第28節 -燃ゆる瞳-
ホテルより北に1キロあまり。向かうは聖十字架教会。今日の待ち合わせ場所も昨日と同じだ。
辿る道筋も同じ。プリンツィパルマルクトで行われるデモを避ける為、敢えて反対側の道から目的地を目指す。
まだ時間に余裕はある。周囲を警戒しながら歩いても10分ほど前には到着できるだろう。
午前7時半を回った頃、フロリアンはホテルの部屋を後にした。
エレベーターから降りてフロントの前を通り抜ける。
「いってらっしゃいませ。」
フロントマンの爽やかな挨拶に手振りで応えると、すぐに玄関を通り抜ける。
外に出てすぐに周囲を見渡す。これといって異常はない。
第一関門は通過といったところだろうか。毎日、外に出るだけでここまで勇気を必要とする状況というのも過去経験のないことだ。
ほっと一息入れて、視線を目的の路地へと向けて歩み出そうとする。
が、しかし。視線の反対側からよく聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ごきげんよう。随分とお早い出立ですわね?」
驚いたフロリアンはすぐさま後ろを振り返る。するとそこにはロザリアとアシスタシアの姿があった。
「おはよう。貴女方こそ随分と早い。それより、どうしてここに?」
「嫌な気配を感じた、とでも申しましょうか。事件は相も変わらず混沌の極みを見せております。道中、貴方様に何かあってはなりませんから。」
「例えば、あの子の襲撃。」
「如何にも。昨晩のことの他に、致命的な脅威にはなり得ないとは言え、亡霊の件もございます。故にお迎えに上がった次第ですわ。」
「なるほど。」
フロリアンはそう言いつつ視線をアシスタシアへと向ける。いつもと何ら変わらない無表情。何も言わないのは周囲を警戒している為だろうか。
視線を彼女から外し、ロザリアに向けて言う。
「じゃぁ、今日はここから直接目的地へと向かうことにしようか?」
するとロザリアは見慣れた微笑みを浮かべながら言った。
「いえ、少々立ち寄りたい場所がございます。お付き合いくださいませ。」
ロザリアはそう言ってフロリアンの横を通り抜けて先頭に立って歩き始めた。ロザリアの後ろに続くアシスタシアと並び、フロリアンも共に歩き始める。
「立ち寄りたい場所とは?」
「到着するまで伏せさせて頂きます。」
どんな状況であれ、周囲に知られたくない場所だということだろうか。フロリアンは彼女らしい言い回しであると感じつつ、了承を示す。
「了解。」
彼女に促されるがまま、フロリアンは当初の目的地とは真逆の南へと進路をとって歩き出した。
* * *
ロザリアは険しい表情をしながらアシスタシアへ言う。
「彼から何か連絡は?」
「いえ、特には。」
聖十字架教会前。晴れ渡る空の下、歴史の面影を強く残す教会の玄関前にロザリアとアシスタシアの姿があった。
ロザリアは手元の時計に視線を移す。時刻は午前8時に差し掛かろうかという頃合い。間もなく、前日にフロリアンと約束を交わした時間となるが、未だ彼の姿は見えない。
彼のことだ。万が一遅れるようなことでもあれば、2人の内どちらかには連絡を寄こすだろう。しかし、それすらもない。
湧き上がる強い不安感からロザリアは言う。
「アシスタシア、彼が設定してくださった位置情報特定暗号コードをすぐに彼へ送信してください。」
指示を受けたアシスタシアはすぐに暗号コードをフロリアンへと送信した。
確実に彼の現在位置を確認する為に現状で最も有効な手段。この返答によっては自分達も直ちに行動に移らなければならない。
コードを送信して間もなく、フロリアンからの返答があった。
アシスタシアはすぐに位置情報を確認する。
「彼の位置情報はここより約2キロメートル南方、ルドゲリカイゼルを示しています。」
南?まるで逆方向だ。
ルドゲリカイゼルといえばドームプラッツのプロムナード外側にある環状交差点内の広場だ。いくつかの樹木で囲まれた広場にはたくさんの水仙が咲いており、開放的に開けた一帯は一種の観光スポット的な場所でもある。
