第31節 -大きな惨禍(コーダ)-

 4月24日 午前11時。

 プリンツィパルマルクトに怒号が響く。デモに参加する人々の叫びだ。

 朝早くから集まった者達によるデモ行進が続き、警官隊の出動による物々しい厳戒態勢が敷かれる中、参加者は口々にカトリックや福音主義に対する非難を表明する。


 だが、真実としてキリスト教の各宗派を信仰する人々がその隊列に加わることはない。

 カトリック、福音主義、聖公会……内に含まれる自由主義神学などの各宗派を含め、誰一人としてデモに参加して他宗派へ非難を浴びせる者はいなくなっていた。

 2日間に渡ってフロリアンとロザリア、アシスタシアが全教会へ足を運び内実を説明して回ったことや、マリアがネオナチズムとの関わりをアンダーグラウンドでほのめかされるようメディア操作を行ったことが功を奏している。


 事実、デモの苛烈さこそ変化はないが、参加する人々の総数は日を追うごとに、一目でわかるほど少なくなっていた。

 それは、デモ参加者が〈キリスト教各宗派の対立〉を利用し、ナチズムの復権や人種隔離政策の実行を目論む者達のみに振り分けられたという証でもある。

 歴史における負の遺産。民族社会主義の復権。そのようなものに利用されていると知った教徒たちは、宗派の垣根を越えて一丸となり〈無反応〉を貫く姿勢を取っているのだ。


 対して、信仰と関係を持たない無宗教の人々の多くは、デモを行う者達を〈悪意を持って平穏を乱す輩〉と見て反発を強めており、暴動の図式は〈一般市民とネオナチズム信奉者の争い〉という風に状況を変化させていた。

 街中に満ちる緊張感。その糸が切られる事態は未だ理性を持って押しとどめられているが、この状況が長く続けば危険なことに違いはない。


 あと1時間。

 フロリアンは宿泊ホテルの部屋の窓から外の様子を窺う。プリンツィパルマルクトの様子まで視通すことは出来ないが、警察車輌の青いランプが点滅しているのを見るに、今日も混乱が継続していることは把握できる。


 ロザリアからは〈正午に至るまではどこにも出歩かずに待機するように〉と言いつけられている。

 その為、昨晩から今に至るまでずっと室内に缶詰めになったままだ。

 彼女が時間を指定して言うからには、その時刻に何かしらが起きるのだろう。詳細は知らされていないが、ここまで来れば言われた通りに信じて待つことしか出来ない。今の自分に出来ることはないのだ。

 許されるのは、手元のスマートデバイスに視線を下ろし、祈るような気持ちで時計を見つめ、このまま事態が収束に向かうことを願うことくらいだ。


 この願いが現実になる確率を導く為、つい先程プロヴィデンスによる暴動の辿る結末について予測演算を行ってみた。

 特に意味があるとは思えない行動だが、プロヴィデンスは予想とは少し違った数字を返してきた。

 結果では、この後に大規模な暴動が発生する可能性は極めてゼロに近いと示されている。


 確かにデモの規模は抑えられてはいるが……


 数日の努力の成果として、各宗派の信徒たちがデモに関わる事態はほぼ完全に断ち切ったとはいえ、ネオナチズム信奉者の作り出す緊張感自体に、目を見張る程の変化が起きているわけでもない。

 悪い結果でないことは良いのだ。ただ、どうにも不安感は残る。

 システムを信じていないわけではないし、むしろこれまでの経験でプロヴィデンスが予測を外した試しもないが、数ある不安要素に対する論理的な理由付けが分からない以上、いまいち不安が拭えないというのが素直な感想だ。

 人の心理というものだろう。しかし、心理というもので言うなら、視通すことが出来ない未来に〈希望を見出す〉為の材料としては上々だろう。


 現在進行形で起きている出来事は、メディアが流す情報と、ソーシャルネットワークサービスで人々が更新する内容を眺めながら探る。

 同時にロザリアの配置した人形の目と耳から得られる情報も眺めた。


 どうか、このまま……事態が平和的に終息に向かうことを祈って。


 心の底からそう願いながら、ふと思う。

 ロザリア達は今どうしているのだろうか。

 終息に向けた最後の仕上げは自分達の役目だと言っていたが……


 スマートデバイスから連絡を入れてみようかとも思ったが、肝心な時に邪魔をしては申し訳が立たない。

 何をどう考えたところで、この状況を継続する以外に提示された道はない。じっとしているのが正解なのだ。


 フロリアンは再度時計の針を見やりながら、刻一刻と変わりゆく状況に再び目を向けるのであった。


                 * * *


「なんだか思ってたのと違う~」

 同時刻、聖ランベルティ教会広場にほど近い建物の4階の窓辺から地上を見下ろしながらアンジェリカが言った。

「あの3人の仕業ね。教会の信徒たちの姿は見当たらないし、なりきりで信徒って言ってる連中はみんなナチ信奉者だし、見かけ上で信徒に見えるものは人形だし。」


 膨れた表情で明らかな不満を示したアンジェリカだが、それでも最終的な計画の完遂には問題がないと判断していた。

「まっ、いずれにしてもこのまま一般民衆とネオナチが相対することになれば、今の時代の形に倣った吊し上げが始まることは確定。その様子が思っていたものより規模が小さくなりそうではあるけれど……贅沢は言えないなー。あの警官がいよいよって時に銃を抜くまで楽しみはなさそう。」

 広場では火炎瓶を投げようとしていた暴徒を警官隊が取り押さえている光景が見て取れる。その他にも制止に入った警官隊に向けて空き瓶を投げつけられるなど、暴力的混乱はいつまでも続く。

 頬杖をつきながらのんびりと広場で入り乱れる人々の様子を窺いつつ、そっと教会尖塔に設置された時計に目を向ける。

「あと1時間といったところね。メディアもネオナチズムの関与をほのめかすニュースが出てきているし、いい流れじゃない。今、あの連中が警官隊にやっていることは、時機に一般大衆の手で自らに返されることになる。見物ね?うふふふふ、きゃはははは!」


 この後に待つ未来へ思いを馳せながら、アンジェリカはこらえきれずに笑い出す。

 気の遠くなるような長い長い準備を経て掴み取った享楽の瞬間。

 真なる惨禍の幕開け。大きな惨禍の最終幕。三十年戦争の再来。


 アンジェリカはときめきに胸を高鳴らせながら、にこにこと満面の笑みを湛える。

 そして遥か遠くに離れた、もう1人の自分に向けて言う。


「あなざぁみぃ、あるたーえご、あんじぇりか、あんじぇりか。もうすぐ、もうすぐよ。お楽しみは、こ・れ・か・ら。」


 アスターヒューの瞳を怪しく輝かせ、この世界の全てを呪うかの如く笑みを浮かべながら。


                 * * *


 午前11時30分。旧市庁舎の平和の間には敬虔なるカトリック教徒の姿が3人ほど見える。

 真っ黒な修道服に身を包んだ女性が2人と、白いキャソックに身を包んだ老男性が1人。その内の1人は、今日という日の主役となる人物である。


 案内係が去った後の部屋に3人の信徒だけが残る。

 穏やかな笑みを浮かべた少女が言う。

「とても、素敵な空間ですわね。歴史的背景を知らなければ理解に苦しむ展示物の数々……謎に対する明確な意味を持つ空間。実に素晴らしいですわ。」

 そういう彼女はくるりと振り返りながら周囲を見渡した。


 頭上を見れば〈王冠の蝋立て〉と呼ばれる大きな黒いシャンデリアが吊り下がり、白面の壁にはウェストファリア条約締結の調印式に参加した人物達の多数の肖像画が掲げられている。

 彼女の言う通り、非常に珍妙なものが多く飾られていることでも有名な場所であり、中でも一際目立つものといえば決まっている。巨大な祭壇の如きモニュメントと、その内にショーケースに入れられた黄金色の鶏の展示だ。


「これが噂の。聞く話よりも随分と大きく立派ですのね。黄金の雄鶏。飲用の容器になっているのだとか?」

 満足そうな笑みを見せながら少女は言う。

「平和の間。滞在中に一度は中を拝見させて頂こうと思っておりましたが、よもやこのような形で希望が叶うことになろうとは。先の見通しなど分からぬものですわね。」

「ロザリア様、観光に訪れているわけではありません。ご自重ください。」

「まぁ、貴女の口からそのように鋭い説法を受けるだなんて。」

「お戯れを。説法など申したつもりもありません。私はただ少しばかり緊張感を持っていただきたく……」

「良いのです、良いのですよ。アシスタシア。貴女はそうあって良いのです。しかしながら、今この場に在るのはわたくしと貴女だけ。果たす役目の大半も終え、残る大義もそこな存在が不埒者に襲われないかを監視する務めのみ。」

