第25節 -貴方の愛は、私の愛とは違う-

 西の空に太陽は沈んだ。夜が来る。

 街中が再び夜の帳に包まれ、ドームプラッツ全域がいつもと変わらぬように黄金色の照明に照らし出される。


 この夜は特別だ。フロリアンは首から下げた黒曜石を右手で軽く握りながら思う。

 アンジェリカとの対話。愛を知りたいという彼女の真意。

 彼女の人生において、愛とは罪を罰することであるというが、彼女自身もそれが本当の愛の在り方ではないということには気付いている。

 しかも、彼女自身は多くの人々が口にする“愛”がどういうものかを知っているはずなのだ。


 正直な所、愛が何なのかについては自分自身でもはっきりと答えが分かっているわけではない。

 漠然とした言葉。その意味は答える人によって千差万別にわかれるだろう。

 だが、彼女は自分に答えを問うてきた。ならば、自分が思う言葉で彼女に答えを伝えるのが良いはずだ。

 誰の言葉でもない。自分自身の言葉で。



 夜の街を歩く。

 暴動の影響により、プロムナードに囲まれたドームプラッツ全域は物々しい警戒態勢が敷かれている。

 人通りはほとんどなく、歩いて出会うのは周辺をパトロールしている警察官たちだ。

 少し歩けば彼らの視線が追いかけてくるが、構うことなくプリンツィパルマルクトへ向けて歩みを進める。

 事件の影響によって学生は外出が一時的に禁止されていると聞く。周囲には仕事帰りの大人達の姿しか見えない。

 その中の1人に混ざって自分も歩く。いつ、どこで出会うかも分からない、出会えるのかどうかも分からない少女を追って。


 ふと視線を通りの先へ向ける。

 オレンジ色の光でライトアップされた建物が遠く先まで伸びている。歴史的な街並みを感じさせる場所。ミュンスターという街の特徴だ。

 宗教的、軍事的な戦争を乗り越え、平和という今の時代という安寧の中で佇む建物群。それが今、再び大きな惨禍の舞台へと転じようとしている。

 温かさを感じる光が浮かび上がらせる光景を目の当たりにして、フロリアンは故郷の地で起きる事件に憂鬱さを感じずにはいられなかった。


 視線を遠くから目の前へと戻し、再び歩き出す。

 おそらくアシスタシアがどこかから自分を見張っているはずだが、姿は見えない。

 彼女も姿こそ見えないが、今回は自分1人きりではないという事実が、恐怖に竦みそうになる心を支えていた。



 アンジェリカは姿を現すのだろうか。

 もし、彼女がアシスタシアの存在を知覚していれば、自分の目の前に姿を現すことはないかもしれない。

 分かり切っている危険に近付くほど、彼女も無謀ではないはずだからだ。



 しかし、フロリアンの考えはこの直後に覆されることとなった。



 通りがやけに静かだ。

 先程まで周囲を歩いていた通勤帰りの大人たちの姿も見えない。

 加えて、そこかしこに配置されているはずの警官の姿も見えなくなっている。


 来る。 


 フロリアンがそう考えたのとほぼ同時に、すぐ目の前から甘ったるい少女の声が響いた。

「こんばんは、お兄ちゃん。こんなに危ない時に夜歩きだなんて、割と大胆なところもあるのね?」

 赤紫色の光粒子が集まってひとつの塊となり、やがて煙がほどけるように霧散すると、そこには彼女が立っていた。

 おそらく、今自分が立っているのは〈彼女の空間〉。絶対の法によって編み出された現実と空想の狭間にある虚構。

 見えている景色は現実であって現実ではなく、空想であって空想ではない。彼女が真実だということが全てである場所。

 故に、彼女が必要だと認めた者以外が立ち入ることは基本的には叶わない。理屈はどうあれ、この力に干渉が出来るというヴァチカンの2人を除いては。


 フロリアンはようやく姿を現した彼女を真っすぐに見据える。そして一呼吸ほど間を置いて静かに語り掛けた。

「アンジェリカ。君と話がしたいと思ってここまで来た。」

 彼女は驚いた表情を見せて言った。

「あら、最初から私と話すことが目当てだったなんて。まさか浮気?ナンパ?もしかしてお兄ちゃんってロリコンだった?でも、そんなことしちゃうと、あの子に怒られちゃうよ?」

