第29節 -黄昏のアントラクト-

 殺せなかった。


 鮮やかな夕日が地上を照らしゆく中、アンジェリカはヴィルヘルム大学の構内でベンチに1人座り考え事をしていた。

 大学の中央尖塔の鐘の下にある時計に目を向ける。時刻は午後7時を回っている。

 西の空に太陽が隠れるまであと1時間半あまり。そうして再び夜が訪れ、もう一度日が昇ったその時こそ、自らがこの地で仕掛けた計画の全てが完遂するときがやってくる。

 間もなくだ。間もなく大掛かりな仕掛けを施した舞台も佳境を迎え、楽しい楽しいフィナーレが繰り広げられる。

 そのはずなのだ。


 だというのに、アンジェリカは浮かない表情をしたまま天を仰ぐ。

 いつもであれば、わくわくする心を抑えきれないという気持ちで満たされるというのに、今回ばかりはそういう気にも至れない。



 殺せなかった。



 頭を巡るのは今朝のことばかり。次いで想起するのは昨晩の出来事。

 本気で殺そうとした。それでもあの人は引き下がらなかった。分かってて近付いた。


「どうかしてるよね。」


 空を見上げながら呟く。

 理解できない、理解できない、理解できるはずがない。

 どうして彼は自分に近付いてくるのか。どうして自分は彼を殺せなかったのか。

 考えれば考える程に頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。

 込み上げてくる吐き気と頭痛に、アンジェリカは頭を抱えて俯いた。


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。


 どうして?


 どれだけ思いを巡らせようとも答えは出ない。

 聖ランベルティ教会前広場における夜10時の待ち合わせ。そこでもう一度話をすれば彼は答えを教えてくれるのだろうか。


「やっぱり、わかんないよ。」


 頭を抱えていた両手を脱力したように下ろし、ベンチから立ち上がる。

 視線を正門へと向けるとゆっくりと歩き出す。一歩一歩が重たい。

 賑やかな会話に興じる周囲の学生たちの声も耳に届かない。


 アンジェリカは虚ろな瞳を浮かべたまま、力なく“約束の場所”へと歩いて向かった。

 

                 * * *


「ヴィルヘルム大学に通う学生たち。その証言を元に辿った先には、やはりエルスハイマー司教の存在がある。講演の内容から汲み取ったものはそれぞれだったけれど、いずれも自らの内にある秘めたる思いを肯定する材料とし、練り上げた自分の考えをもって他宗派に対する口撃の銃弾とした。」


 午前から正午までの間に行った3人の聴取によって、必要な情報の全てを手に入れたマリア達はいつものように部屋に集まり、翌日の一大舞台に向けた最後の話し合いをしていた。


「よくよく突き詰めていけば、どこにでもありそうな話だ。〈争いを起こす人物は必要に迫られたから仕方なく争いを起こしているのではない。争いを起こそうと常々思ってはいるがきっかけがないから起こせないだけなのである〉とはよく言ったものだね。」

「例の亡霊がいなければ、こうはなりませんよね。」マリアの言葉にホルテンシスが言う。

「まったくもって。アンジェリカは実に用意周到にこの計画を練ったのだろう。思わず感心してしまうほどよく考えられている。道化を演じる切れ者。あの子はそういった類の人物だ。そんな人物が考えた計画を暴くにあたって、何か見落としがなければいいのだけれど。」

 アザミが言う。「これ以上は望むべくものもないかと存じます。調べられることは全て調べ尽くしたかと。」


 自分達がこの街を訪ねてから早くも数週間が経過しようとしている。

 その間に調べられることは余すことなく調べた。シルベストリス、ホルテンシス、ブランダの力を持って、通常の人間達では行うことが不可能な領域にまで踏み込んで調べ上げた。

