第9節 -愛を教えて-
世界が呼吸を止めたかのような錯覚。
あどけない少女を目の前にしただけで心臓は早鐘を打ち、氷点下に近い気温の中で汗が滲む。
言い知れぬ不安感や恐怖が全身を覆うような感覚をフロリアンは感じていた。
アンジェリカはにこりと笑って言う。
「貴方にずっと聞きたかったことがあるの。去年からずっと、ずっと。」
悪意や害意など微塵も見受けられない笑顔に見えるが、この少女のことを少しでも知っていればそれが偽りの仮面であることはすぐに理解できる。
フロリアンは息を呑み込んだ。少女の正体や本性は分かっても、今この場で何をどう答えたら良いのかが分からない。
黙ったままでいるとアンジェリカはくすくすと笑いながら続ける。
「怯えてしまって、釣れないのね。それとも私のこと忘れちゃったかな?ちゃんと覚えてる?」
真っすぐに視線を向ける彼女に対し、フロリアンは沈黙を貫いた。
「そう、無言は肯定ということよね?良かった。結局ミクロネシアで貴方とは会話らしい会話はしなかったし、忘れられているかと思っていたの。でも覚えていてもらえて嬉しいわ。誰かの記憶に残り続けるっていうのは良いものよね。」
フロリアンは二度目の息を飲み込み、何とか言葉を絞り出すように言う。
「ウェストファリアの亡霊。今この街で噂になっている怪奇現象。あれは君の差し金かい?」
するとアンジェリカは余裕の笑みを浮かべたまま返事をする。
「だめよ?貴方に聞きたかったことがあると言ったでしょう?だから質問するのは私の方。貴方はただ私に聞かれたことにだけ答えてくれれば良いの。早とちりやお手付きは命取り……分かったかしら?」
フロリアンは彼女の目を見据えたまま静かに一度だけ頷いた。僅かでも反抗的な態度を取れば言葉通り命を絶たれかねない。
「宜しい、結構よ。物分かりの良いお利口さんは嫌いではないわ。貴方に聞きたいことはただひとつ。」
「何を答えたら良い?」
「それを今から言うんじゃない。早とちりは、めっ!なんだよ?それに焦らなくても大丈夫。今、私と貴方は現実の世界から切り離された“二人だけの空間”にいるのだから。」
二人だけの空間。現実世界から切り離された異空間への隔離。
彼女が操る力は“レイ・アブソルータ〈絶対の法〉”と呼ばれるもので、自身がこの世における真理、いわば〈自分にとっての法〉であると定めたものごとを現実のものとすることが出来るという。
フロリアンは考えた。今この場における現象の全てはおそらくアンジェリカの力によるものだ。
周囲の景色は同じでも、そこには時間の流れは無く、人の流れは無く、自分達以外には誰も存在しない。
現実から隔離されたと表現して差し支えないこの空間は、彼女が〈そういうものが存在する〉と定義するだけで生み出されるに違いない。
だとすれば、自分が何をどうあがいたところで逃げられないだろうし、そもそも逃がしてもらえないことも明白である。
解放される手段はただひとつ。
アンジェリカを満足させること。
この一点に尽きる。
そう理解した上で沈黙を守る。これからしばらくの間は彼女が定めたものこそが世界の真理であり、法律であり、戒律であり、運命となる。
答えろと言われたならば答えるしかない。求められる答えの正否も彼女が決めることだ。
「ねぇ?私に教えて頂戴?お兄ちゃん。」
何を聞かれるのだろうか。返事を間違えればここで人生が終わるかもしれない。フロリアンは固唾を飲んで彼女の声に耳を傾ける。
しかし、尋ねられた質問は思いも寄らないものだった。
「愛って、なぁに?」
耳を疑った。質問に対し、頭での理解が追い付かない。
愛?愛だって?よりによって、こんな状況で真っ先に尋ねる内容が?