なぜ彼はそのような場所に向かったのか。思考するまでもなく、考え得る答えはただひとつ。
〈何者かによってそこに向かう様に誘導された〉
そして、その何者かの正体は1人しか考えられない。
連絡は寄こさないが位置情報の確認には応じた。つまるところ、連絡は出来ないが位置情報は知らせる必要があったとも読み取ることが出来る。
「貴女の脚で、最速でどの程度かかりますか?」
「2分…いえ、直線距離なら1分ほど頂戴出来れば。」
「すぐに向かってください。彼の身の安全を最優先に。相対する者は、何も言わず斬り伏せて構いません。」
「承知いたしました。」
返事を言い終わるか否かという瞬間、アシスタシアはその場から既に消えていた。
相対する相手はおそらくあの子。おびき出すために用いた手法は擬態。
化けた対象は……自分達。
危惧していなかったわけではない。だからこそ忠告もしたし、対策も施した。ただ、マリアやアザミの加護とも言うべきあの黒曜石がある限り、あの少女の側から迂闊に近付くことなど出来はしなかったはず。
何か抜け道があったとすれば、そう。
あの石の加護は、持つ者の意思によって対象への抵抗力を左右させるものであったのかもしれないということだ。
彼女と対面することを望んでいる今の彼であれば、加護の力が十全に発揮されているとは言い難い。
向こうがそのことを意図していたかどうかは別として、物事は悪い方向へと進んでいる。
「興味を抱いてはならない。理解しようとしてはならない。忠告したはずですわよ。」
ぼやくようにロザリアは言う。
今の自分に出来ることは、アシスタシアを信じてただ彼の無事という吉報を待つことだけ。
事件解決に向けて行動する重要な1日の始まりは波乱と共に幕を開けた。
「どうか、ご無事で。」
そう呟いたロザリアは聖十字架教会へと足を踏み入れ主祭壇へと向かう。神に、彼の無事を祈る為に。
* * *
ホテルの前で出会ったロザリアとアシスタシアと共に南方へと向かって歩くことおよそ20分。
ドームプラッツを囲むプロムナードを越え、さらに南へと足を進める。
道中、特に言葉を交わすわけでもない。耳に入る音は、すぐ傍を通りがかる通行人の日常会話や車の行き交う音。聞こえてくる会話は主にプリンツィパルマルクトで起きている事件の行く末を案じるものであった。
この地に来てから見慣れてしまった彼女達の姿。
特に何がおかしいというわけでもない。数日間に渡って見てきた彼女達そのものが目の前を歩いている。
ただ、心の内に言葉には表すことのできない違和感を感じていたことも事実だった。
フロリアンは歩き始めて以後、一言も言葉を口にしないアシスタシアの様子が気になり話しかける。
「アシスタシア、昨日のことをまだ怒っているのかい?」
彼女が口を利かない理由として考えられるとすればその程度しか心当たりがない。
視線すら合わせようとしない彼女のことがどうしても気になって声を掛けてみたが、返事をしたのは目の前を歩くロザリアであった。
「昨夜のことといえば、無謀なことをなさるものです。あまり自ら危険に首を突っ込まれませんよう。わたくし共がどれほど気を配ったとしても、庇いきれる範囲には限度というものがございます。」
「申し訳ないと思っている。ただ、僕は僕の意思で彼女と対話をしてみるべきだと今でも思っている。繰り返しになるけど、それで何が得られるというわけでもないのかもしれない。いや、答えを得るべきは僕達ではなく、きっとあの子自身なんだ。」
ロザリアは返事をしなかった。フロリアンは続ける。
「きっと僕のわがままなんだろう。正しいかどうかなんてわからない。けど……」
そこで言葉を濁した。どう続けたら良いのか迷ったからだ。
ロザリアもそれ以上に何かを言うことはなかった。
再び3人の間に訪れる無言の時。プロムナードを抜け、ルートゲルレライ通りを歩く自分達の視界の先には5つの通りが見えた。
ショルレマー通り、ハーフェン通り、ハンマー通り、モルトケ通り、アム・カノネングラーベン。
