第18節 -あなざぁ・みぃ-

 時計は間もなく午後8時を示そうとしている。

 絶え間なく続いた頭痛と吐き気は治まったものの、未だに全身が重くベッドから起き上がることも難儀するほどにフロリアンは体調を崩したままであった。

 疲れだろうか。ここまでの体調不良を引き起こす原因について他に心当たりも無い。

 色々なことがあったのは事実だとしても、肉体的に不調に陥る程のことをしたわけでもない。だとすれば精神的なものに起因する体調不良なのだろう。


 昼過ぎにアシスタシアに付き添われてホテルへ戻り、1人で部屋へ戻ってからベッドの上に倒れ込んで以後はずっとこの有様だ。

 フロリアンは何もない天井を見上げながら、めまぐるしく事態が動いたこの数日のことを思い返す。

 ウェストファリアの亡霊による人々の内心の曝露。大衆扇動による混乱の誘発。

 プリンツィパルマルクトで起きた暴動と放火。聖ランベルティ教会に吊り下げられている鉄籠に入れられた遺体。

 アンジェリカの過去。罪と罰という歪んだ愛の示し方。

 あまりにも情報が色濃い。


「アンジェリカの真意を探ること。それが事件解決の手掛かり。いや、きっとそれだけじゃない。あの子はこの事件の結末を終着点だと考えていない。もっと大きな何かがある。」

 声にならない声で呟きながら思考する。しかし、考えを巡らせようとすると頭痛が襲って来る。

 その時、ロザリアに言われた忠告が再び頭を巡る。アンジェリカについて深く思考しないようにという忠告だ。

 理解しようとしてはならない。その気持ちに寄り添おうとしてはならない。今なら彼女がどうしてそのように言ったのか理解出来る気がした。

 罪を裁き、命を奪うことが人に対する、世界に対する愛の在り方であると定義するアンジェリカの考えに寄り添うことなど出来ないからだ。

 その考えを改めさせようなどとするのはもってのほかだろう。彼女に近付き、関わりを強めることは自身の死を早めることに他ならない。


 一旦頭の中の考えを振り払い、まずは起き上がることに集中する。

 反応が鈍い体を捩りつつベッドから背中を浮かせるが、しかしすぐに脱力してしまう。

「情けない。まずはこの状態をなんとかしないと、彼女達の足手まといになるだけだ。」

 そう言って再度起き上がろうと試みるも、全身のだるさからなかなか思うように起き上がることが出来ない。


 フロリアンは起き上がることを一度諦め、背中を再びベッドへ預けると自身の胸にある黒曜石のペンダントを握りしめた。

「マリー。」

 彼女の名を呟き、その姿を頭に思い浮かべる。

 ハンガリーの時といい、今回もまた自ら危険に首を突っ込んでいるのだろうか。そうであるなら猶更のこと、こんな有様でいつまでも寝ているわけにはいかない。

 もう一度気力を振り絞って上体を起こす。自分の膝を掴み、片腕をベッドに着いて思い切り力を入れる。

 そうして今度こそようやく起き上がることが出来た。しかし同時に、ベッドから起き上がるだけで息を乱している自分に深い情けなさも感じるのであった。


 起き上がったところで、ヘルメスに新しい情報が入っていないか確認する。

 昨夜の事件と今朝の事件の情報を入手したセントラル1からは、状況に応じていつでも帰投しても良いという指示が出ているが、現地での調査活動を継続する旨の返信を既に送っている。

 総監から現地調査を命じられた時とは明らかに状況が異なる。完全に怪奇現象の域を超えた異質な事件だ。

 それでも、こんなところで調査を投げだし、尻尾を巻いてセントラルに逃げ戻ることなど断じて出来るはずがない。

 ロザリアとアシスタシア、そして何よりもマリアのことを思えば調査継続の判断の正当性は自明の理である。


 フロリアンはヘルメスに新着の情報が無いかを確認するのと共に、チームからの通信コールを一定時間受け付けない設定へと変更を加えた。

 アンジェリカの件がある以上、頻繁に外部と連絡を取るのも好ましいとは言えない。

 設定変更を終えると一度ヘルメスをベッドテーブルの上へと置く。ベッド脇に移動して床に足をついて大きく息を吐いた。

 そう言えば今日はまともな食事をとっていない。何か少しは食べるべきだろう。買い置きのパンを目にして、それを手に取る為に立ち上がろうとする。


 その時だった。静かな室内にインターフォンの無機質な呼び出し音が響き渡る。

 フロントから?

 発信場所はフロントを示している。誰か来客だろうか。インターフォンの前に行き応答ボタンをタッチする。

「はい。」

 するとフロントマンの爽やかな声が聞こえた。

『ヘンネフェルト様、遅くに申し訳ございません。ただいまフロントにお客様がお一人、貴方様に会いたいと訪ねて来られているのですが、いかがいたしましょう?』

「その方の名前は?」

『はい、マリア・オルティス・クリスティー様と名乗られています。』

 名前を聞いてフロリアンは心臓が早鐘を打つのを感じた。

 マリアが自分に会いに来た?それが事実だとすればこれほど嬉しいことはない。

 頬をほころばせ、すぐに通すように返事をしようとしたが、その瞬間になぜか頭の中にアンジェリカの姿が思い浮かんだ。

 嘲笑するような笑みを浮かべた彼女の姿が。


 フロリアンはすぐに冷静になって考えを改める。

 これは妙だ。思い返せば、マリアには自分が宿泊しているホテルの場所を伝えたりはしていない。それに、彼女がアザミを伴うこともなくこの時間に1人だけで行動するものだろうか?

