第1節 -里帰りは突然に-

 4月20日 午後1時。

 まだ上着が手放せない寒さに身をすくめながら、フロリアンは慣れ親しんだミュンスターの街並みを歩いている。


 ドイツ有数の学生都市、ミュンスター。

 この街は最先端科学や医療、文化芸術や歴史といった現代と過去が織りなす国際都市だ。

 緑に囲まれた美しいプロムナードの中、そこにカトリック司教座聖堂である聖パウルス大聖堂やヴェストファーレン美術館が聳え立ち、世界で唯一パブロ・ピカソのグラフィック作品を展示しているパブロ・ピカソ美術館なども擁する一大観光地でもある。

 アー湖の水上バス観光や全天候型動物園、水族館、自然博物館、エアブドロステンホフ、リュッシュハウスなど観光スポットには事欠かない。

 また、ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学を含む8つの大学を抱える学生都市という顔を持ち、人口30万人のうち学生が占める割合はおよそ17パーセントにも上る。

 その特色もあって、1000近い飲食店やバーの中に〈学生用バー〉も存在しているほどだ。

 同時に自転車の通行量が非常に多いことでも有名で、〈もっとも自転車に優しい街〉として表彰を受けている。


 そんなミュンスターという街がフロリアンの生まれ故郷であり、ギムナジウム卒業までを過ごした場所である。

 世界特殊事象研究機構に籍を置く今は、長期休暇で自宅に里帰りするときくらいしか戻らなくなったが、それでも足を運べば空気や町の持つ雰囲気が自然と体に馴染む。


 久しぶりの故郷の大地を踏みしめ、アルター・フィッシュマルクトから聖ランベルティ教会の角を曲がり目的地へと向けて進む。

 陰鬱な歴史を象徴する3つの鉄篭が吊り下げられた、聖ランベルティ教会のファサードのすぐ傍の大通りがプリンツィパルマクトだ。この通りはミュンスターの観光ガイドに必ず名前が載る有名な商店観光街であり、十七世紀までに繁栄した歴史を色濃く“再現”した美しい建物が立ち並んでいる。

 夕刻になると通り一帯にある建物のファサードが一斉にライトアップされ、中世に舞い戻ったかのような幻想的な感覚を味わえることも観光客に人気の理由だ。

 尚、〈繁栄の歴史を再現した〉というのは、この辺り一帯の歴史的事情によるものだ。実の所、ミュンスターのランドマークである聖パウルス大聖堂を中心とする旧市街は、第二次世界大戦下において実に100回以上もの空襲にさらされたという歴史がある。

 激しい空爆によって建築物の9割を喪失した街は、戦後になって当時の意匠や材質そのままに復興されたという経緯を持つ。

 歴史の流れや佇まいを色濃く残しながらも、建物全体が比較的新しいのはその為だ。

 旧市庁舎のファサードなど、戦後になって新たにデザインされた例外も僅かに存在するものの、そのほとんどは当時の景観を忠実に再現したものとなっており、そのおかげで歴史的文脈を残すことに成功した街といえる。


 少し周囲に目を配ると、オープンカフェでゆったりした時間を過ごす人々、買い物を楽しむ人々、せわしなく自転車で移動する人々といった変わらないこの街らしさが見てとれる。

 通りの両脇でひときわ目を惹くアーチ状にくり抜かれたアーケード、ポルティコが連なる景色を眺めていると、家族でこの場所を訪れた時の懐かしくも楽しい記憶の数々も自然と蘇るというものだ。

 変わることのない街並みと、温かな記憶。フロリアンはそれらに安らぎを感じつつ、道行く人々に混じりながら“とある人物”との待ち合わせ場所である旧市庁舎へと歩みを進めた。


 ただ、フロリアンが今回この地へ足を運んだのは里帰り休暇などではない。自身が在籍する機構の、れっきとした調査任務によるものだ。その調査内容を一言で言うと『怪奇現象調査』である。