 ロザリアはそう言うと上品に微笑みながら続けた。

「ほんの少しくらい、戯れに興じる心の余裕を持っても良いと思いますわ。張り詰めているだけでは、大事なことを見落としかねませんもの。今、目に見えるものだけが全てではない。そういうことでひとつ。」


 大事なことを見落とす。アシスタシアはその一節が気になりロザリアへ問う。

「ロザリア様。その点につきまして、彼を……フロリアンをこの場に連れて来なかったことは果たして正しい選択だったのでしょうか。」

「あらあら。随分と、彼のことを買っていらっしゃいますのね?」

 変わらぬ笑みを湛えて言うロザリアに、アシスタシアは顔を俯けながら言った。

「いえ、あの。はい。率直に申し上げて、彼の感覚、物事の捉え方、直感には優れたものを感じます。クリスティー様のようなお方が、彼に何らかの可能性を見出されたのも必然であったと思えるほどに。彼女やロザリア様がなぜ高い評価をなさるのか、最初こそ理解出来ませんでしたが。」

 表情は少し困ったようにも見受けられるが、それでいて迷いはない。心から感じたことを素直に述べているのだとロザリアは受け取った。

「わたくしも貴女の感覚を否定はしません。彼の素質についてはマリアだけでなく、あのアザミ様ですらお認めになっていらっしゃるようでしたから。ただ、それとこれとは少し異なるお話ですわ。」

 ロザリアはアシスタシアの元へ歩み寄り、肩にそっと手を乗せ囁くように言う。

「彼はエルスハイマー司教が事件の発端に関わりを持っていたことも、彼が既に他界していることも存じ上げない。故に、この場にお連れするのはあらゆる意味でリスクが高いと判断いたしました。そう、彼には事件における発端を除く“事実の全て”をお伝えはしましたが、わたくしたちの“計画における全て”をお伝えしたわけではないのです。」

「承知しております。それでも……」

「〈彼の才覚を信じてこの場に留まらせた方が良い〉という貴女の感覚もおそらく間違いではない。何が正しくて何が間違っているのか。結果が分かるのは常に何かが起きた後。仮に、彼がこの場にいないことによる不都合が起きたなら、わたくしがその責任の全てを負いましょう。」

 アシスタシアは何かを言いかけたが、言葉を呑み込んだように息を吸って言った。

「出過ぎた意見を具申したこと、お詫びいたします。申し訳ございません。」

 ロザリアは肩に置いた手を下ろして小さく笑うと、そのまま後ろ側へと歩みを進めて言う。

「何度も言っています。“良いのです”。アシスタシア、貴女がそのように〈自身の心の想い〉をわたくしに伝えてくれたこと、とても嬉しく思います。ありがとう。」


 きっと振り向くべきではない。

 声が僅かに震えている気がした。


 彼女は何を想っているのだろうか。昨日の朝のことが頭の中に思い起こされる。

 


 アシスタシアはそれ以上、何か特別に言うこともなく、彼女の言葉に対していつも通りに短い返事で応えた。


                 * * *


 その場に集う全員が時計の文字盤を見つめる。

 1秒、そしてまた1秒。刻一刻と流れる時。もう間もなく、最後の舞台が幕を開ける。

 ミュンスターの地で巻き起こった大事件の終幕。与えられた務めを果たす為、マリア達はヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学のとある教室を貸し切って準備を整えていた。


 白い壁面にホワイトボードが設定されたどこにでもあるような教室。

 講堂などの大きな教室と比較すると小さめの部屋だ。およそ50平米程度の部屋に所せましと机が座席が並べられている。

 この部屋の机は少し変わっていて、スマートデバイスが机に直接取り付けられ格納されている。使用するときだけ机の天板を上部へ引き出せば、すぐにタブレット型スマートデバイスとして使用することが出来る。

 授業の説明における重要な部分を手元のデバイスでしっかりと確認出来、また講師と生徒の間で言葉だけではニュアンスを伝えることが難しいやりとりもスムーズに行うことが可能だ。


 ホワイトボードの手前、普段は講師が陣取る教壇の前にはホルテンシスが佇む。

 静かに目を閉じた彼女は静かに息を吸い込み、深く呼吸をしてからそっと目を開けマリアに視線を送った。

 2人の視線が交わったところで、ホルテンシスは静かに頷いた。準備が整ったという合図だ。

 彼女の傍にはアザミが控え、万一のことがあった場合に備える。

 マリアは前列中央の座席に座り、手元のスマートデバイスからホログラムモニターを立ち上げてメディア各局の報道状況を眺めていた。その両隣ではシルベストリスとブランダが座り、ホルテンシスの様子を見守っている。


 午前11時58分。正午まで残り2分となった。

 今回の計画の総仕上げはホルテンシスが持つ大天使ジョフィエルの加護により与えられた能力を用いる。

 ウェストファリアの亡霊によって生み出された悪意を取り除くための精神感応、〈潜在意識の浄化〉〈意思の伝搬〉をこれより彼女は執り行う。

 彼女の意思による言葉をメディア報道とネット配信によって大衆へ流し、全ての人々の意識に直接働きかけようという大掛かりなものだ。

 だが、当然ながら彼女が直接大衆に向けて語り掛けるわけではない。彼女は遠く離れたある者に思念を送り、その口から紡がれる言葉がメディアを通じて流されることになる。


 旧市庁舎、平和の間に佇む“ある者”へ。


                   *


 時を遡ること2時間前。

 プリンツィパルマルクトで大規模なデモが開始されて間もない時、聖パウルス大聖堂に隣接する司教館の一室にマリア達一行とロザリア、そしてアシスタシアの姿はあった。


 ロザリアの計らいで出されたモーニングティーが優雅な蒸気をあげる。部屋の中には爽やかな柑橘系の香りが漂い、その場にいる者達へ束の間の安らぎを与えていた。

 決戦前の静けさ故か。不気味なほどゆったりした時が流れる中、紅茶の香りを楽しみながらマリアが言う。

「ロザリー、計画は予定通りだ。“例のもの”は用意してもらえたかな?」

 最も重要な舞台を控えている時でも、彼女の余裕が崩れることはない。いつもと同じような笑みを湛えている。

 そんなマリアの向かいに座るロザリアも、同じように余裕に満ちた笑みを浮かべながら、しかし溜め息交じりの小言をぼやいた。

「まったくもって人使いの荒いことですわ。わたくしは便利屋ではありませんのよ?」

「あはは、私はこういうときに遠慮をしない主義なんだ。いずれにせよ、その様子だとしっかり例のものは用意してもらえたらしい。協力に感謝するよ。」

「えぇ、せっかくなので期待されている以上のものを用意させて頂きました。“本物より本物らしい”かと。」

「それはそれは。ある意味では彼の理想の姿でもあったのかもしれないね?」

「せめてもの手向けですわ。わたくしとて、彼には多大な敬意を持っていましたから。」

 ロザリアの言葉を聞いたマリアはティーカップをテーブルに置いて言う。

「敬意、か。そうだね。私達も彼の名誉にかけて今日の舞台を成功させると約束しよう。」

 視線をマリアの隣に座るホルテンシスへ移し、ロザリアは言った。

「ホルス、準備は出来ていまして?」

「一生懸命、考えたつもりです。彼なら何と言うか、人々の心は何を求めているのか、私はどう思ったのか……」

「思うままに言葉を紡ぐと良いでしょう。いえ、想うと良いでしょう。貴女の想いに応えて、わたくしの作った“人形”は意思を語ります。今日だけの特別製です。」

 ホルテンシスの言葉を聞き、満足そうな表情をしながらロザリアは言った。


 続けて、マリアが重要な内容の最終確認をする。

「ロザリー、最後の確認をしよう。これからそれぞれが移動し、君達は旧市庁舎の平和の間で、私達はヴィルヘルム大学の教室でそれぞれ待機する。そして、正午になった瞬間から舞台の幕を開ける。メディア放送もネット配信も全てが瞬時に“彼”の演説に切り替わるように手配済みだ。」

「はい。正午を過ぎた時、ホルスが祈りを捧げるように願いを想えば、その精神に感応して人形は自然に動き喋ります。そのように作りました。ジョフィエルの加護を身に宿すという彼女の才覚があればこその代物です。想いは余すことなく大衆へ伝わるでしょう。」

「だが、ここからが問題だ。」

 マリアは両肘をテーブルに乗せ、手を重ね合わせて口元へ寄せて言う。

「彼の演説が始まると同時に、あの子も私達の計略と目的に気付くはずだからね。」

「血相を変えてどちらかに奇襲をかけてくると。」

「未来視ではアンジェリカの動向は掴めない。ただ、彼女の行動パターンから言えば奇襲をかけてくることは規定事項でもある。」

「問題はわたくしたちの方へ向かって来るか、それとも。」

「念の為に平和の間に控えていてもらうけれど、君達の方には来ないだろう。彼女が私達の元へ真っすぐに来るだろうからこそ、私達は彼女が一番見つけづらい場所を探し出す必要があった。」

