第16節 -愛と罪と罰-
フロリアンは心の中で慟哭していた。
歴史が歩んできた真実の重さとは幾ばくか。今を生きる人間には到底想像も及ばない過去の現実を知った今、口に出来る言葉は数少ない。
朝の騒々しかった鐘の音もすっかり鳴りやみ、変わらぬ静けさの只中にある大聖堂の中において、今自分の心は対照的に激しくさざ波立っている。
ロザリアは数百年前に起きた出来事と、今この地で起きている出来事の類似性を指摘しながら語り聞かせてくれた。
三十年戦争が勃発していた頃、欧州各地では正当な戦だけではない争いが頻発していたという。
暴動、略奪、強姦、放火。
恐怖、憎悪、憤怒、殺戮。
行動に対する報復。見せしめの為の処刑。欧州の地で横行していた制度としてのそれより遥かに残忍な行いが当時は日常として行われていたことは知っている。
正当とは呼べない争いが頻発していた理由は至極単純だ。それは戦いをする者の立場に起因する。
当時の“軍隊”とは今の国家所有の軍というイメージとはかけ離れたもので、要は権力者によってかき集められた〈ただの村人〉、或いは〈荒くれ者達の集団〉であった。
本当の意味で訓練された兵士などほとんどおらず、ただ指示されるがままに動かされていただけの人々に過ぎない。
そんな彼らが“国に対する忠誠”などという概念で戦うはずがない。そもそも、三十年戦争という戦い自体が“誰と誰が何の為に争ったものなのか非常に曖昧”な戦であったのだから尚更だ。
寄せ集めの兵士として力を持ち戦った彼らは、小さな町や村に対する略奪行為を平然と行った。物資も食糧も少なかった彼らが生きるために行った行為である。
加えて女たちに対する凌辱、財産を隠し持っていた者に対する見せしめの処刑など、悪事を並べ立てればその数に際限は無い。
当時はこうした兵士たちの愚行は基本的に黙認され続けたという。
しかし、その兵を取りまとめる軍隊の長は定期的に略奪行為に加担した者達を罰しもした。村人たちの目の前で言葉通りの公開処刑を行ったのである。
この処刑は、いくら寄せ集めとはいえ、兵士たちの愚行を放置し続けた結果として、いつか完全に統率が取れなくなることを恐れた為であった。だが、実際のところは下の兵士が略奪してきた物資を上官たちで独占する為でもあったという。
人間の精神の荒廃。荒れ果てる町と同じく、人の精神も狂気に染まるところまで染まった結果はそのようなものであったのだ。
1618年から1648年までの30年間の間の死者、延べ800万人。
歴史上もっとも悲惨な宗教戦争。主義や主張よりも人間の本能が起こした惨禍。これが三十年戦争の本質である。
ロザリア曰く、アンジェリカはこの時の惨劇を今の時代に再現しようとしているのではないかという。
自らはウェストファリアの亡霊と呼ばれる例の兵士のみを手向け、あとの暴動は全て住民たちの内在する意思によってもたらすというやり方。
それはまるで、人は自らの意思でどこまで自制と倫理を超越できるのかという実験をしているようにも見えるという。
話を聞き終えたフロリアンはやり場のない怒りとやるせなさによって、込み上げてくる嫌悪感に加え吐き気とも戦っていた。
今頃になって、話の前にロザリアが自分の体調を気に掛けた理由を悟ることになるとは。
三十年戦争の真実、アンジェリカの計略、ウェストファリアの亡霊、街全体を包み込む赤い霧、過去の歴史と今の事件の類似性。
それら全てを話して聞かせたロザリアは、目の前で優れない体調を隠し切れなくなったフロリアンに対しおもむろに口を開いて言った。
「今の貴方の状態に追い打ちをかけるつもりは毛頭ございませんが、ひとつ聞かせてくださいまし。貴方が昨夜アンジェリカと遭遇した時、あの子はなんと言っていましたか?」
頭が思考を拒絶するような朦朧とする意識の中でフロリアンは昨夜のことを思い出し、そしてロザリアに伝える。
「愛を教えて欲しいと。ただそれだけを言っていた。貴女も聞いていたのでは?」
あの場でロザリアも話の内容は聞いていたはずだ。なぜそのことを改めて確認するのだろうか。
「そう。あの子は確かに貴方にそれを問いました。では、少しだけ踏み込んだことを問います。フロリアン、彼女にとっての“愛”が一体何を指すのか貴方は理解していらっしゃいまして?」
「アンジェリカにとっての、愛?」
フロリアンは答えに窮した。確かに愛の本質的な意味合いを知っている人が〈愛とは何か〉を問い掛けてくるとは思えない。
であるならば彼女にとってその言葉は何を示すのか。それについて思いを馳せた時、ロザリアが間髪入れずに答えを言い放った。
