第12節 -大きな惨禍(シンフォニア)-

 深夜の喧騒。鳴りやまないサイレンの音が街中を包み込む。

 仲間との通信を終え、そのまま眠りに就いたフロリアンはふと目を覚ました。体の感覚は鈍く、頭は重く、鳴り響き耳に届く音が現実のものなのかどうかの判別すらまともにつかない。

 カーテンに遮られた窓の向こうは暗く、何か変わった様子には見えない。

 霞がかかったようにぼやけた視界。腕を持ち上げようとするがうまくいかない。何が起きたのか確認しようにも体は動かず、己の体に許されたのはただ再び瞼を閉じることだけだった。

 呻くように喘ぎながら、なんとかヘルメスを手に取ろうとしたが、焦りが先行する意識の中、あがくだけで何も出来なかった。


『何が……起きている?』


 ぼうっとする頭でただ一言。その言葉がよぎると同時にフロリアンは再び夢の世界へと堕ちていく。

 自らの意思ではなく、何者かの意思によってそれを望まれたかのように。


『ここまでは来ても良い。だが、超えてはならない。』


 誰かがそう言ったような気がした。

 その記憶を最後に、フロリアンの意識は完全に現実から隔絶される。

 

 フロリアンの眠る枕元では、マリアから手渡された黒曜石のペンダントが淡い輝きを放っていた。


                 * * *


「間に合わなかった……とは言えませんわね。」

 深夜に鳴り響く、けたたましいサイレンの音を聞きながらロザリアは言う。

「知っていて見過ごした。それしか出来ることがなかったから。このもどかしさを晴らす機会は、次の夜明けまで訪れることはない。」

 いつも余裕を感じさせる笑みを湛える彼女の今の表情は憮然としたものだった。

 心の奥底で怒りを感じている。


 何に?


 何も出来ない自分達に?この出来事の発生を許したことに?

 それとも、こんなことが起きるように仕向けた彼女に?


「ロザリア様……」閉ざした口の奥で歯を噛み締めているだろう彼女に向けてアシスタシアは言った。

 しかし、彼女が何を言いたいのかをすぐに悟ったロザリアは言う。

「なりません。貴女があの場に行ったとて出来ることは無し。混乱の最中で消えゆく命と、傷付く魂を眺めることに意味も為し。」

 今から現地に向かえば何か出来ることがあるのではないか。そう言おうとしたアシスタシアであったが、その無意味さには自身でも気が付いている。

 ロザリアの言うことは正しい。絶叫のように響く緊急車輛のサイレンの応酬の発端。それはアンジェリカが仕組んだことによるものだ。

 詳しく何が起きたのかは翌朝まで分からないだろう。しかし一つだけわかることがある。


 この混乱でいくつもの命が傷付けられたということ。


「私達に出来ることは、祈るだけでしょうか。」アシスタシアは言う。

「人に乞われて救いを与える神などいない。ですが、そうですわね。それでもわたくしたちに出来るのは、ただ首を垂れ、跪いて祈りを捧げるだけ。」

 ロザリアはそう言うと顔を下に向け、俯きながら呟く。

「千年の時を経ても、何も変わらなかった。この世界に、神など存在するはずがありませんわ。」


 自身の本心を決して表に出すことがない彼女の心からの叫びとも取れる言葉を聞いたアシスタシアは驚いた。

 それと同時に、遠い昔に彼女が経験した無力さというものを、自身もたった今味わっていることを理解した。

 唇を震わせながら俯くロザリアにこれ以上何も言うことは出来ない。



 遠くで異常事態を知らせるサイレンの音が鳴り響いている。

 永遠に続くかのような輪唱は絶え間なく続く。



 その音は、2人の少女の耳に救われぬ人の叫びとして届いた。

 誰にも手を差し伸べられることなく、空虚な空に吸い込まれて消えるだけの叫び。

 地獄の窯の底に飲み込まれる人々のことを思いながら、2人の少女は聞き届けられることのない祈りを心に抱いた。


『主よ、憐みたまえ。』


                 * * *


「始まったかい?」深夜、外で鳴り響く緊急車輌のサイレンの音でふと目を覚ましたマリアが言う。

「はい。貴女の予言通り、そしてトリッシュの予測通り、聖ランベルティ教会を中心とした一画で事件が起きたようです。プリンツィパルマルクトは今、混乱の最中にあります。」感情を交えず、冷静な声でアザミは答えた。

