第35節 -無き者に、祝福は注がれる-

 4月26日 夕刻。

 フロリアンは久しぶりに帰宅した自宅の部屋で、翌日のセントラル帰投に備えて荷物をまとめていた。


 楽しいひと時とは一瞬で過ぎ去るものだ。昨日のマリアとのデートは、スワンボートから降りた後に動物園へ行き、その後はドームプラッツ外周のプロムナードをゆったりと散策した後に夕食をとるというものであった。

 アー湖で傍まで迫られた追手である姉妹達を完璧に撒き、残りは悠々とした憩いの時間を2人きりで楽しんだ。


 結局、彼女がリナリア公国の生き残りであったのかどうかは聞いていないし、本当の職業が何なのかについても尋ねてはいない。

 だが、それで良いのだ。彼女と交わした、あの約束さえあれば十分である。


 フロリアンは荷造りの手を止めると、首から下げた黒曜石のお守りを握りしめる。

 そっと目を閉じて、彼女の顔を思い浮かべながら幸福だった時間を思い返し、これからの使命に決意を固めた。


 おもむろに黒曜石から手を離し、ポケットからヘルメスを取り出すとセントラルへ帰投時刻の入電を行う。

 空港までは交通機関で移動するとして、あとは現地に待機している機構専用の長距離航行型高速ヘリでセントラルへ向かう手筈である。


 懐かしの我が家で過ごす時間も残りわずか。

 長きに渡って親しんだベッドで眠りに落ち、目覚めたらすぐに旅立たなければならない。

 その前の楽しみといえば、久しぶりに母親の手作り料理を堪能できるというところだろうか。日曜日ということで父親も休日であり、家族そろっての夕食を囲む日となる。

 1階からはとても良い香りが漂って来るが、ディナータイムまではもうしばらく間があるだろう。


 彼女は、既にスイスへ戻っただろうか。

 昨日の別れ際にまた会おうと言いはしたが、そういえばいつミュンスターを経つのかについては聞くのを忘れていた。

 部屋の椅子に腰を下ろし、全身の力を抜いて真っ白な壁へ目を向ける。

「マリー。」

 つい口先をついて出るのは彼女の名前だった。

 目を閉じれば昨日の楽しかった時間がまぶたの裏に鮮明に蘇ってくる。

 次はいつ会えるのか。どこで会えるのか。その日が訪れることがたまらなく待ち遠しい。


 フロリアンは大きく深呼吸して目を開く。

 待ち遠しさに胸は高鳴るが、その来たる日の為に、自身が為すべきことは為さなければ。

 そうして椅子から立ち上がると、残った荷物の取りまとめを再開した。


                 * * *


 午後10時。再び曇天に包まれたミュンスターの地の空は暗い。

 星の煌めきも届かぬ漆黒の帳。黒いカーテンが引かれた空に映し出されるものは何もない。


 彼と再び会うのはおそらくセントラル1となるだろう。数か月先の話だ。

 今から相まみえる少女が引き起こすであろう大事件において、自分はその立場を明かした上で彼と再会することになる。

 マリアは1人、人気のない道を歩きながらとある場所へと向かっていた。


 寒空の下、街中には自身のヒールの音だけがこだまする。

 恐ろしいほどの静寂。これは間違いなく意図的に作られた景色。

 誰も彼もを拒み、その彼方で独り佇む少女。彼女に用があってここまで来た。


 聖ランベルティ教会前の広場を模した空間に足を踏み入れる。

 異界か現実か。一目で区別をするのは難しい。

 だが、広場の中央に佇み歌を奏でる彼女の姿があるからには、紛うことなくこれは幻だ。


Well, I will pray to God on high,〈私は天上の神へ祈りを捧げよう〉

that thou my constancy mayst see,〈彼女が私の変わらぬ想いに気付き〉

And that yet once before I die,〈私が死ぬ前に一度でいいから〉

Thou wilt vouchsafe to love me.〈私を愛してくれるようにと〉


 誰に向けた歌なのか。

 誰に教えられた歌なのか。

 彼女は絶えずこの歌を歌い続けている。


Ah, Greensleeves, now farewell, adieu,〈グリーンスリーブスよ、さようなら〉

To God I pray to prosper thee,〈貴女の繁栄を神に祈ります〉