今、目の前に広がるのはそれらの通りがひとつに集まるルートゲリプラッツと呼ばれる環状交差点だ。そして足を踏み入れようとしているのはルドゲリカイゼルと呼ばれる中央に位置する広場。見通しの良さから観光スポットの一種にもなっている場所である。
車の往来が途絶えるのを待って道路を渡る。途中、フロリアンは再度ロザリアに問い掛けた。
「ロザリア、歩き始めて20分も経つ。どこかの教会へ行くわけでもなさそうだ。そろそろ目的地を教えてくれないかい?」
「もうすぐ到着いたします。」
「この辺りに目的地になるような建物やスポットはないと思う。」
「“ヘンネフェルト様”、時に重要な場所というものは気に掛けなければ見逃してしまうような位置にあるものです。」
ロザリアの返事を聞いた時、フロリアンは自らの内に感じていた違和感の正体をついに掴み取った。全身の筋肉が強張るのを感じる。
それと同時に自身のスマートデバイスが何らかの着信を知らせる振動を始める。
フロリアンは目の前を歩くロザリアとアシスタシアに悟られないよう、彼女達の視界に自分の動きが入らないようにデバイスの画面を確認した。
送り主は“アシスタシア”だ。内容は〈位置情報特定の為の暗号コード〉である。
自分の身に何が起きていて、これからどのようなことが起きるのかを理解したフロリアンは、そっと指紋と静脈による生体認証を完了させ、位置情報の発信を行った。
意識しなくても心臓の鼓動が早くなり息遣いが乱れる。
目の前を歩いているのは彼女達本人ではない。高度な擬態を用いてまで自分に接近しようとする人物。該当者はただ1人のみ。
時の流れが突然ゆっくりになったような錯覚を覚える中、ロザリアは広場の中央で歩みを止めた。
何も言わずに立ち止まり、黙り込む彼女の背に向けてフロリアンは言った。
「そろそろ意図を聞かせて欲しい。どうしてこんな回りくどい方法をとったのか。答えてくれ、“アンジェリカ”。」
空気が揺れた。周囲の雑音が遠くへ吸い込まれるように消え去り、風は止んだ。
久しぶりに大地を照らしていた太陽の光も翳りを見せ、ここが世界そのものから隔絶されたかのような静けさに包まれる。
「〈レイ・アブソルータ〉。ここは隔絶されし異界。現世の理を外し、我の意向のみによって成立した空間なり。」
目の前に立つロザリアがそう言い放ち、右腕を掲げて指を鳴らそうとしたまさにその時。
青白い炎の揺らめきの如き一閃が空間に浮かび上がり、彼女が掲げた右腕の肘より先が宙を舞った。
「何とか間に合いましたか。」
切断されたロザリアの右腕がゆっくりと地面へと落ち、周囲を瞬く間に赤に染めていく。
「あと数秒の誤差で大惨事。免れることができて幸いです。貴方も、本当にどうしようもないお方ですね。」
青白い炎を纏う大鎌を掲げた美しき聖職者が目の前に姿を見せる。
緩やかなウェーブのかかったローズゴールドの髪が宙に綺麗な放物線を描く。
赤紫色の瞳に燃えるような怒りの色を湛えながら、目にも留まらぬ速さでさらに鎌を水平方向に薙ぎ払う。
その姿は天使か、死神か。言葉を発する隙すら与えぬほどの速度で動いた少女は、自らの似姿をしたものに躊躇いなく大鎌を振るい、腹部を境界として上下に切り裂いた。
赤紫色の煙が大気に舞い、少女の姿をしていたものは光の粒子となって蒸発するように消え去っていく。
完全にその場から消え去る瞬間に見えたのは、この世の者とは到底思えないほどやせ細り、全身の関節も有り得ない方向にねじ曲がった“ナニカ”であった。
超高速で動いた少女に合わせてはためいた真っ黒い修道服は、この世の者ではないナニカの消失に合わせてふわりと翻り大地へと舞い降りる。
「ご無事ですか?“フロリアン”。」
名前を呼ばれることにこれほどの安心感を覚えるとは。
間違いなく彼女本人であることを確認してフロリアンは力強く頷いた。
フロリアンとアシスタシアの視線の先では、右腕を失くし後ろを向いたままの状態のロザリアであったものが佇む。
肘から先を失った彼女の右腕からは、心臓の鼓動に合わせて勢いよく血液が流れ出ており、ぼたぼたと血が滴り落ちている。