 そう言ってアンジェリカはくすくすと笑った。構うことなくフロリアンは続ける。

「昨日、マリアの名を騙って僕に会いに来たのは君だね?君は彼女の知り合いなのかい?」

「さぁ。答える義理も義務もないもの。教えてあげない。」


 知らないと言わない辺り、やはり……


 フロリアンはそう考えたが、彼女とここで会う目的はマリアのことを聞き出す為ではない。

 感情を押し殺して必要なことだけを問う。

「先日、君に尋ねられた質問の意味を考えていたんだ。あの時、伝えられなかった答えを話そうと思って君を探していた。」

「素敵な心掛けね。私ももう一度、お兄ちゃんにそのことを聞きたかった。改めて聞いても良いかしら?」

 アンジェリカは満面の笑みを浮かべ、ゆらゆらと揺れながら蠱惑的にフロリアンへと近付く。

 だが、前回とは違ってある程度のところまで近付くとぴたりと足を止めた。それ以上に踏み込むこと無く彼女は言う。


「ねぇ?お兄ちゃん。愛って、なぁに?」


 繰り返される質問。フロリアンは自身の考えを伝えるために言う。

「時に人を、時にものを大切に想い慈しむ心の在り方だ。」


 答えを聞き、一瞬きょとんとした表情を浮かべたアンジェリカであったが、次の瞬間には盛大に笑いだしていた。

「きゃははははは!何それ!漠然としすぎていて全然答えになってないじゃない。それじゃまるで、私が“今この地で行っていること”も愛であると肯定するようなものよ?おっかしいの。」

 だが、フロリアンは冷静に言った。

「そうだ。君の行動の在り方だって、きっと愛であることには違いないんだ。」

「は?」


 フロリアンが言った瞬間、アンジェリカの態度に明らかな変化が生じる。

 あまりに想定外の答えにさらに驚いたアンジェリカは、瞬時に笑うことを止めて真顔になったのだ。

「愛にはただひとつの答えなんて存在しない。何かを想い、何かの為に動くこと。それらは全て愛と呼ばれる行為で、あとは与えられる相手がどう感じるか次第だ。」

 フロリアンはゆっくりとアンジェリカに歩み寄りながら続ける。

「ロザリアから聞いた。君の過去のことを。人が犯した罪を裁くこと、罰を与えることが君のとっての愛の在り方だと。」

「ちっ、あの女。人の過去をぺらぺらと。話を聞いたからって、それを本人の前で堂々と口走るだなんて、貴方も意外とデリカシーがないのね?」

 不機嫌そうに言うアンジェリカの言葉に耳を傾けることなく、フロリアンは続けた。

「僕は君の行為が愛であるということ自体は否定しない。ごく僅かでも、捉える人の考え方によっては確かに愛と成り得るからだ。」


「貴方、ストレスで頭おかしくなったんじゃないの?」


 この瞬間、アンジェリカの表情から完全に嘲笑が消え去った。これまで見せたことがない表情で彼女は言う。怒りにも似ているが、どちらかといえば怯えの方が勝っているような様子である。

「僕はいたってまともだよ。立つ立場によって捉え方などいくらでも変わる。マリーが僕に教えてくれたことだ。君の立場に立てば、君の行いそのものも愛だと言えるのかもしれない。ただ、それをそのままの意味で受け止める人間がほとんどいないというだけのことさ。」

 フロリアンが言葉を重ねるごとに彼女の様子がおかしくなっていく。

「なんで否定しないのよ……やだ、近付かないで。」

 次第に怯えた様子を見せる彼女に対し、構うことなくフロリアンは歩みを寄せながら言う。

「アンジェリカ。君は最大多数の人々が言う“愛”と呼ぶものを本当は知っているはずだ。知っているけど、その身に受けたことが無いから受け入れ難い。理解できないのではなく、認めたくないんだ。なぜなら、それを認めてしまった瞬間に、君という存在の定義そのものが揺らぐからだ。」