何か裏があるのだろうか。だが、アンジェリカはふざけている様子でもない。
彼女は続ける。
「去年の夏、アイリスとアヤメが起こした事件。聖母の奇跡の再来。ファティマの奇跡の再演。貴方は現地で実際に起きた出来事を目にしたわけだから分かるでしょう?それが人間にとってどれほど信じがたいものであったか。
でも、あの子達が事件を起こした理由は複雑でも何でもない、実に単純なことだったの。あの子は“親愛なるお姉様”の為に、ただその人の目に留まってほしいというそれだけの為に、あれだけ手の込んだ大規模な奇跡の再現を成し遂げた。信じられるかしら?」
フロリアンの脳裏に昨夏の出来事が思い起こされる。
ファティマの奇跡の再演。聖母の奇跡。それは2036年5月から10月に渡り、ミクロネシア連邦 ポーンペイ州ポンペイ島やテムウェン島のナン・マドール遺跡でとある少女が起こした事件だ。
ミクロネシア連邦では薬物密売組織が深刻な薬物汚染をもたらしていた。そんな中、密売組織の壊滅は、人の想いと願いによってのみ得られると少女は説いた。
願いはやがて力となり、組織に属する者全ては神の裁きによる雷によって焼かれると彼女は言い、その口上は“現実となった”。
アイリス・デ・ロス・アンヘルス・シエロ
リナリア公国七貴族の子供の1人である彼女は、アヤメという現代を生きる少女を依り代として現世に目覚めたという。
そんな彼女がアヤメと共謀して引き起こした事件の陰にはアンジェリカの存在もあった。
頭の中で昨年の出来事を思い出す最中、アンジェリカは話を続ける。
「愛。アイリスとお話をした時、あの子は確かに“お姉様に対する愛”というものを口にした。両親にでもなく、恋人にでもなく、自分にとって大切だという人に対する気持ちを。でもね?私にはそれが分からない。そもそも、両親の愛も恋人の愛も私は知らない。私が知っているのは言葉の持つ定義だけ。慈しみ、無償の奉仕……何それ。」
彼女は愛くるしい笑顔を浮かべてはいるが、言葉の最後を吐き捨てるように言った。
「ねぇ、愛ってなぁに?ロザリアは神の無償の愛がどうとか言っていたけれど、それはどうでもいいの。」
アンジェリカは腰を軽く横に振って短いスカートを揺らしながら、さらに一歩ほどフロリアンに近付いた。
あと数センチで接触するというくらい、互いの体の間にほとんど隙間が無いほど接近すると上目遣いで甘く囁きかける。
「私が知りたいのは目に見えない神の愛などではないの。私達の中でも特に完璧だと言われた“あの子”がどうして貴方のような、何の取柄もないただの人間にそれほどまでに拘るのか知りたい。
アイリスやイベリス、そして貴方が知っているような“愛”。溺れるほどに深くて、身を焦がすほどに熱いという。それを私に教えてほしい。
あの子が感じているようなそれを……貴方の言葉で、仕草で。私の目で、耳で。この体で分かるように教えて頂戴……?」
あの子?僕に拘るだって?
アンジェリカの言葉に出てきた人物について思案しようとするがうまく思考が回らない。
彼女がすぐ近くに来たからだろうか。
鼻の奥を直接刺激するような甘い香りが自身の周囲を包み込む。甘くて柔らかくて、どことなく懐かしさを感じるような香り。一瞬で全てを投げ出しても良いという錯覚に囚われるような香りだ。
甘ったるい声での囁きかけと併せて、気を強く持っておかなければ一瞬で正気を喪失してしまいそうだ。
それほどまでに今の彼女は扇情的であり蠱惑的である。これも彼女の力、絶対の法に絡めた異能のひとつなのだろうか。
フロリアンは何とか正気を保ったまま、アンジェリカが求める答えを見定めようとするがやはり頭がぼんやりとしたまま働かない。そして言葉すら出て来ない。
目の前に立ち、愛くるしい笑みを浮かべる彼女の目を見据えることで精いっぱいだ。
この状況はまずい。
もしかすると、質問に答えても答えなくても自身に待ち受ける運命というものには変わりがないのではないか。
正しい答えを導こうとも、間違った答えを伝えようとも、自分には最初から“この先”などないのではないか。そう感じ始めていた。