「罪と罰。それを為すことがあの子にとっての正義であり、あの子にとっての愛であり、あの子にとってのただひとつの存在意義。根の深い問題ではありますが。」
「罪と罰?人に裁きを与えることが愛だって、そう言うのかい?」
「今回の事件を解決に導く上で避けては通ることの出来ないお話として、貴方にお伝えしなければなりません。アンジェリカの辿って来た道。あの子がどのような家系で育った子なのかを。」
フロリアンに対して、ロザリアはそう言うとアンジェリカの生い立ちについて手短に話した。
リナリア公国におけるインファンタ家の黒い噂。裁きを与える側としての教育を受けた少女の話を。
「他の貴族の子らがどこまでこの話を知っているかは存じませんが、わたくしはかねてよりそうした話を自身の両親から聞き及んでおりました。」
「そんな……」
「狂人の妄言に聞こえるでしょう。ですが、これは厳然たる事実であり、あの子は今自分自身が行っている行為そのものが世界に、ひいては人間に対する〈愛のある行い〉であると信じている。人の内から溢れる本質を曝け出させることによって対立を煽り、互いに争わせる。その間違った道理は罪であり、その道理を持つ人間に対する罰がこの暴動。これを繰り返していった先にこそ真の平穏が訪れるとあの子は信じている節があります。」
何も言葉が出て来ない。
人を裁くためだけの教育を施された少女。そのアンジェリカが計画した事件の根底にあるものが〈愛〉?
あの放火や暴動、鉄篭に入れられた遺体の見せしめも全てそうだと言うのか。
フロリアンは込み上げてくる吐き気に耐え切れず、ついに自分の脚で立つことが難しくなってその場にしゃがみこんでしまった。
その様子を見たアシスタシアがすぐに介抱の為に体を支えてくれた。
「ごめん、アシスタシア。」
「いえ、お気になさらず。」
膝から崩れ落ちるようにしてしゃがんだフロリアンを意に介することなく、ロザリアは続ける。
「しかし、これらは目的ではなくあの子の内にある行動原理。事件によるこれ以上の被害の拡大を食い止める為には、この一連の事件が持つあの子にとっての“意味”を見出し、それを無きものとしなければなりません。」
「それを考えることが僕達にとっての調査になると?」込み上げる不快さをこらえながらフロリアンは言う。
「はい。ただ、何度もお伝えしている通り時間の猶予がありません。おそらくはそう間隔を空けずに次の事件が起きるはずです。事件の行き着く先がどうであれ、思い通り最後までことを進めさせるわけにはまいりません。」
ロザリアはそう言うとフロリアンの目の前に立ち、腰を下ろして同じようにしゃがみながらしっかりと目を見据えて言う。
「しかし、今の貴方様の体調ではそれを突き止める調査も思考も難しいかと存じます。お伝えすべきことは全てお伝えいたしました。本日はホテルに戻られてゆっくりなさるのが宜しいかと。」
直後、ロザリアは立ち上がって言った。
「アシスタシア、彼をホテルまで送り届けてくださいまし。」
「承知いたしました。」
肩を貸そうとするアシスタシアであったが、フロリアンはよろめきながらも立ち上がって言う。「待ってくれ。僕は大丈夫だから。」
するとロザリアはドイツ語で言った。
「Eile mit Weile.〈ゆっくり急げ〉」
口調は穏やかに、それでいて声色はしっかりとした彼女の言葉を聞いて、渋々ながらフロリアンは頷いた。
「わかった、そうしよう。」
それから、アシスタシアに付き添われたフロリアンは北礼拝堂を後にし、大聖堂入り口へと向かって歩いて行った。
礼拝堂に1人残ったロザリアは再び眼前のピエタを見上げて呟く。
「全て。いえ、本当は伝えていないことがまだひとつ。時代の犠牲者でもあるあの子の内にあるもう1人のアンジェリカ。“わたくしたちの罪の為に、神は慰みの供え物としての御子を遣わされた。故に……ここには“愛”がある。”」
アンジェリカは自身を御子に見立てているのではないかという疑念も浮かんだが、すぐにその冒涜的な思考は頭から追いやった。
丁度その時、ロザリアのスマートデバイスがメッセージの受信を告げる合図を発した。
デバイスを起動し、メッセージの内容をすぐに確認する。送り主はマリアだ。
そこには次のような文章が記されていた。
“全ての重荷を負う者は、私の元に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。”