「いやっ……それ以上、来ないでよ。」

 今や恐怖にも似た表情を露にしたアンジェリカは、そう言って一歩後ろへ後ずさった。

 だが、フロリアンは自身の考えを話しながら尚も近付き、そうしてついに彼女の眼前へと立って言った。

「君の言う、〈愛とは何か〉という問いは言葉通りではない。君が本当に欲しているものは言葉の意味なんかじゃなくて〈自身に与えられることが無かった〉もの。そのものだ。」

「知った風な口を利いて。貴方如き人間が私に説教するの?それに……貴方の言う愛は、私の愛とは違う。」


 フロリアンは彼女の言葉に耳を貸すことなく、そっと右腕をアンジェリカに手を伸ばす。しかし、その手が彼女に触れそうになった瞬間だった。

 突然、何もない空間から伸びた青白い腕によってフロリアンの首が絞め上げられた。両腕で振りほどこうとするがびくともしない。

 そして、凄まじい力によって地面から足が離れるほど持ち上げられると、五メートルほど離れた場所まで勢いよく投げ捨てられた。


 悲鳴にもならない声をあげてフロリアンは地面に打ち付けられる。

 全身に衝撃が走り、打ち付けた場所を痛みが襲う。

 だが、呻きを漏らしながらも再び立ち上がり、真っすぐにアンジェリカを視界に捉え訴えかけるように言う。


「公国に生きた人々にはみんなそれぞれの強い願いがあった。イベリスもアイリスも、きっとロザリアだってそうだ。彼女達はこの世界に対して抱いた絶望よりも強い願いを持っている。アンジェリカ、君はどうなんだ?君だって、その願いがあったから、千年もの長きに渡る時間を生き抜いてきたんじゃないのか?」