「それで大学というわけですわね。灯台下暗しとはよく言ったもの。」

「ブランダの発案だよ。素晴らしい名案だ。敵地の中心に堂々と拠点を構えるテロリストなどそうはいない。これによってアンジェリカが私達の居場所に気付く時間がほんの1分、いや30秒でも遅れたらそれで良い。」

「演説が終わるまで、助力は出来ませんわよ?」

「結構だ。きっと、アザミが1人でなんとかしてくれるからね。」

 不敵な笑みを浮かべながらマリアはアザミへ目配せした。アザミは特に何を言うでもなく一度だけ頷く。

「あとは言葉通りに〈祈るのみ〉だ。」

 マリアが言う。その先をロザリアが引き取って言った。

「そうですわね。ここまで来た以上、わたくしたちに出来ることはただ祈りながら見守ることのみ。あとはホルス、頼みます。」

「はい。」

 全員の意思を代弁するかの如く、そして祈るように穏やかな声で願いを言ったロザリアに対し、ホルテンシスは力強く頷いて返事をした。


                  *


 残り1分、50秒、40秒…時が近付く中、ホルテンシスは両手を胸の前で合わせて祈りを捧げる姿勢を取った。

 10秒、5秒、3、2……

 全員が沈黙を貫く教室内。時計の針が正午丁度を指し示した時、マリアが呟く。

「時間だ。」


 瞬間、スマートデバイスに映し出されていたメディアの映像は唐突に1人の老男性を映し出した。

 そして彼は語る。全てを終わりへと導く為に。


『皆様、愛する人々との憩いのひと時を過ごされているであろう時に、このような形で割り込むことをどうかお許し願いたい。信仰の道を歩む者として、この地で巻き起こる此度の事件について、この場にて皆様へと思いを伝えたく存じます。遠い昔、平和の礎の為に、ウェストファリア条約が結ばれたこの平和の大広間より、たった一つの願いを込めて。』


                 * * * 


 午前11時59分。るんるんとした気分で窓の外の景色をアンジェリカは眺める。

 窓辺に肘を置いて両手で頬杖をつき、望んだ状況が訪れる瞬間を待ち侘びていた。


「あと40秒。」


 広場では勢いにのった暴徒たちが鉄棒などを手に掴み、制止する警官隊に襲い掛かろうとしている。


「あと30秒。」


 両者が睨み合いを続ける中、警官隊も携帯している拳銃を抜いてセーフティを解除し、射撃体勢に入った。


「あと20秒。」


 荒れる暴徒たちは警官隊が銃を構えるのを見て、罵声を浴びせながら手近にある石や椅子などを投げつけた。

 警官隊は制止の声を止め、照準を定める。


「あと10秒。」


 無意識に笑みが漏れる。

 18の秘蹟における第12幕。〈大きな惨禍 作品12 -火縄銃による銃殺-〉の再演は間もなくだ。

 ロザリア達の虚しい抵抗によって、第10幕と第11幕と順序が入れ替わることになったが、今さらそんなことは些事に過ぎない。

 治安維持と正義の象徴である警察が引金を引いた瞬間、一般市民たちも交えた混乱と狂乱の時がもたらされるのだ。


 アンジェリカは口角を徐々に引き上げ、嘲笑を浮かべる。

「5、4、3……」


 警官隊が銃の引き金にかけた指に力を籠める。


「2、1…」


 そしてその瞬間は訪れた。






 ……はずであった。

 正午。狂気による舞台幕開けの合図となるはずであった銃声の代わりに、耳をつんざくほどの音量で鳴り響いたのは街中の鐘であった。

 すぐ目の前の聖ランベルティ教会に限らず、聖パウルス大聖堂、聖十字架教会、ザンクトマウリッツ教会、ヴィルヘルム大学などありとあらゆる鐘楼から神聖なる響きが轟き渡る。


「何なの?」


 予期せぬ状況に困惑の表情を浮かべながらアンジェリカは周囲を見渡す。何か大きな変化が見て取れるわけでもない。

 広場へ視線を戻す。警官隊は銃を下げ、対面するネオナチ親派の暴徒たちも困惑した様子を浮かべていたが、その後に誰かの一声を受けてすぐに全員が手元にスマートデバイスを取り出すと視線を画面へ釘付けにした。


「デバイス?何かあったの?何が?」


 目の前の事象以上に重大な出来事など、今のこの地で起こり得るはずがない。

 アンジェリカは怪訝な表情を浮かべたまま、スマートデバイスを取り出すとホログラムモニターを起動した。


 しかし、そこに映し出されたものを見て、アンジェリカは目を見開いたまま凍り付いた。

 画面の向こう側に映し出された老男性は声高らかに演説をする。


『私の名前はトーマス・エルスハイマー。ローマ・カトリック教会の司教を務めております。

しかし、本日はカトリック司教座を預かる司教としてではなく、ただの1人の人間として、主を尊び神を信仰する1人の個人として皆様にお伝えしたい。』


 モニターに映る司教冠を被ったトーマスは白いアルバとカズラに身を包み、首からは緑色のストラを下げている。

 典礼用の正装に身を包んだ彼は、穏やかな表情で大衆へと向けて演説を行っている最中だ。


 どういうこと?どうして彼が喋っているの?

 トーマス・エルスハイマー司教。彼はロザリアの手で跡形も残らないほどに燃やし尽くされ殺されたはず。

 彼女の神罰を、自身への救済であると言って憚らなかった彼は間違いなく……もうこの世には存在しないはずだ。

 それなのに!


『我々の心はある日、突如として囁かれた悪の甘言を受け入れました。4月に入って間もなくのことです。ウェストファリアの亡霊。巷ではそのように呼ばれる怪異は神聖なる復活祭の日にこの地に姿を現したといいます。』


 彼を通じて大衆への呼びかけを行っている?

 アンジェリカは映像メディアの全チャンネルとネット映像配信、及びニュースを即座に確認する。

 どこも彼の演説一色だ。告知など無く、ゲリラ的に行われている放送らしい。

 映像から流れる言葉を聞いていると、頭から全身を包み込むような癒しの波動が流れ込んでくるような錯覚にとらわれる。

 狂気と狂乱に満ちた混沌を切望する身としては、これ以上ないほどに不快で気持ちの悪い波動だ。


 加えて、映像にこそ映らないが、モニターの向こう側からはヴァチカンの2人の気配が色濃く漂っている。

 自分に向けて、敢えて感じられるようにしているのだろうか。


「ちっ、あの女……」


 精巧に作られた人形。彼は生きた人間ではなく、間違いなく作り物の紛い物だ。

 だが、今モニターの向こう側で喋っているのがただの人形であると見抜けるものなどいるはずもない。

 それほどまでの代物を用意できる人物など、世界がどれほど広かろうがただ1人しか存在しない。


 ロザリア……


 アンジェリカは総大司教の顔を浮かべて苛立ちを露にする。

 場所は旧市庁舎の平和の大広間だ。独特の展示物が並ぶ部屋の特徴は一目見ただけですぐに分かる。

 大衆扇動による混乱を瞬間的に治める為に、用意周到に組まれた演説。この放送が最後まで流されれば、自分の計画は何もかもが水泡に帰してしまうことは明白だ。

 今すぐに現地に行って放送自体を潰してしまうことも出来るが、街全体のみならず、ドイツ全域に向けて配信されているであろう放送途中に割り込むことは逆効果である。

 彼に手を出すのは疑う余地なく悪手だろう。


 ここで、ふとある疑問が頭を巡る。

 ロザリアが精巧な人形を用意するところまでは出来たとして、この不快な波動を流し込んでくるものは一体なんだ?

 彼女は他者の過去の記憶を読み解き、他者の心が求める答えを与えることで強力な洗脳を行うことが出来る。

 だが、これは違う。明らかに別の力による影響だ。まるで神や天使の加護を受けたものが放つ独特の力の伝達。精神の浄化、精神感応……そうした表現が相応しい。


 その時、今まで頭の中から綺麗に忘れ去っていた、とある記憶が呼び起こされた。

 マリアに付き従っていた3人の少女達。アザミ以外を連れて歩くことなど滅多にないマリアが、わざわざこの地に連れてきたであろう彼女達はもしかすると。

 さらに、用意周到に組まれたゲリラ的なメディア占拠。映像放送媒体のみならず、ネットメディアまでも巻き込んでの独占状況構築など、常人にはまず不可能な離れ業だ。

 このような状況を生み出せるほど馬鹿馬鹿しい権威を持つ存在も、この世界においておそらくは1人。マリアしかいない。 


 真実を理解したアンジェリカの表情はみるみるうちに激昂の色へと変わっていった。

 手に持ったスマートデバイスを放り投げ、右手をぱちんと鳴らす。するとデバイスは塵になるほど粉々に切り刻まれ破壊された。


 気付くのが遅かった。彼女達を見つけた時、先に仕留めておくべきだった。

 ロザリアやフロリアンの動きに気を取られている水面下で、これだけのことをマリア達は準備していた。

 よもやマリアとロザリアが、互いに殺し合うことを思い描いている2人がここまで緊密な協力関係を築いて事を成し遂げようとは!

