第3節 -小さな争い-

 温かなコーヒーの蒸気が立ち上る。外気温は相変わらず一桁しかない。

 そんな中で、先程アイスラテを試そうと言っておきながら、フロリアンは結局いつものホットコーヒーといつものバジルソースと野菜のパンをチョイスしていた。

 長年食べ慣れた味の安心感は何物にも代えがたい。そうして心理が働いたこともそのチョイスに影響を与えた。

 ロザリアとアシスタシアは共に可愛らしいラテアートが施されたアイスラテとカップケーキをいくつか選んでいる。

 スイーツを見つめる彼女達の表情はとても楽しそうだ。様々なカップケーキが陳列されたショーケースを眺めながら繰り広げられる彼女達の会話を横で聞いている限りでは、2人とも年相応の普通の女の子にしか見えない。

 楽しそうにスイーツを選ぶ様子を眺めていると、彼女達がヴァチカンの重要人物であるということを忘れてしまいそうなほどである。


 3人それぞれが気に入ったものを選んで会計を済ませて、オーダーしたものを受け取るとオープンテラスへと向かう。しかしその途中、フロリアンは身に覚えのある視線を感じると同時に全身を駆ける寒気を覚えた。

 まとわりつくような視線。どこからか監視されているような錯覚。

 軽く周囲に目を配り、視線を感じる先を横目で観察してみるが特に変わった様子はない。そこは自分達のいるカフェと同じように賑わいを見せる隣のカフェのオープンテラスが見えるだけだ。


 気のせいだろうか?


 こういう時の勘というのは往々にして当たるものである。嫌な予感、悪い予兆と言っても良い。

 その時、ふいにロザリアが言う。

「どうなさいましたか?何か気に掛かることでもございまして?」

「何か視線のようなものを感じて。」おそらく彼女に隠し事の類は通用しない。フロリアンは素直に答える。

「それでしたら彼らではありませんの?」

「え?」フロリアンがロザリアを見ると、彼女はオープンテラスの端、自分達より離れた位置に陣取る4人組の青年たちへ軽く視線を送っていた。

 彼らはロザリアとアシスタシアへせわしなく視線を浴びせながら指を差しつつ互いに話をしている。

 彼女の視線が一瞬でも自分達に向いたことが嬉しかったのだろうか。少しはしゃいでいるようにも見える。

 彼らの様子から察するに、ロザリアのいう視線とはここへ来る途中にも幾度となく男子学生と思われる青年たちから浴びせられた視線と同じ類のものだろう。

 ロザリアは空いているテーブルに購入したラテとカップケーキののったトレーを置いて席に座る。アシスタシアも同じように席に着き、フロリアンも続く。

「わたくしとアシスタシアがとても目立つのでしょう。どこを訪ねても同じような視線がつきものですから。もう慣れてしまいましたけれど。」ロザリアはそう言うと口元に手を当てて上品に笑った。

