不可視の薔薇 -ウェストファリアの亡霊-

リマリア

序節 -蘇る悪夢-

 西暦2037年4月5日 復活祭の夜

 ドイツ連邦共和国 ノルトライン=ヴェストファーレン州 ミュンスターにて。


 街路を駆け抜ける風は刺すように冷たい。外気は氷点を下回り、4月に入っても尚、春の訪れは幾ばくか遠く感じられる。

 空は厚い雲に覆われ、僅かな月明かりすら地上には届かない。

 街は復活祭で賑わいを見せるが、この街の全てがそうであるわけではない。中心から少し外れた路地裏はとても暗く、異様なほどの静けさと寂しさが入り混じる光景は、まるで別世界の入り口へと繋がる小路のようだ。

 そんな誰もが忌避するだろう路地へ1人の少女は立ち入った。彼女は周囲の空間が醸し出す陰鬱な空気など微塵も気にしていない。


 美しく長い金色の髪が風に揺れる。寒さに震えるでもなく、不気味なほどの静けさに身をすくめるでもない。

 透き通る海のような青い瞳を持つ少女は、むしろ僅かに微笑みを湛えながら悠然と歩みを進めていく。


 不安、孤独、恐怖、苦悩。彼女はそれらを遠い過去に捨ててきた。

 秩序、信仰、解放、救済。彼女はそれらを尊び現代を生きている。


 果てなく続く暗がり。一度足を踏み入れたなら、永遠に抜け出せないと錯覚させるほどの不穏な道行き。

 耳に届くのは等間隔で周辺の建物に反響する彼女の靴音と、時折路地に吹き込む風の音だけ。



 少女は暗い路地を歩きながら思う。

 静かだ。まるで、この世界に1人だけ取り残されてしまったかのような静寂。いや、この場合は嬉々として自らが足を運んだわけだから、取り残されたというのは間違いだろう。

 目に見えぬ赤い霧に覆われた街。祈りを捧げる時の穏やかな静黙とは違う、緊張の糸が張り詰められた静けさが周囲に満ちている。

 こんな夜に、この粛然たる均衡を打ち破るものがあるとすれば、それはきっと“人ではない”。

 そもそも、このような場所に好き好んで訪れる“人間”など他にいるはずもない。

 飛び出してくるのが、せめて野生動物であれば良い……だが、静粛を破るのはきっとヨハネの黙示録やブラムストーカーの小説に描かれるような怪物に違いない。



 取り留めのない考えを巡らせながら少女は歩みを進める。

 そうして自身の前後から路地の入口も出口も見えなくなった頃、ついに異変はやってきた。

 動物であれば良いなどと考えつつも、怪物が現れることを望んでいた少女の視線の先に現れた“ソレ”は期待通りのものだった。

 足を止めた彼女が視界に捉えたのは、不規則に揺れ動く黒い影である。靴音と風の音に混ざって聞こえたのは男の呻き声。


 その呻きは狂気を示すものか、慈悲を乞うものか。


 目的のものに出会えたことで、彼女は一層柔らかな笑みを湛え影を見つめる。

 不穏な影は暗闇でしばらく蠢くように揺れていたが、次第に形をはっきりさせながら、ついにその全貌を現した。

 影から形作られたのは全身を鎧で固める血まみれの兵士だ。察するに、古めかしい鎧は数百年は昔のものだろう。常人では有り得ない方向に曲がった腕などから見て、“ソレ”は間違いなくこの世の者ではない。

 唐突に姿を現した怪異は板金鎧が生み出す独特の金属音を響かせ、大きな呻き声を漏らしながらゆっくり、ゆっくりと彼女に近付いた。


 対する彼女は兵士に手を差し伸べるように右手を前に出した。優しい眼差しを向け、慈悲と慈愛を与えるかのように、そっと。

 しかし、彼女が怪異となった亡者に慈しみを与えることなどない。慈愛などもってのほかだ。少女が与えるものはただひとつ。裁きである。

 伸ばした右手から数メートル先まで兵士が迫ると、一瞬でその周囲ごと青い炎が包み込んだ。

 全てを無に帰す浄化の炎。その炎に包まれた兵士は、身動きを取ることも出来ない様子でただ呻き声を漏らす。

 それはまるで、暗闇に咲く青い薔薇のようでもあった。


 青い炎に焼かれながら、兵士は悲痛な叫びにも似た強い呻きを漏らし、やがて地面に崩れ落ちたかと思うと、溶けるように姿形を消失していった。

 炎が人ならざる者をすっかり燃やし尽くすのを見届けた少女は、変わらぬ表情のまま再び暗闇に向けて足を踏み出そうとする。

 次の獲物を求める狩人のように。

 

 だがその時、暗闇の向こう側から自分ではない別の靴音が近付いてきた。歯切れの良い上品なヒールの音が2人分。

 少女は足を止めたままじっと暗闇の先を見つめる。徐々に大きくなる靴音が目前まで近付き、ついに姿を現した2人を目にした瞬間に少女は悟った。

 

 そうか。先程の“あれ”は逃げてきたのだ。


 現れたのは緩やかなウェーブのかかった金色の髪に、宝石のような美しい赤い瞳を持ち、漆黒のゴシックドレスを身にまとった少女と、魔女の被るもののようにつばの広い帽子と、同じく漆黒のロングドレスをまとい、口元から上を黒いベールで覆った長身の女性。

 青い瞳を持つ少女は、人形のように美しく、天使と形容できるほど無邪気な笑みを浮かべた赤い瞳の少女に視線を向ける。


 “神に従い、悪魔に立ちむかいなさい。さすれば、それはあなたがたから逃げ去るだろう。”


 ヤコブの手紙 第4章7節にはそう書かれているが、目の前に立つ赤い瞳の少女は『神を従えて悪魔に立ち向かう者』である。

 亡者が悲鳴を上げて逃げ惑うのも道理だ。



 “苦しみ、悲しみ、泣け。その愉しみを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。”



 赤い瞳と青い瞳の視線が交わる空間に、もたらされたものは際限のない静寂。

 復活祭で賑わう街の音は遥か遠く、もはや風の音すら聞こえない。

 この時、互いの耳に届いていたのは、自らの鼓動だけであったに違いない。

 これから起きる災厄を視通す目と、これまでに起きた災厄を視通す目。

 互いをよく知る2人の瞳には、避けることのできない惨劇の幕開けがそれぞれ映し出されていた。



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