 だが後悔をしても遅い。まだ全域で演説が流れている最中ではあるが、自身の思い描いていた計画はほとんど完全に失敗したということを悟った。


 マリア、マリア、マリアはどこだ!!

 あの女たちはどこにいる!!


 怒りに燃えるアンジェリカは血が滲むほどに唇を噛み締め、彼女の居場所を突き止めることに神経を研ぎ澄ませる。

 このままでは終わらせない。

 このまま終わらせるわけにはいかない。

 長きに渡って取り組んできた計画を、長きに渡って待ち望んだ享楽を潰された礼をしなければ気が済まない。


 全員切り刻んで、八つ裂きにしてやる!


 演説が流れている以上は、まだこの街に留まっているに違いない。

 すぐにミュンスター全域に張り巡らせた“見えない赤い霧”に触れるものの感触から本人の居場所を特定にかかる。


 遠方にはいない。範囲を近隣へ固定。ドームプラッツ内にも見当たらない。


 ほんの数秒足らずではあるが、その間にも苛立ちは募っていく。

 冷静に感覚を研ぎ澄ませる。霧に触れる場所にいれば必ず探知できるのだから。

 しかし、どれほど感覚を研ぎ澄ませてもマリアの気配を掴むことが出来ない。そればかりか、強大な力を持つはずのあの神の気配すら掴むことが出来ない。


 何かがおかしい。気配を遮断している?全域に張り巡らせた霧から逃れるなど出来るはずが……


 そう考えた瞬間、アンジェリカはある可能性に思い至った。

 霧を張り巡らせた場所にいないのであれば、最初から霧が存在しない場所に彼女達はいるのではないか。

 灯台下暗しとはよく言ったものだ。

 最も自分に警戒されない場所。わざわざ、“自身が居城としている場所”を計画の中に組み入れるなんて。


 答えに確信を持ったアンジェリカはすぐにその場から目的の場所へ向かう。

 1秒にも満たない刹那。とある建物の4階の一室。暗がりの部屋の中には、彼女がつい先程までその場に存在した痕跡を示す、赤紫色の煙状をした光の粒子が弾けるように宙へ霧散する光景だけが残された。


                 * * *


『亡霊が目撃されるようになって以後、人々の心はまるで何かに憑りつかれたかのように己を見失いました。

 多くの人々が気付いた時には既に、多宗派を交えた酷い諍いの道へと突き進んでいたのです。


 今、一つの真実を語りましょう。

 隠すことはありません。私はこの事件において最初の引き金を引く失態を犯しました。

 あれは、ヴィルヘルム大学へ通う生徒たちに向けた講演会での出来事です。


 ローマ・カトリック教会の司教として、私は自らの人生における信仰の道で得た経験を伝えるべく、ある日講師として大学を訪れました。』



 メディアは全て司教の演説が映し出されている。

 正午丁度に鳴り響いたけたたましい鐘の音と共に始まった演説に、フロリアンの目は釘付けとなっていた。

 ミュンスター司教区を治める司教。彼の言葉は多くのカトリック教徒はもちろん、他宗派を信仰する信徒たちの心にもよく伝わるだろう。

 何より、彼は司教座の司教としてではなく、1人の個人として想いを語ると述べた。人生をかけて信仰に情熱を注いだ人物の言葉が大衆に響かないはずがない。

 アンジェリカの企てた〈発覚〉を通じた〈刑罰〉の火種は見事に掻き消されたのだ。


 しかし不思議なものだ。

 この演説を聞いていると、なぜか心に癒しと安らぎが訪れるような感覚が湧いてくる。

 とても幸福に満たされたような気分だ。過去の苦しみを消し去り、今の困難を断ち切り、未来への希望だけが心の底に湧き上がってくるような温かな感覚。

 彼の人柄、人格、人生、そうしたものを通じて送り出される言葉の成せる業であろうか。


 モニターの向こう側でトーマスは演説を続ける。


『大学を訪れた私はこれまでの人生で得た知見のほとんどと、私自身が抱く思いの丈を生徒へ伝えました。

 その思いの中には科学に対する懸念や、各宗派に対する考えなども含まれていました。

 直線的に科学が発達し、神への信仰心が徐々に失われつつある現代において、“信仰の道を歩む”とはどういうことなのか。


 ひとつ科学と宗教にまつわる歴史のお話をしましょう。

 遠い昔、かの有名なガリレオ・ガリレイが地動説を世界に発表した時、ローマの異端審問所は彼を異端であるとして糾弾しました。

 今では世界中で多くの人々が当たり前のように考える地動説も、彼が生きた時代においては革新的な見地から見た妄言のひとつだったのです。

 彼の生涯における裁判は有名な話ですが、その内の2度目の裁判は彼が執筆した〈天文対話〉と呼ばれる書籍に関するものでした。

 彼は地動説を唱えた後、異端審問所からの警告を受けたことを忘れてはいませんでした。その後に書籍を出版するに当たっては、もちろん用意周到に準備を重ねています。

 当然、ヴァチカン教皇庁の担当者へ地動説を含む内容の書物を出版することの許可も得ることも忘れませんでした。

 しかし、書籍が刊行された後、再び異端審問所は彼を告発するに至りました。

 彼は再び裁判にかけられることとなり、結果として無期刑が与えられています。

 以後、天文対話は禁書目録に掲載され、近代に至るまで存在自体が異端であるとされたのです。


 彼の唱えた地動説が正しかったかどうか。それは歴史と進歩した科学が既に証明しています。

 彼が〈それでも大地は動く〉と言ったかは定かではありませんが、事実として地球という天体は自ら動いていることを、後の時代に続く科学者たちは解き明かしました。

 そのことについて、ヴァチカン教皇庁が彼の裁判に関する非を認めたのは1992年のこと。1642年にガリレイが生涯を閉じて以後、裁判が過ちであったと認めるまで実に350年の時を費やしたのです。

 ヴァチカン教皇庁が正式に地動説を認めるまで、そこからさらに16年の歳月がかかっています。


 これは我ら信仰の道に生きる人々全ての教訓です。いえ、生ける人々全ての教訓です。

 科学だけではありません。

〈普遍性〉と〈多様性〉。インカルチュレーションを肯定し、教会のある土地の伝統と文化を認めることで我々の教義は今という時代まで存続することが出来ています。

 にも関わらず、個々人の心の内には時代の進展とインカルチュレーションを否定しようとする考えがまだ根強く残っています。


 正しいのは自分達で、間違っているのは相手である。

 善悪の観点など、自らの立ち位置で如何様にも変わることは自明の理であると誰もが知っています。

 しかし、そうした己の立場でしか物事を考えない傲慢さが尽きることはなく、この時代、この土地において今まさにそれらの感情が大きな事件を生み出しました。


 深層心理の曝露。


 ミュンスター暴動やミュンスター騒乱と呼ばれる此度の事件はまさにこの1点が鍵となります。』



 遠回しではあるが、事実を語っている。

 しかし、彼という人間が事件の発端に関与していたとは。アンジェリカの計略が、どこまでも狡猾なものであったことを今さらながらに思い知らされる。



『私は学生たちに伝えました。今の時代における科学の発展は直線的であり、人の心がついていっていないと。

 私は学生たちに伝えました。近代における信仰の道において、多くの宗派の信徒たちは〈ただ信じることのみ順守していれば良い〉と教義を解釈しているのではないかと。

 このことを個人の口から立場を持つ人間の意見として話したことは大きな過ちでした。

 なぜならば、この考えに至る私の感情そのものが、先に申し伝えた〈傲慢さの具現〉であったからです。


 信仰とはこうでなければならないという考え方。

 私の講演における発言は、ともすればインカルチュレーションを否定する考え方です。


 私が大学における講演を終えて以後、カトリックと福音主義を主だったるものとして、生徒たちの間に論争が生じました。

 最初は真剣な討論であったものが、いつしか罵り合いという口論へと発展していったと言います。

 互いにどちらが正しいのかという観点から始まった諍いです。


 では、なぜ対立にまで至ったのか。

 人は内在する意識の中で、たとえ先に挙げた傲慢さを秘めていようとも、〈間違っていると自身が認識した相手への攻撃〉を理性を持って思いとどまっています。

 今回の事件では、そこに歯止めが効いていなかった。


 再び別の話をします。

 世界有数の心理学者であるアルフレッド・アドラーは興味深い観点から人の心を解き明かしました。

 個人心理学と呼ばれる心理学体系において、人の感情には全て目的があると語ったのです。

 喜びには喜びの、悲しみには悲しみの、そして怒る為には怒る為の目的があると。


 そう、我々が他者の話を聞き『それは間違っている。悪である。異端である。迫害すべきものである。』という考えの元に怒りを表出させたのは〈常日頃から深層心理において、それを声高に叫びたいという欲求があるから〉に他なりません。