 通常、機構の任務というのは二人一組以上となって行動するのが基本なのだが、今回は単身で調査にあたるという例外のおまけつきだ。

 任務自体の特殊性と単独行動という特殊性からして乗り気ではなかったが、命令であれば仕方ない。

 尚、今回の任務において機構としては単独派遣となるが、別組織から派遣される2人の協力者と行動を共にすることになる。今、旧市庁舎へ向かっているのはその人物と落ち合うことが目的だ。

 調査命令を下した総監は『簡単な任務』と言っていたが、これから落ち合う予定となっている人物のことを考えるととてもそうは思えない。


 溜息とまではいかない不安の吐息を漏らしつつ、フロリアンは待ち合わせ場所に到着する前に、この地を訪れることになった1週間前の出来事を改めて思い返した。


                   *


 4月13日 午前10時。

 機構。即ち世界特殊事象研究機構の大西洋方面司令 セントラル1 -マルクト-に所属する調査小隊、マークתの隊員であるフロリアンはこの日、総監執務室を訪れていた。

 チームの隊長であるジョシュアから、次の調査任務の話の為に指定日時に執務室を訪ねるようにという指示を受けてのものだ。


 世界特殊事象研究機構。

 それは世界中で観測されているあらゆる異常気象や自然災害の観測及び被害に対する支援、またそれらの兆候の事前察知とその研究、その他航空・海洋事故などに関する調査、救助支援等を行う為に組織された国際機関である。

 World Abnormal Phenomenon Research Organizationの頭文字を並べ、通称『W-APRO』と呼ばれるか、単に『機構』と呼ばれている。

 地球における三大海洋である大西洋、太平洋、インド洋に浮かぶ巨大なメガフロート『セントラル』を拠点として活動しており、組織としての全体規模は世界一の国際機関である国際連盟に比肩するほど巨大なものだ。


 その機構全てを取り仕切る最高責任者、レオナルド・ヴァレンティーノ総監から呼び出しを受けたフロリアンは、今まさにその彼とテーブルを挟んで向かい合っている状況だ。

 彼は上品な佇まいの穏やかな顔付きの初老の男性で、暖かさと優しさを思わせる好々爺といった印象である。同時に、瞳の奥から力強い信念も感じられ、巨大組織の長たる威厳も十分に持ち合わせる人物だ。

 フロリアンにとって総監と直接向かい合って言葉を交わすのは、およそ5年と数か月前のハンガリー以来のことであった。当時は彼の右腕とも言うべき人物が隣にいたので、こうして2人だけで話すのは初めてのこととなる。

 テーブルの上には2人分のコーヒーが並べられている。それはつい先程総監が直々に淹れて差し出してくれたもので、彼のお気に入りのブルーマウンテンだという。


 コーヒーのとても良い香りが室内に漂う中、話し合う態勢が整ったところでレオナルドが言う。

「単刀直入に言おう。ヘンネフェルト隊員、来週ミュンスターへ飛んでほしい。ある調査任務を遂行してほしい。」

 彼の言葉にフロリアンは戸惑った。理由は明白だ。

「お言葉ですが、総監。我々マークתには既にイングランドの調査任務が割り当てられているはずです。」

「承知している。セルフェイス財団から依頼を受け、マークתにイングランド行きの任務を言い渡したのも私だからね。」

 この席での話はこれからマークתが向かうことになっているイングランドでの自然異常再生調査に関する内容かと思っていたが、どうやら違ったようだ。

 思えば、イングランドに関わる話であれば隊長であるジョシュアに伝えれば済む話である。総監がそうしなかった時点でまったく別の内容であることは決まっていたのだ。

「それとヘンネフェルト隊員。ミュンスターでの調査は単独で行ってほしい。」

「1人で、でしょうか?」フロリアンは言葉に詰まりながらも再度驚きの声を上げる。

「異例であることは認めよう。だが、マークתのイングランド行きの調査任務も外すことが出来なくてね。」

「では、別の小隊がドイツへ向かった方が……」

 自分1人だけが向かうよりも、きちんとしたチームを派遣した方が調査もスムーズに進むのではないか。そう思い、言葉を言いかけたがレオナルドは右手を持ち上げ、軽く制止するそぶりを示して言った。