ロザリアの姿は赤紫色の霧に覆われ、やがてそれが霧散するように消失した時、アンジェリカの姿が顕れていた。
小さな少女は強い舌打ちをしながら振り返り、アスターヒューの瞳を輝かせながら鋭い眼光でアシスタシアを睨みつける。
「痛いわね。断りもなく女の体に傷を付けるだなんて。まったくもってどうかしているわ。」
右腕を喪失したままのアンジェリカはこともなくアシスタシアに言い放った。対するアシスタシアも彼女の様子をまるで意に介することなく返答する。
「貴女がおっしゃいますか、アンジェリカ。それより、今の私は〈何を言うこともなく対象を斬り捨てるように〉と主より仰せつかっている身です。この場で言葉を発する暇を与えて差し上げているだけ感謝して頂きたいものですが。」
「随分と上から目線で物を語るじゃない。あの女の自慰で生み出されただけの、ただの人形風情が偉そうに。」
「上から物事を語るのも、“この場においては”妥当であると認識します。今の貴女に、私を退けるだけの力は無い。それ以上に大事な体を切り刻まれたくなければ、大人しく退かれるのが宜しいかと。」
「残念だけど、この身体は例え全てが燃やし尽くされて灰になったとしても再生するように出来ているのよ。貴女も気付いているのでしょう?確かに、今この場において私は貴女を退けるだけの力は発揮できない。けれど、反対にいくら貴女が私を切り刻もうと、完全に私を殺しきることも出来ない。生命に対する絶対の裁治権。不死殺しを可能とする貴女たちでも干渉することのできない在り方。それが今の私であると。」
「いつまでもとどめを刺せない醜い鳩の争いなどしたくもありませんが、貴女が望まれるのなら致し方ないかと存じます。ただ、人外ではあるもののその姿。年端もいかぬ少女の肉体をばらばらに解体する光景を彼の前で披露するのも憚られます。猶予を差し上げましょう。私の気が変わらぬうちに撤退してください。」
燃えるような瞳で互いが睨み合う。互いの間合いに僅か数ミリでも踏み込めば壮絶な殺し合いが始まるに違いない状況だ。
以後、数十秒に渡って硬直した状態が続く。
そんな中、アンジェリカが肘から下が失われた右腕を水平に伸ばすと、青白い霧のようなものが切り口から溢れ出した。霧は一瞬で腕の形を構築し、僅か数秒足らずで実体化を果たして元通りの状態となる。
右手を幾度か握ったり開いたりし、再生の感覚を確かめてからアンジェリカは言った。
「解体なんて物騒ね。問題は力づくで解決。あの女も大概だけど、そんな人物から生み出された貴女も、見かけに寄らず頭まで筋肉が詰め込まれているんじゃない?」
「どうでしょう。私も自分自身の身体がどのようになっているのかなど知りません。」
「あっそう。それはそれとして、私も身体が無限に再生するとはいっても痛みを感じないというわけではないのよね。その鎌の斬りつけは気持ちの良い痛みってわけでもないし、熱苦しいし。もう一度それで斬られるのも願い下げだわ。」
「では、要望に従って退いて頂けるということで宜しいですね。」
変わらず言葉で牽制し、睨み合う2人の間にフロリアンが割って入る。
「アシスタシア、少し待ってほしい。」
「今は下がっていてください。私より僅かでも前に踏み出せば、その命の保証はありません。」
「分かっている。ここからで良い。アンジェリカ、君に尋ねた問いの答えをまだ聞いていない。どうして、こんな回りくどいやり方をして僕を連れ出したんだ?」
間合いの向こうであからさまに大きな溜息をついたアンジェリカは言う。
「鈍感。決まっているじゃない。貴方を殺す為よ、お兄ちゃん?」
「半分は真実だけど、半分は嘘だね。君が本気で僕を殺すつもりなら、話しかける前に斬りかかるなり出来たはずだ。でも君はそうしなかった。その理由が知りたい。」
「奇襲をかけて殺す。なんて簡単だけれど、それじゃ私の美意識に反するの。」
「美意識?」