 言葉を聞き終えたアンジェリカは、怒りにも悲しみにも似た歯を噛み締めた表情を浮かべたまま佇む。


「……君はただ、自身が望むものが〈欲しい〉と、素直に誰かに言うだけで良かったんだ。」


 フロリアンの最後の言葉が虚空へ放たれる。

 先程まで怒りに震えるような様子を見せていたアンジェリカであったが、ふっと無気力な表情を示して全身の力を抜いたように呆然と立ち尽くした。

 そして軽く舌打ちをすると、そのまま最後まで何も言うことなく赤紫色の煙が解けるようにその場から一瞬で姿を消し去ったのであった。



 周囲に雑踏が戻る。耳を突くような静けさは消え、周辺はいつものプリンツィパルマルクトの様相へと戻っていた。

 身に迫る危険が去ったことを悟り、フロリアンは激しく咳き込んだ。絞められる力は非常に強く、急激に血流が遮られたことで意識がややぼんやりとしている。

 すぐに通りの端の建物に身を寄せ、背中を預けてもたれかかると大きく息を吐いて呼吸を整えた。


 通り過ぎる人々が何事かという視線を浴びせて来るが、そんなものを気にしている余裕すら無かった。

 息を整える間ずっと地面を見つめていたが、見覚えのあるヒール靴の足元が視界に入った。

「なぜ止めたのですか。」不機嫌そうなアシスタシアの声が頭上から聞こえる。

「そうした方が良いと思ったからだよ。結果的に僕は怪我もしてないし……ほら、生きてる。」フロリアンはばつの悪さを感じ、冗談めかして言った。


 アシスタシアが怒っているのは、青白い腕にフロリアンが掴まれた瞬間のことだ。

 あの刹那、アシスタシアはアンジェリカを斬り捨てる為にタイミングを見計らって懐へ飛び込もうとしていたのだが、フロリアンが手振りでそれを制止したのだ。

 アンジェリカに悟られないよう、首元に伸ばした手を少し広げて押し出す仕草を見せ『来るな』という合図を発したのである。

「私は生きた心地がしませんでした。目の前で起きる出来事に介入できるというのに、何もせずにただ眺めることがどれほどのものかお分かりですか?」

 いつになく棘のある物言いで淡々と話す彼女に、フロリアンは笑顔を作って見せた。

「それでも、君は自身の判断よりも僕の判断を尊重してくれた。ありがとう。」

 まるで反省の色を見せないフロリアンを前に、アシスタシアは返事の代わりに大きな溜息をついた。

 そして、まだ足元がおぼつかないフロリアンの横に立ち肩を貸す。

「満足しましたか?肩をお貸しします。すぐにホテルへ戻りましょう。今日はもうお休みになってください。」

 相変わらず不機嫌そうに言うアシスタシアを見つつ、フロリアンは思う。

 そうだ、このぶっきらぼうなやりとりだって知り合い、いや〈友人としての愛の形のひとつ〉なんだろうと。

 隣に佇むアシスタシアの肩に手をかけ、壁から背を離したフロリアンは改めて言った。

「ありがとう。きっと、それが良い。」


                 * * *


 5人の参考人の内、2人の聴取を終えたマリア達は宿泊室に集まっていた。これから聞き出した内容について意見を交わそうというところだ。

 各自が話し合いをする時の定位置となった場所に着き、互いに顔を見合わせる。

 必要なことを聞き出し、確実に行動が実を結びつつある状況にあっても各々の表情は暗い。先のトーマスとの面談で、彼の幼少期から直近までの記憶を聞き出したことが理由であることは明白だ。


 いつものようにマリアが最初に口を開き、面談の中で最も重要な役回りを果たしたブランダを労った。

「ブランダ、ご苦労だったね。調子はどうだい?」

「はい、問題ありません。お役に立てたなら、嬉しいです。」

「とても素晴らしい収穫だよ。残りの3人の聴取をするまでもなく、必要な情報が揃ったといっても過言ではないほどにね。力を貸してくれてありがとう。」

 マリアが言うと、ブランダは嬉しそうに笑って見せた。マリアは彼女に優しい視線を送りつつ、いつも通りベッドに座る他の姉妹達にも声を掛けた。

「みんなもありがとう。トリッシュとホルスも気を張って疲れただろう。」

「私は大丈夫です。」

「ぁたしも平気平気☆」

 シルベストリスとホルテンシスが言う。思うより元気そうな姉妹達の様子を見てマリアは安堵した。

「思ったより元気そうで良かった。」そう言って微笑み、話を進める。「さて、疲れているところ申し訳ないが、今日彼らから聞き出した情報についてまとめておこう。アザミ、記録はとってあるね?」

「はい。」

「結構だ。今日は2人の対象者についての聴取を行ったが、これから議論の対象にするのは2人目の人物だけに絞ろうと思う。1人目が打ち明けた情報には特に見るべきものもないからね。」

 マリアが言及すると、アザミは記録として残した映像データをホログラムモニターへ映し出しながら言う。

「トーマス・エルスハイマー。ローマカトリック教会よりミュンスター司教区を預かる司教。彼ははっきりとアンジェリカのことについて言及しました。」

「あぁ、驚きだね。アンジェリカに道具として利用され、その後は記憶を封印されたか、又は記憶そのものを抹消されてしまっていると思っていたけれど、あそこまではっきりと彼女とのやり取りについて覚えていようとは。得た情報も多い反面、懸念でもある。」

「彼とアンジェリカは今でも日常的な繋がりをもっているかもしれない。そういうことでしょうか。」

「その通り。であれば、彼の口から私達のことがアンジェリカ本人に漏れ伝わる可能性も高い。重大な懸念と言って差し支えない。だが一方で、そこについて私達は関与すべきではないだろうとも考えている。既にこの件についてはロザリアに申告してある。彼女がどういう対応をするかは分からないけれど、何かしらの手を打ってくれると期待しよう。」


 言葉を濁した。アザミはマリアの言葉を聞いてそう考えた。

 彼女がどういう対応をするかなど決まっている。その未来について、マリアはしっかりと捉えているはずだ。しかし姉妹達の手前、直接的に明言することを避けたに違いない。

 ロザリアに懸念を伝えた以上、その後に何が起きるかなど想像するに容易いことである。

 彼は今日中にこの街から姿を消す。いや、この街からだけではない。世界そのものからという方が正しい。

 自ら神を裏切り、重大な背信行為を働いた上、こちらの計画の障害となり得る彼を彼女が見逃すはずがない。

 思うに、ロザリアは最初の時点で彼が事件に対し重大な関与をしていることを見抜いていたのではないだろうか。今まで手を出さなかったのは、あくまで事件解決の障害とはなり得ないと考えていたから……もしくは事件解決の為に生かしておいた方が良いと考えていたからだろう。もちろん、同じ信仰の道を志す同胞という側面も関係するのだろうが。

