第8節 -小さな惨禍-
外が暗さを増していく。日没まではまだ少し間があるが、夜の帳がミュンスターの街全域を覆う頃合いには違いない。
フロリアンはホテルの部屋で椅子に座りながら天井を見上げ、今日の出来事を頭の中で整理していた。
ウェストファリアの亡霊。アンジェリカの策謀。意図も目的の分からない。
あの少女は遠い昔の戦争を引き合いに出して何を行おうというのか。噂話を蔓延させたり、小さな小競り合いを誘発させたりといったことに意味があるのだろうか。
現時点では何も分からない。
静かに流れる時の中で、フロリアンはふとロザリアが別れ際に口にした言葉を思い出す。
『興味を抱いてはならない。詮索してはならない。近付いてはならない。』
今の自分が考えていたこともその忠告に該当する危険行為に違いないのだろう。しかし、考えずにはいられない。このことを考えないことには調査行動とは呼べないのだから。
目を閉じて思考を空白にしようと努めると、意識せず大きな溜息が口をついて出る。
こういう時、チームの他のメンバーであればどういう考えを巡らせるだろう。仲間の一人一人の顔を思い浮かべながら思考する。
そして、チームの中で一番科学に精通する人物が言いそうなことが頭をよぎった。
『〈こうであるはずだ。こうでなければならない。〉という考えに固執すると、本来見るべき重要な要素を見落としてしまうことになる。それは行ったことに対する厳然たる結果を否定する思考であるからだ。
科学とは客観的方法に基づき、系統別研究における仮定と結果の積み重ねの末に答えを導き出された知識や経験の総称を指す。ひとつの壁に当たった時は、壁を登ろうとする前に、見落としている要素が無いかを確認してみるべきだ。』
彼は常々そのようなことを口にしていた。
仮定と証明と結果。その積み重ねをいかに柔軟に行うか。その大切さを自分に教えてくれた人物だ。
彼の名はルーカス・アメルハウザー。階級は3等准尉で、特別な功績を収めたことによるマイスターの称号も持っている。機構が誇るスーパーAIを完成させた天才科学者だ。
彼の顔が頭をよぎった瞬間、不思議とロザリアの顔も頭をよぎる。
そういえば、ロザリアとルーカスは互いが互いを牽制し合うような間柄だ。宗教世界の重鎮と最先端科学の叡智。
昨年の調査を共同で行った際には、同極同士で反発し合う磁石さながらに顔を合わせるたびに険悪なムードを醸し出していたことを思い出し微笑ましい気持ちになった。
しかし自分には分かる。彼らは互いが互いを嫌っているというわけではない。どちらかというと対極にある者同士、実は惹かれ合っているのだ。ただ、どうしても納得できない事柄に対するもどかしさから反発しあっているに過ぎない。
本人達に言えば怒られてしまうだろうが、じっくりと話しをすれば意外と意気投合するのではないかと思っていたりもする。
それはさておき、問題は目の前の課題についてだ。
アンジェリカという少女について思考を巡らせることが悪手であるならば、視点を変えてみる必要があるということになる。
そうなると、目を向けるべきはやはり過去の歴史。三十年戦争という争いそのものが持つ意味を考えるべきなのかもしれない。
だが、そこに意味を見出すというのが至難の業であることも明白だ。
実の所、世界最大にして最後の宗教戦争と呼ばれるこの戦争について、詳しく理解している者はドイツ国内や欧州諸国においてもそう多くはいない。
そもそも、誰が誰と、何を求めて何の為に戦ったのかが最終的にあやふやとなってしまった戦争だからだ。
始まりこそ新教-プロテスタント連盟-と旧教-神聖ローマ帝国を主体としたカトリック連盟-による大小交えた争いによって進行した戦争ではあったが、長い年月を経たことで、最終的に開戦のきっかけとなった宗教対立の性質が薄れたことが原因で戦争そのものの意義があやふやになってしまったとも言えるだろう。