For I am still thy lover true,〈私はまだ貴女の真の恋人だから〉


 詩の意味など考えてもいないのではないか。

 しかして、その詩こそ彼女に与えられた境遇を慰めるにはふさわしいものであると感じられる。


 少女の元へと歩み寄り、彼女の声に合わせてマリアは歌の最後の旋律を歌った。


Come once again and love me.〈もう一度ここへ来て、私を愛してください〉


 すると、虚ろな瞳をした少女が振り返った。

 まるで覇気のない表情。ずっとその場で考え事に耽っていたかのような。

 だが、一目マリアの姿を見た瞬間に彼女は瞳に光を宿し、すっと立ち上がってすぐに体の向きを変えて言った。


「こんなところまで何の用?貴女に特別な用事なんてないのだけれど。」

「君に無くても私にはあるんだよ。アンジェリカ。どうしても、直接君に伝えたいことがひとつだけ、ね。」

「あの女と同じように、私に計画を止めろとか言いに来たんじゃないでしょうね?」

 やれやれといった様子で溜め息をつくアンジェリカに向かってマリアは言う。

「あの女?ロザリーのことかい?まさか。世界を破壊する行動を起こすというのなら好きにしたまえよ。そのことについて言うべきことはない。」

「寛大なお言葉どうもありがとう。国連の局長様から直々に許諾を頂けて光栄の極みといったところかしら。」

「ただし、一つ付け加えるなら、その計画を実行した際には君達2人には本当の意味で世界から退場してもらう。」

 マリアは赤い瞳を怪しく輝かせ、ゆっくりとアンジェリカに近付いて行く。


「忠告、ご親切にどうも。けど、私は……」

 一瞬、アンジェリカがよそ見をして再びマリアへ目を向けた時だった。

 先程まで目の前にいたはずの彼女の姿がない。アンジェリカはとっさに臨戦態勢の構えを整えながら周囲の状況をつぶさに感じ取る。

 しかし、気配を掴み取ることは出来ない。そんな中、次にマリアの声が聞こえてきたのは自身のすぐ背後からであった。

「本当に忠告したいことは別にあるんだ。まぁ話を聞いておくれ。」

 アンジェリカは息を呑んだ。まるで気配がない。一瞬で姿を消して、感覚の範囲外から現れるなんてことが……

「私に出来るはずがない。そう思っているんだろう?」


 見透かされている。

 エニグマと絶対の法によって、彼女の本来の力を用いたとしても、完璧に自分に関する未来を予知することなど出来ないはずなのに。


「そう怯えた顔をしなくていい。むしろ喜びたまえよ。」

 マリアはそう言って不敵に笑った。

 あまりの不気味さにアンジェリカは身を翻して彼女の方へ向き直り攻撃姿勢をとった。

 だが、体を向け直した先に既にマリアの姿はなかった。


「君の大好きな傷つけ合いについて、本気で相手をしてあげようという話なのだから。」

 アンジェリカは驚きながら左隣を見やる。

 するとそこには余裕の表情で自身の顔を覗き込むマリアの姿があった。


「ふふふ、あははははは。これは君が自ら招いた事態だ。君はあろうことか……」

 そこでマリアは言葉を区切り、耳元へ口を近付けてそっと囁くように言った。

「“私の彼”をその手に掛けようとした。」


 この時点で、アンジェリカはマリアが本気で激昂していることを理解した。

 違う、違う、全然違う。こんなのは違う、こんなものはいつものマリアではない。

 混乱する頭に対し、目の前にある現実は容赦なく非現実的な事実を見せつける。


 マリアは上体を起こし、余裕の笑みを浮かべながらも地面に這いつくばるようにして臨戦態勢をとったままのアンジェリカを見下すようにして言う。


「君は〈ラプラスの悪魔〉というものを知っているかい?」


 彼女から放たれる強烈なプレッシャーを前に、身動き一つ出来ず、浅い呼吸をしたままアンジェリカは沈黙を貫いた。

 マリアの目はいつもとは異なり、赤を中心とした虹色の輝きを放っている。


「因果律というものに基づき、未来に起こり得る事象について全ての力学と物理状態を合わせ、それらを完全に把握と解析を行う超常的な知性を指し示してそう呼ばれているらしい。要するに完全なる未来予知。特定の事象がもたらす結末を、自らの知性のみで確定的に導き出すものだ。」