「そうよ。私はね、狙った相手が恐怖に打ち震える表情を見せてくれる瞬間に快楽を見出すのよ。〈助けてくれ、もうやめてくれ〉と懇願する相手をじっくりと時間をかけて痛めつけるの。指を一本、腕を一本、脚を一本、目を一つ、耳を一つ。そうして相手が力尽きる瞬間に言うの。『私の言う事を聞いてくれたら助けてあげる』って。するとね、希望に満ちた表情で頷くの。これで助かる、これで苦痛から解放されるって顔して。その瞬間にとどめを刺す。これまで何度も何度もそうやって罪人を葬ってきた。」
途中から歪んだ笑みを浮かべながら、饒舌にアンジェリカは語る。
「それが楽しいの。だって、それが私にとっての“愛”なんだもの。罪を犯した人間に赦しを与える為に。貴方の横に立つ女の言葉を借りるなら、魂を救済するためにという風になるのかしら。」
アンジェリカは前触れもなく指を一度ぱちんと弾く。
次の瞬間、フロリアンの目の前にはアイスピックの鋭い先端がどこからともなく現れていた。気付けば、アイスピックをアシスタシアが人差し指と中指で挟み込むようにして持っている。
いや、持っているのではない。アンジェリカが指を弾いた瞬間にどこからともなく現れ、フロリアンの顔を目掛け超高速で射出されたアイスピックをアシスタシアが受け止めたのだ。
アシスタシアが指先で掴んだアイスピックはすぐに青白い炎に包まれ、やがて灰となって消滅した。
「でも、残念。その女がいる限り私の“愛”は貴方には届かないの。あーぁ、作戦しっぱぁぃ。」くすくすと笑いながらアンジェリカは言った。
フロリアンは顔を引きつらせながら言う。
「それが君の本音かい?」
「そうよ。これが私の全てよ。」
嘲笑的な笑みを湛えたままアンジェリカは言いきった。
「フロリアン、もう良いでしょう。これ以上は時間の無駄というものです。」
「あら、珍しく気が合うじゃない。まっ、私はここで睨めっこを続けてあげても良いのだけれど。待っているだけで混乱は惨禍となって、この街を絶望の底に叩き落すことになるんだしぃ?」
アシスタシアに言われてフロリアンは頷く。
「分かった。」
だが、次にフロリアンが発した言葉はアシスタシアとアンジェリカにとって信じがたいものとなる。
「アンジェリカ、今夜もう一度話をしよう。どうにも、君が心の底から本心を言っているとは思えない。」
2人の少女は硬直したまま動かない。
「は?」怪訝な顔をしてアンジェリカは思わず言った。
「正気ですか?」アシスタシアも信じられないという声色で言う。
「午後10時。聖ランベルティ教会前の広場で待っているよ。」
呆れた表情を浮かべていたアンジェリカであったが、すぐに頬を歪ませてケタケタと笑い出した。
「ふふふ、あはは!きゃははははは!やっぱりどうかしてるのね?良いわ、良いわよ。約束通りその時間に訪ねてあげる。ゆっくりお話ししましょうね、お兄ちゃん?うふふふ、ふふふふふ!」
口元に手を当てて激しく笑い続けながら、アンジェリカは霧状の粒子が霧散するようにその場から一瞬で姿を消した。
どうやらこの場は見逃し、引き下がったようだ。
アシスタシアも手に持った青白い炎を纏う大鎌をどこへともなく消し去る。
やがて現実から隔絶されたアンジェリカの空間は消え、人々の往来と車が行き交う日常の風景と音が戻ってきた。
フロリアンはアンジェリカが消え去った方をじっと見つめる。
その隣に並び立つアシスタシアは、横目でフロリアンを見やるがすぐに視線を外し小さな溜め息をつくのであった。
* * *
姉妹達との賑やかな朝食を終えたマリアとアザミ。2人は後に予定している残る3人の面談を前に今の状況について情報をまとめている最中であった。
すっかりお気に入りとなった柔らかなソファーに、深く背を預けて座るマリアが言う。
「アザミ、外の様子はどんな状況だい?」
「はい。プリンツィパルマルクトでは昨日と同様にデモが展開されています。ただ、彼女達の働きによって参加者の数は減少傾向にあるようです。昨日ほどの勢いはなく、冷静に事態を見守る人々が増えてきている印象です。見極めをしていると言っても良いかもしれません。」
「ひとまずは順調といったところか。それで、もう一方の懸念はどうかな?」
