第17節 -夕べの集い-

 曇天の空における日暮れは早い。太陽が西に沈みかた空の色は急速に黒く染まっていく。

 夜が来る。まだ星が見える程の闇ではないが、薄暗い街を暖色のライトが明るく照らし始める頃合いである。

 今朝から続く聖ランベルティ教会での騒ぎがひとまずの収束を迎えたのはつい先程のことだ。

 付近の建物の上階から楽し気に混乱を眺めていたアンジェリカだったが、昼過ぎ頃には目の前で起きる混乱にも飽きて興味を失い、以後は街中の散策を楽しんでいた。

 パン屋で好きなパンを選び、コーヒーショップで温かなコーヒーを購入して一緒に楽しむ。どこにでもあるような少女の至福のひと時。

 それからはディオゼサンビブリオテーク・ミュンスターと呼ばれる現代アートを思わせる見事な景観を持つ図書館で読書をして過ごしたり、ヴェストファーレン美術館で芸術作品を鑑賞して過ごしていた。

 そして今、アンジェリカはホルステベルクの丘の上に建つ大聖堂を訪れている。


 聖パウルス大聖堂。

 迷うことなく正面入り口から聖堂内に立ち入ったアンジェリカは、満面の笑みを浮かべながら南西回廊を抜け東の高祭壇へと向かう。

 ゆっくり、ゆっくりと一歩ずつ歩みを進める。身に纏う短いスカートと、トレードマークのツインテールをゆらゆらと揺らしながら、一歩ずつ確実に。

 幼いキリストを抱きかかえる、聖クリストフォロスの彫刻を抜けた先に見える勝利の十字架の手前。そこに佇む人物の姿を視界に捉えると、さらに無邪気な笑みを浮かべて言った。

「熱心なものね。朝からずっとここにいたのかしら。もしかして、暇なの?」

 アンジェリカの目の前には1人の老男性の姿がある。彼は幼い少女へ視線だけを寄こし、忌々しそうな声色で返事をした。

「君ほどではない。それに、こうして祈りを捧げることも私にとっては大事な職務だ。」

「主よ、憐みたまえ。なんちゃって?きゃはは!」

 嘲笑するように言い放つアンジェリカに対し、老男性は特に何を思う風でもなく言う。

「こんな日暮れに何の用だ?今さら私に特別な用事があるわけでもあるまい。君にとっては既に用済みなのだろうからな。」

「ご明察ぅ。でもだからといって邪険にするつもりもないの。ここに来たのはただの退屈しのぎ。さっき貴方が言った通り、私も暇なのよ。次の惨禍が訪れるまではまだ時間があるから、ねぇ?」

 相変わらず挑発的な態度を示すアンジェリカを睨みつけたまま男性は答える。

「明日の朝か。よりにもよってネオナチの連中を焚きつけてことを起こそうなどと。我らの主に対する明確な冒涜ともいえよう。君はその不信心さを悔い改める機会をもつべきだ。告解の場が必要かな?」

「結構よ。吐き出すものなど何もないもの。それに私、神様には嫌われているの。赦しを乞うたところで、聞き入れられることはないでしょうね。それより、ネオナチが嫌なら絶滅危惧種のクークラックスクランやスキンヘッドの方がお好みだったかしら?この国と戦争といえば、あの人たちが適当な人材だったから扇動したというだけの話なのだけれど。内心で燻り続ける感情を曝露する機会を私が与えてあげたのよ。」

「この国の、と。知った風な口を利く。」

「当然でしょう。私は千年に渡って、この目で、この世界で起きた出来事を直接見てきたのだから。1933年以後、長きに渡り大衆の感情に直接働きかけてきた、あの人たちのプロパガンダの手法は見事なものだと思ったわ。言葉通りに何千回も繰り返す単純な趣旨。理解する為に知恵を必要としない内容。あれこそが閉塞する社会の中でとても効果的な手法だった。貴方達も小難しい説法なんてやめにして、彼らを見習えば?」くすくすと笑いながらアンジェリカは言った。