「そうかもしれない。」フロリアンは冴えない表情で言ったが、内心ではその言葉を否定していた。

 先の視線はそういうものではない。あれはもっと悪意や仄暗さを感じさせるようなものであった。

 計り知れない悪意が込められたおぞましい気配と感覚。

 憎悪、厭忌、嘲笑、諦念……

 言葉では言い表すことの出来ないほどの負の概念を直接浴びせられたかのようだった。

 浮かない表情をしていることを気にしたのか、ロザリアは言う。

「フロリアン?もしやお体の調子が優れませんの?」

「いや、そういうわけじゃないんだ。」

「そうですか。ならば良いのですが、何か気になることがございましたら何なりとおっしゃってくださいまし。わたくしどもに出来ることであれば力添えをいたしましょう。」

「ありがとう。」彼女が自身を気遣ってくれたことに対して笑顔で応える。

「わたくしも貴方を頼りにさせて頂きます。」


 優しく穏やかに語り掛けてくるロザリアの言葉にフロリアンは妙な安心感を感じた。彼女の姿を見て、声を聞いているだけで惹き込まれそうになる不思議な魅力。

 そうだ。今回の調査ではいつもの仲間とは別行動だが、目の前の彼女達がいる。1人で考え過ぎることはないのだ。

 これから調査を進める中で今しがたの不穏な感覚の正体も分かるかもしれない。今はただ、〈そういう出来事があった〉と思い留めておくことにしよう。

「さぁ、わたくしたちも頂きましょう。コーヒー、冷めてしまいますわよ?」ふいにロザリアが言う。

 横に視線を向ければ、アシスタシアが一足早くカップケーキとアイスラテを楽しんでいる様子が見て取れる。

「そうだね。そうしよう。」ようやく落ち着いた表情を取り戻したフロリアンは言った。




 真剣な表情から一転、いつもの穏やかな様子へと戻りコーヒーとパンに手を付けたフロリアンを見てロザリアは安堵していた。

 彼の感じたという視線については適当にはぐらかして触れないようにしてみたが、自分も本当は気付いている。


 “天使のような名を持つ悪魔”が、自分達のすぐ傍にいることに。


 彼は勘の鋭い人間だ。おそらくはすぐ近くにいるであろう〈悪魔〉の存在を知覚したに違いない。

 分かっていても迂闊に手を出すことの出来ない相手がすぐ近くに潜んでいる。だが、手が出せないのは相手も同じことだ。故にこの場で持ち出すべき問題とはなり得ない。

 きっと隣で美味しそうにカップケーキを黙々と食べる彼女もその存在には気付いているはずだ。むしろ自分よりも早く気づき、正確にどの位置にいるのかまで把握しているだろう。

 であるはずのアシスタシアが何も言わず、また動かないのであれば自分が動く必要がないのも道理。今はただ静観するのが吉である。しかし……


 もう間もなく“何かが起きる”


 そのことだけは心に留めておくべきだろう。


 ロザリアは手元のアイスラテとカップケーキを楽しみ、2人と会話を楽しみながらも〈悪魔〉の動向から気を逸らさないように努めた。


                 * * *


 旧市街〈アルトシュタット〉のとある裏通り。昼下がりだというのにまったく人気のない路地を彼女達は歩く。

 ブロンドゴールドの美しい髪と宝石のように透き通る赤い瞳を持ち、黒のゴシックドレスで身を包んだ少女が言う。

「この路地で最後だ。旧市街地ほぼ全域を歩き回ってみたけれど、やはり結局のところ行き着く答えに変わりはない。謎解きのヒントは最初からあの場所にあったのだろうね。君はどう思う?アザミ。」

「同感です。亡霊と呼ばれる怪異が最初に起きた場所。ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学を深く調べてみるべきかと。」

 少女にアザミと呼ばれた女性は答える。真っ黒なロングドレスを着た長身の女性で、つばの広い帽子〈キャペリン〉を被り、口元以外の顔をベールで被うという特徴的な服装をしている。

 全身を黒でコーディネートしている彼女の素顔は一切見えないが、傍目から見てとてつもない美貌の持ち主であるということくらいはすぐに分かる。

 そんなアザミの返事を聞いた少女は少し疲れた表情を見せて言う。「今後の想定に狂いが無いという事実が分かったことは収穫だけれど、巡り巡って問題自体は振り出しというわけだ。歩き回るのも些か飽きが来たね。この徒労に唯一良かった点があるとすれば、ミュンスターの美しい街並みを隅々まで存分に堪能できたことだろう。」

「その意見にも同感です。」疲れを隠さない少女を微笑ましそうに見つめてアザミは言った。

 2人がひとしきり会話を終えた時、突き当りの曲がり角から3人組の少女達が姿を現した。


 3人並んで歩く少女達の中央には、輝くようなスノーホワイトの髪色が、毛先に向かうにつれて淡いペールイエローへと移り変わるなめらかな長い髪に、白い着物を洋風にアレンジした服装に身を包む少女が立つ。

 憂いを帯びたグリーンの瞳と典麗な容姿から醸し出される大人の雰囲気は、黙っていても上品さが溢れ出してくるようだ。

 その右隣では彼女とは真逆の、いかにもバリーガールという様相の弾けた少女が、ニコニコと少女に手を振りながら、焦がれるようにとろけた眼差しを送っている。

 彼女はヴィクトリアン・モーブと呼ばれる桃色の髪を、ふんわりとした三つ編みツインテールをカントリースタイルでまとめ、ウサギの耳付きフードのあるピンクの上着とフリルのついたモノクロチェック柄のミニスカートに、モノクロ縞のサイハイソックスを合わせるという出で立ちだ。ゆるくふわりとした印象の少女である。

 中央を挟んで反対側を歩く少女はダマシーンと形容できる深みのある青い髪をしたとてもパンキッシュな服装をした人物だ。

 三つ編みのお団子ヘアを後ろで作り、その中心からローポニーテールで流した髪をサイドに流すという独特のヘアスタイルをしている。ダメージ加工が施された黒と赤のゴシックドレスに身を包む姿からは退廃的な雰囲気が醸し出されている。