「いや、人数がどうあれ他の小隊では務まらない。本来であればマークת全員に出向いてもらいたい案件だった、といえば伝わるかね?」

 機構の中でマークתにしか務まらない案件。となれば答えは決まっている。過去に自分達が調査した事件絡みの延長だ。

 レオナルドは言う。「話を進めさせてもらう。今回の依頼主はヴァチカン教皇庁だ。ここ最近ミュンスターで起きている謎の怪奇現象の調査を君にお願いしたい。」

「ヴァチカン教皇庁?彼らが依頼を?」

 予想外の依頼主の名前に戸惑いは隠せない。

「現地に向かうのは君1人となるが、そこには既に協力者もいる。君や君達マークתがよく知る人物だ。」

 自分達がよく知り、ヴァチカンに関わる人物……となれば該当者は1人か2人しかいない。

「総大司教ベアトリス。」

 ハンガリーの地で初めて出会い、昨年9月にミクロネシア連邦にて再開した人物。女性でありながら、世界で初めて司祭以上の地位につき、さらには総大司教の地位にまで上り詰めた人物の名を伝える。

「さすがに鋭いな。とはいえ、ヴァチカンの知り合いといえば必然そういう答えになるだろうが。」そう言ってレオナルドは微笑んだ。

 そこまでヒントが与えられれば自分達マークתのメンバーであれば誰もが同じ答えを言うに違いない。いや、その他の理由も含め、彼女の名前以外が出てくることはないと断言できる。

「少し詳しい話をしよう。」レオナルドは続ける。「ただ、その前に一つ尋ねたい。君はつい先日ミュンスターでとある事件が起きたことを把握しているかね?」

 フロリアンは少し考えを巡らしひとつの答えを伝えた。

「4月7日に起きた旧市庁舎窓外放出事件でしょうか。」

「その通り。何者かによって5人の男性が旧市庁舎の窓から通りに投げ出された事件。現地では三十年戦争の引き金となったプラハ窓外放出事件を模倣した愉快犯の仕業ではないかと見られている。幸いにも奇跡的に全員が軽い怪我を負っただけで済んだが、未だに犯人は捕まっていない。5人全員が薬で眠らされた状態で、誰一人として犯人の顔を見てはいないという奇怪な事件だ。」

「その事件と今回の怪奇現象調査に何か接点があるのでしょうか?」

「不明だ。」

 はっきりと言い切ったレオナルドに対しフロリアンは戸惑いながら言う。

「では、なぜそのお話を?」

「接点があるかどうかは不明だが、依頼内容に関係がないとは言えない。そのようなことをヴァチカンは私に伝えてきた。」

 レオナルドは手元のコーヒーを飲み話を続ける。

「話を戻そう。調査対象となる怪奇現象は、現地で〈ウェストファリアの亡霊〉と呼ばれているものだ。今月5日の復活祭の夜、ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学の敷地内で古めかしい鎧をまとった兵士たちが行軍するのを目撃したという情報が複数件報告されたらしい。以後、人気のない路地で血まみれの兵士が現れたという報告が後を絶たないという。」

 幽霊の調査?フロリアンは静かに話を聞く。


「加えて、幽霊とは別の話で福音主義教徒の元にカトリック教徒からのものと見られる挑発的な文書がいくつも届けられるという事件も起きている。具体的な内容までは関知していないが、文章を目にすれば腹立たしい気持ちになるものだったそうだ。