 しかし、今や状況は変わった。変わってしまった。事件に関して、吐き出すものを吐き出した彼を生かし続けておくことは、もはや“こちら側”にとってデメリットでしかない。

 アンジェリカと彼が再び接触するよりも先に、ロザリアは動くはずだ。

 であれば、もしかすると既に……


 アザミは内心でそのように考えながらも、やはり姉妹達の手前ということでマリアに同調した。

「はい。以後のことは彼女にお任せすれば問題は無いでしょう。それよりもマリー。彼から聞き出した情報を元にして、大衆に伝える言葉を編み出していくことになりましょうが、どのように取りまとめをするおつもりですか?」

「彼の話を聞いて、漠然とした答えはここにいる全員が得ているはずだ。取りまとめるというよりは、彼の話をもう一度辿りながら理解を深めるという方向にしようと思う。」

 マリアはそう言うとソファから立ち上がり、姉妹達の座るベッドの歩み寄ると、彼女達の傍らに腰を下ろして続ける。

「直線的な科学の発展によって、人々の心は信仰という概念から遠のいた。彼はそのことを酷く嘆いていたね。誰も神を求めなくなっていく時代に、司教という立場で信仰を貫くことの息苦しさ、そして閉塞感。彼の心に重たくのしかかっていたのはそういうようなものだろう。ホルス、君は彼の言葉を聞いてどういう風に感じたかな?」

「マリア様のおっしゃる通りに。司教さんは数多くの信徒たちの心が神から離れていることについて、ある種の絶望を感じていた。その苦悩はよくよく伝わってきました。ぁたしだったらちょっと受け止めきれないかな。途中で考えることをやめちゃうかもってくらいに重たい苦悩。」

「教区を束ねるものとしての重圧もあったのかもしれないね。けれど、本来それは彼が心配することではない。科学の進展と時代の変化による信仰離れはローマのみならず、全宗派に隔たりなくのしかかる事実だ。にも関わらず、彼は1人でそのことを抱え込んでいたような節が見えた。それはなぜだろうか。」


 マリアが言うと、すぐにシルベストリスが答える。


「性格、というと身も蓋もないのかもしれませんが……重要なことは、彼が生まれてから今に至るまでの経過だったのだと思います。敬虔なカトリック信徒である両親に育てられた彼にとって、無条件に神を信仰することは当たり前であり、それこそが自らの生きる目的でもあった。長い人生において、今までは疑う余地など無かった当然の想い。

 でも、ある時彼は悟った。多くの人にとってそれは当たり前ではないと。信仰を志していない人々にとってそうであることは当然でしょう。彼もそれは認識していましたし、当たり前であると許容もしていました。

 しかし、彼を追い詰めたのは同じく信仰の道に生きる人々の意識だった。

 ある時、同じ道を歩んでいると信じていた人々が、自分と比較して圧倒的に信仰心が薄いということを知ってしまった。

 その意識乖離の大きさを自覚した瞬間、彼は自らの生きる意味を否定されたような感情を抱いた。それこそが彼にとっての人生のターニングポイントだったと推察できます。

 きっと、司教としてこの教区を任されるようになって間もなくのことだったと思われます。」


 シルベストリスの言葉を聞いてマリアは頷く。


「なるほど、それが彼の人生における重大な転換点。何がきっかけであったのかまでは語ることは無かったけれど、相当心に大きな傷を負ったのだろうね。いや、もしかするときっかけというべき大きな出来事などなかったのかもしれない。小さな出来事の積み重ねが彼を追い込んでいった可能性もある。

 そして、この街で事件を起こそうと画策していたアンジェリカは彼を利用した。偉大な信仰心をもって、偉大な権力を持つ彼を取り込み、カトリックを信仰する多くの信徒に対して働きかけが出来る環境を手に入れたんだ。