 マリアが横たわるベッドのすぐ傍で椅子に座り、一晩を通じて彼女を常に見守るのはアザミの習慣だ。千年以上もの間、ずっとそうしてきた。

 眠たい目をこすりながら体を起こそうとするマリアをアザミは制止する。

 彼女が今の状況を憂い、被害を最小限に抑えたいという感情から動こうとしていることは明らかだ。しかし、それを見過ごすことは出来ない。

「マリー。分かっているとは思いますが、わたくし達にこの状況をどうにかする術はありません。貴女にも視えているはずです。もどかしい気持ちは理解しますが、今はどうか休養を優先してください。」

 マリアは横たわったまま、奥歯を噛み締めている様子だ。普段であれば彼女の意思に反対するなどということはしないが、彼女自身が傷付く可能性があるのならば話は別である。

「不老不死。永遠の肉体を持つとはいえ、貴女は人間です。肉体が常に十全であっても、精神までそういうわけにはいきません。睡眠はきちんと取りませんと。ここのところ、事件のことを考えるあまり、十分に休めていないのでしょう?それに貴女の目は、わたくしの推測以上に今の正確な現実とこの後の未来を映しているはず。貴女が一番理解しているはずです。」

 人間の思想によって悪魔に貶められたとはいえ、元が神の一柱であるアザミには睡眠などというものは必要ない。だがマリアは違う。無理をさせるわけにはいかない。

 滅多に自身の行動に反対しないアザミが強く制止したことを受け、マリアはその意思を尊重した。自分に対する、アザミの心からの気遣いであることが明白だからだ。その優しさを否定は出来ない。

「分かった。口惜しいがここに留まろう。」

「はい。」

 返事をして尚、もどかしそうな表情をしているマリアにアザミは言った。

「気休めかもしれませんが、わたくしが貴女の目の代わりとなりましょう。今、現地で何が起きているのかを記録しておきます。」

 神の権能と呼ぶにふさわしい力をアザミは行使できる。自身の分身ともいうべき影を送ることで、この場に留まりながら別の場所で起きている事象を監視するなど造作もない。

 マリアは言う。「宜しく頼む。夜が明けたら、その内容を私に教えておくれ。」

 僅かに声を震わせる彼女に対しアザミは返事をする。

「はい、承知いたしました。」

 続けて、とても優しく穏やかな声でこう付け加えた。

「おやすみなさい、マリー。」

 せめて眠りの中でだけは、良き夢を。


                 * * *


 夜空が赤く染まる。緊急車輌の青いランプは明滅を繰り返し、集まった人々の怒号や悲鳴が街にこだまする。


「ローマの排他的原理主義者め!いつの時代だってそうだ!お前達のせいでこんなことが起きる!」

「馬鹿を言うな!何を根拠にそんなデタラメを言う!」

「そうだ、俺達に罪を擦り付けようとする奴がやったことだ!」

「そんな人間はいない!全て妄想だ!最近ばら撒かれていた手紙も、卑劣な事件もお前達の仕業だったのだろう!?ファンダメンタリストのやりそうなことだ!」

「その暴言は聞き捨てならないな。自分達の信仰以外を異端とし、認めないという姿勢はお前達にこそあるはずだ!ローザンヌ誓約以後に世界が何か変わったのか?自らの価値観を押し付けて協力などと宣う奴の言うことを信じろとでも?」

「どうしてなんだ……カトリックも福音主義も自由主義神学も、平穏を願う心は同じはずなのに……どうしてこんな……おぉ、神よ……主よ……どうか慈悲を……」


 さながら小さな紛争だ。大きな悲劇へと繋がる第一歩。戦争に向かう序曲。

 燃え盛る一棟の建物の前には大勢の人だかりが出来ている。


 掴み合いの争いをする人々。

 消防による消火活動の妨害をする人々と止めに入る警察。

 目の前で起きている恐怖に怯えながら祈りを捧げる人々。


 突如として巻き起こった大混乱を眼前に、アンジェリカはプリンツィパルマルクトの片隅からその一部始終を笑顔で観察していた。

 惨禍の中で誰の目にも姿が留まらぬ彼女は、世界の全てを蔑むような目で、狂気の笑みを浮かべながら、ただ静かに笑いをこらえながら肩を震わせる。

 そうしてついに耐え切れなくなったアンジェリカは、押しとどめていた波が堤防を破壊して流れ込むかのような勢いで高笑いを始めた。


「きゃははははははははは!!おっかしいの!他人を疎んじ、自己を信じることすら出来ない人間が?神を信じ、主を信じると宣うだなんて!目の前にあるものを否定して、存在すら知覚できないものに縋る……そんな憐れな生き物が!いつか復活する主によって救われるんですって!あっはははははは!道化の戯言にも勝る最高に滑稽な見世物だわ!」