 通路の奥に3人の姿を見た少女は顔をほころばせながら言う。

「“天使”たちが戻って来た。さぁ、アザミ。賑やかな時間の再開だ。」

 そう言って間もなく、ゆるくふわりとした桃色髪の少女が小走りで近付いてきて言った。

「あぁん!マリア様♡ アネモネア三姉妹、言付かった探索よりただいま戻りました!きゃるん☆」弾ける笑顔のウィンクにピースサインを重ねつつ、賑やかな挨拶を終えた彼女に少女はねぎらいの言葉を返す。

「あぁご苦労様、ホルス。何か収穫はあったかい?」

「もっちろん!大収穫ですよぉ♡」やや興奮気味に言った彼女の背後から残りの2人も合流する。

 白い髪色の少女が落ち着いた声色で言う。「マリア様。シルベストリス、ただいま戻りました。」

 続いて青い髪の少女が最後に輪に加わって言った。「ただいま、マリア様。ブランダ、戻りました。」

「トリッシュとブランダもご苦労だったね。」3人からマリアと呼ばれた少女は、2人の少女もねぎらい、その隣でアザミも微笑ましいという様子で3人を眺める。

 マリアは続けて言う。「さて、君達の収穫した実りの多い話は後でゆっくり聞かせてもらうとして、まずはここから少し移動しよう。私の見る未来が正しければ、もう間もなくプリンツィパルマルクト周辺で事件が起きるはずだ。」


 マリアの言葉を合図として、5人は揃って路地の出口へと歩み出す。

 その先に待つ、〈事件の一端〉へと向けて。


                 * * *


「とても良い旅をしてきましたのね。5年以上もの時を経て、ようやくそのお話を伺うことが出来て良かったですわ。」ロザリアは微笑みながら楽しそうに言う。

 カフェでお茶の時間を過ごし始めてから早30分。

 ケーキやパンを食べ終え、ラテやコーヒーを楽しみながら、フロリアンはロザリアとアシスタシアに自身が機構へ入構する前に世界を巡っていた時の話をしていた。


 フロリアンの旅はドイツ近隣諸国から始まり、欧米、南米、東洋へ至り、再び欧州へ戻った後にハンガリーを訪れ終わりを迎えた。

 その旅における最後の目的地となったハンガリーで、ある1人の少女に加えてロザリアとも出会ったのだ。

 2人が初めて邂逅したのは、おおよそよそ5年半前。あの時はただ挨拶を交わした程度であった2人が今はこうして同じテーブルを囲んでお茶を楽しんでいる。

 人生における運命というものはどこでどういう道を辿るか分からない。当時ロザリアは1人でハンガリーを訪れていた為、アシスタシアと出会ったのは昨年のミクロネシア連邦での一件が初めてであった。

 実の所、フロリアンはミクロネシアでロザリアのことを深く知るまで、彼女のことが少し苦手であった。初めて出会った時、その瞳に見つめられただけで心の奥にある全てを見透かされているような感覚を覚えたことがきっかけである。

 清廉なる信仰の道を歩む彼女の、その美しさの裏に見え隠れする狂気。そういった類のものを感じ取ったのだ。

 主観でしかない些細なことではあるが、『この人物に深く関わるのはやめた方が良い』と直感が告げていた。事実、彼女の素性を知った時は、その直感というものが“ある程度は”正しかったことは証明された。

 ただし、その特異な素性とは別の話で、彼女の持つ本当の優しさや考え方というものをミクロネシアの事件を通じて知ってからは苦手という意識もさっぱりと消え去った。

 彼女の持つ狂気じみた側面が何に所以するのか理解したからだ。

 だからこそ、今こうして素直に自分の昔話を開けっ広げに話すことも出来るのだろう。

 旅の話というものはいつだって人を惹きつける。まだ見ぬ土地へ赴き、そこで暮らす人々や根付いた文化に触れることで得られる知識と経験。

 知的好奇心を刺激し、『知らないもの』を得て心を満たしていく感覚は何ものにも代えがたい。

 それは実際に旅をしてきた人だけでなく、同じ思いを持つ人々の間でも共有することが出来るし、互いに共感を得ることだって出来る。

 フロリアンにとって少し意外だったのは、自分の旅の話にアシスタシアが強い興味を示して色々と話し掛けてくれたことだった。

 ほとんどアシスタシアからの質問に答え、その会話をロザリアが楽しむといった構図になっていた。

 てっきり、そうした話にも彼女は興味を示さないのではないかと思っていたが、その考えも浅墓な勘違いというものであった。


 話の終わりが見えた頃、おもむろにアシスタシアが言った。

「たくさんの貴重なお話を聞かせて頂きありがとうございます。私はほとんど他国に行くことはありませんから。凄く良きお話でありました。」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。色々な場所に行って良かったと思えるからね。」