 先程の話で三十年戦争と言ったが、当初は件の亡霊事件に絡め、歴史になぞらえてカトリックと福音主義の対立を煽る為の悪質な悪戯ではないかと思われていたらしい。

 だが、その中で例の窓外放出事件は起きた。

 これらの経緯から、三十年戦争を想起した人々の間で〈ウェストファリアの亡霊が蘇った〉という噂が流れることとなった。」


 三十年戦争。それは世界最大にして最後の宗教戦争である。

 熱烈なカトリック信者であったボヘミアの王が、プロテスタントに対して激しい弾圧を加えたことによる反発で、プラハ城の3階から国王顧問と書記の計5人が投げ落とされる事件が起きたことを端とする戦争だ。

 その事件に辿り着くまでに火種はくすぶり続けていたが、そこに至ってついに不満が爆発し、開戦の火ぶたが切って落とされたといえるだろう。

 戦う国が多数に入り乱れた戦争は泥沼の様相を呈し、死者800万人を数える欧州史上でも最悪の戦争となった。

 その戦いはミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の二つから成るヴェストファーレン条約の締結を持って終結を迎えている。

 2つの条約の内、ミュンスター講和条約の締結された場所こそが、今回話題に上がっているミュンスター旧市庁舎である。


 故に、旧市庁舎で過去の戦争を想起させる事件が起きたとなれば、人々が〈過去の亡霊〉などと口にするのも致し方のないことかもしれないとフロリアンは感じていた。

 レオナルドはコーヒーカップを机に置き、ソファから身を乗り出すようにして言う。

「文書の事件と窓外放出事件については我々の関与する所ではない。問題はそうした話の最初に登場してくる幽霊の件だ。ヴァチカン教皇庁は今回の事件について非常に憂慮していると言ってきた。カトリック側から平和を乱すような行いは一切しないと声明を出す用意すらあるとも。」

「そこで、機構に対して事件の根本に関わる〈怪奇現象〉がいかなるものかを見極めてほしいということですね。」

 フロリアンの言葉にレオナルドは満足したように頷くと、こう話を付け加えた。

「先ほどは亡霊と事件の関りは不明だと言ったが、ひとつはっきりしていることがある。今回の事件で窓から放り出された5人の男性達は、全員が福音主義教会に所属する者だったということだ。ミュンスターにおける宗派の割合から考えて、偶然に福音主義教会に所属する者だけが被害に遭ったとは考えにくい。意図的に福音主義派の人々を狙ったのは明白だろう。」

 この話にフロリアンは引っかかりを覚えた。

「しかし、そうなるとプラハの史実とは逆になります。」

 そう、プラハ窓外放出事件で城の窓から放り出されたのはカトリック信仰派の人物達だ。立場が逆である。

 レオナルドは首を横に振りながら言う。「そこにどういう意味があるのかは分からない。意味を考えて事件を起こしたのかすらもな。」


 少しの間を置き、レオナルドはソファに深く背中を預けながら言った。

「ミュンスターは君の故郷だ。土地勘などは彼女らよりも君のほうが優れているだろう。2人と共に調査にあたり支援をしてほしい。」

 〈彼女ら2人〉ということは、ミクロネシアで出会ったもう1人のシスターも一緒なのかもしれない。フロリアンは確信に近い考えを浮かべた。

 レオナルドは続ける。「心配することは無い。事件とは関わりなく、現地視察程度の簡単な調査をしてもらえれば良い。そして、総大司教ベアトリスの件については先のミクロネシアの件で報告の仔細まで把握している。彼女と共にいるのであれば、君の身まで危険が及ぶ可能性も少ないはずだ。」


 おそらく話はこれで全てだろう。いずれにせよ、現地で調査活動を行う以外にとるべき道はない。覚悟を決めたフロリアンはしっかりとした表情で言う。

「分かりました。最善を尽くしましょう。」

 レオナルドは感謝するように深く頷きながら言った。

「ありがとう。宜しく頼む。」


 こうして1週間後の4月20日、フロリアンは単身でドイツのミュンスターへ思わぬ形で赴くこととなったのであった。



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