり、女性からカメラを手渡されたブランダは言う。

「Vielen Dank.」

「Dafür nicht!」

 女性は笑顔で言葉を交わしその場を後にした。


 2人は早速写真を確認する。

 満面の笑みで写るブランダに対し、特にポーズも無く写るアザミ。対照的な2人の様子が非常にコミカルな写真に仕上がっている。

「なんだか面白いね!」

 ブランダが言う。

「えぇ。あとでトリッシュとホルスも交えて撮影しましょう。」


 アザミの言葉に、ブランダは勢いよく頷いた。


                 * * *


「どうだい?私の故郷の景色が想像出来たかな。」

「ありがとう。凄く良いところだね。」

 話を終えたマリアにフロリアンは言う。

「でも、どうして唐突に私の故郷の話だったんだい?」

 いつもと変わらない笑み。マリアの愛らしい表情を見ながら、フロリアンは思っていることを伝える。

「マリー、僕は今みたいな時間がずっと末永く続けば良いと思う。その為なら多分どんな決断だって厭わないって自分でも思うんだ。」

 真剣な表情をして話すフロリアンにマリアは言う。

「どうしたんだい?急に改まっ……」

 マリアがそこまで言うと、フロリアンは彼女の肩に手を回し自身へぐっと引き寄せて続けた。

「僕は怖いんだ。このまま、マリーが僕の手の届かない遠いところに行ってしまうんじゃないかって。今日も会ったときからそんなことばかり考えてしまう。君が、何かに焦っているように見えてしまってね。」

 男性の力強い腕で肩を寄せられるなど経験が無かったマリアは内心で驚いていた。それだけではなく、彼がこのようなことを実際にするとは夢にも思っていなかったからだ。

 そうして欲しかったから、最初に身体を預けたのは自分ではあるのだが、いざその通りになると酷く狼狽えてしまっている自分を内心で笑う。


 マリアの脳裏にロザリアの言葉が呼び起こされる。

『彼は気付いています。貴女の出自について。』

『貴女は、貴女が為そうとしていることをすべきではない。』


 自分がリナリア公国の生き残りであると彼は気付いている。

 自分が今後何かをしようとしていることにも気付いている。


 今の言葉は、そうした思いから出てきた言葉なのだろう。まったくもって彼らしくない行動の裏には、実に彼らしい冴えた直感と想いの強さが満ち溢れている。

 イベリスやロザリア、アイリスやアンジェリカと出会った彼からしてみれば、公国の出身者がただの普通の人間であるはずがないということはよく理解が及んでいるはずである。

 その中に、自分という人物が加わる。これがどういう意味を持つのか。彼の勘の良さをもってすれば想像に難くなかったに違いない。


「マリー、僕はあの時掴んだ君の手を絶対に離さない。約束する、だから……」

「分かった。分かったよ、フロリアン。大丈夫だから。」

 動揺しながら言うフロリアンをなだめるようにマリアは言った。

 そして彼が肩に回した手に自身の手を重ね、今までよりもっと身体の力を抜いてもたれかかり、彼に全身を預け委ねながら言う。

「今さら、ではあるが。私は君の気持ちに応えよう。これまでずっと、互いにそうした関係であるとはっきりと言わなかったからね。不安にさせてしまっていたのならすまない。」

