第19節 -不可視の薔薇-

 4月22日 午前2時。

 1人の老男性は自宅の書斎で頭を抱え、机に向かって俯いていた。

 部屋を淡く照らす、間接照明の温かい暖色灯が男性の姿に影を落とす。


 どうしてこのようなことになったのか。

 これが自分の望んだ結末だとでも言うのだろうか。


 間もなくその時が訪れる。数百年に渡る時を経て、世界最大の宗教戦争と呼ばれる惨劇が繰り返されようとしている。


 加担してしまった。


 今この地で巻き起こる事件。カトリック教徒と福音主義教徒の間で起きる諍いの原因は自分の行いにも関係あるのだ。

 いや、関係があるというよりは、きっかけそのものであったというべきである。

 〈死に至る罪〉へと続く、取り返しのつかない悪を働くきっかけとなったのは、悪魔の何気ない甘言によるものであった。


『貴方ほど、厚く信仰に身を捧げて生きてきた人物でもそう思うことあるんだ?』


 無邪気に笑う愛らしい姿。〈天使のような〉という名を持つ少女の言葉だ。

 時を遡ることおよそ4か月前。2036年の暮れ。クリスマスも近いという時期にあの少女は何の前触れもなく目の前に現れた。

 務めの為、聖パウルス大聖堂を訪れていた自分に、満面の笑みを浮かべた彼女が話しかけてきたのが最初の接触だ。

 〈キリスト教のことについて学習を重ねているから話を聞かせて欲しい〉と言ってきた少女。

 桃色髪をツインテールにまとめた紫色の瞳をした彼女は、見た目こそ奇抜ではあったが、勉強に対する熱心さは本物であった。


『司教様、司教様!お話を聞かせてください!』


 話を聞かせた翌日も、彼女は自分を訪ねてやってきた。

 自分が大聖堂を訪れている日は毎日だ。


 現代にもこのように純粋で勤勉な子がいるのか。きっとその時の自分は柄にもなく浮足立っていたのだろう。

 今の時代にそういった子供はいなくなってしまっていた。科学の進歩によって、信仰を心の拠り所とする人々が減ったからだ。

 そんな時代にわざわざ自分の元を訪ね、教義のことを熱心に勉強する彼女の姿を見て喜びを感じていたのである。


 そして12月25日。クリスマスの典礼の日も彼女は大聖堂を訪れていた。

 目を輝かせながら祈りを捧げる少女の姿。それは天界から遣わされた天使のように美しく、そして尊ぶべきものであったと思う。

 長く信仰の世界に身を置いて来た自分が、この目で見てきた信徒の中でもあのような異彩を放つ人物はこれまでにいなかった。


 その日、クリスマスの式典が終わりを迎え、職務を全うした後に1人となった自分を見つけた彼女はいつもと同じように話しかけてきた。

 だが、あの日はいつもと違った。自分が彼女に話を聞かせるという図式自体は同じであったが、内容はまるで異なるものだった。

 少女は自身の昔話をじっくりと聞いてくれた。辿ってきた人生の話をじっくりと聞いてくれた。

 そうしていつの間にか、彼女に自分の心の内に抱える悩みのようなものまで吐露していたのだ。


 年端もいかない、わずか十数歳の少女を相手に!


 少女はずっと何も言わず、自分の話を親身に聞いてくれた。彼女は話を聞き出すのがとても上手な子であった。教義や教理の話をする中でも感じていたことだが、いざ自分の心中を吐露する段階になり、ますますもってその凄みを体感した。