次に彼女が何かを口にした時にきっと答えは明示されるだろう。
フロリアンは内心で覚悟というものを決めようとした。これから会うはずであった人の顔を思い浮かべ、会いに行けそうもないことを心の中で謝罪をする。
故郷であるこの地で、彼女と最後に会えたことが唯一の救いである。
しかし、フロリアンがそう考えている最中、アンジェリカが裁定とも呼べる次の言葉を発しようと口を開いたその瞬間、視界の端に何かが映った。
唐突にアンジェリカの後ろに青い炎のようなものが揺らめく。同時に、彼女のすぐ後ろから気品のある女性の落ち着いた声が聞こえてきた。
「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛した。そして私たちの罪の為に、神は慰みの供え物としての御子を遣わされた。故に、ここには“愛”があるのです。」
フロリアンにとってはこの場における救いとなり、アンジェリカにとっては有り得ざる悪夢の来訪となる声の主は“いつの間にかそこにいた”。
気配もなく、物音もなく、現実から遮断されたはずの異空間にどのようにして立ち入ったのかすら分からない。
しかし、そこには紛れもないロザリア本人の姿があったのだ。
ロザリアの青い瞳は僅かな輝きを放っている。そして、いつもと同じように余裕を湛えた表情で静かにアンジェリカを見下ろしていた。
フロリアンの目から見てもよく分かる。アンジェリカはこの不測の事態に対して明らかに動揺している。
声の主が誰なのかを即座に理解したアンジェリカは短く舌打ちすると、振り返ることもなく苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて言う。
「いつもいつも。貴女、もう少しまともな登場の仕方は出来ないの?」
その声には大なり小なりの苛立ちと怒気が含まれているように感じられる。
「うふふふふ、これはまた愉快なことを……戯れでしょうか。こともあろうに、貴女がそれをおっしゃいますの?アンジェリカ?」
「ロザリア。そもそも、ここに貴女を招待した覚えなどないわ。去年といい今回といい、人のテリトリーに勝手に立ち入って……殺されにでも来たわけ?」
「あら?つい先程わたくしの名前を呼ばれたのは貴女ご自身ではありませんの。それに、後から立ち入ったのではなくわたくしは“最初から”この場におりましたわ。要するに〈呼ばれたから訪ねてみただけ〉。加えて、今の状況。この場においてどちらが “狩る側”で、どちらが“狩られる側”なのか……聡明な貴女ならよくお判りでしょう。理解しておられない、などということもありませんわよね?」
挑発的な言葉を交えながらロザリアは続ける。
「愛を知らない可哀そうな子。貴女のような方にこそ説法をするべきなのでしょうね。神の愛はどんな罪人の魂もを拒みません。」
「お断りよ。それに何が神の愛よ。慈悲を求める人間に対して、天上で胡坐をかいて高笑いしているような奴が与えるものなんてたかだか知れたものでしょう。偽薬のプラシーボ効果と同じで、実は丸めた小麦を飲んでも信仰と同じ愛が得られるんじゃないの?」
「信じれば救われると思うのは人間の驕りですわよ。慎みなさい、アンジェリカ。神は人の願いなど聞き入れない。それは神という存在が神たらんとする上での“絶対の法”に等しきこと。」
「どうでもいいわよ。あーぁ……貴女のせいで、せっかくの彼とのお話の場が台無しだわ。もう少し楽しいお話がしたかったというのに。私にこの場から離れろ、と。そう言いたいのでしょう?分かったわよ。面倒くさいのは御免被りたいから引き下がってあげる。どうせ相手をしたところで、近くに例のお人形さんも控えているのでしょうし。」
「宜しい、結構ですわ。物分かりの良いお利口さんは嫌いではありませんもの。」
ロザリアは先ほど彼女が発した言葉をそのまま用いて返事をする。それを聞いたアンジェリカの表情は今や明確な怒りに満ちていた。
「目的の答えは得られなかったけど、最初からただの興味本位だったことだし、もういいわ。」
アンジェリカはそう言うと紫色の煙を解くようにして少しずつその場から消え去っていく。