“私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安息が与えられる。”
“私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからだ。”
マタイによる福音書 11章28節から30節にかけての文言だ。
「まったく。目的を隠すためとはいえ、素直ではありませんわね。」
〈事件解決に関わる事実が判明したから話をしよう。私が負えない役回りの代わりに、私の話を聞いてほしい。これは君達の求める答えだ。私の求める役回りは君達にぴったりなはずだよ?〉
マリアは暗にそう言っている。
どこで誰が情報を抜き取っているか分からないという理由から、こうした回りくどい方法を用いるのが彼女の常だが、わざわざこの文章を引用して用件を伝えてくるとは。
アンジェリカの真なる意図や目論見が見えずに弱っているだろうことを察しての選択に違いない。
ロザリアはすぐに返事を返す。
『共に夕食をとりましょう』という内容に加え、場所と時刻だけを示した簡潔なものだ。
スマートデバイスをスリープし、ロザリアも北礼拝堂を出て大聖堂を後にしようとしたが、その前に高祭壇で祈りを捧げる同胞に一言だけ挨拶をしておくことに決めた。
清廉なる信心者よ。
汝の信仰の道は、高潔であるが故に暗い。
* * *
室内に華やかな香りが広がる。それは薔薇のようにかぐわしく、とても気持ちを明るくしてくれるような香りである。
部屋に備え付けのティーセットで紅茶を淹れたアザミはカップをマリアへ差し出して言った。
「何か新しい情報は掴めそうですか?」
「ありがとう。これといって目新しい情報は無いよ。」
差し出された紅茶に手を伸ばしながらマリアは言う。
「おや、今日はドアーズかい?珍しいね。」
「はい。アールグレイと悩みましたが、気分を変えるにはいつもと違うものが良いかと。ミルクは?」
「ストレートで頂くよ。とても良い香りだ。」
マリアは紅茶を一口飲んでほっと溜息をついた。
朝、三姉妹と話をして以降は2人揃ってずっと部屋で調べ物に没頭していた。調べ物の内容は当然ブランダが進言した〈ジャック・カロ〉という食刻家についてである。
スマートデバイスのホログラムモニターを終了し、ソファにゆったりと背中を預けながらマリアは言う。
「彼の食刻で特に有名なのは〈絞首刑〉だ。アンジェリカが仮に大きな惨禍を全て再現するつもりであるならこれを無視するはずがない。」
「大きな事件はそこで山を迎えると?」
「そう考えるのが自然の成り行きというものだ。明日、プリンツィパルマルクトで行われる狂信者たちのデモが、おそらく絞首刑という食刻の再現に至るまでの最初の引き金となるのだろう。」
「デモ自体を止める術は。」
「残念ながら無い。そこで行動を起こせばかえって事を荒立てる結果しか生み出さない。私の目に映る未来の辿る末はどれも制止という行動を否定している。」
マリアの目に映る未来。行動を起こすことで危機的状況を招くと彼女が言うのであればそれは事実であり絶対である。
それに、対処法があるなら彼女は既に行動しているはずだ。
アザミは僅かな望みを持って先の言葉を言ったが、その僅かな望みを抱くことさえ許されない現実というものを思い知らされるだけの結果となった。
そう思っていた時、ふとマリアが言う。
「アザミ、この地における不穏分子とはどのような人たちを指すのだろうね。」
「はい?」質問の意図を測り兼ねたようにアザミは言った。
「デモを起こすのは、例の亡霊によって自らの内にある本質を暴かれた人々になるのは間違いない。普通の一般人だ。けれど、だからといって今まで普通に暮らしていただけの人々が突然そのような行動に打って出られるものかと言えば、少し疑念が生じる。」
「つまり、元々デモといった反対運動に参加したりシュプレヒコールを頻繁に行っていた人々が先頭に立つと?」
「あぁ。だが厳密に言うと、実際に行っていたかどうかというよりは、デモを行う自分というイメージ像を心の内に持っているかどうかだ。」
「イメージ像?日常からデモを起こしてでも成し遂げたい思想や感情を持っているか……ということでしょうか。」
「そう。具体的に言おう。ドイツ、戦争、大衆扇動。それらのワードをもってしてまず浮かぶものと言えばナチズムだ。世界中の誰に聞いたってこの答えが頭をよぎるに違いない。アドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスといった一派ほど人心の扇動に絶大な力を発揮した者達はいないからね。戦後100年に近付く今の時代においてすらも影響力は凄まじいものがある。そして、彼の思想を受け継ぐ現代におけるナチズムの象徴的集団といえば?」