マリアの問いに答える前に、アザミは彼女の目の前に自身の影を用いて真っ黒な霞がかった空間を作り出した。異界に繋がるかのような黒い塊はやがてはっきりとした形を成していき、そのうちについ先程までに起きた“ある事象”を克明に映し出し始めた。
「アンジェリカが動きました。ヴァチカンの2人を装ってフロリアンに近付き、ルドゲリカイゼルまで誘導した上で彼を殺害しようとしたようです。」
淡々と事実を話すアザミの言葉を聞き、マリアの表情は険しくなった。映し出された記録をじっと見つめて事態の行く末を見届ける。
記録の再生が終了したところでアザミは言う。
「彼女は自身の能力を使用した上でじっくりと彼を殺害しようと試みたようですが、絶対の法が完全に展開する直前に乱入してきたアシスタシアによって阻止されています。フロリアンとヴァチカンの2人の見事な連携があったようです。」
「へぇ、うまくやっているようじゃないか。アシスタシアの動きも見事見事。聖十字架教会からあの位置まで、時速70キロメートルほどで駆け付けたと見える。ひょっとすると、ある程度は君に対抗出来得る力を秘めているんじゃないかい?
それはそうと、アンジェリカの使用した能力が少し引っかかる。一昨夜、あの子は私に化けてフロリアンと接触をしようと試みたそうじゃないか?」
「総大司教より、そのように報告を受けております。」
「その話では具体的にどの程度の精度で擬態したのかまでは掴めなかったけれど、君がたった今見せてくれたこの記録は驚愕だ。ロザリアの擬態。何から何に至るまで完璧だね。見た目、声質、所作、言葉遣い。どれ一つ取ってしても本人と見紛う程の高いレベルで再現されている。こんな力を彼女が持っているなんて情報はこれまでになかった。」
「情報として入手する機会がなかった、というだけではなさそうです。」
「以前から、“存在しない何者か”を人形として作り出す力を持っていることは把握していた。ハンガリーの難民狩り事件で、姿を完全に隠匿する擬装をライアーに渡したという〈男性の聖職者〉然り、ミクロネシアで暴れていた〈よたよた歩きの怪物〉然り、この地で姿を顕した〈ウェストファリアの亡霊〉然りだ。だが、彼女自身が何者かに化けるなどという話は聞かなかったね?」
「彼女自身が新たに身に着けた力。或いは絶対の法を応用した何か。もしくは、全容が掴めない〈エニグマ〉と呼ばれる能力に依存するものでしょうか。」
「いずれにせよ非常に厄介なことだ。フロリアンのように僅かな異変から状況の異常さを掴み取る才華を持つ者でさえ、目の前の人物が偽物であると確信をもって見抜くまでに相応の時間を要している。」
「総大司教はこのような事態を予め見越していた節があります。」
「だからこそ〈互いを名前で呼び合おう〉という事前取り決めを彼との間で交わしたのだろう。人形を作る者自身が他者に成り代わる可能性について、か。同じことが出来る手合いだからこそ見越した事態だったのかもしれない。
ロザリアの機転による取り決めがなければ、フロリアンが目の前の人物がアンジェリカであると見抜けていたかどうかも怪しい。実際に遭遇して見ないことにはなんともだけれど、私達も気を付けないとね。」
「はい。」
マリアは口元に手を当て、アンジェリカが見せた異常な精度の擬態について思考を巡らせる。
その最中、ふとアザミが言う。
「彼の持つ黒曜石の守護の力も十全には発揮されていないようですが。」
「あぁ、それについてなら答えは明白だ。」
「それはどのような?」
「あの石は、持つ者が恐怖と認めた対象について拒絶や抵抗を示す強力な効果を発揮するものだ。けれど、持つ者が恐怖であると認めていない対象に対してはただの石。」
口元に当てた手を下ろし、視線をアザミに向けて微笑みながらマリアは言う。
「お守りが効果を発揮しなかった理由。要するに、フロリアンが自らの意思でアンジェリカと向き合いたいと願っているからということさ。君に石を生成してもらったとき、彼の意思に基づいて力を発揮するような加護の調整を仕込んだのは私だからね。」
アザミは返事の代わりの困惑の吐息を漏らす。しかし、構うことなくマリアは笑みを湛えて言った。