彼女が消えるまでの僅かな時間にロザリアは言った。
「アンジェリカ。貴女、昨年お話した時と随分印象が異なりますのね?まるで“アンジェリカの姿をした別人とお話している”かのよう。」
その言葉にアンジェリカは何も答えることもなく、その場から完全に消え去った。
間もなく、付近を複数台の車が走り抜けていく。道を行き交う人々の姿も元通りとなり、時折楽しそうな会話も聞こえてくる。
街全体が淡く温かなオレンジ色の光に包まれ、穏やかな夜を演出している。
彼女が消え去ると同時に街の様子も元の姿へと戻ったのだ。
周囲に起きていた異変の消失をフロリアンが確認したところでロザリアが言う。
「ご無事で何よりですわ。」
「ありがとう、助けてくれて。貴女がいなかったら僕は今ここに立っていなかったかもしれない。」フロリアンは助けてくれた礼を伝える。
するとロザリアは言った。
「いいえ。約束はきちんと果たしませんと。」
「約束?」
ロザリアのやや含みのある言い方に思わず聞き返す。
「はい、約束ですわ。ほら、早く行かれませんと。“あの子”と待ち合わせをしていらっしゃるのでしょう?」
その言葉でフロリアンは慌てて時計を確認した。
アンジェリカと遭遇してからどのくらいの時間が経ったのか感覚が無かった為、約束の時間を過ぎているのではと危惧したからだ。
しかし、そんな危惧は一瞬で消え去ることになる。
左腕に付けた時計型のスマートデバイスに目を落とすと、時刻は午後6時46分を示していた。
どうやら『焦らなくても大丈夫』と言ったアンジェリカの言葉は真実であったようだ。
彼女の作り出す異空間というものに時間の概念は存在しないらしい。
約束の時間までには余裕をもって到着できそうだと確認したフロリアンは言った。
「あぁ、急いで行かないと。本当にありがとう。このお礼はまた明日にでも!」
本当は先ほどの出来事について少し話をした方が良いのかもしれないが、どうもロザリアに今はその気がないらしいということが読み取れたからでもある。
フロリアンは感謝を伝えると再び待ち合わせの場所へ向かって歩き出した。
ロザリアは少しだけ後ろへ振り向き、すぐ隣を通り抜けていった彼の姿を視界に収め、小声で言う。
「約束は果たしましたわよ?マリー。」
* * *
愛。それは何?
答えを聞くことは出来なかった。
アンジェリカは聖ランベルティ教会の尖塔付近に腰を下ろし、物思いに耽っていた。
地上よりおよそ80メートルの高さから見るミュンスターの景色。人が灯した光で煌めく街並みを眺め、ただ遠くをぼうっと見つめる。
吹き付ける風は冷たい。普通の人間にとっては耐えがたきものとなるだろうが、アンジェリカにとっては些細なことだ。
最初に声を掛けた時、彼は内心で酷く怯えた様子を浮かべていた。
話をする中で、徐々に何やら覚悟めいたものを抱いていたようだが、自分としては別に彼の命を奪おうとしていたわけではなかった。
ただ聞きたかった。〈愛〉というものが何なのかを。彼の口から。
「つまんないの。」
その小さな独り言は虚空へと吸い込まれて消える。
昔からこうして遠くの景色を眺めることが好きだった。リナリア公国にいた頃からずっと。
レナト、イベリス、マリア、アルビジア、ロザリア、アイリス……そして自分。
公国の七貴族に生まれた子供たちの中において、自分の存在は特殊なものであったに違いない。それは自らの家系が代々特別な役目を担ってきたことに起因する。
自分の生家、インファンタの家系は今の時代で言うところの司法、警察の役目を担ってきた。
罪人……つまり咎人を捕え、尋問し、刑を量り、裁きを与える。
人が人として生きる世間において法というルールを逸脱した者達に罰を与える役割。
法を盾に、正義を剣に、悪を裁く。
言葉の上ではなんとも美しい響きだ。しかし、その役目の最後に辿り着く先はつまり、合法的な〈殺人〉である。
咎人をどのように捕えるのか。
咎人からどのように罪を告白させるか。
咎人へどのような罰を与えるか。
その過程の最後に待つ裁き。最期の審判。法を犯した者に対する正義の鉄槌。