「ネオナチと呼ばれる人々でしょうか。」マリアの質問にアザミは間髪入れずに答えた。
「その通り。だが、ドイツはもちろん、欧州各国ではナチスの思想を継ぐという発想自体が法律によって固く禁じられている。故に、ナチズムを信仰するネオナチという集団は基本的には公にその活動を口外することはなく、若い人々をターゲットに密かな勧誘を通して勢力を拡大していっているに過ぎない。稀にデモを実際に起こしたりといったこともあったけれどね。」
「そういえば、関連してスキンヘッドという集団がいましたね。」
「また懐かしいことを言う。そうだね。統率はされていないが放置すると危険な集団でもある。以外に偏った思想の持ち主といえば、クークラックスクランなども存在するが、ひとまず話はネオナチズムに絞ってするとしよう。」
マリアはそう言って柔らかなソファから上体を起こすと、再び紅茶を口に運んだ。
「焦点はデモを起こす集団というのがどんな存在であるかという点だ。私の想像の域を出ない事柄ではあるが、今回のカトリックと福音主義の争いの根底にはネオナチズムも深く関わってくることになる。彼らにとって今回の事件は日頃口外できない思想を代理的な方法を持って公に示す口実となったわけだからね。」
手に持つ紅茶のカップをテーブルに戻し、ソファから立ち上がって窓辺へ向かったマリアは外の景色を眺めながら続ける。
「ナチスの思想の始まりは突き詰めればただ一つ。〈自分達こそが最優良民族である〉というものだ。その根幹をもって、今回の事件にナチズムの思想を持つ者を当てがったときに何が起きるか。
それこそ自身の信仰する宗派こそが唯一無二であると論じ、他派を異端だと断じ排除する行為そのものだろう。ナチスはただ一つの思想をもって大量殺戮の道を通ったが、この地で他派排斥を訴えかけようとする人が通ろうとしている道もまた同じこと。
キリスト教の教義をまるで考えずに見れば、行動原理的にも思想的にも両者の間にそれほど大きな違いはない。」
そしてゆっくりとアザミの方へ振り返りって言った。
「皮肉ではあるが、人と人の団結力が最も高まる時というのは“共通の敵”を持った時だ。今この地ではカトリックと福音主義という2大派閥が同じ思考の元で大きな対立を迎えようとしている。けれど人々はやがて気付く時が来るだろう。この対立を煽っている“真なる敵”は自分達の中に別に存在していると。
その時やり玉に挙げられ、吊し上げに合うのがネオナチという集団だ。人々はこの存在をただ徹底的に糾弾し、排除する為だけにどこまでも残酷になることが出来る。相手が〈ナチス〉であれば、ね。」
マリアの話を聞いていたアザミは、この時になってようやく彼女の真意を理解した。
「明日のデモがジャック・カロの大きな惨禍における〈盗人の群れ凱旋〉を象徴するのであれば、その次にある〈発覚〉を象徴する出来事とはネオナチの関与の発覚。」
「人々は口々に叫ぶはずだ。ネオナチに加担する者が自分達の平和を踏みにじろうとしていると。存在しない対立を煽り、混乱の最中に突き落とした犯人たちに厳格な裁きを与えるべきだとね。」
「結果としてもたらされるのが絞首刑を代表とした残酷な仕打ちの数々。差し詰め、銃に関与する所は警察の持つ銃が元になっているのでしょうか。」
「以外にないと思う。そして、先ほどは私の想像に過ぎないとは言ったが、既にある程度答えは出ている。今朝、聖ランベルティ教会の鉄篭に入れられていた遺体の身元がそれぞれ判明したが、彼らはいずれもネオナチズムに関与している人間だったそうだ。」マリアは手元のスマートデバイスを何やら操作した後、アザミにゆっくりと歩み寄りながら言った。
その美しき赤い瞳は僅かに輝きを放つ。この後に起きる未来全てを視通すかの如く、深淵のように仄暗い色を湛えて。
「この事実がメディアを通じて流されれば、貴女の仮説は現実となる。」静かな口調でアザミは言った。
「止めに入った武装警官隊も交えて、言葉通りの大きな惨禍が引き起こされる。」
重たい空気が支配する室内に静寂が訪れる。
見つめ合うマリアとアザミ。一連の事件が導こうとする結末の全貌がようやくその視界に映ってきた。
マリアが言う。「ホルテンシスの力を行使することで人々の心から対立心を奪う機会はただの一度きり。〈発覚〉の瞬間だ。そこで行動を起こし、且つ成功しなければこの地は今の混乱とは比較にならないほどの混沌と犠牲を生み出すことになる。」