 まるで“そうした訓練を受けてきた”かのようだと感じられるほどに。


 そして言われたのだ。


『自分の心に嘘をつき続けることは〈重大な罪〉なんじゃない?だって、それは〈偽りの誓い〉をしているということでしょう?』


 その言葉を聞いてしまった瞬間に、私は歩み進めていた道を踏み外してしまったに違いない。

 何十年も積み上げてきた道のりが音を立てて崩れ去っていく。信仰の道に捧げた過去の想いが、記憶が、全て形を溶かして消えてゆく。


 今思い返してみれば、クリスマス頃に現れたあの少女はクネヒト・ループレヒト〈黒いサンタクロース〉だったのかもしれない。

 邪念に心を囚われ、かつてのような清い信仰心を失っていた自分に罰を与えに来た存在。


 この期に及んで振り返り、違和感を感じると言えば、純粋に感じられた彼女の熱心さだってそうだ。

 本来、あれは熱心などと形容すべきものではなく、執念と呼称すべきものだったに違いない。

 この地を、世界を混沌の渦の底に叩き落すための準備。

 その為ならどんな手段でも厭わないという狂気。


 あれは悪魔だ。

 人の姿をした怪物だ。


 偽りの天使が用意した筋書きは間もなく実を結ぶ。

 第二の宗教大戦に偽装した動乱、戦争の火種を産み落とそうとしている。

 次に太陽が大地を照らす頃。その時に、日光が照らし出すものは輝かしい日常などではない。


 それはきっと、憎しみと悪意に満ち満ちた、地獄へと繋がる扉に違いない。

 目にするのも恐ろしい地獄の窯の蓋が開こうとしている。


 おぉ……主よ、憐みたまえ。


                 * * *


 なめらかな金色の髪がベッドに広がる。脱力したままベッドへ身体を預ける少女の物憂げな美しい青い瞳は、どこを見つめるわけでもなく視線を宙に彷徨わせる。

 時計の針は午前2時過ぎを示す中、ロザリアは珍しく眠れない夜を過ごしていた。


 マリア達との夕食を終えた後、アシスタシアと共に片付けを済ませ、就寝前の身支度を整えてベッドに入ってからというものずっとこの調子だ。

 とはいえ、この身体はもはや人間のそれとはまったく異なる代物であり、眠らなかったからといって何がどうなるものでもない。人工的に作られた肉体、というと語弊が生じるだろうが、そうであることに違いはないのだ。

 この身体はアシスタシアと同じように神秘の力で生み出した空の器である。遠い昔、自身の異能で生み出したこの身体に、自身の魂を移植して完成させた。

 つまるところ人形であるこの肉体は睡眠はもちろん、本来は食事すらも必要としない。ただ、困ったことに精神的な側面から見た時には話が別で、食事や睡眠に関しては当時と同じように生活に取り入れていた方が調子は良い。

 笑ってしまうような話だが、こんな体になっても人間の三大欲求の内の二つは受け入れなければならないらしい。

 ちなみに残る一つは信仰に身を捧げる身として切り捨てなければならないものであるし、個人的に元々さしたる興味もないものであったので長きに渡って何も困ってはいない。


 自身の子などというものは、持てる異能でいくらでも生み出せてしまうのだから。


 素敵な男性との逢瀬を夢見ないわけでもないが、そういうものは夢のままにしておいた方が良いと相場は決まっている。

 存在しない浪漫を、好き勝手に思い描く時間を持つ方が退屈しないというものだ。


 退屈。そう、この肉体は退屈だ。

 生命創造。自身に与えられた異能を自身の為に使った結果、この器は生み出された。定命を捨て、老いを捨て、永遠に近い時間を生きると決めたあの日以来何の変化もない肉体。

 傷付けば即座に回復し、体の一部が無くなったとしてもすぐに再生する。

 他者から見れば羨望を浴びせられるのかもしれないが、千年近くもの間“変化がない”というのは想像を絶するほどに退屈なことである。

 当然のことながら、羨望を抱く他者はそのことに気付いていない。

〈退屈だから世界を滅ぼしてみよう。〉などというおとぎ話の世界に描かれる神の気持ちも少し理解できてしまう。


 そして今。このような眠れぬ夜もまた退屈なものだ。

 普段はしないような思考で頭が満たされ、余計なことまで考えてしまう。


 ロザリアはうっすらと目を開けたまま静かに息を吐く。

 奇妙なほど静まり返った深夜。決して街中から離れているわけではないこの場所で、物音ひとつ聞こえないほどの静寂は珍しい。

 こんな夜でも、いつもであれば風が窓を叩く音か、風が草木を擦る音くらいは聞こえてくるものだが、耳に届くのは自分が体を動かすたびにベッドのシーツが擦れる音と、自身がつく小さな溜め息だけである。