「それは罪だ。この国は当然、欧州各国でもその思想に殉じることは固く禁じられている。」

「罪?人の定めた法で?ばっかみたい。それとも、貴方達がお得意の高尚な笑い話か何かかしら?」

 今にも大声で笑い出しそうなほど震えながら、声を押し殺してアンジェリカは言う。

 そんな彼女の様子を見やりながら冷めた調子で老男性は言った。

「アンジェリカ。繰り返すが私に何の用だ。退屈しのぎであればもう十分だろう。私と話して得られる享楽ももはやあるまい。」

「いいえ、意外と楽しいわよ。存外にね?愚かな人間を見るのはいつだって楽しいもの。私が一度指を鳴らすだけで尽きるような、そんな命しか持たない貴方達が、私に対して偉そうに説教や講釈を話して聞かせる滑稽さが特に気に入っているわ。たまらなく愛しいとすら思う。」

「愛しいか。愛を知らぬ者がその言葉を口にするのかね。」

「へぇ、言うじゃない。今、貴方“で”遊ぶのも一興ではあるけれど、それだと後が面白くないものね。そうだ!特に用事という用事はないのだけれど、ひとつ忠告くらいは残していってあげるわ。」

 アンジェリカはそう言うと、満面の笑みを浮かべながら老男性の眼前まで歩み寄り囁くような声で言う。

「本心を明かすことのない美しい青薔薇。不可視の薔薇。せいぜい彼女には気を付けなさい?あの女は他者の心の全てを読む。当然、貴方の心も既に読まれている。分かっているでしょう?そしてあの女は今回の騒ぎに加担した貴方を絶対に見逃したりはしない。偉大なるパトリアルクスが、貴方の最後を見定める死神となる。同胞から狩りに遭うだなんて楽しいわね?とても。今のうちにしっかりと命乞いをなさい。敬愛する神様に救いを求めることね。」

 楽しそうに語るアンジェリカを老男性は静かに睨みつけた。

 それを目にした彼女は面白いとでもいうように尚も笑い続ける。


 アンジェリカはくるりと後ろを振り向き身廊へと歩き出す。

 大聖堂という場にふさわしくない短いスカートをゆらゆらと揺らしながら、挑発的な仕草で歩みを進めた。

 両腕を左右に伸ばし、グースステップを踏むかのように歩く彼女のヒールが、大聖堂の床を冒涜的に叩くたびに軽快な音が周囲に響き渡る。

 しかし、彼女は途中で歩みを止めてこう言い放った。


「“罪がもたらす報酬は死である”」


 聖パウロの書簡にある一節だ。

 少女は甘ったるい声で言いながら顔だけ振り返ると、アスターヒューの瞳の奥に薄暗さを宿した視線を老男性へ最後に向けてにやりと笑う。

 その後、紫色の煙を解くようにしてその場から静かに消え去ったのだった。


                 * * *


 午後7時。日の入りまで1時間以上もあるというのに、曇天の影響から外はすっかり暗闇に包まれている。

 分厚い雲が空を覆う様は、まるで今この地で起きている出来事に対する人々の心の内を写し取ったかのようだ。

 周囲の景色が闇に閉ざされようとする中、マリア達一行は普段決して立ち入ることのない場所を訪ねていた。

 彼女達の目の前には2体の石像が支柱に据えられた正門が構えられており、奥には宮殿と形容することも出来る立派な建物が佇んでいる。

 1732年に建築されたと言われるこの豪華な建物こそ、司教区に座する司教館である。

 右手には教区美術館が聳え、すぐ後ろを振り返れば、聖パウルス大聖堂の南塔、旧祭壇、北塔のそれぞれの外壁の影が目に留まる。


「さて、今日の夕食はここにお邪魔することになっているのだけれど。」楽しそうな表情でマリアが言う。

「ミュンスター司教館。招かれでもしない限りは立ち入ることもない建物ですね。」

「今日は正式に招待されたんだ。気兼ねなく立ち入ることにしよう。まぁ、誘いをかけたのはこちらではあるのだけれどね。」マリアはアザミに言う。

 2人に続いてシルベストリス、ホルテンシス、ブランダも司教館に興味津々といった様子だ。

 5人揃って正門まで近付く。すると建物の中から修道服に身を包んだ1人の少女が出て来てマリア達に歩み寄った。

 少女は5人の前に近付き、しばし姿を見つめてから言う。

「ようこそ、ミュンスター司教館へ。貴女がたをお待ちしておりました。」

「珍しいものでもみるような表情だね。もしかして私達の服装が気になるのかい?」

 少女が自分達の何を見ていたのかすぐに直感したマリアは言った。

 マリアとアザミはいつも通りゴシック調のドレス、シルベストリスは和装をモチーフにした服装でブランダはパンキッシュなスタイルという、誰の目から見ても目立ちに過ぎるという様相だ。