西暦1618年から30年間に渡り続いた戦争はヴェストファーレン条約 -ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称である-の締結によって終戦を迎えている。
戦争の性質として、世界恐慌後にドイツがヴェルサイユ条約による多額の賠償金に対する反発と、形式上だけではない自国の完全なる主権回復を目指してポーランドへ侵攻したことをきっかけに勃発した第二次世界大戦のような戦争とはいささか事情が異なる。
考えれば考えるほどに沼に引き込まれるような感覚をフロリアンは感じていた。
ある程度まで思考を巡らせたところでフロリアンは目を開けて、首を幾度か横に振りながら椅子から立ち上がる。
考えても分からないものはどうしようもない。こういうときはいっそ“しばらく考えない”という手法をとることも肝要だ。
時計に目を向ければ、時刻は午後6時半を回った所であった。
出発には少しだけ早いような気もしたが、この場で考えごとをしていても埒が明かない。それどころか重苦しい気持ちになるだけだ。
外の清々しい空気を吸いながら、想いを寄せる人のところへ歩み出す方が良い。
フロリアンはデバイスのメッセージに添付されたマップデータを今一度確認する。
マップに示されたホテルは自分の滞在するホテルから徒歩でおよそ1キロメートル。15分の距離だ。
そろそろ出掛けよう。
思い立ったフロリアンはフックに掛けた上着を手に取るとホテルの部屋を後にして外へと向かった。
かけがえのない人の待つ場所へ。
* * *
プリンツィパルマルクトの北端、聖ランベルティ教会から徒歩にしておよそ5分。ヘルスター通りを歩いていった先に“彼”の宿泊するホテルはある。
夜が街を飲み込み始め、冷え込みが段々と強まっていく中、1人の少女は彼が滞在するホテルのファサードを遠くから眺めながら物思いに耽っていた。
彼と一度じっくり話をしてみたかった。
それはミクロネシアで出会った時からずっと思っていたことでもあり、昨年のその時には叶わなかったことでもある。
叶わなかったといえば語弊があるかもしれない。なにせ、あの時は特にその必要を感じていなかったが故に自ら話しの場を持とうとしなかったのだから。
でも今は違う。彼と話がしてみたい。
これは単なる興味本位からくる感情だ。特に意味のない好奇心と言っても良い。
マリアという人物をあれほどまでに惹きつけた彼とは一体如何なる人物なのだろうか。それをこの目で、耳で、体で確かめてみたい。
だがこの地においてそれを実現する為には少々問題があった。
マリアとロザリア。そして彼女達を取り巻く神と異能を持つ人間と人形。そうしたものがすぐ近くにいる限りはゆっくり話など出来たものではない。
特にヴァチカンの2人組に対して迂闊なことをすれば、今の自分ではあっさり殺されてしまいかねないのだから。“元の状態に戻れば何のこともない”が、他のことに労力を割いている間は重々気を付ける必要がある。
であるからして、彼とお話をする為には彼が1人きりになるタイミングというものを見計らう必要があった。
それが今これからだ。彼はこれから1人で最愛の彼女の待つホテルへと向かうのだろうが、その少しの間に限っては邪魔が入る心配もしなくていい。
本当のところは今夜辺りにでも、直接彼の部屋に乗り込んで“お話”をしてみようかと思ったのだが、そこはさすがマリアといったところだろうか。
食事デートに彼を誘うという形で見事に回避されてしまった。口惜しいことだが、その席というのは自分に対する“対策”という意味合いが強いのだろう。
今後についても何らかの方法によって、彼の部屋に忍び込んで会話をするなどということはさせてもらえなくなるに違いない。
それはそうと……
フロリアン・ヘンネフェルト。
彼をこの目で初めて見たのは2031年12月末のハンガリーにおいてだった。どこからどうみてもただの凡庸な人間。特に秀でる才を持つわけでもなく、特に優れた技をもつわけでもない。