 混乱の極みにある災厄の現場を前にしてアンジェリカは嗤い続ける。

 宗派による罵り合いを繰り広げていた人々は、今度は警察を交えて殴り合いの争いを繰り広げている。その陰では消防の消火活動をかいくぐり、ショップに展示されていた商品を略奪する人々の姿さえ見え始めた。


 もやは災害現場というよりは暴動現場と呼ぶべき光景だ。


「信じていれば救われる?そんなもの傲慢な人間の考えるまさに都合の良いおとぎ話に過ぎないというのに。現に今ここで起きている出来事に対して神はおろか、元々そういう責務を背負い込んだ人間以外は誰一人として他人を助けようとしていない。『他人のことなんてどうでも良い』。そんな本性が曝露された人々しかいないこの場所で、こともあろうに本質より先に信仰を引き合いに出して語るだなんて。」

 そうしてひとしきり嗤った後、目から零れる笑涙を拭いながら、息を切らせ気味に小さく呟いた。

「はぁ……神様に助けを求める前に自分から走り出せば良いのにね?自己保身の為に、それすらも出来ないような人が真っ先に救いを求めるなんてとんだお笑い種だわ。おぉ神よ……憐れみ給え☆」

 おどけるように両手を広げてくるくると回りながら言ったアンジェリカはこう続ける。

「そんな可哀そうなあなた達の為に私が代わりに謳ってあげましょう。主よ、身許に近付かん。」

 それは有名な讃美歌のタイトルだ。アンジェリカはダンスのステップを踏むようにふわっと街路へ両足を付け、冷めた視線を眼前の人だまりへ送る。

「いいえ、決して近付けない。こういう時に手を差し伸べられるかどうかはー、全て ひ・ご・ろ・の・お・こ・な・い♡ が招いた結果なんだぞ?きゃはは、あはははははは!」


 愛らしいドールのような少女は、目の前で起きる惨劇を眺め、うっとりとした表情で満足そうに嗤う。

 これこそがアンジェリカにとっての享楽だ。入念な準備が施された舞台の幕が開けたと言っても良い。この時の為に準備をしてきた全てが筋書き通りに成功した。


 もはや何人もこの惨禍を止めることは出来ない。

 なぜなら、これらは“人が持つ本質”によって引き起こされる事件だからだ。

 人の思想全てを今すぐ塗り替えるような出来事でも起きない限り、悪夢の連鎖は止まらない。


「行軍、戦、略奪、荒廃、放火……凱旋、発覚。あー・ゆー・りすにんぐ?あなざぁ・みぃ、でぃふぁれんと・みぃ、あるたーえご、あんじぇりか、あんじぇりか。さぁ、両手を鳴らして歓迎しましょう。これは明日からも楽しめそうね?」


                 * * *


 4月21日 午前7時。

 窓から差し込む日の光を受けてフロリアンは目を覚ました。深夜に聞こえたけたたましいサイレンの音は幻聴だったのだろうか。途中で目が覚めたという記憶すら定かではなく、全てが曖昧な夢のように思えてしまう。

 体が重たい。いつもであれば、すっと起き上がることができるのだが、どうにも上体を起こす気になれない。

「はぁ……」

 大きな溜息を吐く。何に対してというわけではない。強いて言うなら全身を襲う気だるさに対するせめてもの抵抗というものだ。


 ウェストファリアの亡霊。

 死地を彷徨う鎧兵士の出現。

 それは“曝露”という概念を人々に植え付けて回るという。


 裏で仕組んでいるのはアンジェリカという少女で間違いない。

 何が目的なのか。何の意図があるのか。

 フロリアンは一瞬考えかけたが、ロザリアの忠告に従い思考を頭から追いやり、再び溜め息を吐く。

 アンジェリカのことは考えてはならない。相思想念……とでも言うのだろうか。考えてしまえば、彼女がこの場に突然現れそうな気がして体が強張ってしまう。

 考えを振り払い、左腕で目頭を覆いながらそっと目を閉じる。そうして浮かぶのはマリアの姿であった。

 彼女は昨晩何事もなく過ごすことが出来たのだろうか。今回も例外なく危ないことに首を突っ込んでいる様子が見受けられたのが不安だ。


 フロリアンは左腕をベッドに戻し、無理やり上体を起こして頭に手を置いた。

 珍しく頭痛がする。こめかみのあたりを刺すような痛みだ。

 鎮痛剤の手持ちはあっただろうか。そんなことを考えつつ、小さい呻きを漏らしながらメディアデバイスのリモコンへ手を伸ばし、朝のニュースを見る為にモニターのスイッチを入れた。