 唯一、流行に敏感なホルテンシスだけは“今どきの子”というお洒落な佇まいではあるのだが、このメンバーの中ではかえってそれが浮いてしまうという状況であった。

 マリアに問われた少女は答える。「はい、とても素敵なお召し物にございます。私には縁遠いものなので見惚れてしまいました。」

 その言葉に意外性を感じたマリアは言う。

「君に縁遠い?私達の服装は君が身に纏ったとしても十分に似合う性質のものだと思うのだけれど。」

 目の前に立つ少女はどこからどう見ても絶世の美女と呼べる類の容姿だ。嘘、偽りやお世辞など抜きにして、おそらくは今この場にいる誰よりも女性らしい輝きを放っている。

 後ろに目配せすれば、お洒落や美容に強いこだわりをもつホルテンシスが彼女を目の前にして、かつてなく強烈な目の輝きを湛えていることからも、それが事実であることを物語っている。

 顔を覗き込むようにして言ったマリアに、表情ひとつ変えることなく少女は返事をする。

「いえ、精神的なものです。身に纏いたいという気持ちがないわけではないのですが、実際に着用するとなるとどうにも気恥ずかしく。それに、信仰に身を置く者としての抵抗もございます。」

「へぇ?それは意外。君の主は実のところ、可愛らしい服装が大好物だからね。夏になればシースルーの大胆な装いなんかをよくしているだろう?君も同じような装いをさせられているものかと思ったのだけれど。」

 ちょっぴり意地の悪い笑みを浮かべてマリアは言った。

 その言葉に目の前の少女は困ったような顔をして、何かを思い出したかのように小さく息を吐いた。どうやら主の奔放さは彼女にとって一種の悩みの種らしい。

「すまない。意地悪をするつもりなどはないんだ。ただ、こういった服装が君にも似合うだろうというのは私達の目から見ても十分に分かる。いつか身に纏っている姿を見せてもらいたいほどに。」

 マリアはそう言うと優しい笑みを彼女に向けた。そこで一旦話を区切るように続ける。

「さて、それより友人の身内を目の前にしていつまでも“君”呼ばわりも良くはないな。既に知っているだろうけれど、私はマリア。マリア・オルティス・クリスティーだ。ぜひ君の名前を教えてくれないかい?」

 マリアの申し出を受けて少女は凛とした表情で答える。

「申し遅れました。名をアシスタシア・イントゥルーザといいます。以後お見知り置き頂ければ幸いにございます。」

 その名を聞いてマリアは納得した。


 なるほど。“女性美の極致”。アシスタシア・イントゥルサと呼ばれる花の花言葉だ。

 偉大なるパトリアルクスが目指したものは、どうやら自身の趣味趣向もふんだんに取り込まれているらしい。

 もちろん、彼女が内包する強力な力の気配も含めて。

 加えて彼女の容姿というのはまるで……


「アシスタシア。良い名前だね。君とこうして直接話が出来る時を楽しみにしていたんだ。早速その希望が叶って嬉しいよ。以後よろしく。」確信めいた名の由来を思いマリアは頷きながら言う。

「こちらこそ、宜しくお願い致します。それでは、皆様を夕食の席にご案内いたします。」

 アシスタシアは形式的な礼をし、5人全員に視線を送りながら言うと正門へ振り返ってゆっくりと歩き始めた。

 マリアとアザミも続き、その後ろをシルベストリスも追う。ブランダはすぐ隣で目を輝かせるホルテンシスの背中をとんとんと2度ほど叩き、笑いながら歩みを進めた。

 ブランダに背中を叩かれ、現実に意識が引き戻されたホルテンシスも慌てて全員の後を追う。アシスタシアの完璧な美しさに見惚れて感動してしまい出遅れた形だ。

 