 視線を向ける先に目的を見いだせない中、思い立ったようにふと天上を見つめる。

 暗闇に包まれる室内で、明かりを消した簡素な照明器具以外に目に留まるものはない。

 次に視線を窓へ向ける。淡い月明かりが、カーテンを僅かに明るく染める様子でも見えれば幾分か気持ちも穏やかになるのかもしれない。だが生憎と、厚い雲に覆われた空からはそのような光は降り注ぐこともない。

 窓に向けた視線を天井に戻し、再びそっと目を閉じる。


 こんな夜に思い出すのは決まって遠い過去のことだ。


 不安、孤独、恐怖、苦悩。私はそれらを遠い過去に捨ててきた。

 秩序、信仰、解放、救済。私はそれらを尊び現代を生きている。


 西暦1035年。生まれ故郷である祖国がこの世界から姿を消したあの日以来、背負う必要もない自責と、何も出来なかった無力感と、何もしなかった後悔だけが自身の中に残り続けた。

 自分はリナリア公国が滅びの日を迎えるよりずっと以前にローマへと渡り、ヴァチカンのサンピエトロ寺院で日々の暮らしを送っていた。


 信仰に身を捧げるために生まれてきた才女。


 公国にいた時からそのように言われていた。

 神に仕える為に生まれてきた子供であるなどと言われたりもした。

 自分の家系はリナリア七貴族と呼ばれる名家であり、元々信仰を司る系譜を持っているのだが、その中において過去最高と言われる“才能”を生まれた時から持ち合わせていたことが理由だ。

 その才能とは、“神のお告げのように人々の心を視通し癒しを与える力”であるという。

 しかし、現実はそのような夢溢れる話ではない。他者の心を視通し癒しを与えるというのは言葉通りかもしれないが、もちろんその状況を実現する為の種がある。

 それこそが自分を特別たらしめている異能である。


 レイエンド・ラ・メモリア〈記憶読取〉

 今の時代に添う言葉で言えばサイコメトリーというものがもっとも近い。

 サイコメトリーとは、他者の肉体や所持物に触れることで、そのものがもつ記憶を読み取る超常的な力を指す。意味は異なってしまうが、科学的に言えば計量心理学というらしい。

 自分は生まれながらにしてこの力に類似する超常的な異能を持ち合わせていた。

 だが自分の持つものはサイコメトリーとは似て異なる。まず前提として、〈対象となるものに触れる必要がない〉という点だ。

 人か物かに限らず、対象に視線を向け、読もうと思うだけで記憶の全てを読み取ることができる。

 読み取った記憶は、遠い昔に存在した映画の上映用フィルムを引き延ばしたように意識内に流れ込むため、そこから必要な情報だけを選んで細かく閲覧するといった要領で他者の記憶を細部まで読み取っていく。


 この力があるおかげで、自分に話しかけてくる他者が自分に“求める言葉”というものを即座に理解できる。

 信じていれば救われる。信仰の道において、そのような考えを胸に抱きながら自分に話しかけてくるような信徒というのは、決まって自身にとって都合の良い救いの言葉や耳障りの良い言葉だけを求めているものだ。耳の痛くなるような説法など望んではいない。

 相手の過去の記憶を読み取った上で、その人が望む言葉を選び取ってそのまま投げかける。それだけで相手の心は満たされてしまう。


 種を明かせばなんともつまらない話だ。


 そう。自分の元に歩み寄ってくる信徒というものは、神を信じ、救いの言葉が神から与えられることを望んでいるわけではない。ただ〈自分が言ってほしい言葉がかけられる瞬間を待ち望んでいるだけ〉である。