 日常的に間違っていると認識した者への攻撃をしたいという欲望、〈目的〉を持っていたのです。


 彼の考えになぞらえて考えるのならば、つまり今回の事件で各宗派同士の諍いが過熱し、過激となっていったのはある意味では必然と言えたでしょう。

 全ては我々人の心が生み出した悲劇なのです。

 我々が思っていたことであり、我々が望んだことであったと。

 誰の責任でもなく、一人一人の心に秘めたる思いが生んだ惨禍であったと。


 認めなければなりません。

 そして悔い改めねばなりません。


 我らの犯す罪を、神は許された。我々の犯した罪を主は引き受けてくださった。

 我々も、他者を許さなければなりません。』



 深層心理の具現。目的があるから怒りが生じる。まさにその通りだろう。

 相手を自分の意見によって屈服させたい、従えたいという欲求が根底にあり、その意識には〈自分は絶対的に正しい〉という傲慢な信念がある。


 昔、マリアが言っていた言葉を改めて思い出す。

 今の彼と同じようなことを話していた。


 そしてふと、この事件の真実について、彼女が詳細を知り得ていたことに対する不安が頭をよぎった。


「マリー、君は今どこにいるんだい?」


 また自ら危険なことに首を突っ込んでいるのではないだろうか。

 彼女であればやりかねない。ただ、今の自分に出来ることがあるだろうか。

 それこそ、祈りを持って願うということだけかもしれない。


 フロリアンは、身に着けた黒曜石のペンダントを握りしめ、彼女の身を案じながら司教の演説に再び耳を傾けた。


                 * * *


 モニターを見ながら、司教を模した人形による演説が佳境に入ったことを見て取った。

 目の前では言葉なく、祈りによって思念を人形へと送り続けるホルテンシスの姿がある。


 最後の瞬間までこのままなら良い。

 終わりを見届けるまでこのままであったなら良いとマリアは考えていた。

 しかし、自身の予感はその願いを否定していた。


「アザミ、彼女が気付いたようだ。恐ろしいほどに禍々しいものが来る。」

「えぇ、認識しております。」

 囁くように言ったマリアに、アザミは同じように答えた。

 2人の会話を聞き取ったブランダとシルベストリスは身を強張らせて身構える。


 次の瞬間、部屋の空気が硬直したような錯覚が全員を襲う。

 空気の流れは止まり、時間の流れも止まり、現実から隔絶されたような静けさに包まれる。


 全員が神経を研ぎ澄ませる中、少女の声が室内に響いた。


「ミィツケタ……」


 言葉と同時に一筋の閃光が走る。それは真っすぐにホルテンシスの首元を目掛けて直進したが、彼女のすぐ傍で弾かれるように消え去った。

 ホルテンシスの隣に控えたアザミによって、ホルテンシスの命を狙ったアンジェリカの一撃は葬られたのだ。

 当のホルテンシスはじっと瞳を閉じて祈りを捧げる姿勢を崩さず、己のすべきことに全神経を集中させている。


「やっぱり、“それ”が本命なのね。」


 低い調子で呟くようにアンジェリカは言う。

 まるで怨念に憑りつかれたかのような怒りの形相をしたアンジェリカは部屋の後方隅に姿を現し、真っすぐにマリア達を睨みつけた。

 対するマリアは微動だにせず、振り返ることもなく言う。

「随分と乱暴な挨拶だね。レディなら少しは慎まやかに振舞いたまえよ。」


 マリアが言葉を言い終えるか否かという瞬間、今度は彼女の首筋を目掛けて光の一閃が放たれていた。

 しかし、その一撃も彼女の首元へ届く前に虚空へと霧散する。


 この時に至って、シルベストリスとブランダは身を震わせながら後ろを振り返り、アンジェリカの姿を視認した。

 部屋の奥には、アスターヒューの瞳を深く輝かせ、全身から禍々しい殺気を放つ少女が1人佇んでいる。

 近付くだけで呪い殺されそうな程の圧倒的な威圧感。目にするだけでも足が竦み、震えが止まらなくなる。


 そんな2人の視線を意に介すことなくアンジェリカは言う。

「いつぶりかしら?貴女もしばらく見ない間に随分と変わったものね。上品さが少し欠けたんじゃない?」

「それはどうも。まずは久しぶりの再会を祝福するべきだったかな?」相変わらず視線を向けることなくマリアは返事をする。

「結構よ。厳密にいえば、貴女とは初対面ということになるわけだし?それにしても、まさかメディア全てを利用して計画を潰しにかかるだなんて。馬鹿げた手法もあったものね。今まで何もしていない振りを演じて、こそこそとネズミのように動き回る貴女らしい作戦だこと。」

「最上の誉め言葉、痛み入る。目立つことはあまり好きじゃないんだ。内向的な性格でね。」

「そんな恰好をして街中に繰り出しておいてよく言うわ。でも、根暗だっていうところには同意してあげる。」

 アンジェリカの言葉を聞き、マリアはにやりと笑いながらようやく後ろを振り返り言う。

「君ほどではないよ。」


 マリアは真紅の瞳を輝かせながら座席から立ち上がると、彼女の方へ向き直り言った。

「それにしても遅い到着だったじゃないか。もう少し早く私達を見つけてくれるかと思っていたけれど、買いかぶり過ぎだったかな?」

「えぇ、暗がりが大好きな汚いネズミを広い街全体から探し出すのは骨が折れたわ。ま、見つけたからにはしっかりと駆除してあげないとね。」

 アンジェリカはそう言うと右手をぱちんと鳴らす。すると彼女の周辺の空間が歪み、中から十体ほど鎧を纏った血まみれの兵士が現れた。

 不自然に折れ曲がった関節、錆び付いた鎧と刃こぼれした剣。この世に強い恨みを抱いているかのような低い呻き声を上げながら、兵士たちはゆっくりと5人の方へ近付いてくる。


 シルベストリスとブランダは席から立ち上がるが、恐怖でその場で硬直してしまい身動きが出来なくなった。

 そんな彼女達の前にマリアは歩み出ると、両掌を上に向けた状態で持ち上げ呆れたように言う。

「ウェストファリアの亡霊。やれやれ、人を散々根暗だのネズミだのと罵っておきながら、まず最初にやることがそれとは。か弱い乙女たちを相手に数で制圧しようだなんて、優雅さの欠片もない。」

「言わなかったかしら?汚いネズミを駆除するって。そんな相手に、私自身が直接手を出すことに嫌悪感を感じているだけよ。それと、私にあれだけの屈辱を与えてくれたんだもの。じっくり痛めつけて楽しまないと割に合わないわ。……はぁ、何だかもう言葉を交わすのも面倒くさくなってきたわね。」

「その意見には賛成だ。」


 両者ともそれ以上は言葉を交わすことなく睨み合いを続ける。

 息の詰まる静けさで室内が満たされる。永遠に感じられるほど長い10秒が経過した瞬間、ついに両者の均衡は破れた。


 マリアの目の前で5つの光の帯が霧散する。アンジェリカが前触れもなく放った光速の斬撃をアザミが後方から弾き飛ばした。

 斬撃が消滅した風圧で部屋の窓ガラスが砕け散る。

 続いて迫りくるウェストファリアの亡霊がシルベストリス達に襲い掛かるが、地面からせり出してきた無数の漆黒の棘によってすぐに全身を貫かれた。

 文字通りの針山と化した亡霊たちは僅かな抵抗をすることも出来ず、黒い塵となってその場から消え去った。

 その時には既にアンジェリカの姿は前方から消失していた。その場にいた全員が次に彼女の姿を視認したのは、彼女が言葉を発したと同時である。


「大口を叩く割には、結局貴女1人では何も出来ないじゃない。神様の子守りがなければ何も出来ない“お嬢様”?」

 マリアのすぐ後ろ、シルベストリスとブランダの後方の宙から姿を現したアンジェリカは、光によって生成された鋭利な剣状のものを右手に掲げ、自身の落下する勢いに合わせて加速すると躊躇なくマリアへと斬りかかった。