 百歩譲って自分に会う為にアザミが席を外しているということも考えられないわけではないが、やはり場所も伝えていない所に連絡もなく1人で来るなど不自然だ。


『ヘンネフェルト様?どうなさいましたか?』

 返事を長く保留していると、フロントが心配そうな声で言った。

「いえ、すみません。今体調が優れないので会えないと伝えてください。彼女には、後程僕から改めて連絡を入れましょう。」

『かしこまりました。そのようにお伝えします。』

 会話を終えるとフロリアンは急いでインターフォンの応答を切断した。そして壁に背を向けて寄り縋る。

 自分の心臓が喜びによるものではなく、恐怖による早鐘を打っていることに気付く。

 額からは幾筋も汗が流れ、息は乱れて僅かに手が震える。


「アンジェリカ……君なのか?」


 誰に言うでもなく呟く。

 自身の胸元に視線を下ろし、黒曜石のペンダントを見つめてから右手で握りしめた。

 名前を偽ったアンジェリカが自分に会いに来た?そのような予感が頭を駆ける。


 真偽は定かではないが、もしあのまま通して会いに行っていたら……


 最悪の結末が訪れていたかもしれない。

 首を横に振って悪い考えを振り払う。

 ただ、一方で彼女とは正面から向き合って、もう一度対話をしなければならないという思いがあることも事実ではある。

 考えを改めさせることは出来なくとも、他に方法や道筋はあるのではないか。そうした希望を捨ててはいないのも本音だ。


 思考がぐちゃぐちゃになる中、昨夜マリアが黒曜石のペンダントを手渡す時に言っていた言葉を思い出す。


『太古の昔から多くの人々の間で“守護”を司る石として語り継がれて来た石。気休めかもしれないが、幾分か気分も晴れるのではないかと思ってね。』


『どうか気を付けたまえよ。アレとは別にこの地で蠢く〈小さな悪魔〉は己の求める理想と答えを手に入れる為ならば、どんな手段でも躊躇うことなく行使してくるだろうからね。』


 本質や未来を視通し、絶大なる守護の力を発揮すると言われる石。

 もしかすると、今自身の手に握る黒曜石が、彼女の想いが自分を“小さな悪魔”から守ってくれたのではないか。

「僕を守ってくれたのかい?マリー。」

 握りしめた右手を見ながら言う。


 彼女は小さな悪魔と確かに言った。

 ということは、やはりアンジェリカのことを知っているのだろうか。


 もしそうであるならば、彼女は……

 マリア・オルティス・クリスティー。彼女もまた。


 フロリアンはその場にしゃがみ込むと大きな息を吐いて再び物思いに耽るのであった。


                 * * *


「申し訳ありません。今はお会いになれないとのことです。」

 ホテルのフロントマンは目の前に佇む少女へ言う。

「ありがとう。それなら仕方ないね。失礼した。」

 緩やかなウェーブがかった金色の髪、ドールのように美しい容姿、そして宝玉のように透き通る赤色の瞳。

 黒のゴシックドレスに身を包む少女は、愛らしく満面の笑みを浮かべてそう言うと、ホテルの玄関を通り抜けて外へと出る。


 事件の影響で外の人通りは極端に少ない。

 この辺り一帯に至っては人影ひとつ見当たらない。

 少女は少しだけ道なりに歩き、建物の影に身を重ねると足を止めて呟く。


「……なぁんてね☆」


 次の瞬間、少女の姿は赤紫色をした煙状の光の粒子に包まれ、やがてそれが霧散して解けると別の姿が浮かび上がっていた。

 桃色のツインテールにアスターヒューの瞳。軍服と学生服を合わせたような服装。短いプリーツスカートを揺らしながら双頭の鷲をデフォルメした形のカバンを大事に抱え、その頭を撫でて無邪気に笑う。

「くふふふ……あはははは、きゃははははは!やっぱりダメね。あわよくば騙せるかもしれないなんて思っていたんだけど、小手先の真似事と思い付きだけでは通用しない、か。うまく擬態出来ていたと思ったのだけれど、そもそも見えてなければ意味もないものね。姿も見ずに足蹴にされるだなんて、凡庸な割に直感だけは鋭いんだから。それとも、あの子が渡した石のお守りが何かを伝えたとでも言うのかしら?」

 本性を現したアンジェリカは楽しそうに笑う。

 そして彼女にだけ届く声が頭の中に響く。


『“貴女”は楽しい?』


「楽しい、とても楽しいわ。もう1人の私。何もかもが思い通りに行くだけではつまらないもの。人生や計画には摩擦というものがあってこそね。トラブルの解決は目標の達成感に華を添えてくれるわ。」

 うきうきとした様子で語り、少女は再び歩き出す。


『あなざーみぃ、でぃふぁれんとみぃ、あるたーえご、あんじぇりーな、あんじぇりーな。』


「えぇ、そうね。そうよ。あなざーみぃ、でぃふぁれんとみぃ、あるたーえご、あんじぇりか、あんじぇりか。でもどうなのかしら?私の方は順調だけれど、貴女は大丈夫なの?」


『大丈夫、大丈夫ぅ!楽しいショーはこ・れ・か・ら☆ 今夜、あの子はきっと“あれ”を荒らしに来る。壊しに来る。私はそれを見届けた後で彼女に話し掛けて見ようと思うんだよねー。あの子がことを成せば、明日からがとぉっても楽しくなっちゃうんだなー、これが☆』