強いて特筆することと言えば〈勘が良い〉ということくらいのものだ。
しかし、ハンガリーでは驚きの連続であった。あのマリアがアザミ以外の人物を連れて歩くなど誰が想像できただろうか。千年に渡って彼女と行動を共にしてきたアザミですら予期していなかったことだろうし、当のマリア本人ですら同様であろう。
最初はただの使い捨ての駒として連れているのかとも思ったが、最終的にはそういうわけでもなくなったらしい。
考えて見れば、未来視の異能を持とうとも、不老不死などという力を得ようとも、彼女の心は人間そのものであって何ら変化をしているわけではない。
一生懸命に自分のことを見つめてくれる人物に恋をしたところで不思議はないのである。
恋、愛……自分はそうした感情は言葉とそこに付随する定義以外ではよく理解が出来ないし実感も出来ないが、マリアが彼に向ける感情も、彼がマリアに向ける感情もきっとそういう類のもので正解なのだと思う。
それでいて、未だに人間でいうところの男女交際という形をとっていないのだから分からないものだ。彼女の立場がそうさせるのかもしれないが。
立場と言えば改めて思う。まさか現代世界の頂点に立つ人物があのように凡庸な男に惹かれるなど……
……だからこそ確かめずにはいられない。
千年もの間、本当の意味で他人に心を開くことが無かった少女がいかにして真理を得たのか。
彼が彼女に施したように、自分の知らない感情について彼なら自分に何か教えてくれるのではないか。
フロリアン・ヘンネフェルト。貴方は一体何者なのか。
そう、これはただの興味本位だ。実にくだらない、取るに足らないただの好奇心だ。
ひと時の遊びに興じるような気まぐれにも近い。
太平洋の島国で確かめることが出来なかったことを、今。
その時、アンジェリカの紫色の瞳が目的の人物の姿を捉えた。
考え疲れたような表情を浮かべた彼はフェルステンベルク通りへと向かって歩いていく。その先の角を右に曲がれば、あとは目的の場所まではミュンスター中央駅に向けてほぼ一直線だ。
少しだけ先回りをしよう。大勢の人が道に溢れていようと自分には関係ない。
〈絶対の法〉を用いれば自分と彼だけの素敵な隔絶空間が出来上がるのだから。楽しい楽しい対話はそれからだ。
お楽しみは、これからだ。
背後から彼を見つめるアンジェリカの眸には狂気にも似た光が宿り、その表情は追い詰めた獲物を仕留める瞬間を切り取ったような歪んだ笑顔となっていた。
* * *
ミュンスター中央駅構内のハンバーガーショップでは、アザミとアネモネア三姉妹がテーブルを囲んで座っていた。
「かりっかりのところが美味しいんだよねぇ~♡」
ホルテンシスはそう言うと、今しがた運んで来たばかりの揚げたてポテトを口に運び満足げな笑みを浮かべる。シルベストリスはベーコンレタスバーガーを上品に頬張り、ブランダは出来立て熱々のナゲットにケチャップを付けてこれから口に運ぼうというところだ。
アザミは幸せそうな笑みを浮かべて食事をとる彼女たちを微笑ましく見ながら、手元のコーヒーを一口ほど飲んだ。
大きなガラス張りの窓の外へ視線を向けながらホルテンシスが言う。
「ねぇねぇアザミぃ、本当にマリア様をお一人にして良かったの?そりゃぁ私達がお傍に控えていても何にもならないだろうけどさ?少なくともアザミは残っていても良かったんじゃない?」
周囲の客に聞かれても内容が理解できないよう、敢えてこの辺りでは一切使用することのないだろう言語を用いて話し掛けた。アザミも意図を理解して同じ言語で返事をする。
「それがマリーの判断でしたから。あの子の心配は貴女達3人に何かあったらいけないという方へ向いています。そしてそれはわたくしも同意見です。」
「ホルス、マリア様のお考えは至極当然の帰結よ。色々な事情を勘案すれば、私達がアザミ抜きに3人だけで出歩く方が余程リスクが高い。」アザミの言葉に賛同するようにシルベストリスは言った。ホルテンシスはシルベストリスへ目を向け2度頷いた。