『もう、ホルスったら。』

『ごめん。見惚れてた。だってぇ!昨日の夕方も思ってたけどすっごい美人さんなんだもん!!拝みたくなるくらい☆こういうの何て言うの?尊い?違う?でもそんな感じ♡』ブランダのテレパシーにホルテンシスが答える。

『2人とも、ぼうっとしていると置いて行かれるわよ。いくら友好的に見えても相手が相手だもの。適度な緊張感は持っておくべきだわ。』

『そーんなこと言ってぇ~☆トリッシュだってイントゥルーザさんに見惚れてたくせに^^』

『それは……そういうこともあるかもしれないけど。いや、あるけど。』

『やっぱり☆』

 周囲から見れば一見静かにしているように見える姉妹たちは、自分達にしか聞こえない会話で盛り上がりながらマリア達の後を追った。



 司教館内部へと足を踏み入れた一行はまっすぐに2階へと案内された。

 神を讃えるため、神の存在の大きさを人々に可視化させる目的で豪華に作られる聖堂などとは違い、館内はどこにでもあるような簡素な装飾のみが施された意外とシンプルな造りである。

 神の権威の大きさを人々に見せるということは即ち、ある意味では教会の権威を大衆に誇示する為とも言えるのだろうがここではそうした必要性もないのだろう。


 ある部屋の前まで5人を案内したアシスタシアは、目の前の扉を幾度かノックをする。

「どうぞ、お入りくださいまし。」

 聞こえてきたのはマリアとアザミにとってはとても聞き慣れた声であった。

 アシスタシアは丁寧に扉を開くとマリア達に中に入るように促した。

「ありがとう。」マリアはそう言うと先陣を切って部屋へと立ち入った。後ろにアザミとアネモネア姉妹も続く。

 最後にアシスタシアが部屋に入り、ゆっくりと扉を閉めた。


 彼女の案内で通されたのは24平米ほどの広さの部屋で、中央には晩餐会スタイルの長テーブルが据えられ、今この部屋にいる人数分の椅子が並べられている。

 美しい白基調のテーブルクロスが広げられた上には夕食の準備が既に整えられており、湯気の立ち上るスープなどから良い香りが漂って来る。

 部屋の奥には赤紫色のキャソックに身を包む、美しい金色の髪と遠目からでも分かる澄んだ青色の瞳をした女性が佇んでいる。

「ようこそおいでくださいました。楽しいひと時を、というばかりにも参りませんが、皆様方と多少なりとも縁と友好を深める席と出来れば幸いにございます。」

「こちらこそ、総大司教様直々に招待頂いたことに感謝するよ。ロザリー。」彼女に視線を投げ掛けながらマリアは言った。

「こういった事変でなければ、ゆったりとした会食の場と出来るのでありましょうが。」

「それはまた別の機会に、ということになるだろうね。それより、君がキャソックに身を包むなんて珍しいこともあるものだ。それだけで少し新鮮な気分だよ。」

「国際連盟秘匿機関、その重役の方々と正餐を共にする場ですもの。上辺だけでも礼は示さなくてはなりません。普段着用しない理由についてはご存知のはず。女性の司教職は、世界広しといえどもわたくしただ1人に授けられているもの。公の場でこの装いをしていては常に大衆の目を引いてしまいますから。」

「厚待遇のお気遣い感謝するよ。」

 “上辺だけ”と公然と言い放つロザリアに対し、マリアは笑いながら答えた。

「加えて、我らの教理においてこの色は償い、死者への贖罪と祈りを表します。ある意味においては、このような状況だからこそ身に纏うべきものとも言えましょう。」

「まったくだね。」

 ロザリアとマリアはそこで一旦会話を止める。静寂の中、2人の視線が数秒重なり合った後にロザリアはマリアから視線を外して言った。

「それでは積もる話は夕食を頂きながらにしましょう。席は既に用意してあります。自由にお掛けになってくださいまし。」

 そうして自分達用に用意した座席の方へ向かいつつ、マリア達に着席するよう手振りで示しながら続ける。

「とは言え、この司教館の中でカトリック教徒のわたくしめが歓迎の意を示すのも少し筋違いな気は致しますが。今回の事件においてのみ、特別にこの宮殿そのものを“貸し切り”にして頂いた上での使用ですから。」