 言っている意味は分かる。それはつまり、マリアが普段用いている力の上位的な力ともいうべきもの。

 予言を越えた預言。それに類似する力。自らの意思に基づいて預言の力を行使できるに等しい、実に馬鹿げた規格の異能といえるだろう。

「貴女に、それが扱えると?」

「別個体の君と今の君が重なり合った時に振るうような、ふざけた力を君が使いこなすことが出来るのと同じで、リナリア公国に魂を結ばれた人物にはそれぞれが特別な力を継承しているということさ。偶然、私に与えられていた力が〈それ〉だったというだけの話でね。」


 因果律の組み換え。結果と行動の逆転。

 つまり、先程からマリアが自身に見せている瞬間移動ともいえる能力は、予め自分の行動を読み取った上で〈そういう結果となる〉という情報を先に書き加えたようなものということだ。

 今ここで、下手な動きをすればただでは済まないだろう。良くて先日と同じ程度の痛みを味合わされ、悪ければ四肢全てを切断されるほどの苦痛を味合わされるに違いない。


 マリアはアンジェリカを見下したまま言う。

「これは警告だ。今後一切、彼に手を出すな。そして近付くんじゃない。君が考えを改めなければ、君は君が大切に思うものを失うことになる。」


 アンジェリカはロザリアに言われた言葉を脳裏に思い返した。


〈貴女たちはまだ引き返すことが出来ます。本当に大切なものを失う前に。〉


 あれは彼女なりの忠告だったのだろうか。

 だが、この程度のことで考えを改めるような脆弱な思考をしているのなら、当の昔に理想などかなぐり捨てている。

 野望は実現する。理想は実現する。そして彼女の夢を叶える。その為に自分はこうして存在しているのだから。


「話は以上だ。いつまでも地面に這いつくばっているのも苦しいだろう?私はここで失礼するから、あとは君自身が気を楽にしてよく考えてみると良い。」


 マリアが言い終えると同時に彼女の姿は消え、周囲の景色が唐突に現実世界とリンクされた。

 プリンツィパルマルクトを行き交う人々。教会前広場のベンチで待ち合わせをしたり、軽食を持って夕食をとる人もいる。

 紛れもない現実の光景。自身が独りになる為に構築した絶対の法があっけなく崩された。


 幸いにも地面に伏せるような姿勢で倒れ込んでいる自分の姿に気付いている者はいない。

 姿隠匿という面においてだけは絶対の法は有効なようだ。


 肌寒い季節だというのに気持ちの悪い汗が全身から噴き出していた。

 鼓動は早く、全身に悪寒が走り、呼吸は浅く乱れたままだ。


 アンジェリカはなんとかその場に立ち上がり息を整える。

 周囲の気配を探るが、これといった危険を知覚することはできない。

 ヴァチカンの2人も、神も精霊も、そして先の少女の気配もない。


 ほっと安堵の息を漏らしながら、肩から下げた双頭の鷲のぬいぐるみを両手で抱き、優しく頭を撫でる。


「帰らなきゃ、ね。」


 虚ろな瞳をした少女はただ一言だけ言い残すと、赤紫色の光の粒子を残してその場から消え去った。


                 * * *


 暗い聖パウルス大聖堂内部の勝利の十字架のたもとで、1人の女性は胸に両手を合わせて祈りを捧げる。時刻は深夜を迎えようかという頃合いだ。

 特に何を祈るわけでもない。心は無心のまま、ただ流れる時が過ぎ去るのを待つかのように祈りの姿勢を取り続けている。


 色々なことがあった。

 世界に居場所を失くした少女は、自らを疎んだ世界の破壊を目論み、この地に混乱を巻き起こした。

 事件は失敗に終わったが、彼女の次なる舞台はそう遠くない未来に幕を上げるに違いない。


 機構の彼は、先の少女の起こした混乱を治める為に自分達と手を取り合って事件解決に尽力してくれた。

 過去においては、不死の存在を打ち破る為の道具としか思っていなかった存在だが、実際に言葉を交わし続けているとどうしたことか……

 そういう風には思えなくなってしまった。彼という存在が、もしかするとこの世界を大いなる野望から救うための切り札になるのではないかと今は思う。


 そして、国連の彼女。

 史上最悪の災いを引き起こそうとしている存在。大いなる野望の為に、手段を選ぶということはしない。

 世界各国はもちろん、機構も、ヴァチカンも、彼女の生み出す惨禍に飲み込まれる日がやがて訪れる。