「もちろん信頼していない、などというわけではありません。マリーもわたくしも、貴女達姉妹には全幅の信頼を寄せていますし、心から大切だと思っています。だからこそ、です。」
「私達が、そのアンジェリカって子に出会うことを避けたい……そういうことだよね?」ブランダは言った。
「貴女達を彼女に近付けるわけにはいきません。分かっているとは思いますが、マリーやわたくしと貴女達とでは存在の根本からして違います。危険だと分かり切っている相手に近付けたくないのは道理です。」
「下手したら殺されてしまう。そういうこと、ね?」ポテトを食べる手を緩めずにホルテンシスは言った。だが、その返事にシルベストリスが釘を刺す。
「こら、ホルス。言霊には気を付けなさい。」
「ごめんごめん☆でーもーさー……うーん。マリア様のお気持ちもアザミの心遣いもわかるんだけどさー。ちょぉっと離れたところからデートの様子、見たかったのになー。ざぁんね~ん、ぴぇん。」淡々と諭すアザミの話に理解を示しつつも、ホルテンシスは残念そうな表情を浮かべた。
「幸せそうなマリア様のお顔を眺めたいという気持ちは分かるけれど、覗き見は良くないわ。気持ちは分かるけれどね?」シルベストリスはホルテンシスの思いを汲み取って言う。
「なんだかんだと、トリッシュが一番そわそわしてたもんねぇ?♪あ、ブランダ、ナゲットひとつちょーだい☆ますたぁどー♪」
ホルテンシスの口元にマスタード付きのナゲットを差し出しながらブランダが言った。
「彼と2人きりの時間。マリア様はどんなお話をされるんだろう。」
目の前ではナゲットをぱくりと食べたホルテンシスが幸せそうな表情を浮かべている。アザミも手近にあったポテトを一口食べて言う。
「わたくしたちの素性に関して彼は何も知りません。故に、純粋に話しがしたくなったからとマリー自身が言っていたように、他愛のない会話に終始するのだと思いますが……」
「思いますが……?ぅーんぉいしぃ~。」ホルテンシスはチキンレタスサンドを可愛らしく頬張りながら聞き返す。
彼女らしい独特のゆるさ。緊張感に支配されそうな場の空気の中にあって、最初から緊張感というものが存在しないかの如く和ませてくれるのがホルテンシスだ。
アザミはそんな彼女に内心で感謝をしつつも真剣に答える。
「もちろん遠回しにではありますが、アンジェリカに関わる内容についても触れるでしょう。マリーがフロリアンについて危惧しているのは、アンジェリカから何らかの干渉があったときに彼自身に自衛する手段が何もないということです。事前策の用意も出来ず、かといってわたくし達がこの地で直接干渉するわけにも参りません。ヴァチカンの2人が傍に付いているとは言っても四六時中というわけでもない。彼女達がいない間、彼は完全な無防備状態になってしまう。それに対して今夜中に策を講じておきたいと思うのは自然なことだと思います。」
「何か良い策があるのかしら?」手元のグレープジュースを飲みつつシルベストリスが言う。
「事実として、マリーからわたくしに〈彼に渡す用のあるものを用意してくれ〉というオーダーがありました。お守りのようなものですが、それを彼が常時身に着けていれば彼の身に危険が及ぶという可能性についてもひとまずは安心できるようになるはず。」
「お守りかぁ~☆良いなぁ。想い人のことを考えながら渡すお守りってなんだか憧れちゃう♡しかもリアル神様のお守りだなんて!きゅるん♡」うっとりした表情でホルテンシスは言った。
「マリア様からお守り。良いな……」聞こえるか聞こえないかの声量でシルベストリスも呟く。
「羨ましがらなくても、トリッシュ、ホルス、ブランダ。貴女たちも遠い昔にマリーから各々が受け取っているではありませんか。」アザミは彼女達が身に着ける宝玉に視線を配りながら言った。