「それも、まったくだ。そうそう、時間が許すなら記録保管庫にでも足を運びたいものだね。」ロザリアの言葉の意味を理解してマリアは返事をした。

「わたくしとて許可なく保管庫に立ち入ることは出来ません。代わりと言っては何ですが、此度の事件を無事解決まで導くことが出来た暁には、我々ヴァチカンの機密文書館への立ち入りを〈事前手続き無しで〉1度だけ認めると約束致しましょう。」

「へぇ?それはそれは。」

 ロザリアの申し出にマリアは内心少しだけ驚いた。


 機密文書館とはヴァチカン教皇庁が統括管理している図書館である。

 だが、一口に図書館と言ってもその在り方は世間一般でいわれるものとはまるで性質が異なる。理由は所蔵されている文書の歴史的重要性の高さに起因するものだ。

 機密文書館には、世界の始まり以後、歴史的に重要な意味をもたらした本や文書の他、複製本が一切出回っていない世界に一冊しか存在しない書物の原典などが数多く所蔵されている。

 こうした世界的に貴重な蔵書を保有する施設であるが故に、館内は文書や本そのものを傷める可能性のある要素を全て排斥する特殊な造りになっており、照明の種類は当然のことながら湿度や酸素濃度に至るまでの全てを厳密に一定管理された場所となっている。

 基本的に“人が立ち入る”ということを想定はしておらず、万一立ち入りが必要な場合は酸素濃度を調整し、厳重な監視体制の中でごく短時間の時間制限を設けての入館しか出来ない。

 もちろん、入館する前には世界一厳しい身辺調査が実施され、それを見事に通過した者だけが立ち入りを許されるようになっている。ここに例外は無く、国家の王族であろうと、大国の大統領であろうと、世界一の大富豪であろうと関係無い。誰であろうと一律同じ審査を受けなければならない。

 それは国際連盟 機密保安局という実質的に世界の頂点に位置する機関のトップであるマリアとて同じことだ。

 文書館への立ち入りを認めるか否かの権限はローマ教皇の他には世界でただ1人、ロザリアのみが有しており、彼女の承認が無ければ何人たりとも立ち入ることは不可能である。

 総大司教より上の階位に立つ、カーディナルスと呼ばれる枢機卿団ですら、機密文書館への立ち入りに関する権限は一切持ち合わせていない。

 マリアは数年前にこの文書館への入館申請を彼女に行った際のことを思い出したからこそ、先のような反応を示した。

 尚、近代に入ってからは機密文書館もデジタル媒体の取り扱いも開始しており、例えば世界特殊事象研究機構が独自に収集した研究データや調査結果データなども機密分類として保管されるようになっている。


「機密文書館の話を自ら持ち出すだなんて正直驚いた。数年前に内部は拝見させてもらったけれど、今一度その栄誉を賜れるのであれば、いずれかの機会に1度だけ立ち入りを願いたいものだね。」

 いつもの笑顔を潜めながら言うマリアに対して、厳しい表情を浮かべながらロザリアは答えた。 

「それほどまでに、わたくしどもも追い込まれていると言いましょうか。何せ、相手が相手ですもの。業腹ながら我々の力だけではどうすることも出来ない。そんな事象を目の前にして、特別な協力を仰ぐというのであればそれ相応の対価を示すのは当然のこと。協力を乞う相手が貴女であるというのなら、これ以外に示すことの出来る相応しい対価も無いと言い換えることも出来ますが。」

「なるほど。私と取引しようということだね?」

「如何にも。」ロザリアはいち早く椅子に腰を下ろしながら答えた。

 マリアは彼女の対面の席に腰を下ろし、アザミやアネモネア姉妹も後に続く。

 最後にアシスタシアがロザリアの隣に腰掛けたのを見てマリアは言った。

「宜しい。その約束の上で私達も今回の事件解決に最大の助力をすると誓おうじゃないか。但し……」

 マリアの言の葉にロザリアはじっくりと耳を傾けつつ言う。「何か他に条件でも?」

「何、大した条件ではない。その取引において、機密文書館への入館を認めるのは3人としてほしい。人選は今この場にいる3人。この子達の入館を認めるということが条件だ。」