 だが、光の刃先が彼女の背中へ到達するよりも先に黒い棘が行く手を阻む。


 鈍い音が響き、アンジェリカの小さな身体は宙へと跳ね返された。

「おや?直接手を出すことに嫌悪感を抱いていると言っていなかったかい?もう前言撤回かな?」

 マリアは挑発的な言葉を並べてアンジェリカへ視線を送る。


 アンジェリカは光の刃を付近の机に突き立て受け身を取って態勢を立て直すと、再び指を鳴らして亡霊を呼び起こした。

 その数は先の倍はいるだろうか、教室中を囲むように亡霊は次々と湧き上がってくる。


 彼女が手に持つ光の刃を机から無造作に引き抜くと、机に格納されていたデバイスの筐体や基盤が粉々に粉砕されて辺りに飛び散った。

 その様子を視界に捉えたマリアは言う。

「貴族の振舞い方として言わなければならないかな?物は大事に扱うべきだね。」

「そう思うなら場所は選ぶことね。でも安心なさい。この場は現実から隔絶された異空間。私の手によって作られた現実と仮想の狭間よ。何が壊れようと現実の物質に影響は与えないし、この空間には何人も立ち入ることは出来ない。思う存分暴れても平気なの。だから……」

 そう言ったアンジェリカは右手に展開した光の刃先を構えると壁を思い切り蹴って再度マリアへと飛び掛かりながら叫んだ。

「華々しく散りなさいよ!」


 人間の目で追い切れるかどうかという速度。勢いを付けて斬りかかった彼女の斬撃を、アザミの黒棘が遮る。


 アザミは、超高速で飛び回る彼女を相手にしつつ、とめどなく湧き出る亡霊達を黒い無数の棘で串刺しにし、一瞬で駆逐していく。

 だが、駆逐される速度とほぼ同じ速度で湧き上がる亡霊達の数は減ることがなかった。

 湧き出る亡霊の攻撃から、すぐ傍のホルテンシスを守りつつ、マリア達3人もアンジェリカの攻撃から守るという状況。

 アンジェリカ本体を攻撃することに意味がないという点は、アシスタシアからの報告で聞き及んでいる。

 まさに泥仕合と呼ぶにふさわしい。アザミは冷静に今の状況を分析していた。


 神の力を振るい、傍目には圧倒しているように見えても決定打はない。

 むしろ防戦に徹することしか出来ない状況を鑑みると、アンジェリカの方が立場的には有利なのではないかとすら思える。

 終わりの見えない争いというものは精神への負担が大きい。

 自分や、攻撃を仕掛けている側のアンジェリカにとってはどうということはないが、守るべき対象である彼女達は違う。

 余裕の笑みで挑発に応戦しているマリアと、震えつつも自分の脚で立ち続ける姉妹。平気なように見えても精神的な限度というものがある。


 どこで終わらせるか。

 ホルテンシスの祈りが終わる瞬間が目安となるだろうが、既に自分の計画が破たんしていることを理解しているアンジェリカがそこで退くとは思えない。


 きっかけが必要だ。


 加えて、先程からアンジェリカの攻撃を繰り出す速度は徐々に加速していっている。

 別の目的の為に持てる力の大半を割いていると推測され、存分に力を振るうことができないはずの彼女がここまでの力を発揮できようとは。

 こちらも手心を加えているとは言え、油断できる状況では決してない。

 自分に目を向けることすらなく、彼女は先ほどからこちらの攻撃を完璧に読み切ってかわしながら、その隙間を縫ってマリアへ斬りかかり続けている。

 そろそろ、周囲を気にして加減している場合ではないのかもしれない。


 アンジェリカの言う通り、完全に現実と隔絶された世界であれば問題ない。しかし、この部屋を越えた向こう側は現実と繋がったままであったなら、規模の大きな攻撃は即ち現実世界への無差別攻撃に繋がってしまう。

 このままいたちごっこを続けることも可能だが、いずれにせよ埒があかない。

 業腹ではあるが、マリア達の身の安全を早期に確保するのであれば、ひとつ彼女の言葉を信じてみる必要があるだろう。



「私はいつまででもこうしていられるけど、貴女達はどうなのかしら?」

 凄まじい速度でマリアに斬りかかりながらアンジェリカは言う。その声は教室内という空間そのものから発せられるように響き渡る。

「もう無駄口を叩く余裕すらなさそうじゃない。確かに私の計画は失敗した。貴女達の勝ちよ。それは認めるわ。けど、お楽しみを壊されたお礼はしっかりしないと気が済まないの。」

 そう言いつつ、ようやく足を止めたアンジェリカはマリアを睨みつけ、左手で指差ししながら続ける。

「私の大切なものを壊されたのだから、貴女が大切にしているもののひとつでも奪わないと、私の気が晴れることはない。」

 ゆっくりと指先を動かしシルベストリスとブランダ、そして奥にいるホルテンシスを順に数えるように指し示す。

「今から1人ずつ、貴女の目の前でばらばらに解体して殺してあげるわ。」

 アンジェリカは前に突き出した左手で指をぱちんと鳴らす。すると周囲の空気が揺れ、何もない空間が歪むようにして出来た波が姉妹達を目掛けて高速で迫っていった。


「きゃっ!」


 声を上げたシルベストリスのすぐ脇を波が掠めて行く。

 波が通り抜ける瞬間、マリアがシルベストリスの身体を引っ張り回避させたのだ。

 風の刃。かまいたち。空気の波動とも言うべきそれが通り過ぎた後には、大きな刃が深く抉ったような跡がくっきりと残されている。

 残り二つの振動も同じように床や机を抉っていたが、目標を大きく外して壁へ激突し、奥の部屋まで到達して消えたようだった。


「狙いはまず1人。あぁ、惜しかったなぁ。」


 クスクスと笑いながらアンジェリカは言った。


「マリア様……申し訳ありません。」泣きそうな声でシルベストリスは言った。

 マリアは視線をアンジェリカへ向けたまま何も言わず、シルベストリスの肩を優しく二度ほど叩いた。


「はいはい、美しい美しい。そういうのを見せられると、なんだか癪に障るのよね。」


 盛大に舌打ちを鳴らし、大溜め息をついて顔を俯けながらアンジェリカは言うと、踏み込みの姿勢を見せて光の刃を再び構えてみせた。


「次は仕留める。」


 呟くように言った瞬間、アンジェリカはその場から姿を消した。


 部屋にいる中で、唯一アザミにだけは彼女の動きが見えていた。

 姿が消えたのではない。目に留まらぬような速さで動いたのだ。

 アザミはコンマ数秒よりも圧倒的に短い時間で、次に己が為すべきことを正確に導き出し実行しようとしていた。


 アンジェリカはシルベストリスの横に姿を現すと、歪んだ笑みを浮かべて言う。

「可愛い子、ご機嫌いかが?さようなら。」

 振りかぶった光の刃を首筋目掛けて正確に振り下ろす。


 そして、光刃の輝きがシルベストリスまであと数ミリと迫った瞬間であった。

 天井から轟音が鳴り響いた。異変に気付き、表情をこわばらせたアンジェリカは突如として身を翻して、現在位置から最も離れた壁際まで飛び跳ねて移動していった。

 彼女の後を追う様に、黒い影のような雷撃が無数に天井を突き破り、凄まじい勢いで降り注ぐ。

 それらは部屋中の机と椅子やデバイスを粉々に破壊し、側面の壁を破壊しながらアンジェリカへと攻撃を加えていた。


「ちっ、天の弓。また厄介なものを。」


 吐き捨てるようにアンジェリカは言う。

 周囲に立ち込める煙が鎮まった時、マリア達の目の前には血まみれになったアンジェリカの姿があった。

 矢状の黒い雷のいくつかは彼女へ命中していたらしく、大きな傷口を開いた右大腿部からは鮮血が吹き上げている。左手首から先は骨が付き出し、皮膚だけで繋がれた状態になっており、そこからもおびただしい血液が流れ出ていた。


 想像を絶する光景にシルベストリスとブランダは共に口元に手を当てて涙を滲ませながら驚嘆の表情を浮かべて肩を震わせる。


「ものは大事に扱うべきだとか言ってなかったかしら?」

 動きを止め、低いトーンの声で言ったアンジェリカを見やり、それまで沈黙を貫いていたアザミが口を開く。

「確信が持てない内は使わないようにと思っていました。ですが、先程貴方が見せた“かまいたち”のように見える風の斬撃が壁を突き破った時に大丈夫であると悟ったのです。」

「あぁ、そう。」

「えぇ。もし、隔絶されているのがこの教室だけで、空間の外が現実であったなら、この空間外に飛び出したものは現実世界に影響を与えてしまうでしょう。そうなれば、ただそこにいたという人々を巻き込み殺めてしまうことになる。貴女の言う隔絶というものが、どこまでの範囲を示すのか分からない以上、周囲ごと巻き込む方法で貴女自身を攻撃することが出来なかった。」