 自分はそのことを理解した上で、来る日も来る日も公国の教会を訪ねる信徒らに求められるがままに、彼らが望む言葉を伝えるという“作業”を行っていた。

 やっている当人にとってはもはや職務でも責務でもない。流れてくる人々に都合の良い言葉を送るだけの“流れ作業”だ。


 イメージを損なわないように上品さを保ち、穏やかな笑みを絶やさず、ただ求められた言葉を伝えるだけの日々。


 そこに自分自身の意思はない。自分自身の心の内にある言葉などひとつもない。

 本音を隠し、心情を偽って言葉を発し続ける日々に嫌悪感を覚えたこともあった。

 だが、それでも生まれ付いた家系の持つ役目がそうであるならば従うしかない。世界というものはそうなのだと、これが仕組みなのだと自分に言い聞かせながら。


 しかし、種を知らない多くの人々にとってはこの才こそが〈奇跡である〉とその目に映っていたらしい。

 そのことを証明するように、リナリア公国で暮らしていたある日のこと、自分の噂を聞きつけた当時のヴァチカンからサンピエトロ寺院に来ないかという誘いを受けたのだ。

 自分を奇跡の子として歓迎したいという申し出だったと聞く。

 ヴァチカン教皇庁からの直々の勧誘ということで、舞い上がった様子で両親は言っていたことを今でもよく覚えている。


 話を持ち出し、目の前で喜ぶ両親を尻目に、既に冷めきっていた自分の心に感じるものは何もなかった。

 喜ぶ両親の調子に合わせて、表面上は耳障りの良い言葉を発するが、それも日々の流れ作業の一環でしかない。

 その時の本音、内心に秘めた感情は実に酷いものだった。ここではない場所で、どうせまた同じことを続ける日々が訪れるだけだろう。

 誰にも言うことではないが、諦観として事実である。

 だが、ヴァチカンの申し出は違う国の違う場所に旅立つことが出来るというまたとない機会であることも確かだった。退屈な日常とつまらない人生の終着点を変えるきっかけをつかめるかもしれないと考えた。


 というのも、当時のリナリア公国において、貴族の娘という立場は諸外国の王族に嫁がされ、外交上のパイプを確保するための交渉材料とされるのが常であったからだ。

 神童などともてはやされる身であっても、女性である以上は最終的にそのような扱いを受けて人生を終えるしか道は残されていなかったのである。

 そう考えると、ヴァチカンの申し出を受けないという選択肢は自分の中に存在しなかった。

 貴族の娘という立場を除き、純粋な1人の信徒としてサンピエトロ寺院へ赴き日常を送る。奇跡の子という触れ込みで招かれる以上は、退屈な流れ作業を強制されることも明白だが、このまま公国に留まって同じことをするよりは余程ましだと感じられた。

 そうした経緯をもって自分はローマへと旅立ち、ヴァチカン教皇庁へと在籍することとなったのだ。



 申し出を受け入れて僅かの後、実際にローマへ渡ってから数年の歳月はすぐに流れた。 

 幸いなるかな。ヴァチカンでの暮らしは思っていた以上に快適なものであった。

 そこには卑しい自己愛の為に言葉を求めてくる人々もおらず、皆が純粋に信仰の道を歩むために集まっていたからだ。

 今の時代に比べると、強権的な教会の行いや、神を利用した守銭奴と言われても言い返せない振る舞いももちろん多数あったが、そんなものは自分にとっては“どうでもいいこと”であった。

 ただただ与えられた退屈な境遇から抜け出し、この人生に意味を見出し、〈生きる〉ということがどういうことなのかを教えてくれたのは、紛れもなく当時のヴァチカンであったのだから。

 多くの友人と尊敬する司教にも出会い、しばらくは充実した日々を送ったものだ。公国にいた時には、心の底から楽しいと思って浮かべる笑顔などなかったが、ヴァチカンでの暮らしの中では自然とこぼれる笑みも格段に増えていった。