 ロザリアはマリアの隣に並ぶ3人の少女達に視線を送った。とても個性的な見た目をした彼女らについては、この夕食の席でそれとなくマリアに聞いてみたかったことのひとつでもある。

 先に彼女らについて色々話を聞きたいところではあるが、ここはまずイエスかノーかを答えなければならないだろう。

 そう考えたロザリアは大して答えを吟味するでもなく返事をした。

「分かりました。入館するのは彼女達3人ということでお約束いたします。ただ、事前手続き無しとはいえ、形式上は身元調査などの手続きを公式にさせて頂く必要がありますので、後日書類は送付するように。宜しいですね?マリー。」

「良い返事に感謝するよ。ロザリー。」


 ヴァチカン教皇庁と国際連盟 機密保安局。相対する二つの巨大組織の間で取引がまとまったところでロザリアが先に切り出す。

「さて、席は整いましたし、夕食会を始めるとしましょう。堅苦しい特別な挨拶なども抜きにして、どうぞお召し上がりくださいませ。」

 優しい笑顔に穏やかな声。上に立つ者の迫力というのだろうか、先程マリアとやり取りをしていた時とはまるで違う様子にアネモネア姉妹は互いの顔を見合わせる。

 目の前には未だに湯気を立ち上らせる温かく美味しそうな食事がある。しかし、こういう場面で最初に手を付けるというのはなかなかに勇気のいることだ。

 そんな3人の様子を横目で見たマリアが言う。

「それでは、遠慮なく頂こう。」

 マリアはスプーンを手に取ると鶏肉と野菜が煮込まれたスープを静かに飲み始めた。彼女が料理に手を付けたのを見た姉妹たちも同じように食べ始める。

 上に立つ者が手本となって先陣を切らなければ下の者は惑う。マリアはそれをよく弁えている。

 ロザリアも手元のスプーンを手に取りスープを一口ほど口に運ぶ。そしてじっくりと味わった後で姉妹たちの方を向いて言った。

「ところで……このまま本題に入る前にひとつ。せっかくの機会ですし、まずは少し互いの話でもするとしましょう。そちらのお三方は初めまして、ですわね。申し遅れましたが、わたくしはロザリア・コンセプシオン・ベアトリスと申します。どうぞよろしく。」

「ベアトリス総大司教様、お話は常々マリア様から…えっと、あの。」食べる手を止め、緊張の声色でブランダが言う。するとロザリアは口元に手を当て上品に微笑みながら言う。

「そう緊張なさらずに。立場のお話は抜きにして、一個人として貴女がたとお話してみたいと思っています。マリーがアザミ様以外の方を伴うのはとても珍しいことですから。昨日初めてお会いした時から、お話しできる機会が訪れることを楽しみにしておりました。きっと素敵な子達なのだろうと思っていましたのよ。」