「私のミス?やっぱりデタラメね。怖い怖い。神様に慈悲などというものは無いのかしら?」

「今ここで貴女が行為を停止し、許しを乞うならば検討しないわけではありませんが。」

「は?何それ。」

 嘲笑を浮かべながらアンジェリカは声を上げて笑う。

「私が乞うわけないじゃない。」

 言うと同時に、彼女が負傷した部位から赤紫色の煙が噴き上げ、傷口はみるみるうちに元通りに再生していった。

 布地が割け、血まみれになった衣服はそのままだが、何事もなかったかのように無傷となったアンジェリカはその場に立ち上がった。おもむろに盛大な溜め息をついて言う。

「痛い痛い。しばらく後をひきそうな痛みだわ。でもね、どれだけ私を切り刻んだって、それが無意味であることは知っているのでしょう?どんな方法を用いたって意味なんてない。総大司教様がいたとしても同じことよ。今の私に不死殺しは届かない。」

「残念です。ここに至ってまだ引き下がろうとしないとは。」アザミは粉々になった机や機材の瓦礫を踏みしめ、前に歩み出ながら続ける。

「アンジェリカ、ひとつ問います。貴女はなぜそこまでして争いに身を投じるのですか。」

「ただの意地であることも否定はしない。けど、やっぱり楽しいからかしら?罪を犯して平然と生きる人間達が、目の前で苦悶の表情を浮かべながら赦しを乞う無様な姿を眺めるのも、苦痛に顔を歪めて絶叫する様を見るのも、ね。争いの無い世界でそうしたものを見ることは出来ないもの。」

「昨夜、聖ランベルティ教会前の広場で彼が言ったこと。わたくしも同じように思いました。貴女はただ自身が望むものを誰かに欲しいと願うだけで良かった。持てる力で如何様にも出来たはずなのに、それを自ら否定して破滅の道へ突き進んでいる。」

「やっぱり盗み聞きしていたのね?ドブネズミはどこに潜んでいるかわかったものではないわ。そうだという確信はあったのだけれど、聞いていたのなら話は早い。耳にした通り、私はもう1人の私という存在の為に、あの子が望むことを実現させる為に存在するの。邪魔をしようとする者は絶つ。簡単な理屈でしょう?」

「理屈ではなく、貴女自身の気持ちを聞いているのです。」



 アンジェリカとアザミが睨み合いながら言葉を交わす中、その奥ではホルテンシスがふと目を開く。

 祈りを終え、全身全霊を持って為すべき務めを果たした少女は朦朧とする意識の中で目の前に広がる光景を見た。

 そこには赤黒く染まった異界のような景色が広がる。床一面を埋め尽くすのは木やプラスチック、鉄材の破片やコンクリートの塊。ありとあらゆるものはバラバラに砕け散り無惨に変わり果てた姿をさらしている。

 遠くから聞き慣れない少女の声と、聴き慣れた女性の声が聞こえる。


「いくら言葉を重ねたところで、お互いに理解し合えるわけないわよ。私自身に歩み寄ろうという気持ちが微塵もないことだし?」

「では致し方ありません。せっかくこれ以上、痛い思いをせずに立ち去る機会を差し上げたというのに。」

「そういう上から目線がむかつくって言っているの。それに、次に痛い思いをするのは貴女達よ。」


 少女は光り輝く剣状の刃を構えて斬りかかる態勢に入っている。

「言って聞かぬなら、同じことを繰り返すまで。」

 アザミは自身の周囲に黒い影を蠢かせて防戦の構えをとった。


 そんな中、奥に佇むホルテンシスにだけ見えていたものがある。

 影に覆われて守られたマリアと自分の姉妹達。マリアは履いているヒールを瓦礫に幾度か押し当てる仕草をしている。何かの合図だろうか。

 姉妹2人はマリアの行動に気付く様子はなく、足元に転がっていた細長い1本の鉄棒を持って頷き合っている。

 姉妹達が手にしていたのはコンクリート造りの建物の基礎に使われる補強筋が破壊された残骸であった。


 ホルテンシスの脳内には姉妹達の声が微かに聞こえてくる。

『私達も、もう震えて立ちすくんでる場合じゃない。次に狙われるのは間違いなくホルスよ。アザミに教えたいけど、この状況では無理だから私達で守らないと。』

『そうだね。昔と同じように、何もしないまま、怯えてるだけなんてもうたくさん。トリッシュ、私も手伝うから、合図をお願い。』


 シルベストリスの近未来予測。

 ホルテンシスはシルベストリスとブランダのテレパシーを通じて、怨念に憑りつかれたような禍々しい殺気を放つ少女が自身目掛けて斬りかかってくることを確信した。

 同時に、あの2人は未だに気付いていない様子ではあるが、すぐ傍のマリアはやはりさりげない仕草で状況をアザミに伝えているとも考えた。


 この場合、自分は無暗に動かない方が良いのだろう。

 近未来予測や未来予知というものは、対象が不足の動きをすれば予定調和が乱れるように出来ているという。マリアもシルベストリスも同じことを言っていた。

 失敗すれば間違いなく訪れる死。恐れがないわけではない。それでも、自分は自分を守ろうとしてくれている彼女達のことを信じることにする。

 それに、大天使の加護による力を全力で使い切り、体力的に満身創痍の今の自分が動いたところで、2歩程度踏み出したところで行き倒れるのは目に見えている。


 加えてあの少女……彼女がアンジェリカだろうか。精神感応により伝わってくる彼女の心の声は、もはや言葉とは言えない絶叫、怨念、怨嗟のようなもの。気が狂いそうになるほどの狂気と混沌で満ち溢れている。