法を盾に、正義を剣に、悪を裁く。
裁きに至る道筋の中には当然〈拷問による自白〉というやり口も含まれていた。
罪を自白させる為に用いた数々の拷問。肉体的、精神的に問わず、人が苦痛を感じ得る方法の全てを用いて対象を痛めつける行為。
この世界はそれをおぞましいものとして忌避するだろう。罵るだろう。だが、それが必要だとされていた時代があったのだ。
お前達だって、それを必要としていた時代があったのだ。
自分は両親からそれを叩き込まれた。
罪を告白させる為に殴ったり、爪を剥がしたり、皮膚を剥いだりするのはまだ優しい方だ。
咎人の目の前で、大切な人を傷付ける。
咎人の目の前で、大切な人へ罵声を浴びせながら。
剥いだり、抉ったり、千切ったり、切り落としたり……
植物から抽出した毒を皮膚から差し込んだり、無理やり飲み込ませたりもした。
考え得るありとあらゆる方法を“実践した”。
義務を果たす為に。責務を全うする為に。公国の未来の為に。
そうすれば両親に褒めてもらえた。そうした時にだけ褒めてもらえた。
自分にとっての愛とはそういうものだ。悪いことをした誰かを傷付け、裁きを与える。それが世界の為になり、自分の為になる。
そうすることで喜んでくれる人がいる。咎人に裁きを与えることだけが自分にとっての愛の形。
それなのに……
この世界はいつから歪んでしまったのだろう。
公国が戦火に飲み込まれ、滅びの道を辿った直後からだろうか。それとももっと後になってからだろうか。
千年も昔のことだ。今さら思い出すことも出来ない。
リナリア公国が滅び、海外の町へ亡命した後の人生は一言でいえば虚無だった。
祖国の崩壊と共に両親も変わってしまった。自分達が為すべきことを失い、帰るべき場所も失い、娘である自分に対する興味もなくなってしまった様子であった。
思うに、やはりあの日から全ては変わってしまったのだろう。
自分は、変わってしまった両親に振り向いてもらう為に、ある日〈愛〉をプレゼントした。
教えられたことを忠実に実践した。
人体を固定し、剥げるものは全て剥ぎ取った。毒を注入し、苦悶を浮かべる様子をただ眺めた。
褒められると思っていた。
それなのに、彼らは自分に罵詈雑言を浴びせた。
愛が足りなかったの?喜んでもらえると思った。それなのに……
それからの記憶は曖昧だ。結局、彼らが動かなくなるまでありとあらゆる愛を与え続けたが、ただの一度も褒めてくれることは無かったと思う。
ある時、動かなくなった彼らを見つけた町の人々は悲鳴を上げ、自分を悪魔だと罵った。
自分が知っていた唯一の〈愛〉は多くの人々から否定された。恐れられた。
咎人に裁きを与えることしか知らなかった自分の全ては否定された。
以後、誰も彼もが自分を恐れ、忌避し、関わりをもとうとはしなかった。
どうして?私はみんなの為に、みんなが幸せに暮らして行く為に必要なことをしていただけなのに。
そうだ。この時だったに違いない。
自分の中で何かが歪んでしまったのは。
アンジェリカはぽつりと呟いた。
「寒いわね。」
それは吹き付ける風に対するものであったのか、それとも過去の記憶に起因して心が感じ取ったものなのか。おそらく彼女本人にも分からない。
アンジェリカは双頭の鷲をデフォルメしたぬいぐるみ型のかばんを大事そうにぎゅっと抱くと、顔を伏せて大きな溜息を吐いた。
そしてまた一言、ぽつりと呟く。
「ねぇ、お兄ちゃん。愛って、なぁに?」
* * *
午後7時前。ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学校舎前の広場にアシスタシアの姿はあった。
奇妙な噂が広がっている影響も手伝ってか、学生の姿はあまり見受けられない。
アシスタシアは周囲の状況を観察しながら校舎に向かって歩みを進めた。
道中、その端麗に過ぎる容姿がよほど珍しいのか、時折すれ違う学生からは否応なしに好奇の眼差しが送られてくる。
しかし、そんなことはアシスタシアにとっては意識するほどのことでもない。肝心なのは命じられた調査を忠実に遂行することである。