「そうね。明日からがとても楽しいショーの始まりよ。お互いに、ね?もっともっと、楽しまないと。」


 アンジェリカはゆっくりと歩みを進めながら、上機嫌に両手を広げてくるくると回る。

 星の無い空を見上げ、漆黒が支配する街の中をただ1人きりで歩く。

 その後、視線を前方に戻し、両手を下ろして双頭の鷲をかたどったぬいぐるみ型のカバンを大事そうに抱え、その頭を撫でながら鼻唄を歌い始める。


Alas, my love, you do me wrong,〈愛する人よ。貴女は残酷な人だ〉

To cast me off discourteously.〈無情にも私を捨てるだなんて〉

For I have loved you well and long,〈私は心の底から貴女を想い〉

Delighting in your company.〈傍にいるだけで幸せだったというのに〉


Greensleeves was all my joy〈グリーンスリーブス、貴女は私にとっての喜びだった〉

Greensleeves was my delight,〈グリーンスリーブス、貴女は私の楽しみだった〉

Greensleeves was my heart of gold,〈グリーンスリーブス、貴女は私の心の支えだった〉

And who but my lady greensleeves.〈私のグリーンスリーブス。貴女以外に誰がいるというのか〉


 イングランド民謡として世界的に有名な楽曲。グリーンスリーブス。

 その美しい旋律を、天使が歌うかのように透き通る声で彼女は歌い上げる。


 アンジェリカの歌声が闇夜の空を満たす。

 彼女は笑顔で愛の詩を紡ぐが、その歌声はどこか儚く、哀しい。

 “愛を知らぬ少女”は美しくも物悲しい歌声だけを残し、暗闇の奥へと消えていった。


                 * * * 


 ウェストファリア条約の締結からおよそ390年余りの歳月が流れた。

 世界最大の宗教戦争。そう呼ばれる戦争以後にも大小の戦争を繰り返し、第一次世界大戦、第二次世界大戦を越えて尚、心の奥底に燻る感情に流され人は同じ過ちを繰り返すのか。


 今回の事件におけるアンジェリカの計略の全てをロザリアへ伝えたマリアは、ホログラムモニターを終了しスマートデバイスを手元に引き寄せる。

 ウェストファリアの亡霊出現から始まった一連の事件は序章を終え、いよいよ主題へ移行しようとしている。

 ジャック・カロの食刻を元に紡がれる糸。18の計略。その最大の引き金となる〈盗人の群れ凱旋〉と〈発覚〉はもう間もなく実現されるだろう。

 この計画の阻止のためにマリアはロザリアとアシスタシア、そしてフロリアンの3人にある役回りを務めるように提案し終えたところだ。


「話はよく理解しました。確かに、貴女の言う通りに行動した方が良いでしょうね。カトリック、福音主義、プロテスタント、再洗礼派(アナバプテスト)、聖公会。諸派が互いに静かなるいがみ合いをしている時ではないという考えには同意いたします。元より、それも今の時代においてはごく少数の話ではありましょうが、扇動された人々の影響から歪みは大きくなるばかり。彼らに早急に真実を明かし、事件への関与を控えるよう伝える行いに努めましょう。」

 話を聞きつつ食事を終え、手元のナフキンで唇を軽く拭きながらロザリアは言った。

「協力に感謝を。今回の事件を完全に阻止する為に、残念ながら私達は表立って動くことが出来ない。重要な鍵となるこの子達の身の安全を最優先に守らなければならないし、それをアンジェリカに悟られるわけにもいかない。」食後のジュースを楽しみながらマリアは言う。

「貴女の為にわたくし達が陽動を引き受けるなどと。少し前までなら考えられないことですわね?」

「たまには互いに手を取り合って、歩調を合わせて協力するのも悪くないだろう?人と人が互いに手を取り合うのは〈共通の敵を見出した時〉だというからね。たまたまその機会が今訪れたというだけのことさ。」

「共通の敵。元々は身内であるからこそ、でしょう?身から出た錆の後始末というべきではありませんこと?」

「困ったことに我々リナリア公国の忘れ形見は問題児ばかりのようだからね。君も、私も例外ではない。昨夏はアイリスがそうだったけれど、今イングランドではアルビジアが派手に暴れているそうだよ。」

「あら、あの子が?何の意味もなく他者を傷付けるような子ではないと思いますが。」

「例のセルフェイス財団の行いに対してだよ。世紀の万能薬。奇跡の農薬。グリーングッドなどという偽りの神を持ち出した彼らを彼女は看過できないのだろう。とはいえ、傍にイベリスや玲那斗がいるのだから問題ないはずだ。当然のことながら、あっちもあっちでアンジェリカが一枚も二枚も噛んでいる。私達は揃いも揃って祖国出身者の集まりでマッチポンプをやっているようだ。」

「ミクロネシアでもそうだったように、常にマッチとなっているのはアンジェリカでしょうに。火遊びが好きな子だこと。ポンプ役を毎度押し付けられるこちらの身にもなって頂きたいものですわ。」

「火消しのロザリー。なかなかに良い響きじゃないか?」

「戯れを。」

 マリアもロザリアも半ば頭を抱えながら話を続ける。


「さて、余談はこの程度にして本題について確認しよう。先にも言った通り、今回私達は誰一人として表立って行動することは出来ない。

 時が来るまでの間に出来るのは、せいぜい目立たない場所から情報戦を仕掛けることくらいだ。メディアを通じてね。

 既にドイツ連邦政府に対しても事件に関してどのような考えを持っているのか確認している。懸念は表明するが、事を大きくしない為にしばらくは静観の構えをするそうだよ。」 

「であれば、やはり足を使って動き回るのはわたくし達の役目ということですわね。各教会を巡り、事件における真相を先に伝える。そして無暗に関与しないよう強く自制を求める。加えて、悪い兆候が見られる場所を事前に鎮めておく。」ロザリアが言う。

 対するマリアは両肘をテーブルに乗せ、両掌で顎を支える姿勢を取って言った。

「それもなるべく目立つように、だ。アンジェリカの目を私達から逸らしてほしい。大きな目的のひとつだよ。そしてこちらから仕掛ける機会は一度。アンジェリカが〈発覚〉の引き金を引こうとする瞬間だ。」