アザミが視線を向けた先、シルベストリスが右手に嵌めている指輪にはグリーンフローライトが、ホルテンシスのイヤリングにはルベライトが、ブランダの胸元にはネックレスとしてラピスラズリがそれぞれ輝きを放っている。
「それもそうだねー☆」ホルテンシスは嬉しそうな表情で同意した。
これらの宝石が組み込まれたアクセサリーは、マリアから3人への贈り物であった。遠い昔、三姉妹の健やかな成長を願った彼女はそれぞれにぴったり合う宝石をアクセサリーに加工してプレゼントしていたのだ。
とある名高き天使たちの守護石としても有名なそれぞれの石が組み込まれたアクセサリーは、まさに彼女達に対するお守りそのものでもある。
「私達の宝物、だよね。」ネックレスを大事そうに握りながらブランダが言うと、シルベストリスとホルテンシスは無邪気な笑みを浮かべて頷いた。
そんな彼女達の様子を見て、アザミはマリアが姉妹たちに初めてお守りを渡した日の懐かしい記憶を思い出すのであった。
直後、アザミ達が座るすぐ近くの座席で会話をする若い3人組の青年たちの口から耳慣れた話題が飛び込んできた。
「おい、聞いたか?例の亡霊がまた出たんだってさ。今度はパウルス大聖堂らしい。」
「何かの冗談だろ?数百年も前に死んだ兵士が蘇るなんて、作り話も良いところだ。」
「確か亡霊に出会った者は憑りつかれて豹変するとかいう噂だったな。」
「有り得ないっての。妄想を現実と勘違いしたとかそんな程度の話だって。そんなことより、お前は試験の成績を気にした方が良いんじゃないか?またやばかったんだろ?」
「痛いところを突いてくるな。はぁ、試験なんてくそったれだ。いっそ亡霊に憑りつかれて何もかも忘れられたら良いのになー。」
「やめろやめろ。いくら現実逃避したいからってそれはやばいって。」
「まぁでもさ。憑りつかれて豹変はどうかと思うけど、最近福音主義派とカトリック派が道中でよく口論してるって言うじゃん?」
「それなら俺もこの前見たぜ?けど、あの対立は元々うちの大学の学部から飛び火したって噂だけどな。あと聞いた話じゃ、今日もカフェのテラスでそんなことがあったらしい。」
「復活祭の日が終わってからっていうもの、なんだか日に日に物騒な空気になっていく気がするな。」
「もしかしたら近々でかい事件が起きたりしてな!」
「まさか。そういうのは勘弁してほしいよ。何もないのが一番の幸せだ。」
誰一人として視線を向けるわけではないが、3人の青年の会話にアザミ達は耳を傾けた。
ウェストファリアの亡霊。目撃者の豹変。宗派の違いによる小競り合い。
そのどれもが、ここ最近ミュンスターで巻き起こる小さな小さな事件の話である。
「大きな事件が起きる、か。」ホルテンシスが言う。
「何も起きなければ、良いのにね。」ブランダが呟いた。
しんみりした2人の様子を見てシルベストリス何か考えを巡らせている様子を見せる。2人の言葉にアザミが答える。
「えぇ、本当に。願わくば、大きな事件というものが起きる前に片を付けたいところです。」
アザミがそう言った直後、唐突にシルベストリスがはっとした様子で窓の向こう側に顔を向けて言った。
「死神が彼に近付いている。なれど、清廉なる青い炎が彼を守る。元より、死神は彼の命を脅かすために現れたわけではなく、別の収穫を求めてやってきた。“答えよ”と言うだろう。小さき者は、己が知らぬ心の在り方を彼に問う。」
その場にいた他の3人は静かに彼女の言の葉を一言一句までしっかりと聞き取る。
シルベストリスの言葉がこの直後に起きる“現実での出来事”を明確に示唆するものだと知っているからだ。
シャルトリューズ・グリーンに輝くシルベストリスの眸は、街灯の煌めきに照らし出される大通りの先を見据えていた。
内容を聞いたアザミも視線を窓の向こうへと向け、彼が歩いてくるだろう方角をじっと見つめた。
* * *
春の訪れはまだ先になりそうだ。