 ロザリアの言葉に3姉妹は互いの顔を見合わせる。そして1人ずつ名乗っていく。

「シルベストリス・クリスティー・アネモネアと申します。」

「ホルテンシス・クリスティー・アネモネアです☆」

「あの、ブランダ・クリスティー・アネモネアと言います。よろしく、おねがいします。」

 冷静に答えるシルベストリス、いつものようにゆるく答えるホルテンシス、緊張を隠し切れないブランダ。それぞれが個性を示すように挨拶を終える。

「まぁ、お三方とも素敵なお名前ですわね。しかし、姓が同じであるとどのようにお呼びすれば良いものか。」

「じゃぁ、愛称で呼んでください☆私はホルス、この子はトリッシュ、そしてこの子はブランダ。その方が落ち着きます☆」

 ふんわりした雰囲気を醸し出しながらホルテンシスが言い、隣でシルベストリスとブランダは頷いて見せた。

「素敵な提案ですわ。では、わたくし達のこともロザリア、アシスタシアと呼んでくださいまし。」

「そ、それは恐れ多いと言いますか、その……せ、せめて“さん”付けで呼ばせてください。」ブランダは言った。

「あら、そう畏まることもありませんのよ?でも、そうが良いとおっしゃるのであればそういたしましょう。構いませんね?アシスタシア。」

「はい。」

 ロザリアに話を振られたアシスタシアは簡潔に答える。だが、簡素な言葉とは裏腹に姉妹たちの方へ視線を送ると、僅かに微笑んで見せた。

 それまで一切表情が変わることがなかった彼女の笑みを見た姉妹たちは色めき立った。

『尊い!』ホルテンシスの声が姉妹達の頭に響く。

 見た目にもホルテンシスの動揺は激しい。目を輝かせながら潤ませ、口元に両手を当てて頬を赤く染めている。

「どうなさいましたか?」

「い、いぇ!アシスタシアさんの笑顔が、あまりにも、尊くて♡」

「はい?」予想していなかった反応と返事に対し、ロザリアは困ったように言う。

 姉妹たちのペースが掴めず、やや苦戦気味のロザリアをすぐ傍から見守るマリアは必死に笑いをこらえているようだ。




 一方、ヴァチカンの2人と姉妹たちが打ち解け合い、その過程を傍で楽しんでいるマリアの様子を眺めつつ、アザミは食事の手をゆっくりと動かしながらあることを考えていた。


 いつもの通り。何と思惑の交錯する会話なのだろう。


 この館に入館してから自分がただの一言も発していないのは、そうした事由によるものだ。

 先程のマリアとロザリアの会話にしてもそうだし、この場で繰り広げられる会話というものには全て何らかの“思惑”や“意図”というものが絡んでいる。

 この中で唯一、アネモネア姉妹たちだけはそういったことに気付いている様子はない。いや、あの総大司教を目の前にして気付く余裕すら無いといったところだろうか。


 今、その総大司教は姉妹たちと賑やかに会話するように見せて、実のところは彼女達が〈何者であるのか〉を見極めようとしている。

 前日の夕刻、姉妹たちが“持っているもの”に興味があると言っていたが、それをこの場で見極めようということだ。全くもって隙の無い。


 そしてマリアとロザリア。

 国際連盟とヴァチカン教皇庁。世界的に知らぬ者はいない巨大な機関の重鎮同士の対話。

 同じ国にルーツを持ち、同じだけの時間を生きてきた存在ながら、歩んできた道のりはまるで異質なものだ。

 それも含めてか、互いが互いの本当の心の内というものをほとんど明かさない。

 先の会話において、ロザリアが機密文書館への立ち入り許可を取引材料として唐突に持ち出した件だって、おそらくは〈それ以上の裏〉がある。

 確定的な推測。おそらく彼女は最初から取引材料とする為だけにその提案をしたつもりはないはずだ。なぜなら、今この地で起きている事件を早急に解決しなければならないという境遇は両者とも同じであり、わざわざ機密文書館などという切り札を最初から取引材料に持ち出さなくても、解決手段の提示を国連側がしてくるという見込みと判断は容易にできるからである。

 取引をしなければ国連側が情報を提示しない、などということはこの場において考えられない。ロザリアも、そこまでマリアのことを信用していないということもないはずだ。


 であれば、機密文書館の話を持ち出した理由はひとつ。自分達の今後の動き方が気になるから探りを入れておきたいという思惑、その1点の為ということになる。

 ロザリアは、国連機密保安局が世界特殊事象研究機構の持つプロヴィデンスと呼ばれる情報分析システムに強い興味を抱いていることを知っている。その理由を探っておきたいということなのだろう。

 そしてプロヴィデンスの情報を得るために、機構側へ働きかけをするだけでなく、ヴァチカンの機密文書館とどのような繋がりがあるのかを知りたがっているということも承知しているはずだ。

 なぜなら、件の高性能情報分析処理基幹システムは、ヴァチカンの機密文書館のデータベースとも接続されているのだから。

 つまり、機密文書館への立ち入りを認め、〈どんな情報を閲覧するのか〉を追うことで自分達の目的を精査しようとしている。

 ロザリアの提案は、自分達を泳がせようとする為の計略の一種だ。マリアはそのことを即座に見抜いた上で〈自分ではなく、代理が情報を閲覧する〉という条件を持ち出した。

 姉妹たち3人の入館を条件にしていたが、情報の閲覧に関して必要なのは主にシルベストリスとブランダの2人だ。

 シルベストリスは高度な未来予測の力に加え、失せ物や目的とする対象の探知に優れた能力を有しており、ブランダに至っては情報の〈完全記憶能力〉を有している。

 必要な情報を制限時間内に全て見つけ出し、全てを記憶して持ち帰る。その為の提案だ。

 その間、ホルテンシスは脈略無しに適当な文書を閲覧することになる。いわば陽動だ。こうすることで、3人が何の情報を得るために資料を見たのかというこちらの目的は非常に曖昧なものとなる。