 そんな満たされた日々を過ごしていたある日のこと、とても悲痛な表情をした司教が半ば息を切らせながら自分の元へと駆け寄ってきた。

 ただ事ではないという空気を感じつつも、定型通りの質問をしたことを覚えている。


『どうなさいましたか?司教猊下。』

『おぉ、ロザリア……麗しき奇跡の子よ……そなたにこの事実を伝えなければならないとは、こんな残酷な仕打ちがあってなるものか。』

 司教はそう言いながらロザリアの両肩に手を置くと、がっくりとうなだれて俯いた。

 思い詰めた様子の司教は次に発する言葉を慎重に選んでいるように見える。

 そしてついにロザリアにことの次第を打ち明けたのだ。

『ロザリア。そなたの祖国は滅びの道へと至った。レクイエム戦争に呑まれたのだ。』


 祖国が滅んだ?国が失われた?家族は、両親は?


 全身から血の気が引いていき、言い知れない虚脱感に襲われる。

『国の民は難を逃れ、国外へ逃げおおせたと聞いている。おそらくそなたの両親も逃げおおせて存命だろう。だが、王家の人間だけは戦火の中で全員が命を落としたようだ。』


 真偽は不明だが、両親は無事かもしれない。


 一気に込み上げる悲愴な気持ちの中に僅かな光明が灯る。

 しかし……


 王家は誰一人として助からなかった?


 この言葉を聞いた時、心の内に思い浮かんだのはとある少女の姿であった。

 イベリス・ガルシア・イグレシアス。しなやかな白銀の髪とミスティグレーの瞳を持つ美しい少女。

 彼女は国王の娘であり、王権再編によって新国王が戴冠した後には、政略結婚によりその妃となるはずであった人物だ。

 人を疑うなどということを知らない、高潔なる魂の持ち主。純粋で清廉な少女である。

 民を導く国の光。或いは民の光。希望の光。それが彼女を形容する人々の言葉だ。

 王家再編と新国王及び王妃戴冠は国家の中でも七貴族にしか知らされていない機密であったが、間もなくイベリスが新国王妃になるということは国民の間では常に囁かれていた話でもある。

 それ故に人々は彼女のことを『民を導く国の光』と形容し、『未来を照らす光の王妃』と呼んでいたのだ。


 日々の“作業”に追われていた自分は彼女と会う機会も多くなく、それほど親しく会話をしたこともなかった。話す機会があったのは、礼拝の折に彼女が公国内の教会へ足を運んだ時くらいのものだったと思う。

 それでも、彼女の凛とした佇まいや清らかさ、国の光と呼ばれるにふさわしい輝きを放つ眩しさには憧憬の念を抱いていた。

 そんな彼女はマリアの親友でもある。


 彼女も亡くなった?


 心の内に言い知れぬ絶望感が込み上げる。

 魂が自身の身体から抜け落ちたように動くこともままならず、唇を震わせるばかりで言葉を発することも出来なかった。

 ロザリアが何も言葉を発せずにいると、司教は両肩に置いた手を下ろし十字を切る所作をした。


 どうして?平和を願う祈りは神に届かなかった?

 〈神は人間を助けない〉


 なぜ?罪もないあの子が犠牲にならなければならなかった?