ゆっくりと一歩一歩、歩みを進めながら周囲の様子を窺う。
目の前の広場は基本的に芝で覆われているが、中央や外周にはブロックが敷き詰められる形で舗装された通路が整備されており、その中央通路の両脇には学生たちが座ってくつろぐのだろうベンチが9つほど見受けられる。
その奥に聳え立つ豪華な建物がヴィルヘルム大学だ。約46,000人の学生を抱え、この国の中でも大規模な総合大学のひとつであると聞く。
ヴィルヘルム大学……いや、今の時代はミュンスター大学という呼称の方が本当はふさわしいのだろう。
冠した名の人物が、過去の歴史において行った野蛮な行為が批判の対象に上がった時から、そういう議論は繰り返されてきたはずだ。
生まれてから数年しか経っていない自分にも、そういった歴史の知識くらいはある。
校舎の中央尖塔に設置された像は何だろうか。これは知識の中にはない。暗がりで見えづらいが、そのすぐ下にはいくつかの鐘が設置されているのが見える。きっと時刻を知らせる為に使うのだろう。
アシスタシアは舗装された通路を進み、いよいよ校舎を眼前に臨む位置までやってきた。
『特に変わった様子は見受けられない。亡霊の痕跡を示すような跡も無し……何より、アンジェリカの気配に繋がりそうなものも感じられない。』
感覚を研ぎ澄ませて探りを入れてみるが収穫と呼ぶべきものは得られそうもない。
校舎から感じられるものはなく、それは広大な敷地内に至っても同じこと。
再び周囲を見回してみるが、やはり変わったものや変わった事象はなさそうだ。
『ここが始まりの地であるならば、何かあると思ったのですが。おそらく、あのマリアという少女達一行も同じようにこの場所を訪れ、同じように肩透かしを受けたはず。見るべきものも他に無いようですし、次の対象へ移りましょう。』
アシスタシアはそう思い至り後ろを振り返ったが、その時に僅かに違和感のようなものを感じ取った。
『……違う。何も無いという事実こそが“おかしい”。』
その場にあって然るべきものが存在しない。違和感の正体に気付いたアシスタシアは自身の感覚を最大限まで研ぎ澄ませて今一度この場における異常の認識に努める。
『まるで空洞のよう。濃度の差こそ有るにせよ、ミュンスターという街全域を覆っている異常な気配がこの場所にだけ存在しない。』
ミュンスター全域を覆う異常な気配。それらは気配の濃さに違いはあるが、間違いなく都市全土を包み込むように広がっている。
それは例えるなら都市全域が霧に覆われているようなイメージに近い。想起させる色は赤。赤い霧が街全土を覆っているという感覚で間違いない。
いつ何が起きてもおかしくないと思えるほどに濃い場所、またほとんど何も感じられないほどに薄い場所というのも点在しており、それらはどうやら日ごとに移動しているというのがロザリア達の見解であった。
アシスタシアはここに訪れる道中、アー川を境として急激に怪異を呼び込むような異常な気配が薄まっていることを感じ取っていたが、それがあまりに自然な減退だった為に〈そのものが消える〉ということに気付くのが遅れたのだ。
大学構内には紛れもなく周囲にあるような気配そのものが存在しない。“限りなく薄い”ではなく“存在しない”のだ。
大都市の中で、この空間だけに敢えて穴が空けられたような印象である。
怪異の根本原因がこの場所にあるなら、それはきっと異常な濃さの濃度を示して現れるはずだという先入観があったことも否めない。
『これもアンジェリカが意図的に行っていることであれば何かしらの理由があるはず。』
そう考えたアシスタシアは、想定できる理由を一通り思案してみたがしっくりくる答えは得ることが出来なかった。
現段階では手掛かりが少なすぎる。考え過ぎずに次の目的地へ向かうべきだ。それが結論である。
そうと決まればすぐに行動しなければ。アシスタシアは視線を前に向け、大学の出口へと向かって歩き出す。
もう一つの目的地である〈聖ランベルティ教会〉へと向けて歩みを進めるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます