第30節 -誰が為に望むこと-

 約束の時間が迫りくる。

 時計の針が午後10時に近付こうとする頃、フロリアンは宿泊先のホテルを出て、アンジェリカとの約束の場所である聖ランベルティ教会前広場に向けて歩いていた。

 騒動の影響は深く、この時間ともなると人通りは皆無だ。周囲に見えるのはここ数日と変わらず、辺りを警戒して回る警察官の姿くらいである。

 ちなみに、単身で歩いているように見せながらも、闇夜に紛れるように姿を隠したロザリアとアシスタシアが自分にぴったりとくっついてきている。

 広場付近に到着した後は、アンジェリカを刺激しない為にも彼女達とは距離を取るという手筈になっている。


 日が沈んでからというもの、急激に気温は下がり吐く息は白い。

 フロリアンは刺す冷たさの空気に身震いした。上着を着なければすぐに体調を崩しそうだ。

 歩みを進めるたびに頬を掠める冷気を肌で感じながら、ふと思う。

 彼女の服装を考えれば、こんな状況で外で待ち合わせというのも中々に酷い話だったかもしれない。昨夜も上着などは着ていないようだったが、寒くはないのだろうか。

 それとも、絶対の法がある限りはその辺りのことも平気なのだろうか。

 目的とは関係ないことまで気に掛かってしまう。


 ホテルを出発してからおよそ5分。400メートルほどしか離れていない目的地がすぐそこに迫る。

 プリンツィパルマルクトへ繋がる通りであるロッゲンマルクトへ足を踏み入れ少し歩く。すると約束の場所である広場がすぐ目の前に広がった。


 彼女は既に来ているのだろうか。フロリアンは視線を泳がせて辺りを見回した。

 すると、彼女の姿を見つけるよりも先にある歌が耳に届いた。


If you intend thus to disdain,〈もし、貴女が私を軽蔑するのなら〉

It does the more enrapture me,〈それはますます私を惹きつける〉

And even so, I still remain〈それでも私の心は〉

A lover in captivity.〈貴女に魅了されたままなのだから〉


 天界から響くような透き通る少女の歌声。

 歌声の方に視線を向けると、彼女の姿が視界に捉えられた。

 フロリアンは物悲しい旋律を奏でる彼女の元へ、ゆっくりと近付く。


Greensleeves was all my joy〈グリーンスリーブス、貴女は私にとっての喜びだった〉

Greensleeves was my delight,〈グリーンスリーブス、貴女は私の楽しみだった〉

Greensleeves was my heart of gold,〈グリーンスリーブス、貴女は私の心の支えだった〉

And who but my lady greensleeves.〈私のグリーンスリーブス。貴女以外に誰がいるというのか〉


 虚ろな目をし、尚も歌い続ける小さな少女の傍に辿り着いたフロリアンは何も言わずに目の前の椅子に腰かけた。

 双頭の鷲をモチーフにデザインされたぬいぐるみ型のかばん。彼女はそれを両腕で大事そうに抱えている。

 歌い終えた彼女は視線を上げ、ようやく自分の姿を目にしたようだった。


「寒くないかい?」


 フロリアンの問い掛けに、アンジェリカは何も言わずに首を横に振る。


「早くから待っていてくれたんだね。遅れてごめん。」

「私がそうしたいと思ったからそうしただけよ。貴方が気にすることじゃないわ。」


 心なしか、いつもとは様子が違う。

 相対する者を嘲笑するでもなく、憎まれ口を叩くというわけでもなく、ただありのままに浮かんできた言葉を口にしたという印象だ。


「温かい飲み物でも持って来れば良かった。」

「いらないわ。それより私に話があるのでしょう?昨日の話の続きでもするのかしら。」

 無駄話をするつもりはない。そんな風にアンジェリカは目的の会話だけをしようとする。

「アンジェリカ、君の本心が聞きたい。」

 フロリアンも思っていることを真っすぐに口にした。

「馬鹿な人。何度聞かれたって同じことよ。私がまともに答えるわけないじゃない。」

「じゃぁ、どうしてここに来てくれたんだい?」

「貴方を殺す為よ。」

「違うね。何なら今だって僕は丸腰だ。今すぐに殺すことだって出来る。」

 小さく息を吐いてアンジェリカは言う。

「いけ好かない女が、近くにロザリアとアシスタシアがいるでしょう?加えて、招かれざるお客というものもいる。何も考えずに動けば私の首が撥ねられる方が先。だからそうしないだけ。」

 どうやらヴァチカンの2人には早々に気付いていたらしい。距離をとった意味も無かったのかもしれない。

 しかし招かれざる客とは誰のことだろうか?何を示すものかは分からないが気に留めることでもないだろう。

 フロリアンは言った。

「君には絶対の法がある。繰り返すけど、本気で殺すつもりならやり方だって色々あるはずなんだ。僕達が絶対に思い浮かばないような方法なんてものもね。」

 アンジェリカは視線を合わせることなく言う。

「まるでここで殺してくださいというような口ぶりね。出来ないと知って私を挑発しているの?」

「それこそ、まさかだ。僕はまだ死にたくない。人生でやり残していることは多いんだ。」

「あっそう。」


 僅かな沈黙が流れる。

 フロリアンは話題を少し変えようと思い立ち、先程彼女が口ずさんでいた歌を持ち出した。

「君が口ずさんでいた歌。凄く綺麗な歌声だった。」

「それはどうも。知っているのがこれしかないの。遠い昔にこの歌を私に教えた物好きがいたのよ。」

「歌の意味を、君は知っているのかい?」

「まさか。私が知るわけないじゃない。」


 グリーンスリーブス。それは結実することがなかった愛を表現したイングランド民謡だ。

 歴史において、いつどのような経緯でその歌が生まれ、どのような経緯でその詩を当てられたのかは定かではないが、一説では歌の意味に王室が深い関わりを持っているのではないかとも言われている。

 歌詞の内容を考えれば、それがどのような意味を持つものなのかは否が応でも伝わってくるものであるが、彼女は意味を知らないと言った。

 おそらく知らないのではなく、理解しようとしていないだけではないだろうか。

 その内にこそ彼女が本当の意味で求めるものがあるというのに。


 この歌の最後の一節。


Come once again and love me.〈もう一度ここへ来て、私を愛してください〉


 彼女はその言葉を誰かに口にするだけで良いのだ。それなのに。


「アンジェリカ、話を変えよう。君の望みは何だい?」

「この世界を壊すこと。」

 躊躇いもなく少女は野望を口にする。

「手始めにこの街を?」

「まるで尋問ね。貴方、女の子と会話するセンスはあまりないみたい。」

 アンジェリカはようやく小さな笑みをこぼしながら言った。

「痛いところを突かれたな。どうにも慣れなくて、いつもこんな話し方になってしまう。」

「ふぅん?慣れないから変わらない、か。それにしてはここ最近ずっと美女ばかりを傍に侍らしているじゃない?いつも女の子ばかりに囲まれている癖に慣れないだなんて。贅沢なのね。」

「え?いや、それは……仕事だから。」

「随分と良い仕事があったものだわ。それとも、そういう星回りに生まれてきたのかしらね。これ以上はないほどの女難の相が出ているかもしれないわよ。」

 くすくすと笑いながらアンジェリカは言った。

「そうかな。恵まれていると思っているけど。」

 フロリアンはマリアのことを脳裏に浮かべながら言う。しかし、その言葉を聞いた途端にアンジェリカの顔から笑顔は消えた。

 これ以上ないほどの大きな溜息をつきながらアンジェリカは言う。

「あら、そう。やっぱり貴方、センスないわね。」


 会話はそこでしぼんでしまった。

 互いが何を言うわけでもなく、とても長い数十秒が経過する。

 言葉をなかなか切り出せずにいるフロリアンを見かねてか、アンジェリカが言った。

「私もね、慣れてないの。」

「え?」彼女から普通に話を切り出したことを意外に感じながら、フロリアンは声を漏らした。

「尋問されること。」

 何と言ったらいいのか答えに窮し、フロリアンは固まる。

 その様子を見てアンジェリカは口元を緩めて言う。

「冗談よ。半分はね。本当に慣れてないのは誰かと一緒に普通の会話をすること。これまでの人生で数えるほどしかなかったから。経験してきたのは脅迫や拷問や尋問ばかり。得たい答えを口にさせるまで、ありとあらゆる方法を使って締め上げる。相手が体の痛みを感じなくなれば、次は心の痛みに訴えかける為に精神を締め付ける。その繰り返し。」

 顔をフロリアンへと向け、目を見つめながら続ける。

「普通の会話がたまにあるといっても、それは計画を遂行するために必要な演技をするときに限ったこと。今、貴方としているような会話を誰かとしたことなんてほとんどないの。それも、“君の本心が知りたい”だなんてセクハラを言われたこともないわ。」

「なっ……そんなつもりは。」

「セクハラかどうか。そういうのを決めるのはね、言葉を言われた相手なの。覚えておいた方が良いわ。」


 ばつの悪そうな顔をするフロリアンに、アンジェリカは追い打ちをかけるように言う。

「それより貴方、もしかしてあの子と会話するときもいつもこんな感じなの?」

「あの子?」

「マリアに決まってるじゃない。何を今さら。」

 アンジェリカが彼女の名前を口にした瞬間、フロリアンは全身が硬直した。

「わっかりやすーい。」少女ははしゃぐように笑い出す。

「君はマリアのことを知っているのかい?」

 笑いをこらえながらアンジェリカは言う。「少なくとも私は知っているわ。だって貴方とべったりじゃない。だから気になったのよ。こんな会話をしているのだとしたら、あの子もあの子で大概ねって。」

 そう言うと、アンジェリカはフロリアンの顔を覗き込むように身を乗り出して言う。

「良かったわね。気の合う女の子に恵まれて。」

 先の会話に対するとびきりの嫌味だろうか。


 このままでは会話の埒があかない。

 罪と罰。心に訴えかける話においてはやはりアンジェリカの方が何枚も上手だ。この調子で話を進めれば、一方的に弄ばれて何も聞き出せないまま終わってしまう。

 フロリアンは会話の勝負所を見極めにかかることにした。


「アンジェリカ、君が“愛を教えて欲しい”と言うのなら、僕はそれを伝えようと思う。」

 鼻で笑う様に息を吐いてアンジェリカは言う。

「それじゃぁ、お兄ちゃんは私のことを愛してくれる?私と一緒に、この世界の全てをめちゃくちゃにしてくれる?私のことも、最後にめちゃくちゃに壊してくれるのかしら?」

 身を乗り出したまま、甘ったるい声で囁くように。対するフロリアンは真剣な表情で言った。

「それは出来ない。世界や君を破滅に追い込むことが愛だなんて、僕には到底思えない。」

 すぐに乗り出した身を引っ込めながらアンジェリカは言う。

「ほぉら、やっぱり。なんだかんだと言っておきながら、結局最後はそう。私の気持ちに寄りそうだなんて大きな嘘。」

「君にそんなことをさせたくない。」

「私がそうしたいと望むのに?」

「アンジェリカ、ひとつ聞きたい。」

「また尋問?まぁ良いわ。何かしら。」


「“それは誰の望みなんだ?”」


 フロリアンの質問に対し、アンジェリカは押し黙った。先程までの笑みを消し去り、睨みつけるような眼差しでフロリアンを見つめている。

「ずっと考えていた。ロザリア達から聞く話によれば、今ここにいる君は普段の君とはまるで別人のようだと。」

「だから何だっていうの?」

「解離性同一性障害。過去に自分が背負いきれないほどの辛い経験をした人物が、自分自身の心を守る為に受け皿となる違う人格を作り出すと言われるもの。いわゆる多重人格者。君はアンジェリカという少女の中で生まれたもう一人の人格であり、その人格が〈絶対の法〉を介して現実に肉体を得て分裂した存在だ。違うかい?」

 アンジェリカは何も答えない。ただ突き刺すような眼差しをフロリアンに送っている。


「この世界に、アンジェリカという少女は2人いる。いや、厳密には元になった少女と、本人が後天的に生み出した存在。

 自由に憧れ、無邪気に毎日を過ごすことを夢見た少女と、彼女が背負うべき重石を引き受け、他者に対して一切の容赦をしない冷酷な少女。

 君は彼女の心を守る為に、彼女が背負わされた悪意の全てを肩代わりしてきた。


 この街を混乱に陥れる為、徹底的に他者を陥れるために仕組んだ計画は実に細やかなものだ。そこからは、アンジェリカという少女が根底に持っているある種の真面目さや責任感みたいなものが感じられる。

 アンジェリカという少女は、本当は誰よりも優しくて、誰よりも真面目だったのではないかとね。

 公国を生きていく中で、家系が背負った使命と両親の期待に応えるために一生懸命だったのだろう。

 でも、本人の心はとてもその責務と重圧に耐えられなかった。そうしていつしか生まれた存在が君だ。


 そう。君が生まれてきた目的。その存在意義は、“元になった人格であるアンジェリカを守る為”。

 つまり、君が他者からの愛を受け入れようとしないのは、それを受け入れてしまえば自分自身の存在意義が消失してしまうからに他ならない。」


 自身の考えを述べるフロリアンにアンジェリカはたまらずに言った。

「随分と知った風な口を利くのね。いきなり人を精神障害者扱いして、挙句にそこまで他人の心の内にずけずけと入り込むだなんて、気持ち悪い。」

 彼女の言葉に耳を傾けることなくフロリアンは続ける。

「君が愛を受け入れてしまえば、君という存在は意義を見出せなくなる。そうすれば、この世界で本当の意味でアンジェリカ本人の心を守る存在はいなくなってしまうからね。それに、愛を受け取ることが出来なかった本人を差し置いて、君が他人の愛を受け取ることも出来ない。」


 フロリアンはアンジェリカの目をじっと見据えて言う。

「君は愛を知らないのではなく、愛を受け入れられないだけだ。」


 怒りを滲ませた瞳でアンジェリカは答える。

「そこまで言うなら一つだけ答えてあげる。そうね、私が口にするのは確かに貴方の言う通り、私自身の望みではない。全ては“もう1人の私”の望みよ。厳密に言えば、その夢を叶えることが私の望みなの。」


 矛盾している。

 その歪んだ優しさの示し方も、愛であることに変わりないというのに。


「そして、私はあの子に悲惨で陰鬱な運命を背負わせた世界の仕組みを絶対に許さない。」


 それが彼女の本音なのだろう。

 愛するもう1人の存在の為に、死力を尽くして願いを叶える。


『愛って、なぁに?』


 そう問い掛けた少女は、言葉の意味が知りたかったわけではない。

 彼女の言葉はこの世界に向けられた呪いそのものだった。


 〈世界はどうして自分たちを愛さなかったのか〉


 遥か遠い昔、社会から虐げられてきた少女を、なぜ誰も助けようとしなかったのか。


 〈どうしてあの時……〉


 そのような想いが募った結果が彼女という存在だ。

 憤怒、憎悪、嫉妬、孤独。

 それこそが彼女の根底にあるものなのだろう。



「お話はここまでね。」

 アンジェリカはそう言うと席から立ち上がる。


 くるりと後ろを振り返り、プリンツィパルマルクトへ足を向ける。

 そして一歩を踏み出そうとした時、思い出したように言った。

「そういえば。昔、私達にあの歌を教えてくれた人も同じようなことを言っていたっけ。“私が貴女を愛するわ”って。どうでも良い、昔の話。遠い遠い、昔の。」


 小さな声で呟くようにそう言ったアンジェリカは、プリンツィパルマルクトに向かって歩き、やがて赤紫色の光の粒子が解けるようにして、その場から完全に姿を消し去った。


                   *


『アシスタシア、退きましょう。』

 小声で囁く主の声が聞こえた。

『承知しました。』


 彼とアンジェリカの対話を見届けた2人は、彼女がその場から完全に撤退したことを見届け、自分達も拠点へ戻ることに決めた。


 司教館へと引き返すロザリアの後を追いながら、アシスタシアは先ほど2人が繰り広げた会話を思い返した。

 何を話すものかと思っていたが、まさかあれほどまで大胆に本人の過去と内面に踏み込もうとは。

 まったくもって、よく手を出されなかったものだ。何事も起きぬようにと警戒するこちらの身にもなって欲しい。

 言い換えれば、それだけ周囲の状況をつぶさに見てとっていたアンジェリカの判断力が的確であったとも言えるのだろう。

 聖ランベルティ教会周辺で構えていたのは自分達だけではない。マリアを守護する神、アザミの監視の目も控えていたし、何より付近にはバーゲストの気配もあった。

 少しでも誤った行動を起こせば五体満足な状態ではいられないのは明白。肉体はすぐに再生されるとは言え、痛い思いをしてまで挑発する気力もなかったらしい。


 それにしても、だ。

 彼女が最後に見せた激情、執念。いや、呪いじみた怨念にも近い感情。

 世界を壊すこと。それがアンジェリカの望み。

 今、この地で巻き起こす事件はあくまでその野望の為の序章に過ぎないということか。

 もし、そうであるならばやはり早々に始末すべき対象であると考えられる。


 ただ……主である彼女はどう考えているのだろうか。

 フロリアンとアンジェリカの会話を神妙な面持ちで聞き終えた彼女は、どこかいつもと様子が違う様に感じられた。


 アンジェリカはこうも言っていた。

〈もう1人の自分の願いを叶える〉と。

 彼女の偽らざる本心だろう。

 しかし、それは……その感情こそが〈愛〉ではないのか。


 自分達に向けられなかった愛を認めないという意思が、彼女を束縛してしまっている。


 この話に、自身の主である彼女は何を思っただろうか。

 アシスタシアは目の前を歩くロザリアの後ろ姿を見つめ、リナリア公国に生きた当人たちが何を思うのかを考えた。


                 * * * 


「アンジェリカと彼の対話が終わりました。彼は無事ですが、問題がひとつ。フロリアンに、いよいよ貴女の出自が伝わりそうです。」

 照明を完全に消した暗がりの部屋で、アザミはソファにゆったりと腰を下ろすマリアに言う。

「答えに辿り着くまで、随分と時間がかかったものだ。しかし、遅かれ早かれそういう時は来るものだよ。“隠されたものに露わにならぬものはない”。」

「くどいようですが、宜しいのですか?」

「ここまで来たらもう引き返すことなど出来ない。次に彼と顔を合わせた時、尋ねられれば答えるさ。それで私の気持ちが変わるわけでもなし、彼の気持ちが変わるわけでもないだろうからね。」


 マリアは暗い天井を見上げながら言う。

「それよりも、だ。アンジェリカの動向が気になる。この地で起こすことではない。その裏で何を企んでいるのかについて。」

「では、いよいよあの国を調べますか?」

「国際連盟加入国の中でも異色の国家。グラン・エトルアリアス共和国。実質的に国を取り仕切っているのは……」

「彼女でしょう。」

「そうだろうね。共和国とは偽りの名称。実質、貴族共和制を敷いた独裁国家だ。そして、あの国には対外的に秘匿された“何か”がある。それを秘匿する為に、アンジェリカは自身の持つ力の大半を用い、結果として大幅な制限を強いられている。そのような印象だ。ただ、それが何なのかについては残念ながら視通すことは出来ない。」


 闇の中で、奈落の底へ通じるような赤い瞳を輝かせながらマリアは言う。

「ここで叩いておきたいのは山々だが、本体から遠く離れた今の彼女だけを切り刻んだとて意味はない。業腹ではあるけれど、泳がせておくしかないか。イングランドにいるイベリスやアルビジアが、彼女の本体を仕留めるなんてこともないだろうからね。」

「状況把握という観点だけであれば、衛星から国土を探ることは出来ないのでしょうか。」

「イベリスの時と同じだ。リナリア島を包んでいた光の膜と同じようなものが国土全域を覆っている。衛星カメラの焦点は屈折させられて、真実を写し取ることは叶わない。彼女のもう一つの力、〈エニグマ〉。実に厄介なものだ。」


 アンジェリカの望むこと。

 世界の破壊。


 どのような手段を用いて、どのような未来を彼女は描こうとするのか。

 マリアはあらゆる可能性を探りながら、真実に結びつかない未来を摘み取っていく。


「私達がことを起こすよりも先に、世界そのものを壊されてはたまったものではない。アザミ、くれぐれも抜かりないよう。万全の対策を持って、彼女の目論見を阻止しようじゃないか。」