 アザミの言う通り、これ以上何を望むべくもない。

 あとはただ、集まった情報を元にして最後の仕上げの準備を行うだけだ。


 そわそわした様子でベッドに座るホルテンシスの隣に腰を下ろすマリアは、彼女の頭を優しく撫でながら言う。

「ホルス、いよいよだ。気負わないように、というのは難しいだろうけど。他のことは私達に任せて、目的だけを見据えて臨んでほしい。」

 頭を撫でられて気持ちよさそうな表情を見せるが、ふいに憂いを浮かべて言う。

「利用されただけの司教さん。彼は事件が明確に悲劇となる様子を見ながら、どんな想いを抱いていたんでしょうか。」

「ホルス?」彼女の隣に座るシルベストリスが言う。

「慮るわけではないの。ただ、私が彼の似姿をしたものを通じて何かを伝えるなら、私は彼の気持ちに至るまで考えなきゃいけない。彼が何を思って、何を考えていたのか。」

「彼が存命で、大衆に自らの感情を伝えることが許されるのであれば何を伝えようとしたのか。それを考えるべきである、と。そういうことだね?」

 マリアの言葉にホルテンシスは頷く。「はい。要はなりきっちゃう必要があるのかなって。」

 ホルテンシスの問いを受けて、マリアは自らが知り得ていることを言った。

「あくまでロザリーから聞いた話に過ぎないという前提つきではあるけれど、事件当初からの彼はやはり苦悩に満ちていたという。それは事件のことだけではなく、私達に深層心理を打ち明けた時のように、遠い過去から今に至るまでの人生を想ってのことだったと思うけどね。ただ、彼の最期は幸福で満たされていたようであったそうだよ。」

「え?」

 困惑した表情を示すホルテンシスに、優しい笑みを浮かべながらマリアは言う。

「理解できないかい?」

「はい……」

 迷うことなく言ったホルテンシスに穏やかな表情でマリアは言う。

「それでいい。その感情を理解できてしまうのは考え物だ。魂の救済や現世からの解放なんて感覚、なかなか理解できるものでもないからね。」

「ホルスは、ホルスだよ。」反対側からブランダが言った。マリアは頷きながら言う。

「人は誰かに成り代わることなど出来ない。例えそれがどんなに近しい間柄のものであったとしても。その人のように振舞うことは出来ても、その人自身になることは決してできないんだ。」

 マリアはベッドから立ち上がると姉妹達の向かい側に置かれた椅子に腰かけ直して続ける。

「私達はここに辿り着くまで、人々が何を望んでいるのかという大衆心理を掴み取ることを目的のひとつとして動いてきた。そして今、既に答えは見えている。ホルス、それを踏まえた上で何を話すべきかは君自身が決めると良い。誰の言葉でもなく、君の言葉で。それを可能とするだけの力が君にはあるのだから。」

「私の言葉で、か。」

 不安そうな表情を見せるホルテンシスに目を向けるマリアは、そっと微笑みを送る。


「マリー、明日の行動について突き詰めてお話したいのですが。」アザミが言う。

「もちろん。機会はたった一度だ。メッセージの伝達が始まるまでの間、その動きをアンジェリカに悟られるわけにもいかない。ことは慎重に運ばないとね。」

「指示通り、旧市庁舎の平和の間は押さえてあります。総大司教へ依頼していたものも、予定通り現地に現れる手筈となっています。」

「メディアの動きは?」

「上々です。貴女の未来視通り、テレビメディア、ラジオメディア共に誘いに乗ってきました。ネットメディアに対する布石も万全です。明日の正午には現時点において、アンジェリカの目論見通りに〈発覚〉が再演される可能性は限りなく低いと申し上げて差し支えないでしょう。」

「さすがの手際の良さだね。となると、残る問題は……」

「わたくしたちがどこからエルスハイマー司教の人形を操作するのか。」

「だね。」

 アザミとマリアの会話はそこで途切れる。


 ほぼ全ての準備を終えた今となって残る最後の課題。

 未だに決められないのは〈自分達がどこで計画を実行するのか〉であった。


「えっと、ここでっていうのはやっぱりまずいでしょうか?」ホルテンシスが言う。

「アンジェリカが知っている場所は避けた方が無難だろう。彼女が計画の失敗を悟った瞬間、原因が私達にあると認識した時に真っ先に目を付ける場所のひとつだろうからね。赤い霧の影響は避けたいところだ。それと、ホテルを破壊するわけにもいかない。」