 その言葉を聞いたロザリアはマリアの目を見据えて言う。

「マリー。念の為に確認しておきますが、この作戦においてわたくし達と行動を共にする中には当然彼も含まれています。つまり、彼を常にアンジェリカという危険に晒すことにもなりましょうが、それは許容するということで宜しいのですね?」

「何、君とアシスタシアが傍にいるならどうということもないだろう?君達は私とは別の意味を持って彼を傷付けるわけにはいかないだろうし。」

「厚い信頼を抱いて頂くのは結構ですが、過信されてもらっても困ります。」

「君は彼の力量についてはあまり信頼していないようだが、私は違う。私はね、彼自身の持つ力も加味した上でそう言っているんだよ。

 アンジェリカの気まぐれがあったにせよ、ミクロネシアで薬物密売組織の銃撃からアヤメとアイリスの命を守り、救ったのは紛れもなく彼だ。彼にはそういう力が備わっている。

 それに、君達の担う役割において彼を外すということも出来はしない。〈神が全てを視通す目〉。彼が手に持つ、いや、機構が保有するシステムの助力を得なければ“悪い兆候を示す場所”の捜索は困難を極めるだろうからね。」

 そこまで言うとマリアはグラスに注いだジュースをくるくると回し、一口飲んで続ける。

「あのシステムが搭載する信じられない性能を持ったAIは大衆の心理的動きの変化を読み、事件が起きそうな場所を事前に察知することすら可能なはずだ。

 膨大な過去の事件情報を読み込み、今起きている事件や人々の心理傾向を分析し予測演算する。機構の総監殿はその力を利用して2031年のハンガリーでの演説を成功させた。

 今回はプロヴィデンスと呼ばれるあのシステムが導き出す答えが、君達2人にとって大いに助けになるだろう。」

 マリアは自信に満ち溢れた表情で語る。色々な話を交えてはいるが、心の底からフロリアンという青年のことを信頼しているようだ。

「表向きはヴァチカン教皇庁からの依頼だという体にして、機構に事件調査の依頼を国連側から働きかけたのはこの為でもあったというわけですわね。彼をわたくし達と共に行動させるメリットがどこにあるのか。常々考えておりましたが、ようやくはっきりとした答えを得ましたわ。」

「私はこの目で視通す未来において常に最善の選択をしているだけだ。目的を達する為に手段は選ばないし、そこに私情も交えない。」


 マリアの言葉を聞き終えたロザリアは口元を僅かに緩める。


 どうだか。


 私情を交えないという彼女の言葉に対するロザリアの率直な感想であった。

 直前にあれだけフロリアンという青年について目を輝かせながら語っておいて、最後にそう言うのは説得力が無いというものだ。

 今回の調査計画において、彼をこの地に呼び寄せたのも〈実は自分が彼に会いたかったから〉ではないのかと勘繰ってしまいたくなる。


 まったくしようのない。


 ロザリアは思わず、清々しいほどに快い溜め息を小さくついた。

「確かに、わたくしのような女を『1ミリも彼に近付けたくない』と思われていたのであろう5年ほど前のことを考えれば、今回のお話に私情などは入っていないのでしょうね。」

 不敵に笑いながらロザリアは言う。嫌味を言うように話すが、これはロザリアなりのマリアへの友情と信頼の示し方というものだ。

 2人の穏やかな表情からもそのことは読み取ることが出来る。

 ロザリアは続ける。「その提案を承りますわ。わたくし達が陽動で貴女がたは情報戦。アンジェリカが仕掛けるよりも早くネオナチの関与を曝露し、人々の関心の高まりを牽制していく。早速明日からそのように行動致しましょう。プリンツィパルマルクトで早朝から大規模なデモが行われる見込みということであれば、動き出すのは午後からの方が良いでしょうか。」

「そうだね。動き出しは早い方が良いが焦ってはいけない。これまでに収集した情報から見込めば、デモが行われてから〈発覚〉に至るまでは数日を要するはずだ。おそらくは4月24日。その日がリミットだと私達は仮定している。」

「仮定?貴女の未来視を持って確定ではありませんのね。」ロザリアは首を傾げながら問う。

「私の目に視える未来も、同じ日付をもって事象が動くことを映し出してはいる。けれど、あくまで予言であって確定的ではない。この事件における大きな事象の決定権はアンジェリカにあると言って良いだろう。つまり、彼女の気分次第で私の目に映る予言も少し違う未来を辿る可能性が残されているわけだ。」

 マリアがアンジェリカの行動を制限出来るなら、今予期している未来をそのまま実現できるがそういうわけにもいかない。そういう意味だろう。

「なるほど。とはいえ、貴女が具体的な日付を出した以上は、それを裏付ける何かしらの根拠があるのでしょう?」

 ロザリアは理解を示した上で言う。

「アンジェリカは今回の事件について非常に用意周到な筋書きを準備をしている。三十年戦争の再演。ジャック・カロの作品に見立てた進行。この地の人々を刺激する為に最も効果を発揮するであろう事実の汲み取り。

 であるならば、事が起きる日付についても同じことが言えるはずだ。ウェストファリアの亡霊事件において、最初にそれが目撃された日付が復活祭の夜であったことも決して偶然ではない。アンジェリカは自分の意思でわざわざその日を選んだ。」

「そう考えると、一連の事件における最大の転換点である〈発覚〉の再演を行う日付に関しては、確実に決まったものを用意している。そういうことですわね。」

「ご名答。その根拠となるものが日月星辰だ。ブランダ、私にしてくれた話を彼女にもお願いして良いかい?」

 マリアはブランダを見て言う。


 ブランダは彼女の要望に静かに頷くと、ロザリアとアシスタシアへ真っすぐな視線を送り、凛とした声で話を始めた。


「とても、とても長いお話になります。簡単に言うと、占星術にまつわるお話なのです。アンジェリカという少女は、それぞれの事件を天体の動きになぞらえて起こしている節があります。