 〈与えられた宿命である〉


 その後のことは今となってはあまり記憶に残っていない。

 ただ、日々の務めを果たした後、夜は眠ることが出来ずに教会の主祭壇に向かって泣きながら1人で祈りを捧げる毎日を過ごしたことだけは記憶している。


 主よ、憐みたまえ

 〈神は人間の願いを聞き入れない〉


 周囲にいた大人達や司教が聖書の言葉を用いて慰めてくれたが、ほとんど頭には入っていなかった。

 ただ現実の残酷さと、自身の無力さに打ちひしがれるしか無かったのだ。


 祈る者は救われる

 〈それは詭弁だ〉


 人が絶望の境地に立った時、最後に残される手段が“祈りを捧げること”しかないだけである。


 不安、孤独、恐怖、苦悩。私はそれらを遠い過去に捨ててきた。

 〈そうするしかなかった〉

 秩序、信仰、解放、救済。私はそれらを尊び現代を生きている。

 〈それしか道がなかった〉


 主よ……

 私達の日々の糧を今日もお与えください。

 私達は罪人を許します。そのように、私達の罪もお許しください。

 私達の誘惑の道を絶ち、悪しき者からお救いください。


 逃れられない罪悪感、背負い続けなければならぬ悔恨、痛感させられた己の無力さ。

 それらの感情に押しつぶされそうになりながら、涙も枯れ果てる程に泣き続けたある日、やがて気付いた。これは与えられた役割なのだと。

 神は自身の似姿として人を創造したという。広大な宇宙の中に地球という小さな箱庭を作り、その中でそれらが辿る行く末を見定める為に自由を与えた。

 ひとりひとりの人間には責務がある。役目がある。生きる意味がある。


 神が定めた目的がある。


 それを見失ったり、放棄した時にその人間の生は終着を迎えることになるのだ。

 人々はそれに気付かない。自らの行いを“確固たる自身の意思である”と間違った考えを抱く。

 これは私に与えられたシナリオなのだ。

 自らの意思による選択の結末ではない。与えられた道筋に沿って生かされている。

 自分が特別な才能、特別な力を持ち早々に祖国を離れるという運命を辿ったことには“意味がある”。

 神は権威の優位性を先に示すことによって、傲慢な自分に存在を知覚させていたのだろう。


 では神が自身に与えた“目的”とは?