 夢か現実か。深夜のことについて何か情報があるかもしれない。何気なく思い立った行動だが、目に飛び込んできた映像を見てすぐに愕然とした。


『繰り返しお伝えしている通り、深夜未明にプリンツィパルマルクトの一画で火災と暴動が発生しました。合計3棟を燃やした火災は消防の手によって消し止められ、既に鎮静化しています。現場見分を行った消防の発表によると、火災は何者かによる放火とみられていますが、犯人は現在の所まだ捕まってはいません。』


 モニターの映像を見て頭を殴られたような衝撃が走る。

 けたたましいサイレンの音はやはり幻などでは無かった。現実に起きていたことだったのだ。

 食い入るようにニュースを見つめ、状況の把握に努める。


『また、火災と同時に起きた暴動による逮捕者は13名に上り、警察による事情聴取が行われている最中であるとの情報が入りました。暴動と略奪の事件が起きた現場に居合わせた人物の話によると、騒動の原因はキリスト教における宗派対立であり、カトリック教徒と福音主義教徒による激しい口論がきっかけと見られています。争いを制止しようとした警官隊への暴力行為により10名が、火災現場から略奪を働いた3名がそれぞれ逮捕されています。』


 火災、暴動、略奪?

 宗派対立……ローマカトリック教徒と福音主義教徒による争い。

 間違いない。これはアンジェリカの仕向けた筋書きに則った事件だ。彼女の目的が最初から大規模な暴動の誘発であるならば、これまでの情報だけで全てに合点がいく。

 しかし肝心なのはその意図である。一体何の為に?


 事態は最悪の方向へ向かっている。フロリアンは体を引きずるようにベッドテーブルに置いたスマートデバイスを手に取り、すぐにロザリアに連絡を入れようとした。

 だが、デバイスを手に取った瞬間に誰かからの着信を告げるアラームが鳴りだす。発信者はロザリアであった。

 フロリアンは即座に電話に出る。「僕だ。今メディアが流している情報を見て貴女に電話をかけようと思っていた。」

『おはようございます、フロリアン。そういう頃合いだと思っていました。』

 思った以上に冷静な彼女の言葉に面食らいながらも、挨拶を飛ばしてしまったことを思い出し返事をする。

「あぁ、ごめん。おはよう。あまりのことに少し気が動転しているよ。」

『何が起きたのか。そう問いたそうな声色ですわね?ですがそれはメディアが報じた通り。暴動による火災と略奪。緊張の高まっていた両宗派の対立がいよいよ目に見える形で表面化したというところでしょう。』

「まるで事前にこのことを知っていたかのような口ぶりだ。」淡々と語るロザリアに対し、フロリアンは頭痛をこらえながら言う。

『はい。軽蔑されるかもしれませんが、わたくしたちは昨夜にあのような事件が起きることを予め認識しておりました。その上で見過ごした。この電話で詳しくお話することは致しませんが……後程じっくりと説明致します。1時間後に貴方様の宿泊なさっているホテルの玄関へ参ります。そこで落ち合いましょう。良いですか?フロリアン。それまでは決してお一人で外出されませぬよう。では。』

 ロザリアは一方的にそう言って通話を切断した。

 この話にアンジェリカが関わっている以上、無駄に長い会話をするものではないということだろう。

 フロリアンは視線を再びモニターへと移す。そこには激しく燃え、焼け落ちた無惨な建物の姿が映し出されていた。

 現場は自分も良く知っている場所だ。ここからそう遠い距離でもない。

 聖ランベルティ教会のすぐ傍にある広場で暴動が起き、その近辺に立つ建物3棟が炎に包まれたことは明白である。


 だが、衝撃を受けたままたじろぐのもここまでだ。とにかく自分には為すべきことがある。

 世界特殊事象研究機構に所属する隊員として務めを果たさなければならない。

 そう決意したフロリアンはベッドから立ち上がると、すぐに出掛ける為の準備を始める。シャワーを浴びようと歩きかけた時、ふとベッドの枕元に視線を落とす。

 そこにはマリアから手渡された黒曜石のペンダントがあった。それを迷わずに手に持ち首にぶら下げる。

 彼女は気休めだと言ったが、今の自分にとってこのペンダントは何ものにも代えがたい勇気を与えてくれるものだ。

 首から下げたペンダントを右手で握ると、少しの間、祈りを込めるように静かに目を閉じた。

 再び目を開いたフロリアンは前を見据えてすぐに準備に取り掛かる。その目にはもう、迷いなど無かった。



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