「承知いたしました。」

 アザミはマリアに礼をしながら、意に従うという忠誠を示した。


                 * * *


 時刻は午後11時を回ろうかという頃。

 ホテルの部屋に戻り、翌日に備えて身支度を整えたフロリアンはヘルメスを手に取った。自身の所属するチームに近況報告を行う為だ。


 しばらくの間、遮断していたヘルメスの通常通信回線を開く。

 そしてイングランドのイーストサセックス州 ライに拠点を構える仲間へと向けてコールを発信した。


 間もなく、応答する声が聞こえる。

『セントラル1、マークת ブライアン大尉だ。』

「セントラル1、マークת ヘンネフェルト一等隊員です。夜分遅くにすみません、隊長。」

『構わん。それよりそっちの状況はどうだ。流れてくるニュースと、セントラルからの情報で事態は把握している。随分と大変なことになっているようじゃないか。』

「荒れる故郷を見るのは辛いものです。ただ、任務自体に深い影響は出ていません。ヴァチカンの彼女達ともうまく連携出来ています。」

『ルーカスもそっちへ送り込むべきだったな。』

『冗談は止してください、隊長。フロリアンの力になるのは良いですが、彼女とは……ちょっと。』

 賑やかな声が後ろから聞こえる。所属チームの技術士官、ルーカス・アメルハウザー三等准尉の声だ。

「准尉が会いたがっていると伝えておきます。」

『止せ、早まるな。絶対に言うなよ?絶対にだぞ?』


 何気ない会話の中でフロリアンは嘘をついた。

 今ではもはや任務そのものが当初の想定から大きく外れ、事件の根幹に至る程の重大なものへと変化しているのが事実だ。


「そちらの状況はいかがですか?共有資料として上がっているダンジネス地区のデータを閲覧しましたが、色々とにわかには信じがたいのですが。」

 フロリアンはダンジネス国立自然保護区の一画で巻き起こった事件と、グリーンゴッドと呼ばれる信じがたい効能を発揮している薬品について言った。

『現地で実態を見ている俺達ですらそう思っている。グリーンゴッドなどという大層な名前の薬品がもたらしている効能についてな。ただ、事件の方についてはお察しだ。』

「まさかイベリスが?」

 事件とは、厳重な管理下にある薬品試験施設と監視ドローンを徹底的に破壊したという謎の現象を指す。

 何の前触れも無く、鋼鉄のドローンを切り刻み、試験施設そのものも短時間で丸ごと破壊するなどということが可能なのは、人ならざる異能を持つ彼女達の誰かくらいのものだろう。

 とはいえ、それが先に名前を挙げた人物の仕業ではないことくらいは理解している。

 そう言うのが一番ニュアンスとしては正しいと思ったから言ったまでだ。

『本人がそれを聞いたら不貞腐れるぞ?〈自分を何だと思っているのか〉とな。違う。分かっているとは思うがイベリスじゃない。もう1人いる。イベリスや総大司教殿、アイリスや対象Aに通ずる力を持ったとんでもない子がな。』

「いく先々で出会うとは。我々の隊はいつからX〈未知数〉専門になったんです?」

『そういう星回りなんだろう、きっと。そうとでも思っていないとな。“なぜか”なんて考え出しても仕方ない。』


 対象A。機構でアンジェリカを示す単語だ。

 話の中で丁度よくその言葉が出てきた為、フロリアンはもっとも伝えたかったことを打ち明けた。

「隊長、准尉、よく聞いてください。今、ミュンスターで起きている事件の裏には対象Aが深く関わっています。」

『詳しく聞かせてくれ。』ジョシュアが言う。

「言えません。ただひとつ、僕は先ほど対象Aと直接会って話をしました。こちらの時間で午後10時頃のことです。」

『何だって?大丈夫だったのかよ?』

「えぇ、彼女のことについていくつか分かったこともあります。ただ、それはまたの機会に。」

 ルーカスの心配する声に返事をしながらも、詳細なことは省く。アンジェリカのことについて深くとりまとめをするのはこの事件と、イングランドの事件が終わった後にするべきだ。

「ひとつ聞いてみたいのですが、そちらでは対象Aは姿を現しませんでしたか?」

『昨日のことだが、玲那斗が接触している。彼女はイングランドとドイツを往復しているのか?』


 やはり。アンジェリカという少女は2人いる。イングランドに姿を見せた方が本体だ。

 しかし、今ここでそのことは伝えない方が良いだろう。余計な混乱を招きたくもない。


「定かではありません。ですが、注意してください。もしかすると、再度そちらに姿を現すかもしれませんから。」

『承知した。となると、あまり長々と通信をするのも考え物だな。また状況が大きく進展したら連絡してくれ。』

「了解しました。それでは。」


 フロリアンは言うべきことを伝えるとすぐに通信を切断した。

 心の内に備えがあるのとないのとでは対応の仕方も変わってくる。向こうにはイベリスがいる。であれば万一のことがあっても大丈夫だろう。


 時計を見る。時刻は午後11時を示していた。

 いよいよだ。いよいよ明日、この地における事件の最後の幕が上がる。そして悪辣な連鎖を断ち切る。

 その為にも万全の状態で臨まなければならない。

 フロリアンは部屋の電気を消し、ベッドに潜り込み目を閉じる。


 情報拡散、心理曝露、大衆扇動をキーワードとして巻き起こされた事件。

 三十年戦争の亡霊。史実が形を変えて現代に蘇った悲劇の行く末は、明日示される。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る