 例えばプラハ窓外放出事件に見立てたと思われる、旧市庁舎窓外放出事件が起きたのは4月7日。この日は月が下弦を示した日です。星占いなどにおいて、満月から新月に向かう過程では、願いや力を減退させたい事柄を祈ると良いと言われます。


 では、なぜ彼女が敢えて4月7日に強く印象に残る事件を起こしたのか。それについてはやはり〈復活祭〉が関わってくると思うのです。ロザリアさんの前でこのお話をするのは憚られますが……。

 まず復活祭について基本的なことを考えます。

 西方教会と東方教会で日付に差異が生じることは割愛しますが、復活祭は〈春分の日を迎えた後、最初の満月が訪れた次の日曜日〉です。ここで最初に〈月の満ち欠け〉という要素が関わってきます。

 そして復活祭の持つ意味。イエスキリストが死より復活を果たしたことを記念し祝うということ。これはカトリック、プロテスタント、正教会などを問わず全ての宗派で同一の意味を持つ。〈ありとあらゆる宗派の垣根を越えて、20億人以上もの人々が同一の目的の為に祭事を執り行う日〉であると言えるでしょう。

 次はカトリック教会における考え方となりますが、復活祭における聖なる3日間。その主日である4月5日に復活祭当日を迎え、翌日6日に〈復活の主日の晩の祈り〉を終えて以後、精霊降臨の日まで7週の復活節が続くこととなる。

 彼女はこの3日間の内、〈復活の主日の晩の祈り〉に目を付けた。信仰の道に生きる人々の多くがキリストの復活を祝い祈りを捧げた日。世界中の信徒が同じ教理を尊ぶ日。いわば、復活祭を通じた結束が為される日。

 アンジェリカという少女は、その〈願いや力を減退させ、結束を破壊したい〉と祈った。つまり、宗派の垣根を越えた信徒の結束と安定、安寧を崩壊させたいという意思を、窓外放出事件の再演によって強く示したのです。


 下弦の月は減退を示す月の力の頂点を司ると言われています。復活祭、下弦の月、それらが持つ意味を考えた時、4月7日に彼女が行動を起こしたことはきっと偶然とは言えない。

 むしろ、その日でなければならないと感じられるほどに、呪いに近いと思えるほどの強力な意思を感じるのです。

 月の動きと彼女の意思の連動を証明するように、7日以後から15日にかけて、つまり月が欠け続けて晦を越え朔に至るまで、宗派間の結束を乱すような行いが継続していました。

 さらに、新月を迎えて月が満ちていく今の過程において宗派間の対立、諍いが少しずつ目に見える事件となって顕著になっています。


 次に本題である西暦2037年4月24日という日付についてです。

 このお話には黄道十二宮が関わってきます。黄道とは天体が辿る帯状の道を指し、動物を司る星座が並ぶことから〈獣帯〉とも呼ばれるもの。黄道十二宮は、この獣帯を黄道座標で12等分した各領域をそれぞれの星座が支配しているという考え方です。

 領域を支配する星座は、月日の流れと連動してこの世界に強い影響をもたらすと言われます。その月日の連動については太陽がその星座の近くを通過する日が割り当てられます。

 日付の算定は西洋占星術とインド占星術で差異がありますが、これよりお話するのは主に西洋占星術を元にしたお話です。


 例えばカプリコーン〈やぎ座〉を太陽が通過するのは毎年1月20日から2月18日のおよそ1か月間。黄道十二宮において、この期間はやぎ座が持つ要素が世界に影響を与えやすい期間と言えます。ちなみに、この1か月ごとの期間は毎年1日前後の僅かな誤差が生じますが、それ以上に大きく変わることはありません。

 そして西暦2037年4月20日、前日の19日まで世界に影響を与えたアリエス〈おひつじ座〉は同日を持って支配宮の座をタウラス〈おうし座〉へ譲ることになりました。

 おうし座は12星座の中で唯一、地球が支配星としてもつ星座で、その性質は不動・保守・内向などを示します。良く言い換えれば強力な安定とも捉えられますが、悪く言えば固執、頑固、変わろうとしない精神の表れとも言えるでしょう。


 太陽がおうし座を通過する期間となった初日、ミュンスターの街ではカトリックと福音主義の間で小さな諍いが発生していました。しかしその夜、これまで小さな事件でしか無かった諍いは、窓外放出事件以来の大きな進展を見せることとなります。

 〈略奪・放火〉の発生です。ウェストファリアの亡霊が個人に対して曝露の性質を付与し続けた結果、保守的、固執、頑なというおうし座の持つ側面が人々の心に悪影響をもたらし、宗派の対立を煽り、最悪の形で事件となって具現化しました。

 太陽と星座の関係性がもたらす事件に加えて、アンジェリカはここでも復活祭の後と同じような企てをしていると考えています。


 そのリミットが24日。理由は月の動きです。

 明後日、23日に月は上弦となります。上弦は新月から満月に向かう過程において、願いを成就させる力が最も強力になると言われる時。この日を境界として、自らの計画の最大の転換点を持ち出すだろうというのが私の予測。


 おうし座の影響を受けて保守的な思考による対立が過熱し、その対立を煽ろうとする祈りが最も強力に作用する上弦を迎えた翌日。物事の流れが大きな転換を迎える第1日目。

 つまり4月24日という日をもって、アンジェリカは自身の計画における〈発覚〉を再演させようとしている。そう考えられるのです。

 いえ、ここまで仮説と条件が一致するとなれば〈その日以外には有り得ない〉。より邪悪に満ちた、陰鬱な混乱と果て無き狂気をもたらすために、彼女がその日を外してくることの方が考えづらいと思います。」