 全員が頭を悩ませる中、ブランダが小さく手を挙げて言う。

「あ、あの。それなら……」

「良い場所があるのかい?ぜひ教えて欲しい。」

「はい。」


 マリアに乞われてブランダは自身が思う最適だと思う場所を述べる。

 彼女の意見を聞いたマリアは深く納得した様子を示しながら二つ返事で言った。


「よし、決まりだ。そこにしよう。」


                 * * *


「遠方から中心部に向けて、全ての教会に対する情報の伝達と拡散は無事終了。不穏な気配を見せていた場所も2か所ほど抑え、現時点で問題となる要素は皆無。良い結果が得られたというべきでしょうね。」

「周囲に異常も見られません。残る唯一の懸念である赤い霧の動きも緩慢で、亡霊達が目立った動きをしているという情報も得られません。特に気にする必要もないかと存じます。」

「やり切った。出来ることはこれで全てだ。厳密に言えば、これでようやくスタート地点に立つことが出来たというべきなんだろうけど。」

 ロザリア、アシスタシア、フロリアンは自分達に課せられた使命を無事に果たしたことに安堵した。


「残るは明日、〈発覚〉のタイミングで事が起きなければそれで良し。メディアの統制もよく取れているようですし、危惧していた内のひとつであった電子媒体による不安の拡散も見受けられません。」

「マリーがうまくやってくれたということかな。」

「えぇ、きっとそうなのでしょう。わたくしにはよく分かりませんけれど。」

 不敵な笑みを浮かべながら敢えて言葉を濁すロザリアに対し、フロリアンは感じるものこそあったが、今はそれを追求する場面ではない。

 色々と聞き出したい気持ちを押し殺してフロリアンは平静を装った。


「わたくしたちの為すべきことは為しました。さて、それはそれとして、フロリアン。」

「なんだい?」

「残る問題は貴方とアンジェリカが約束した件についてです。ここまで来て、貴方に万一のことが起きるなど許されるはずもない。貴方は機構から送られてきた退避勧告を拒否してこの場に留まっておられるのでしょう?であれば、その身の無事を確保した上できちんと送り返して差し上げるのも、依頼主である我々ヴァチカンの務めというもの。」

「ありがとう。上層部からの事実上の勧告ではあったけれど、決定権は僕に委ねられていたことだし、完全な任意だった。自分の選択に後悔は無いし、加えてこの後のことで何かヘマをするつもりも無いよ。」

「貴方にその気が無くとも、相手が相手ですから。それ相応のリスクヘッジはさせて頂きます。今宵はわたくしも遠目から見守らせて頂くことにしますわ。」

 ロザリアに続いてアシスタシアも言う。

「アンジェリカが貴方に危害を加えようとした時は、昨夜のように制止されたとしても聞きません。そのつもりでいらしてください。今朝のこともありますから。」

「殺す意思を持って僕を騙し、あの場所に誘導したことは真実。だけど、本当に殺す意思を持っていたかについては疑問を感じている。守ってくれるという貴女方の前で言うのも不謹慎なことではあるけど、アンジェリカが僕を本気で殺すつもりであったなら、その機会はいくらだってあったのだから。美意識なんて言っていたけれど、本当のところはどうだろうか。」

「分かったつもりになっていると足元をすくわれるものです。それはつまり“驕り”とも言い換えられるのですから。」フロリアンへ真っすぐに視線を向け、表情一つ変えることなくアシスタシアは言った。