 僅かな会話の中で先読みと計略を張り巡らせる。

 未来視と過去視の異能を持つ者達。しかしその力は互いに対しては効力を発揮できない。だからこそ腹の探り合いのような会話しか成立しないという悪循環。

 マリアとロザリア、この2人は互いに言葉を交わす時にどのような思いで接しているのだろうか。

 あまりに政治的な意図を含んだ会話しかしない2人を見て、そもそも人ではない自分ですらそんなことが気になってしまう。

 千歳を超える年齢同士ではあるが、同郷同士、幼馴染同士、見た目相応の女の子らしい会話に少しは花を咲かせるところも見てみたいとすら思ってしまう。

 マリアの保護者的な立場となっている今は尚更に。


 ロザリアに至っては、他者の記憶を読み取り、必要とされる言葉のみで会話をすることから自身の本心というものを表に出すことは基本的に一切ない。

 彼女が一部で〈不可視の薔薇〉と呼ばれる所以だろう。


 友人でありながら、立場の違いと目的の違いからいずれは殺し合う運命に至る2人。

 本音を明かさない者同士。

 マリアとロザリアがいつの日か、互いに本音だけで会話できる日が訪れることはあるのだろうか。

 いや、残念ながらそういう日が訪れることはおそらく無い。

 アザミはそんな2人のことを憂いて小さな溜め息をついた。



「アザミ様、食事がお口に合いませんか?」

 柔らかな笑みを湛えたロザリアが言う。気付くと姉妹たちとの会話もひと段落迎えていたらしく、どうやら考え事をしている自身の様子や先の溜め息が伝わってしまったようだ。

「いえ、とても美味しく頂いています。ただ、少し味気ないというのも事実ではございます。どうにも“会話に花が咲かない”と申しましょうか。」

 会話に花が咲かないという言葉にアネモネア姉妹たちは不思議そうな表情を浮かべる。つい今しがたまでロザリアと自分達の間で賑やかに会話をしていたからだ。

 しかし、それを隣で聞いていたマリアは思わず笑い出した。アザミが言う言葉の趣旨を本当の意味でよく理解したのだろう。

「そういう何気ない会話に“私と彼女が”花を咲かせることが出来る日もいつか来るだろう。けれど、今はその時ではないというだけの話さ。」

 マリアはアザミに言う。そして、アザミの言葉の趣旨を汲んだロザリアも同じように返事をした。

「わたくしとしても、願わくばそのような日が訪れんことを。」

 きっとそれは彼女の“本心”なのだろう。今まで見たことのないような自然な笑みをロザリアが浮かべるのを見たアザミはそう感じ取った。

 状況がいまいち呑み込めない姉妹達だけは、不思議そうな表情をするのであった。


「さて、お互いの自己紹介も終えたことですし、そろそろ本題へと移りましょう。マリー。貴女が突き止めた事件解決に関わる事実とはいかなるものか。お話しいただけますか?」

 ロザリアはマリアをじっと見つめて言う。するとマリアは食事の手を止め、ナイフとフォークを静かに置くとナフキンで口を軽く押さえて言った。

「もちろん。私達と君達、双方の協力が無ければ円満な解決が出来ない案件だ。私達には負えない役回りというものを君達にお願いしたい。まずは今回の事件についてひとつずつ情報を整理しつつ、新たに判明した要素も踏まえて順を追って話をするとしようか。」

 そしてマリアは手元のスマートデバイスを机の上に置くと、ホログラムモニターを起動してロザリア達に見えるように提示した。


「先に言っておこう。これからする話はある芸術家が残した作品にまつわる〈史実について〉の話だ。つまり、君がその目で見てきた現実の話でもある。」

 マリアはジャック・カロの制作した戦争の惨禍18枚の食刻画像を表示すると、今朝から収集した情報を交えつつ、ミュンスターの地でアンジェリカが巻き起こしている事件について詳細に語り始めた。



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