 最初に出会い、この部屋で会食を共にする中で見せていたようなおどおどした様子は今のブランダからは微塵も見受けられない。

 自信に満ちた表情で説明をするブランダを見たロザリアは、その意外性に驚くと共に彼女の話の内容に対し、個人的なある感情から強い信憑性を感じた。

「こじつけ……」ロザリアが言うと、ブランダはいつものようなおどおどとした様子を見せて肩をすくめる。だが、ロザリアは彼女の目をしっかりと見て微笑みながら続ける。

「と言うにはふさわしくない。あまりにも条件が整っていますわね。」

 そこまで聞いてブランダは安心した表情を見せた。

「わたくしは貴女の仮説を信じましょう。敢えて理由を申し上げておきます。マリーが貴女の言葉を信じた理由のひとつにも繋がるのでしょうが。ブランダ、貴女の知り得ない情報として〈アンジェリカの性格〉というものがあります。」

「昨日教えてもらった話だと、相当な湿度を持つ性格ってイメージかなぁ。ぁたしちゃんには理解不能。」ホルテンシスが言う。

「湿度?あぁ、根暗、陰湿、辛気、皮肉、気鬱、性根が腐っていると申しましょうか。」

「はい?」

 思いも寄らない、ロザリアのイメージからかけ離れた言葉の応酬にホルテンシスは言う。シルベストリスとブランダも同じく驚愕の表情を浮かべている。

「可愛らしい見た目をした“だけ”の悪魔。生粋の外道。昨日のオープンカフェでのわたくしに対する皮肉も踏まえて分かる最悪のろくでなし。」

 やや早口でまくし立てるロザリアからマリアは視線を外し、手元のグラスでジュースを揺らす。

 すぐ傍ではぽかんとした表情のままの三姉妹がロザリアの言葉に耳を傾けている。

 言いたいことを言い切ったロザリアは軽く咳ばらいをして続ける。

「まぁ、そのような性格をしている子ですから。わたくしたちに対する当てつけの意味も込めて復活祭を意図的に狙ったと言えばしっくりくる話です。ウェストファリアの亡霊の目撃が4月5日という復活祭当日であること。それだけをもって、教会や教徒に対する度を越した挑発を行ったと受け取ることができますもの。」

「まったくもって同感だね。世界最大の宗教戦争である三十年戦争。キリスト教徒にとって最大の祭事である復活祭当日に、わざわざそのような歴史的悲劇を想起させるものを持ち出すこと自体が野蛮な発想だ。冒涜的でもあり、侮辱的であるとも言える。」無表情のままマリアは同意を示す。

「そうした事実も踏まえて、わたくしは貴女のお話を信じましょう。4月24日にアンジェリカが最も大きな悲劇の引き金を引こうとしている、と。」

 ロザリアが言うと、マリアはグラスをテーブルに置き、ロザリアとアシスタシアへ視線を向けて言った。

「明日と明後日の2日間で成すべきことを為す。互いの健闘を祈ろうじゃないか。」

 マリアの言葉にヴァチカンの2人は静かに頷き同意を示すのであった。

 

 両者が会話を終え、互いの陣営がそれぞれ取るべき行動が定まった。

 アンジェリカに行動の本質を隠しながら、大衆には事件の本質を伝えていくという計画。

 これより先はひとつのミスが言葉通りの命取りとなる。

 互いがそれぞれのやるべきことを胸に刻み、この話し合いは終わりを迎えるのであった。


 しかし、本題も話し終わったというところでマリアがふと言う。

「ロザリー。ひとついいかい?」

「えぇ、何なりと。」

「約束通り、私は君に伝えるべきことは全て伝えたが、君はまだ私達に言っていないことがあるのではないかい?」

「さて、なんのことでございましょう。」質問を受けたロザリアは表情を変えることなく言った。

「信心深きものは、それ故に道を暗くする。」マリアは赤い瞳を真っすぐに彼女へと向けて囁くように言う。

「残念ながら、何も心当たりはありませんわね。」


 気付いている癖に。


 ロザリアはそう思いつつ、青い瞳をマリアに向けていつものように余裕の笑みを浮かべて見せた。

 そしてすぐに思いついたように続ける。

「あぁ、そうそう。貴女がたに伝えていないことと言えば。」

 そう言うとロザリアは視線をアネモネア姉妹に向けて言った。

「食後のデザートがございます。とっておきのザッハトルテ。宜しければいかがですか?」

 濃厚なチョコが味わい深いケーキ。その姿を想像した姉妹たちは皆一様に目を輝かせる。

「決まりですわね。アシスタシア、すぐに全員分のケーキを用意してきてくださいまし。」

「承知いたしました。」

 ロザリアの言いつけにすぐさま反応したアシスタシアはすっと席を立ちあがり、部屋の扉へ向かって歩いていく。

 するとアザミも席を立ちあがって彼女の後を追った。

「アザミ様?ケーキとお茶は私が用意いたしますので、どうぞお掛けになってお待ちください。」いつも通り、表情に変化が無いように見えるが、相手が相手だけに珍しく少しばかり驚く様子を見せながらアシスタシアは言う。