 フロリアンは苦笑しながら言う。「これは手厳しい。やっぱり、昨夜のことと今朝のこと、怒っているんじゃないのかい?」

「そんなことはありません。」

「本当に?」

 今朝、話をした時とは逆の立場でフロリアンは軽口を叩く。

 アシスタシアが表情を変えることはないが、ほんの少しだけ不満そうな仕草を見せた後に、凄く微細な笑みを見せてくれたような気がした。


 非日常的な数日間を通じて、今や友情にも似た繋がりを感じる程になっている。

 出会った時感じられた壁のような隔たり。あの感覚が嘘のようだ。


「彼女との対話は僕に任せて欲しい。」


 フロリアンは決意をもって言う。

 ロザリアとアシスタシアはその意気に応じて了承の意を見せた。


                 * * *


 人々の行き交うプリンツィパルマルクト。日没が近付くにつれ、いつもと同じように温かな色味の灯りが通りを照らし出す。

 歴史的町並みを照らす黄金の光。寒気に浮かび上がる景色は実に幻想的である。

 ただ、夢見心地にさせてくれる光景に時折混ざる警察官の姿が意識を否応なしに現実へと連れ戻す。連日の騒ぎの影響から警戒にあたっているのだろう。

 不満を思っても仕方がない。何しろ、そう仕向けたのは全て自分の計画によるものだからだ。


 アンジェリカは両腕で双頭の鷲のカバンを抱いてゆっくりと通りを歩く。

 旧市庁舎前を通り抜け、このままずっと北に歩けば約束の場所。聖ランベルティ教会前の広場へと辿り着く。

 足取りは重い。このような感覚を味わったのは実に久方振りだ。

 独りきりで生きる中で、何かに縛られるような感覚を味わったのが久しぶりだということでもある。


 あの時、彼の話を聞かずにやり過ごすことも出来た。

 もう一度話がしたいなどという戯言に付き合う必要はない。彼ではなく、自分の身が危険にさらされるだけだ。

 ロザリアやアシスタシアはもちろん、あの騒ぎがマリアの耳に伝わったなら、今度はアザミもこの場に潜んでいる可能性だってある。

 事実なら、自分が少しでも彼に危害を加えようとした瞬間にこの首が撥ねられてしまうに違いない。

 死ぬことは無くとも、その痛みは想像を絶するものとなるだろう。あぁ、そういう痛みを受けるのは遠慮したいものである。



 そうこう考えている内に目的の場所へと辿り着いた。

 上を見上げれば陰鬱な鉄篭が3つ吊り下げられているのが見て取れる。数日前、適当に殺しておいた遺体を3つ詰め込んだ箱だ。

 18の秘蹟に直接関わる内容ではなかったが、悪辣な見世物として大衆心理を揺さぶるには実に都合の良いものだと思い利用した。

 異変に気付いた大衆の悲鳴、叫び、嗚咽、絶叫。混乱が混乱を呼ぶ地獄のような光景。

 数日前の景色が脳裏に蘇る。あれは良いものであったと思う。


 こんな時、いつもなら当時の状況を思い出して胸が高揚する感覚を全身が包むのだが……しかし、今日はそういう気分にはなれそうもない。



 アンジェリカは鉄篭を見やると共に時計の針をじっと見つめた。

 時刻は午後8時を指している。珍しく地上を照らした太陽の光も、もう半刻が過ぎれば西の空に隠れる。

 時間が経つのは遅いものだ。途中、カフェでのんびりと過ごして寄り道をしてきたというのに、約束の時間まで残り2時間もある。


 視線を下ろし、白い椅子とテーブルが並べられた辺りまで歩みを進める。

 その中のひとつまで辿り着くと、椅子を引いてゆっくりと腰を下ろした。

 短いスカートで覆いきれない太ももに、大気で冷やされた椅子の冷たさが染み渡る。


 だからといって何を思うわけでもないが、なぜかこの冷たさが自分の心の中に虚しさを思い起こさせる。


 どうして自分はここに来てしまったのか。

 思った通り、嫌な気配が感じられる。ただ、これはロザリアとアシスタシアのものではない。

 考え得る中で最悪の気配。きっとアザミのものだ。監視の目が周囲を漂っている。

 曲がりなりにも神そのものである彼女の監視から逃れることは容易ではない。

 何をする気も特には無いが、このまま時間が来るまで大人しく座って待った方が良さそうだ。



 アンジェリカは大きな溜息をついて、右手でぱちんと指を弾く。

 ずっと待つにしろ、人払いの行使程度はしておかなければならないだろう。

 何せ幼い少女という見た目だ。お節介な大人達にあれやこれやと構ってこられるのも非常に鬱陶しい。


 姿は見えるが誰かの意識に入ることはない。


 絶対の法を用いてそのように念じたアンジェリカは、誰の目に留められるでもなくその場にじっと佇んだ。



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