 彼女ともそう親交が深いわけでもないが、昨年からの印象の続きとして、滅多に笑わないであろうアシスタシアがとても穏やかな優しい表情で言ったのを聞いたフロリアンは嬉しくなるのと同時に心からの本音を伝えた。

 その隣でロザリアが小声で言う。「あの時、きっとマリーも同じように思っていたのでしょうね。」

 その呟きをなんとか聞き取ったフロリアンが咄嗟に反応する。

「ロザリア、僕もずっと貴女に聞いてみたかったことがある。」

「はい、何でございましょう。」

 彼女の返事を聞き、フロリアンが質問をしようとした時であった。少し離れた場所で男性達の怒声が響いた。


「最近この辺りで起きている事件はやっぱりお前達の仕業か!」

「違う!何の根拠があってそんなことを言うんだ!あれはカトリックと福音主義の対立を煽りたい連中が愉快犯的に行っていることだろう!」

「そうだ、今の時代になってまで行う宗教戦争に何の意味がある?」

「カトリック教会は未だに過去の条約を否定したまま認めていない。根本的な対立は続いたままだ。」


 2人の男性の口論に3人、4人と加わり徐々に人数を増やした小競り合いになっていく。

 彼らの口論は今この地で起きている事件を指してのものであることに間違いはない。

 カトリックと福音主義。この2つの宗派の対立を煽る事件が立て続けに起きていることで、市民の中には神経を尖らせている人々も少なくはない。特に旧市庁舎からの窓外放出事件の後である為なおさらだ。

 そういった神経を尖らせている人々の感情を逆なでる出来事が何かしら起きたのかもしれない。

 隣のカフェで起きた口論に対し、フロリアンが仲裁に向かう為に席を立ちあがろうとするとロザリアがそれを制止した。

 フロリアンが彼女に目を向けると、真剣な目をして首を横に振った。


 近付くな。


 そういう意味だろうか。ヴァチカンの総大司教という立場である彼女が、この場において争いに介入をせず、反対に強く自制を求めるということはおそらく何か特別な意味があるはずだ。

 そのように考えたフロリアンは我を通さず彼女に従うことに決めた。

 ロザリアが言う。「さぁ、そろそろ行きましょう。次に参りたい場所もそう遠くはありませんわ。」

 彼女が静かに席を立ち上がり、アシスタシアもそれに続いた。フロリアンも口論をしている男性達を眺めつつも彼女達の後を追う。

 その時、フロリアンの視界の端にあるものが映った。オープンテラスの道路を挟んで向かい側に桃色髪をした少女の姿が見えたのだ。

 視線を素早くそちらに向けると、そこには軍服と学生服を合わせたような服装に身を包んだ小柄な少女の姿があった。

 フロリアンは鼓動が早鐘を打つのを感じた。アンジェリカ。視界に映ったのはミクロネシア連邦で初めて目撃した少女の姿だ。

 天使のような名を持つ悪魔。直接会話らしい会話をしたことはないが、ある理由から彼女がとてつもなく危険な人物であることは理解している。

 遠い太平洋の地で自身の仲間が彼女に殺されそうになったからだ。


 前を歩くロザリアにすぐ彼女の存在を伝えようとしたが、バスが目の前を横切って通り過ぎた瞬間には既にその場からアンジェリカの姿は消え去っていた。

 幻だったのか。いや、確かに彼女はあそこに立っていた。そしてしっかりと自分達を見据えていたのだ。遠くからでも分かる、美しい紫色の瞳を狂気に染めて。


 まるで、この場で何かが起きることを知っていて、自分達がどういう行動に出るのかを観察していたような…… 

 そうだ。席に着く前に感じたあの悪意に満ちた視線と感覚も、彼女のものであるとすれば全てに筋は通る。


 フロリアンはそこまで考えると、先程ロザリアが真剣な眼差しで自分を制止した理由に思い至った。

 ロザリアはこの場における彼女の存在を既に認知しているのではないか。

 もしかすると、先の口論の仲裁の為に自分が駆け寄っていたら、何か予想も出来ないような悪いことが起きていたのではないか。

 彼女がそれを見越して、自分を守る為に制止したのだとしたら……


 言い知れぬ、ぞっとするような不安感が襲ってくる。再び背筋に走る悪寒を感じつつ、フロリアンは静かにロザリアとアシスタシアの後に続いてその場を離れた。



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