「いえ、わたくしも手伝いましょう。それに、こういうこともあるかと思い良い茶葉を持参したのです。貴女がたなら気に入ってくださると思いますので。」

 アザミの言葉をマリアが引き取って言う。

「ドアーズ。ロザリー、君の好物だろう?夕食とケーキのお礼も兼ねて、私達からの手土産だと思って受け取ってほしい。」

「まぁ、それはとても素敵ですわ。ぜひお願いいたします。」

 満面の笑みを浮かべながらロザリアは言う。その様子を見ていたアネモネア姉妹達は、頬を赤くしながらぼうっと彼女の笑顔に見惚れていた。

「そういうことであれば。調理室までご案内いたします。そこにケーキも置いてありますから。」アシスタシアは表情を変えることなくアザミへ言った。

 そうして2人は部屋の扉を潜り、廊下へと共に出ていくのであった。


 アシスタシアとアザミが席を外した室内でロザリアが言う。

「では、ケーキが来るまでの間お話でもしましょう。トリッシュ、ホルス、ブランダ。貴女がたとお話するのはとても楽しいですから。」

「はい、喜んで。」

「もっちもちぃ~☆」

「は、はいぃ!」個性あふれる返事が姉妹からそれぞれ送られた。


 彼女達の反応をすぐ傍でマリアは微笑ましそうに見守る。


 互いの立場も使命も忘れて、ただただこうして他愛のない会話に興じる。

 ある意味では夢のようであるともいえる時間が流れる。


 願わくば、この何気ない平穏が恒常に続かんことを。

 それが例え、叶わぬ夢と知っていたとしても。


                 * * *


 会食の部屋から出たアシスタシアとアザミは、デザートのケーキと紅茶を用意する為に調理室を目指して歩いている。

 司教館の中には自分達しかいない為、廊下で誰かとすれ違うこともない。ゆったりとした歩幅で歩く2人の足元からは、品のあるヒールの音が響く。

 しばらくも間、互いに無言で並び歩いていたが、ふとアシスタシアがアザミへ声を掛けた。


「アザミ様、先程はあのようにおっしゃいましたが、何か私にお話があったのではありませんか?」

 彼女の問い掛けを受けてアザミは言う。

「特別に何か話があるというわけでもないのです。ただ、貴女がどのような人物であるのかについて“興味がある”。その為に少し2人きりになってみたかったに過ぎません。」

「同感です。私も貴女様に強い畏敬の念を抱くと同時に、個人的な“興味”があります。」

 含みのあるアザミの言葉に、アシスタシアは何を感じる風でもなく同意してみせた。

 両者共に視線を前に向けて歩き続ける中、アシスタシアは続ける。

「ご存知の通り、私は作られた存在です。人の形をした紛い物。老いも定命も無く、与えられた知識や神への信仰心すらも、空っぽの器に吹き込まれた後付けのものに過ぎません。ロザリア様とは違い、私は私の感情を持って神というものを認識しているわけではないのです。だからこそ、“本物の神”であられる貴女様とお話する機会が訪れることを待ち望んできました。」

「ただそうであるようにと作られたから、というわけですか。とても、信仰に身を捧げるお方の口から出る言葉とは思えませんね。」

「いかにも。身にある知識を汲み、戒律を遵守し、どれだけ表面を取り繕ってみせたところで私の信仰心はただの紛い物に過ぎません。この体と同じように。」


 意外だ。

 それがアシスタシアと初めてまともに言葉を交わしたアザミの感想である。

 一言交わせば予想以上に話しをしてくれるところも意外ではあったのだが、もっと別の根本的なところに意外さを感じることとなった。

 どうやらロザリアは、自身の配下とする人形に対し、忠誠などというものより優先して〈自我〉を組み込んだらしい。

 マリアと共に彼女を視認した時の感覚では、ロザリア本人が持つ生命に対する絶対の裁治権の力の一端を引き継がせ、自分達やアンジェリカのような世界の異物に対して、その能力をより直接的且つ効果的に行使できるように作られた存在という印象であった。

 人間の運動現界速度を超越する行動を可能とする体躯に不死殺しの力。ロザリア自身が最強の盾であるなら、アシスタシアは彼女にとっての最強の矛である。

 付け加えて、彼女本人の容姿や立ち居振る舞いに関してはロザリアの趣味の範囲だろう。“女性美の極致”を示す花の名前を与えた点から考えてもそれは明白だ。

 その推測は間違ってはいなかった。しかし、全てでもなかったというわけだ。


 なぜロザリアは彼女に自我を与えたのだろうか。


 手足となって働く都合の良い人形を作成するだけであれば、わざわざそんな複雑なものを取り込む必要などない。むしろ自我を与えたことで、暴走の可能性を招くデメリットにしかなり得ない。

 あの人物をして考えにくいことではあるが、万が一にでもこれほどの力を持った人形の制御を失うようなことにでもなれば一大事である。

 考えにくいからこそ理解できないともいえる。


 彼女は創造主によって与えられた知識を、自らの意思で“理解しようとしている”。


 そのことに果たして意味などあるのだろうか。アザミは僅かな間だけ思考を巡らしてはみたものの、有効だと思える回答は浮かばなかった。 

 マリアは何か気付いているのだろうか?

 答えの出ない疑問を考えつつ、アザミは言う。

「紛い物。偽物。貴女は自身をそのように認識した上で、自身の中にある知識の本質を理解しようとしていると。そう言うのですね。」

「理解したところでどうなるものでもないのでしょう。人間の心を理解したとして、人間ではない私にどれほどの意味がありましょうか。ただ、ロザリア様が私という存在を作った意味を考えた時、それを理解しなければ決して前に進めないと思ったのです。教会の言う神とは何なのか。あの方のおっしゃる神とは何なのか。大衆にとっての神とは何なのか。そして、私にとっての神とは。」

 思いもよらない彼女の言葉に、思わずアザミは言う。

「殊勝な考えです。残念ながらわたくしには、その理解を手助けするだけの言葉は浮かびませんが。」

「与えられるものではなく、自らの意思で感じ取るものだと考えています。ロザリア様は常におっしゃいます。“神は人の望みを聞いて叶えるなどということはしない”と。」

「神と人との間にある力関係のお話でしょうか。神が上で、人が下という原則は絶対であると。」

「はい。ロザリア様はそのように説かれています。願い乞えば祈りが届くという考えは傲慢なのだと。しかし、私には分かりません。紛れもない神である貴女は、人間であるクリスティー様に仕えていらっしゃる。その事実を踏まえれば、ロザリア様のおっしゃることは矛盾します。いかに人として非の打ち所がない才女と言えど、元が人間である以上は決して神の座を上回ることなど出来ないというのに。」