 そんな彼女の、見ただけで呪い殺されそうな殺気を放つ少女の攻撃を、自らの意思でかわすなど不可能だ。


 ホルテンシスは視線を目の前に向け、胸の前に組んだ両手をぎゅっと握りしめて彼女達を信じた。



 張り詰めた空気が室内全域を包み込む。

 遠く離れた人の息遣いはおろか、心音まで聞こえそうな程の緊張感の中、ついにその瞬間は訪れた。


 アンジェリカは自身の背後にある壁を思い切り蹴り上げると、アザミの展開した防壁を迂回するように飛び上がる。

 アザミは即座に黒棘を彼女目掛けて打ち出し、対空迎撃を行う。合わせて、天上からは黒い雷が彼女目掛けて降り注いだ。

 黒い雨に撃たれるような状況の中、アンジェリカは顔色一つ変えることなく己の目指す方角へ突き進む。

 腕が撃ち抜かれ、脇腹に黒棘が突き立とうとも構うことなく、天上をもう一度蹴り上げるとホルテンシスがいる方角へ向かって一直線に突っ込んでいった。


 彼女が天井を蹴って加速する直前、一瞬だけ常人の目で彼女を捉えられた瞬間、ホルテンシスの脳内には姉妹達の声が聞こえた。


『ブランダ!今!』

『お願い!間に合って!!』


 直後、鈍い音が響く。

 凄まじい勢いで金属に物体が衝突する音。




「は?ちょっ……」


 アンジェリカは咄嗟に自身の足首を見た。

 何かが砕けるような音が聞こえた。細長い鉄の棒に引っ掛けられた自分の足先は〈くの字〉を書くように有り得ない方向に折れ曲がっている。

 一直線に目標へ向かって飛ぶはずだった少女は思い切り態勢を崩し、目標から大きく逸れ受け身を取る間も確保できないまま、床に散らばる残骸目掛けて突っ込んでいった。


「ぎゃんっ!!!」


 コンクリート片と鉄片、デバイスの基盤が散らばる床にアンジェリカは超高速で顔面から叩きつけられた。

 巻き上がる塵煙と共に血の飛沫が周囲に飛び散る。



「うっわ……痛そう……」

 目の前で顔から残骸に突っ込んでいった少女を見てホルテンシスは思わず両手で目を覆いながら言った。


 鉄棒を2人で構えて持っていたシルベストリスとブランダの身体も、彼女が足を棒に引っ掛けた時の衝撃と余波で後ろに投げ出されていた。

 ホルテンシスは2人を心配してすぐに彼女達の方へ目を向けるが、倒れ込んで間もなく、2人揃って立ち上がったので安堵した。


 その瞬間、ふとあることに思い至り、焦って口元を手で押さえながら続ける。

「あ、やっば。これ、もう繋がってないよね?」


                 * * *


「私は1人の個人として皆様にこの事実をお伝えしたかった。この地へ運ばれた災厄は我々の心が生み出した悲劇であると。


 己の心へ問い掛けてください。

 過ちを認めて前に進むのです。

 繰り返してはなりません。


 我々は歴史という重い時の流れの中で、幾度の大きな惨禍を乗り越えてきました。

 教訓を忘れてはならないのです。


 私はここに宣言します。

 ミュンスターにおける混乱は、今この時を持って浄化の道を辿るものであると。

 世界最大の宗教大戦と呼ばれた三十年戦争を集結へと導いたこの場所から。


 “平和の大広間”より訴えます。


 新時代のウェストファリア条約は、皆さんの心の祈りによって成されるのですから。」



 ミュンスター全域には各地の鐘楼から再び荘厳な鐘の音が鳴り響く。

 終わりを告げる鐘の音。惨禍の終焉を伝える希望の鐘の音が。


 身振り手振りを交えながら宣言したトーマスの演説はそこで終わる。

 メディアの映像も音声も途絶え、文字通りの終焉を迎えたのだ。

 言葉の終わりを聞き届けたロザリアは右手を鳴らす。


 ロザリアの合図と共に、両手を高々と掲げていたトーマスは唐突に動きを止め、魂が抜けたかのようにぐったりとした。


「成すことは為し得ました。これで全てが終息に向かうでしょう。」

「残る問題は彼女です。おそらく、今頃はマリア様の元で駄々をこねて暴れているのではないかと。いかがなさいますか?」

 アシスタシアがそう述べ、ロザリアがしばし考え込んだ後、ぐったりしたトーマスが口元を動かして思わぬことを口にした。


【うっわ……痛そう……】


 思ってもみない言葉を唐突に聞かされたロザリアとアシスタシアは呆気にとられる。

 トーマスへ思念を送るホルテンシスの呟きがそのまま発せられたのだ。

 状況を理解したロザリアはおもむろに口元に手を当てると、声を上げて笑い出した。


「うふふふふ、これは、これはなんと…。今の言葉だけであちら側で何が起きているのか察しがつくというもの。えぇ、えぇ、実に……」

 盛大な笑いをこらえる為に肩を震わせて言う。

「ロザリア様?援護に向かわなくてもよろしいので?」

「あぁ、ごめんあそばせ。いえ、必要ないでしょう。今、駆け付けたところで、双方から、〈何をしに来たのか〉と言われるでしょうし、マリーに対する、貸しのひとつにも、なりませんわ。」

 その声は未だ震えている。アシスタシアへの返事も途切れ途切れにしか返せぬほど深く笑っているのだ。


 ロザリアはしばらくの間笑った後、落ち着きを取り戻すと深く息を吸って呼吸を整えた。

 続けて幾度か深呼吸を繰り返してさらなる落ち着きを取り戻す。

 そして、ぐったりとしたトーマスの元へ静かに歩み寄り、肩に手を当てて囁く。


「神の御許で安らかな眠りを。主の慰めがありますように。」


 彼女がそう呟いた瞬間、トーマスの姿は光の粒子となって大気へと消え去っていった。

 彼の姿が粒子ひとつに至るまで消え去った後、ロザリアは言う。


「貴方は全てにおける典型でありました。知恵に満たされ、美の極致でありました。」


 そして彼の座っていた椅子をじっと見つめながら、とても穏やかな表情で囁くように言う。

「どうか、安らかに。」


                 * * *


 立ち昇る瓦礫の塵埃が晴れる直前、地面に突っ伏した状態のアンジェリカに追い討ちをかけるようにアザミの黒棘が背中へ突き立てられる。

 アンジェリカは、全身を貫く痛みによる反射で身体中をびくびくと震わせ、痙攣したまま立ち上がることが出来ないでいた。


 その隙をついて、シルベストリスとブランダの2人がホルテンシスの元へ駆け寄り、肩を貸しながらマリアとアザミの元まで素早く移動した。


 アザミはじっとアンジェリカを見据えたまま臨戦態勢を解こうとはしない。

 彼女が動けなくなっていても、異界化した周囲の景色が元に戻ることがなかったからだ。


 少し経って体の痙攣が治まると同時にアンジェリカは瓦礫の中から顔を上げてゆらゆらと揺れながら立ち上がった。


『うっそ、あれで動けるの……!?』ホルテンシスが脳内で悲鳴に近い声を上げる。

『聞いていた以上に、言っては難だけど化物ね。』

『あわわわ……どうしよう、どうしよう。』

 呆然とするシルベストリスと、自分達の行いによってぐちゃぐちゃになったアンジェリカの姿を見て慌てふためくブランダ。

 悪夢じみた光景を前に怯える3姉妹の前に、マリアは進み出てアンジェリカとの間に立ち塞がった。


 ゆっくりと後ろを振り返った少女の顔面は真っ赤に染まっていた。美しく愛らしかった顔には無数の鉄片が突き刺さり、そこからは大量の血が溢れ出ている。コンクリートによって額は圧し潰され、右目は明らかに飛び出していた。

 アンジェリカはぜぇぜぇと獣のように荒い息遣いをしながら、焦点の定まらない目をぎょろりとさせマリア達を恨めしそうに見据え、アスターヒューの瞳を輝かせている。


 少女は脇腹に突き刺さったままの黒棘を右手で掴むと、低い喘ぎ声を上げながら思い切りそれを引き抜いた。


 その後、先程と同じように赤紫色の煙が傷口から立ち昇ると、あっという間に元通りに再生した。

 怒りに燃える瞳でじっとマリアを睨みつけたまま、アンジェリカは再び白く光り輝く剣状の刃を構える。

 迎え撃つように堂々と立つマリアは、アンジェリカから視線を逸らさずにじっと彼女を見据える。


 無限に感じられる数秒が経過する。


 一呼吸ついて、思い切り床を蹴ってアンジェリカは真っすぐにマリアの懐目掛けて直進した。

 蹴り上げられた瓦礫の山は勢いと風圧で、爆発したように周囲へ飛び散る。

 コンマ数秒。その間においても、マリアとアンジェリカは互いに視線を逸らすことはなかった。


 だが結局、アンジェリカの切っ先がマリアに届くことは無かった。

 刃がマリアに届くより先に、どこからともなく現れた巨大な黒い犬のような影がアンジェリカの左側から噛みつき、そのまま壁際まで叩きつけたのだ。


 真っ赤な眼光を鋭く光らせ、地に響き渡るような唸りを上げながら影は言う。

【もう良いのではないか?下がれ。下がるのだ。もう何をどうしようと、汝の切っ先があの子へ、あの子達へ届くことは叶わぬ。】

「バーゲスト。姿が見えないと思ったら、こんな時になって現れるなんて最低ね。貴方のことは、貴方のことだけは嫌いではないけれど、その言葉は聞けないわ。」

 黒き精霊、漆黒の妖犬に身体を噛みつかれ、壁際に磔のようにされながらもアンジェリカは抵抗の意思を示した。

【我も大役を担っていた身である。汝の画策した計略を破滅に追い込む為の、な。それは良い。それよりも聞け。聞き入れて身を退くがいい。】


 ヴィルヘルム大学にいたホルテンシスと旧市庁舎の平和の大広間へいたトーマスの人形を繋いでいたもの。

 アンジェリカの異界化の影響を受けず、大天使の加護による思念を人形へ送り続ける〈繋がり〉の役目を果たしていたものこそバーゲストであった。

 ホルテンシスが祈りを終え、今という瞬間までの間に姿を現さなかったのはその為だ。


 アンジェリカは深い溜め息をつくと、マリア達を横目に見やりながら言う。

「分かったわよ。さすがに、神様に加えて貴方の相手までするとなったら……しんどいからね。言うことを聞かないときっと、この身体もこのまま三分割されてしまうのだろうし。痛いのは嫌よ?」

【物分かりが良いな。否定すればこのまま噛み千切ろうと思っていたところだ。】

 バーゲストの言葉を聞き、アンジェリカはそれまでとはまるで違う、穏やかな微笑みを浮かべて言う。

「どうして、貴方のような存在があの子に懐いちゃったのかしらね?」


 そのまま、アンジェリカは僅かに動かすことが出来た右手で指をぱちんと弾くと、紫色の煙を解くようにしてその場から姿を消し始めた。

 光粒子の帯が大気に舞う。異界化された世界も現実へと少しずつ戻っていく。

 瓦礫が積み重なる赤黒く染まった景色は、真っ白な壁面にホワイトボードが設置され、机と椅子が整然と並べられた元通りの教室へと姿を変えた。

 アンジェリカが姿を消し去り、教室の周囲に空気の流れと喧騒が戻ってきた瞬間、バーゲストも低い唸りを残しながら姿を消し去った。


 何事もなかったかのような空間。

 事実として、現実世界においては“何事も無かった”のではあるが、地獄のような光景を目の当たりにした姉妹達は未だに自身の目で見たものを信じられないという面持ちであった。

 まず、力を使い切ってへとへとになっていたホルテンシスが脱力し、ぺたんと椅子に腰かける。

 続いて彼女を支えていたシルベストリスとブランダも脱力して腰を下ろした。

 何を言うこともなく立っていたマリアは後ろを振り返り、姉妹3人を抱き締めながら言う。


「ありがとう。君達が無事で、本当に良かった。お疲れ様。」


 計画成功の確認よりも先に、マリアは姉妹達の状態をつぶさに確認する。

 今伝えたいことを簡潔に述べ、力強く抱き締めるマリアの温かさに触れ、姉妹達はそれまでずっとこらえていた涙を流し、声を上げて泣いた。


 そんな4人の様子をすぐ傍で眺めながら、アザミはこの部屋にしばらく誰も立ち入らないよう、そっと人払いの結界を張り巡らせるのであった。



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