「だってそうだろう?異能を持つ対象へ無差別に効力を発揮する石なんてものを作ってみたまえ。私や君はもちろん、ロザリアやアシスタシアまで彼に近付けなくなってしまう。本末転倒だ。いやしかし、結構結構。守護石ではなく彼のことだけれど、あの融通の利かなさとお節介さは変わらないね。私達と出会った時のことを深く思い出すよ。実に彼らしいじゃないか。」
これはマリアだからこその余裕なのだろうか。
つい先程、自身の最も大切に想う相手が悪魔に殺されそうになったというのに、〈微笑ましいこと〉であると笑って見せる。
アザミは時折マリアの考えに理解が及ばなくなることがある。自分が人間の思想や思考に疎いというのも理由なのかもしれないが、この場合はまずアンジェリカに対して怒りを見せても良さそうなものだ。
だが、アザミのその疑問は直後の彼女の言葉によって一気に解決されることとなる。
ひとしきり笑って見せたマリアは、愛らしい笑顔を崩すことなくこう言ったのだ。
「〈誰に対しても優しい〉というのは美徳だ。ただ、優しくする“相手は選ばないと”ね?」
そう言う彼女の目は、まるで笑っていなかった。
アザミですら後ずさりしそうになるくらい、強烈な圧を感じるほどである。
彼女はフロリアンという人物の性格や在り方を心の底から理解し認めつつも、この一件についてやはり相応の怒りは感じているということなのだろう。
矛先がどちらに向いているのかは定かではないが、この調子だとおそらくは彼と相対した相手。戯れ感覚で彼を殺害しようとした彼女に向けられたものであるはずだ。
頭の中でそのようなことを考えつつ、アザミはもうひとつ伝えるべきことを思い出して言った。彼があの場でアンジェリカと交わした重要な会話についてだ。
「記録では途切れてしまいましたが、彼は今夜10時に今一度アンジェリカと話をする場を設けるようです。場所はプリンツィパルマルクト北端、聖ランベルティ教会前の広場とのことです。」
「そうか、結構なことだ。」
マリアが低めに抑えた声で返事をした瞬間、アザミは情報を伝えるタイミングを誤ったのではないかと考えた。
彼女の輝かしい赤い瞳が燃えるような感情を抑えていると感じ取ったからだ。
今自分が言った言葉は燃え盛る大火に薪をくべるようなもの、或いは激しく火花を散らす導火線に旧時代の燃料であるガソリンをばら撒くような行為であったかもしれない。
奈落の底へ通じるような暗さを湛えた瞳を浮かべ、やや声のトーンを落としたままマリアは言う。
「今夜は、眠れない夜になりそうだね?」
時刻は午前8時半を回る。
今からおよそ14時間余りは、ほっと一息つくこともままならないだろう。
アザミはマリアへ目を向けて心情を慮る。
未来を視通す彼女の瞳は、今何を映し出しているのだろうか。
* * *
「ご苦労様、大儀でありました。」
無事にフロリアンの護衛を果たしたアシスタシアにロザリアが言う。
黄金色に照らされる主祭壇に集まる3人。アンジェリカの策略による事件の後、すぐに聖十字架教会へと向かったアシスタシアとフロリアンは、ことの仔細をロザリアに報告し終えたところだ。
ロザリアが言う。「何より、貴方に怪我など無かったことに安堵しました。フロリアン。」
「彼女の罠にまんまとはまってしまったことは申し訳なく思う。貴女にも、アシスタシアにも余計な手間をかけさせてしまった。」
「その点についてはお気になさらず。予期はしていましたが、アンジェリカがあれほどの擬態を遂行出来るという事実を確認出来ただけでも収穫です。ただ、あの子に深入りする貴方の姿勢には釘を打たせて頂きますわ。」
「危険だということは分かっているさ。それでも、あの子には今伝えるべきことを伝えておかなければ、今後もっと取り返しのつかなくなる事態が起きそうな気がしてね。」
「困ったお方だこと。」
小さく息を吐きながらロザリアは言う。しかし、その表情は苛立ちや怒りに満ちたものというわけではない。
彼女の穏やかな表情は一連の行動に呆れつつも、もはや引き留める意思もないという風に見える。