「しかし、実現する為には解決しなければならない課題がいくつかあります。まずはあの子の力を最大限に発揮させる為の舞台をどう用意するのか。そして、必ず邪魔しに現れるだろうアンジェリカにどう対処するのか。」
究極にして最大の難題二つであるが、マリアは意外にもあっさりとした表情で答えた。
「その為には役者が必要だ。二つの難題を的確に解決する力を持った存在。私達とは違う力を持つ者の協力を得ることが出来ればどうということもない。つい先程その人物にメッセージを送ってみたのだけれど、そろそろ返事が来る頃合いだろうね。」
その時、マリアのスマートデバイスがメッセージの受信を告げた。マリアは手早くデバイスを起動してメッセージを確認する。
「アザミ、今夜の夕食はあの子達を連れてカトリック司教区の司教館へお邪魔することにしよう。偉大なるパトリアルクス。彼女の力を借りる為にね。」
よもや自分達を殺すことに精を出す総大司教と手を取り合う日が来ようとは。
ロザリアとマリア。決して仲が悪いわけではないが、互いが互いを葬ろうとしているこの2人でさえ、アンジェリカという共通の敵がいれば団結することが出来る。
そのブラックユーモアじみた事実を目の前に、アザミは苦笑するほかなかった。
* * *
薄暗い中、穏やかな暖色の電灯が室内をふわりと照らす。
静かな滝のように落ちる水が青色に美しく光り、幻想的な空間を彩るように輝く。
アネモネア三姉妹はホテルの屋内スパで束の間の休息をとっていた。事件を受けて気落ちしている3人を見たマリアの計らいで、ゆったりとしたひと時を過ごすためにこの場所にやってきたのだ。
3人は専用のバスローブに身を包み、白く光るジャグジーのすぐ傍にあるフットバスに足先を沈めてそれぞれが物思いに耽っている。
並び合う3人の誰もが口を開こうとはしない。
この場にいると、昨夜と今朝巻き起こった事件が嘘のように感じられる。まるで何事もなかったかのように静かな日常。
今朝の聖ランベルティ教会での出来事はアザミが放った〈影の目〉で見た。鉄篭に入れられ、見せしめのように晒された3人の遺体。
滴り落ちる鮮血の真下、悲鳴を上げて逃げ惑う人々と呆然と立ち尽くす警官たち。
あれは夢だったのだろうか。
この落ち着いた空間の中で、優雅なひと時を思い思いに楽しむ他の宿泊客の表情を見ると尚更そのような印象を抱いてしまう。
そんな中、特に浮かない表情をして俯いていたのはホルテンシスであった。
すぐ隣の彼女の様子を心配したシルベストリスがテレパシーで話し掛ける。
『珍しく浮かない表情をしているわね?ホルス。』
自分達3人以外には誰にも聞こえない声に優しさが滲む。
『トリッシュ……ありがとう。なんだか色々考えちゃって。今でも、外はきっと大変な騒ぎの只中なんだよね。そう思うと、今こうしてゆったりとしているのも良いのかなって思っちゃったり?俯いてるのもらしくないよねーって思うけど、どうも、ね。』
『誰にだって、そういう時があるよ。私も、トリッシュも同じ。けど、ホルスはもうひとつ考え事をしてる。ホルスにしか出来ない務め。マリア様がおっしゃったあのことを気にしているんでしょう?』
ブランダの問い掛けにホルテンシスは静かに頷いた。
僅かな間が訪れる。フットバスに浸けた足を片足だけ上げ、俯いたままホルテンシスは言う。
『大天使ジョフィエルの加護。この力を持って騒乱を鎮める。言葉で言うと単純だけど、考えると胸が苦しくなる。多くの人たちの運命を私が握ってるようなものなんだって。』
ホルテンシスの細い足首と素足が揺れる水面に反射する。震える水面が静まってから、ホルテンシスは再度足をフットバスへ沈めた。
『貴女なら大丈夫。いいえ、“私達なら”大丈夫よ。ホルス、貴女は1人ではない。すぐ傍にはいつだって私とブランダがいる。そしてアザミがいて、マリア様がついていてくださる。』
『ホルスの背負う責務の重さは、私達全員が背負う重さ。忘れたら、ダメ。』
『トリッシュ、ブランダ……ありがとう。そうだね。私達は、だって……三姉妹だもんね☆』
シルベストリスとブランダの優しさに触れたホルテンシスは口元を緩ませ、目を潤ませながら言う。
そして顔を上げると、ぱっといつものような満面のゆるい笑みを浮かべてみせたのだった。
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