 その事実に気付いて初めて、神という存在を心から信じようと決めた。

 偉大なる主の御心が我らを生かしてくださるという教えは間違いではない。しかし、言われるがままに教理を受け入れて信仰の道を歩むことは間違いだ。

 神は人の願いなど聞き届けない。なぜならば神は絶対であるからだ。


 願うから救われるのではない。

 信じる者が救われるのではない。

 祈りの果ての救済などない。

 救われたから信じるのだ。

 そして祈る。今日も、我らに生きる道をお示しください、と。


 以後、生きる意味を悟った私は泣くことをやめた。

 激動の道を辿る世界の中で己が求める答えを探す為の日々を過ごした。

 今でも探している。求めている。

 神が自身に与えた生の“目的”を。

 このような体になり果てて、それでも見つからない答え。


 レイエンド・ラ・メモリア。その奇跡の力を持って教会内の序列を駆け上がった。

 秘匿され続けてきたが、世界で初の女性司祭の地位を手に入れ、後に司教となった。


 その後も奇跡の力をふるい続けた。 

 度重なる動乱、戦火。その度にこの力で罪人に“慈悲を与えてきた”。

 三十年戦争の折、この手でどれほどの人を手に掛けたか定かではない。

 自身に与えられし3つの力。その内のひとつ。

 〈神罰代理執行〉主の聖名の元に罪人を処す。

 彼らの魂に安息を。その罪に浄化を。永遠なる安寧をもって救済を。

 それでも答えは見つからなかった。


 長い歳月を経て、教会のヒエラルキーにおいて名誉となる職務が与えられることとなった。

 パトリアルクス。グランドビショップ。総大司教の地位が自らに与えられた。

 しかし、あれからさらに年月を経た今でも探し求める答えは見つからないままだ。


 どれだけ時間をかければ辿り着けるというのか。

 幼き頃から他者の心を読み、求められる言葉を与えてきた。

 祖国が滅びてからは神の意思を汲み、与えられた目的を探してきた。

 自身の本音を決して明かすことのない生。

 周囲から見れば異常だとも思えるだろう道を自分は歩いているに違いない。


 心の見えない人形。

 不可視の薔薇。


 言い得て妙というものだ。




 ベッドに横たわったまま、ロザリアは左腕を目元に乗せ遠い昔のことを回想した。

 そしてふと昨年夏の記憶が頭をよぎる。


 自分の本心を何のためらいもなく伝えられた僅かな瞬間。

 ミクロネシア連邦で起きていた事件を巡る活動の最中にようやく巡り会えた奇跡。

 亡国の王妃。イベリスとの再会だ。

 実に千年の時を超え、彼女と再び相まみえた日のことを。

 奇跡としか言いようがない力によって彼女もまたこの世界に魂を顕現させ、今という時代を生きている。

 そんな彼女と話し、遠い昔に言えなかった言葉を伝えた。


〈何者にも縛られずに生きる貴女の眩しさに私は憧れた。羨ましかった。そして……自由である貴女に心の奥底では嫉妬していた。〉


 こんな言葉こそが偽らざる本心だった。

 求められる言葉を流れ作業として吐き出し続ける自分とは違い、自由なる毎日を謳歌する彼女の在り方はそれはそれは眩しいものであった。

 高潔であり、清廉である彼女という存在に憧憬を抱きながら、本音の所では自由を楽しむ彼女に少し嫉妬していたのだ。

 しかし、意外なことに彼女も同じような言葉を返してきたのである。


〈幼い頃から人の心を惹きつける魅力を兼ね備え、神に仕える為の非凡な才能を見せていた貴女はとても眩しくて輝かしかった。〉


 そして〈私は、そんな貴女に嫉妬していた〉と。


 彼女と語らった時のことを思い出して思わず頬が緩む。

 互いの本音を伝え合うだけで実に千年もの時がかかるなど。


 何の因果か。

 この世界にはリナリア公国における七貴族の子孫、公国の忘れ形見が全員姿を現している。


 レナト・サンタクルス・ヒメノ

 イベリス・ガルシア・イグレシアス

 マリア・オルティス・クリスティー

 アルビジア・エリアス・ヴァルベルデ

 アイリス・デ・ロス・アンヘルス・シエロ

 アンジェリカ・インファンタ・カリステファス


 そして自分。ロザリア・コンセプシオン・ベアトリス。

 神の定めた目的は未だ見えずにいるが、この怪異とも呼べる奇跡を前にすれば結論はある意味定まっているのだろうと思える。


「火消しのロザリア……」


 夕食の時にマリアが呟いた言葉を思い浮かべる。

「まずは、火遊びの大好きな堕天使にお説教をしなくてはなりませんわね。」


 その言葉を言い終えた後、ロザリアの意識は夢の中へと引き込まれていった。


                   *


 〈この世界と力と栄光は、永遠にあなたのものです〉



 夢の中で誰かが呼ぶ声が聞こえる。

『ロザリア…ロザリア…?』

 親しんだ声。温かく優しい声。

 遠い昔に失った……あぁ、そうか、これはわたくしの、夢……


「ロザリア様。ロザリア様?」


 名前を呼ばれてそっと目を開く。

 窓の外は幾分か明るさを取り戻し、部屋に差し込む微かな明かりが朝の訪れを告げていた。


「お母……アシスタシア……」


 いつもと変わることなく、無表情のまま顔を覗き込む彼女の姿を見てその名を呼ぶ。

「寝ぼけていらっしゃるのですか?」

「朝から手厳しいですわね。」そう言ってロザリアは笑う。

「さぁ、早く起きてください。今日から大事な責……」

 アシスタシアはそこまで言うと急に驚いた様子を見せた。そしてすっと視線を外し、後ろへ振り返って言う。

「朝食の用意をいたします。それまでゆっくりなさってください。」

 そう言うと彼女はそっと部屋を後にした。


 アシスタシアの後ろ姿を見送ったロザリアは顔に乗せたままの左腕を下ろす。

 いつから眠っていたのだろうか。遠い昔のことを思い返しているうちに眠ってしまっていたようだ。


 虚ろに開く青い瞳。その目には、一筋の涙の跡が引かれていた。



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