「お好きになさってくださいまし。それに、まぁ……愚かであるとは思いますが、当初の目的のひとつである〈アンジェリカの目をわたくしたちに向けさせておく〉という点において考えるならば、ある意味完璧な振る舞いであるとも言えるのでしょうから。」
「苦労をかけてしまう。」
「今さらですわ。」
ロザリアとフロリアンの会話を聞きながらアシスタシアは物思いに耽っていた。
〈愛〉とは一体何なのだろうか、と。
自分も生まれてきたときに与えられた知識でいうところの愛というものは知っている。ロザリアが自分を大切にしてくれているという実感からも、与えられた知識の正確性は理解しているつもりだ。
しかし、いざ自分自身の中で〈愛〉そのものという概念について考えを巡らせると途端にわからなくなる。
何をもってそう呼び、何をもってそうでないと言うのか。
その時、ふと今朝の出来事が頭をよぎった。
『ほんの少しで構いません。あと5分の間だけ、このように……』
目の前に立つ偉大なるパトリアルクス。ロザリアが過去に見せたことのなかった行動。
いつも戯れのように自分を振り回すことはあったが、あのように甘えてくることなど経験の無かったことだ。
それはまるで、知識の中で表現する所の〈子が母に甘える〉かのような。
あの出来事も愛というものなのだろうか。
アシスタシアはそっと目を閉じる。今朝感じた温もり。今朝感じた感覚。それを思い出しながら考える。
愛とは、何なのかと。
すると、ふいにロザリアの声が耳に届いた。
「アシスタシア、アシスタシア?どうかしましたか?」
呼びかけにはっとして目を開ける。
「ぼうっとするだなんて、貴女らしくありませんわね。」
「さっき、僕が散々働かせてしまったからね。」
微笑みながら言うロザリアに続いてフロリアンが言った。なんという温かなやり取り。
「いえ、何でもありません。お気になさらず。」
何と言葉を言えば良いのか惑い、結局いつものように愛想のない返事をしてしまう。
しかし、フロリアンは不愛想な返事を気に留めることなく言った。
「疲れた時は疲れたと言えば良いんだよ。」
「私は、人ならざるものですから。特には。」
「それは身体的なことだろう?精神的なものはそういうわけにはいかない。少なくとも、僕は貴女を周囲の人々と変わらない人間であると思っている。」
アシスタシアはフロリアンをじっと見つめる。
ほんの数秒の間、自身の中で考えを巡らせてから言う。
「そうですか。では、疲れました。あまり無茶なさらないでください。」
「肝に銘じておくよ。」
もう何度目になるか分からない、彼の言う同じ返事を聞いて思わず疑問という名の愚痴が口をついて出る。
「本当に?」
「ははは、参ったな。ろくに反省していないことがたった今ばれたみたいだ。」
視線の先ではロザリアまでもが口元に手を当てて大きな笑みを浮かべている。
この時になってようやく感じ取ることが出来た気がした。
そうか、この何気ない戯れが。この温かさが……
ひとしきり笑いあった後、ロザリアが切り出す。
「では、そろそろ本題を進めると致しましょう。計画は非常に順調に運び、幾分かの余裕まで生まれている状況とはいえ、残された時間がそう多くあるわけではありませんから。」
真剣な表情をしてフロリアンが言う。「同感だ。僕のせいで遅れた分はしっかり働かせてもらうよ。」
「良い心がけです。それではヘルメスを用いて今日の行動における最適解の提示からお願いいたしますわ。わたくしの配置した人形たちの記録もそちらに回します。」
「了解。」
「それにしても、文明の利器とは素晴らしいものですわね。」
「科学と相容れることのないと思っていた貴女の口から聞くと不思議な気分だ。」
「認めるところは認めませんと。旧時代的な考え方だけをしていては、我らの信仰の道も早々に途絶えてしまうというもの。」
こうして朝の事件についての会話に区切りをつけた3人は、改めて今日1日の動きをまとめるべく話を進めるのであった。
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