空が暗く染まると同時に街中の灯りが一斉に灯る。暖かなオレンジ色の光が道路や建物を幻想的に照らす光景は物語の世界に入り込んだような錯覚すら覚えさせる。
しかし、今のフロリアンにはそうした景色を満喫するほどの余裕は無い。慣れ親しんだ街並みの見慣れた景色ということもあるが、それ以上に頭の中で渦巻く考えを振り払えないことが何よりも大きかった。
考えないようにしようとすればするほど、かえって不安が積み重なっていく。フロリアンはたまらず大きく息を吐いてその場で立ち止まった。
そしてふと彼女のことを想う。
これから向かう先には自身が最も大切に想う人が待っている。
その目的地は駅前一等地にそびえる四つ星ホテル。ミュンスター中央駅をランドマークにほぼ一直線の道のりを歩めば辿り着く場所だ。
アイゼンバーン通りを抜けた今、目的地までの距離はおおよそ200メートルといったところだろう。
時刻は午後6時45分。
もうすぐ。もうすぐ彼女に会うことが出来る。
待ち遠しいと思う気持ちが押し寄せてくる。
一緒に話をすることが楽しみで仕方がない。
マリアと会う約束をした時はいつだってそうだ。
そう思った時、とある考えが脳裏を駆けた。
彼女と会って何か話をすれば今の複雑な気持ちも晴れるだろうか。
彼女なら、このとりとめもない思考から抜け出すきっかけを自分に与えてくれるだろうか。
マリアには幾度となく思考の迷路から抜け出す手助けをしてもらっている。自分が気付くことの出来ないことにいつも気付かせてくれる彼女なら或いは今回のことも……
だが、すぐに首を振ってその考えを思考の外へと追いやる。彼女に答えを求めるのはただの甘えでしかないからだ。
大きく息を吸って視線を前に向ける。答えの出ないことをいつまでも考えていても仕方がない。
久しぶりに彼女と一緒に過ごす時間を有意義なものとするよう、気持ちを切り替えることの方が今はよほど大事だ。
そう考え直し、フロリアンは再び目的地へ向かう為の一歩を踏み出す。
一歩、二歩、三歩……歩みを進める。
もうすぐ辿り着く。待ち合わせの場所に辿り着く。
そのはずだった。
この時フロリアンは周囲の異変に気付いた。
あまりにも静かすぎる。こんな時間だというのに道路を走る車は一台もなく、すれ違う通行人もいない。
有り得ない。何かがおかしい。
まるで、自分だけが異世界に飲み込まれてしまったかのような感覚。
背筋に悪寒が走り、息苦しさを感じる。
この奇妙な感覚を自分は知っている。今日の夕方、似たような体験をしたからだ。
すぐに歩みを止めてじっと前を見据えた。
遠くから誰かが近付いてくる。
その人物の姿も自分は知っている。今日の昼過ぎ、“彼女の姿”を目にしたからだ。
特徴的な桃色髪のツインテール。
軍服と学生服を合わせたような服装。
デフォルメされた双頭の鷲をモチーフにしたぬいぐるみのカバンを肩から下げ、短いスカートを揺らしながらひたひたと彼女はこちらへ近付いてくる。
均整の取れた美しい容姿はさながら天使と呼ぶにふさわしい。
彼女がこちらへ向けた視線を捉える。
アンジェリカ……この地に滞在する間にいずれは邂逅するだろうと想像はしていたが、こんなに早く対面することになろうとは。
頭から彼女の影が離れなかったのは偶然ではなく必然であったのかもしれない。彼女はどうしても自分を見逃すつもりはないようだ。
関わるなというロザリアの忠告は、相手が直接出向いてくることで意味を失ってしまった。
フロリアンは最大級の警戒心をもってじっとアンジェリカの姿を見据える。
一歩、二歩、三歩……無限に続くかのようなゆっくりとした時が流れる。
やがて、アンジェリカはフロリアンのすぐ目の前まで歩み寄ると、アスターヒューの瞳に無邪気な笑みを湛えて言った。
「こんばんは、お兄ちゃん。少し、私とお話をしましょう?」
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