 青空を見上げながらマリアは続ける。

「これで君と私は恋人同士だ。約束するよ。私は君の元から離れないとね。君に私が必要なように、私にとっては君が必要だ。」





 言った後、マリアはぼうっとしながら物思いに耽った。


〈私はただ、誰かに必要だと言って欲しかった。〉


 千年もの間、ずっとそう願っていた。

 この願いは2031年の暮れに叶えられることとなった。

 次に願ったのは、〈その幸せが永遠に続きますように〉ということであった。

 人間というのは強欲な生き物だ。最初の願いが叶えば、すぐに次の願いを持ち出す。

 神が呆れて手を差し伸べなくなるのも無理はない。〈神は人を助けない〉という彼女の言葉は正しい。

 だが、大いなる存在の手を借りずとも、この願いはきっともうすぐ新たなる時代の幕開けとと共に叶うことになる。


 自らが生み出す新時代の統治者の誕生によって。

 さらに、自分という存在が討たれなければ、だ。


 覚悟の決意である。

 少し先の未来で、たとえ自分が世界中から敵だと思われようとも、彼という存在が傍にあるのなら、きっと。

 自分にとって彼という存在が致命的な弱点になり得るのと同じく、彼という存在は何よりも強い守りとなる。


 七つの封印は解き放たれ、傾けられた七つの鉢から災厄が地に落ちる。

 燃え盛るメギドの丘で世界は終末へ向かい、新天地から人類は新たな門出を迎える。


 最後に理想を掴むのは、私だ。



 物思いに耽るマリアは意識を現実へと引き戻す。天へ向けた視線をフロリアンへ向け穏やかに微笑んで見せた。

 彼はその笑顔に安心した様子で、同じように笑みを返す。


 永遠に続けば良い。


 変わらない日常というものは、何よりも尊いものである。



 マリアは彼の手を離し、預けていた上体を起こすといつもの調子に戻って言う。

「フロリアン、次は私の言うことを聞いて欲しい。」

「もちろん、何だって聞くさ。」

「けれど、ロマンチックな話ではないんだ。後ろを見てご覧。」

 不思議そうな顔をしながらフロリアンは後ろを振り返る。


 湖の水をかき分け、しぶきを上げて近付くスワンボートの姿が視界に入る。

 一目見ただけで分かる。速い。まだ距離はあるが、猛烈な速さでこちらへ接近してくる。


「私の指示に従ってうまく彼女達をかわして欲しい。」


 彼女達?

 言われた瞬間に心当たりが浮かんだ。

「ヤー。完璧にこなしてみせるよ。」


 フロリアンは後ろへ視線を向けたまま言う。

 非常に厳めしい表情をしたスワンボートが猛烈な勢いで水をかき分けながら迫る。

 乗っているのは2人の少女。桃色髪のカントリー風三つ編みにハート型のサングラスを装着した怪しい少女と、真っ白な髪に毛先が黄色がかった特徴的な髪色の少女だ。

 自動運転であの速度は出ないだろうから、協力しながら足元は凄い勢いで漕いでいるに違いない。マリアを追いかけてここまで来たのだろう。

 あの速度で折れないペダルの頑丈さに感心するほどだ。


「なるほど、行動力の化身。確かに凄いね。」

「だろう?だが、私達の憩いに突っ込んでくるには些か早い。追手から逃げようじゃないか。」

 不敵な笑みを浮かべてマリアは言う。

「準備は良いかい?まずは自動運転解除だ。あとは私の言う通りに動いてくれたら良い。」

 心なしか、マリアの瞳が僅かに淡く輝いているように見える。

 ただ、今はそれが何を意味しようと関係ない。彼女と2人で一緒に過ごす時間を少しでも長く取る為に行動しなければ。

 フロリアンは言われた通り、自動運転を解除して惰性航行にする。


 険しい表情の白鳥がすぐ傍まで迫る。湖面の抵抗を受けてスワンボートは減速している。あと10秒ほどで追い付かれるというところでマリアは言った。

「Full astern〈全速後進〉, Hard a Starboard!〈面舵一杯〉」

 日頃の訓練で染みついているのか、フロリアンは迷うことなくペダルを逆回転に漕いでボートを制動から後退させつつ右斜め方向へ移動するよう舵を切る。

 その時だった。少女の声が耳に届く。

「あぁん!マリア様~!」

 切ない声と共に左から右へ向かって凄い速度で1艇のスワンボートが通り抜けていく。

 マリアとフロリアンは左から右へそれを受け流し、すぐに次の行動に移った。

「Mid Ships〈舵中央〉, Steady〈進路維持〉 Full ahead!〈全速前進〉」

 通り過ぎて行ったシルベストリスとホルテンシスをちらりと見ながら、マリアは笑いながら言う。

「Steady as She goes〈進路そのまま〉」


 言われた通りにボートを操作し、フロリアンはまっすぐに船着場を目指してペダルを漕いだ。

 フロリアンは流れるように指示を出したマリアに言う。

「どこで覚えたんだい?」

「興味が湧いたものは何でも調べる主義なんだ。成り行きというものだよ。」

「凄いじゃないか!」

「完璧には程遠いけどね。」

 2人は笑い合いながら適度な速度で船着場を目指す。

 通り過ぎて行った姉妹達のボートは、速度から言って停止から反転して追いかけて来るまでに相当な時間がかかるはずだ。

 その前に確実にこちらは船着場まで辿り着けるだろう。


 しばらく笑いあった後、マリアは先ほどと同じようにフロリアンへもたれかかり身体を委ねる。

 彼が必死に漕いでいる分、ゆらゆらと揺れて落ち着かないが、そんなことは今のマリアにはどちらでも良いことだった。

 1秒でも長く、このままでいたい。ただそう願う。


 マリアはすぐ隣の彼にすら聞こえない程度の声で囁く。

「さぁ、頑張ってくれたまえよ。私の騎士様。」



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