 ヨハネの黙示録に語られる七つの災厄。その先にある世界の終末。新世界の構築。

 これを止める為に、先の彼の協力が不可欠となるだろう。


 最後に、自身のすぐ傍にあるもの。

 アシスタシア。貴女はどうか、最後まで。


 この本心を彼女に伝える日は来るのだろうか。

 求める言葉がない彼女に対して、自分は何と声を掛け続けたら良いのだろうか。

 不可視の薔薇などと呼ばれ、他者の心の求めるままに言葉を発し続けてきたことで、本心の語り方も忘れてしまいかけている。


〈それが出来ない貴女こそただのお人形。〉


 アンジェリカの言葉が胸に響く。そう言われても仕方がないのだ。


〈貴女が本心から言葉を発していないことを、彼は誰よりも気に掛けているんだと思う。〉


 フロリアンの優しい言葉が心に留まる。

 機構に在籍する科学の申し子。〈全てを視通す神の目〉を作り上げたマイスターと呼ばれる彼の御心を知ってしまえば、次に会った時に何も言えなくなるではないか。

 知らなかったわけではない。彼自身の心の在り方は昨年、直接言葉を交わしたときに垣間見た。

 自身の心の琴線に触れるようで、敢えて見ないようにしていたのに。


 何もかも、置き去りにしてきたはずだった。


 不安、孤独、恐怖、苦悩。私はそれらを遠い過去に捨ててきた。

 秩序、信仰、解放、救済。私はそれらを尊び現代を生きている。


 そのはずであったのに。

 魂とは、なんと。




 ロザリアがとりとめもない思考を巡らせている最中、すぐ後ろから聞き慣れた足音が近付いてきた。

「ここにいらっしゃったのですね。ロザリア様。」

 声の主に向かって言う。

「えぇ、少々考え事を。」

「らしくないことをするものではないと、そうおっしゃっていたのはつい昨日のことのように思いましたが。」

「そうですわね。何もしなければ、何も考えることもなく、ただ気ままに生きてゆくことができようというもの。」

「はい?」

 想像していなかった答えを返された少女は怪訝な顔をしながらロザリアを見た。

 ロザリアはその場から立ち上がり、後ろに佇む愛しい少女に向かって微笑みながら言う。

「いえ、何でもありません。それより、わたくしを迎えに来てくれたのかしら?アシスタシア。」

「連れ戻しに来ただけです。ローマへの報告書類を取りまとめて頂かなければ。油を売っている暇などないのですから。」

「代わりにまとめておいてくださいまし。」

 爽やかに言い放つが、彼女はつかつかとロザリアの元まで近付くと、即座に手を取って引っ張り始めた。

「あら、あら?」

 予期せぬアシスタシアの行動に思わずロザリアは間抜けな声を上げる。

「何をおっしゃっているのですか。早く戻りますよ。」


 まるで母親に叱られる娘のようだ。

 ロザリアは遠い日の記憶を思い返して思わず笑った。

「後の楽しみでもなければ、やる気が起きませんもの。」

「私の用意する夜食ではご不満ですか?」

 アシスタシアの言葉を聞いて、ロザリアの顔に笑みが咲く。

「まぁ、素敵ですわね。それでは少しだけ仕事に勤しむといたしましょうか。」


 その時、手を引きながら前を歩くアシスタシアは穏やかに微笑んでいた。

 事件を通じて垣間見えた、自身の主の本当の姿というものをようやく知ることが出来たからだ。

 笑みを湛えながらも口調は変えることなく、冷静に主へ注文を付ける。

「少しだけといわず、最後までお願いします。」


 随分と人間らしくなった。

 ロザリアは彼女の背後からそんな印象を抱いていた。

 きっかけは何だったのか。この地に訪れた時はまだ、特に目立った変化があったわけではないのだが。

 やはり、彼と過ごした数日の時間が何かを変えたのだろうか。

 ロザリアは内心で考えた。





 しかし、気付いていないのは彼女だけである。

 この地に集まり、言葉を交わした誰もが彼女の変化を感じ取っていた。

 フロリアンは元より、マリア、アザミ、アンジェリカ、そしてもちろんアシスタシアに至るまで。


 何よりも変化したのは、ロザリア自身の心の在り方であると。

 いつの時代のことか、青薔薇の花言葉が移り変わったように。


〈不可能〉から〈夢、叶う〉へ。


 彼女の心もまた大きな変化を遂げたのであった。




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