 アシスタシアが呈した疑問にアザミは言う。

「いいえ、彼女の言うことは正しい。答えは簡単です。今のわたくしは神ではなく、“悪魔”ですから。悪魔と人間は互いに契約を結ぶことで主従の関係になることもありましょう。」

 アシスタシアへ視線を送り、話を続ける。「故に、神ではないわたくしは貴女の求める答えに対し、有効な回答を持ち得ていない。神であるから伝えないのではなく、神ではないから伝えられないのです。」

「お戯れを。詭弁というものです。」アシスタシアはそう言うと、アザミへ視線を向けて続けた。「それでも安心しました。貴女様のような方が、そのようにおっしゃる姿は想像していませんでしたから。」

 表情こそ何の変化も見受けられないが、出会った時よりは幾分か表情が柔らかくなっているように見える。少しの間を置いてアザミは言った。

「そうですか。新たな知見が得られたのであれば良いことです。」

 会話を終えた2人は互いに視線を外し、元のように正面を向いて歩みを進める。

 両者の間に、部屋を共に出た時のような緊迫感はもはやどこにも存在しない。それどころか、果てしなく深い溝による隔たりも随分と浅くなったようにすら感じられる。

 アシスタシアもアザミも、眉ひとつ、口角ひとつ動かしはしないが、互いの間を取り巻く空気は確かに温和なものへと変化していた。


 だがその時、どこからともなく冷たい風が廊下を吹き抜けた。

 窓が開いているわけでもなく、館内に風を発生させるものなど何もない。明らかに自然発生的なものではない。

 次の瞬間、身体中にびりびりとした振動を伝えるような、不気味にくぐもった超低音の声が周囲に響き渡った。


【やれやれ、貴様らヴァチカンが神を語るとはな。自らの利益の為に神を道具に仕立て上げた貴様らが。挙句、神を理解するだと?笑わせてくれる。貴様ら人間というものは実に……実にどこまでも図々しい生き物よな。いや、お前は元より人間でもないか。憐れな小娘。】


 アシスタシアは足を止め、視線を声の発生源と思しき通路壁面へと向ける。

 そこに映っていたのは照明に照らされたアザミの影だ。しかし、それはやがて巨大な犬のような形へと変貌し、眼らしき部分が鋭く赤い光を放ち出した。

 空気を震わせるような圧倒的な威圧感。凄まじいまでの妖気。眼前に突如顕現した恐怖を前に、ただの人間ではこの場に立つことはおろか、正気を保ち続けることさえ困難であろう。

 憤怒、憎悪、嘲笑。あらゆる負の感情を内包し、禍々しい殺気を放つ悪しき存在がアザミの後ろに姿を現していた。

 アシスタシアはその存在がどういう類のものなのかを即座に理解した。与えられた知識の中に該当する情報があったからだ。

「ヘルハウンド。いえ、バーゲスト。そのようなものまで使役なさっているのですね。」

 アザミに向かって言うが返事は無い。彼女は小さな溜め息を漏らし、無言のまま首を傾げた。

「黒き妖精バーゲスト。貴方はこの場で私を食い殺すおつもりでしょうか。」

 体の向きを変えつつも、表情一つ変えずに相対するアシスタシアに対し、黒犬の影は獰猛な肉食獣のように大きく唸りながら、じわりと彼女へ近付いて言う。

【食い殺す、などと。付け上がるなよ?身の程を弁えろ、人形風情が。総大司教やらというあの小娘も含め、矮小な貴様らなど喰うに能わぬ。貴様らがマリアに、敵意を持って危害を加るとほざくのであれば異な話であるがな。その時は、この牙を即座に汝らの首に突き立てよう。先の無礼な物言いを看過し、その命絶やすことなく、今もその場に貴様が在り続けられるのは、マリアとの親交があればこそということを忘れるな。】

「肝に銘じておきましょう。私とて、このような場で貴方やアザミ様と対峙するなどという考えは毛頭持ち合わせておりません。それより、今は申し付けられたケーキをお持ちするという重大な責務がありますので。」

 アシスタシアが言うと、黒犬の影はアザミの背後まで引き下がり、幾分か慈愛を含む声で言った。

【それより、ときたか。だが、そうだな。あぁ……それは良い。良い心がけだ。我に人間の甘味など理解のしようもないが、それはマリアや姉妹達が喜ぶ品であろう?貴様らがそうしてあの子らに礼を尽くすのであれば特に何も言うまいよ。】

「寛大な御心に感謝いたします。」アシスタシアは小さくお辞儀をして言う。

 アザミは影へと視線だけを向けて言った。「バーゲスト、下がりなさい。」

【何、そう目くじらを立てるな。これはただの道楽、余興の類だ。この娘に対してお前が“どのような人物か興味がある”などと言うから、我がお前の代わりに推し量ってやったまでのこと。挨拶代わりも兼ねてな。】

「それで、気は済みましたか?」

【十分にな。さて、あの子らの楽しみが控えている以上、これ以上お前達を足止めするのも無粋というものか。あまり待たせては、我がマリアに怒られるだろうからな。良い。今宵はここで引き下がろうではないか。】

 黒犬の影は短く唸りながらそう言うと、主であるアザミの影の中に吸い込まれるように消えていくのであった。

「まったく。」

 アザミが深い溜め息をつきながら小声で言うと、その様子を見ていたアシスタシアが言う。

「貴女様のような方でも、苦労されることがあるのですね。」

 アシスタシアへ視線を送ったアザミは、彼女の言葉にようやく微笑みを見せて言った。

「大変なのはお互い様でしょう?」

 返事を聞いたアシスタシアは静かに目を閉じて自分の主を思い浮かべる。そして、僅かに口元を緩めて静かに頷いてみせるのだった。



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