 彼は、間接的にでも〈この時代における信仰の喪失が福音主義派によるものである〉などと説いたのかもしれない。

 司教の言葉はカトリックの信徒たちの心に留まり、時を経るごとに膨らむ他宗派への疑念はウェストファリアの亡霊を介し、深層心理の曝露という形で攻撃性を持って発現した。

 結果としてアンジェリカの目論見通り、今の惨事に繋がったということだね。」


 天井に目を向け、人差し指を顎に当てて考える仕草を見せながらホルテンシスが言う。


「ということは、単純に言ってしまうと〈信仰は不滅だ!〉的なことを呼び掛けることが最も多くの人々、延いては信徒のみんなの心に伝わる内容になるということでしょうか。」

「その理解で間違いないと思う。1人目の面談者も、突き詰めると信仰心の喪失が自分の心に葛藤を与えていたという内容を話していたからね。明日面談をする残りの3人についてもおそらくは似たようなものだろう。明日は、彼らにアンジェリカが何を働きかけたのかを聞き出す程度で十分かもしれない。」


 ここまでの話で、彼らがどういう心理に突き動かされ、どんな心情の元で行動をしたのかは分かった。

 加えて、ホルテンシスが人々に言うべき言葉が何であるのかについても。

 議論が煮詰まってきたところで、最後の課題となる部分をアザミが指摘する。


「何を言うのかは決まりました。あと残る問題は、誰が言うのか……ということになります。」

 アザミの言葉にホルテンシスは不思議そうな顔をして言った。

「んー?伝えるのは、ぁたしちゃんの役目になるんだよね?」

「はい。貴女の力をもって人々の心に働きかけることに違いはありません。ですが、貴女自身が人々の前に立って語り掛けるのは得策ではありません。」

「アンジェリカに正面から狙われる可能性もあるからね。私も同意だよ。」

 マリアはアザミの意見に同意した。アザミは続ける。

「先にも言ったように、こういった趣旨の言葉を人々に伝達するときというのは、何を言うのかではなく“誰が言うのか”の方が重視される傾向があります。この人物の言うことであれば信頼できる、或いはこの人物の言葉には耳を傾けなければならないという先入観や固定観念。そうしたものが重視されます。」

「発言内容が何一つとして違わない、まったく同じ言葉であったとしてもね。」

「誰に扮して語り掛けるか……そういうことかぁ。」アザミとマリアの意見を聞き、ホルテンシスは再び考え込むようにして呟く。

 するとすぐ隣からブランダが言う。

「あの、もしかすると、エルスハイマー司教を介して伝えるのが、一番効果が高いのではないかと。根本的な原因になった人物の言葉が、やっぱり一番だと、私は思います。」

 思いがけない言葉を聞いたホルテンシスは口元に手を当て、目を潤ませて言う。

「えぇ!?どうしよう。ぁたしちゃん、お爺さんの声出せない……ぴぇん。」

「ホルス、この場合は貴女がお爺さんの声を出さなくて良いの。ホルスが直接言わなくても、貴女の力は念じるだけで効力を発揮するでしょう?」強めに肘でつつきながらシルベストリスは言った。

 ホルテンシスは舌先を少し覗かせて悪戯に笑った。

 姉妹達の会話を聞いてマリアは笑みを浮かべて言う。

「その方向で間違いは無い。そしてホルス。トリッシュの言う通り、エルスハイマー司教の声が出せないことは気にしなくて大丈夫だよ。この案を容易に実現する方法を私達は既に知っている。」

「えっと、それはもしかして。ロザリアさんに?」

 ホルテンシスは、ぱっと脳裏に浮かんだ予感を言った。マリアは頷いて言う。

「他に手はない。司教と“寸分違わぬ人形”を作ってもらおう。」

 あっけらかんと言うマリアの言葉に疑問を抱いたシルベストリスは言った。

「人形?ロザリアさんからご本人に働きかけをして頂くのではなく……ですか?」

 シルベストリスが頭に思い描いたのは、トーマスが民衆に伝える言葉にホルスの念の力をのせることで効力を拡散させるというものだった。しかし、今のマリアの返事からするとどうにも様子が違うらしい。


 いよいよ姉妹達にも言葉を濁したままには出来ない瞬間が訪れた。

 4人から少しばかり離れた位置に立つアザミは遠目からそう思っていた。

 今ここで言葉を濁したところで、明日中にはわかることではある。

 マリアは彼女達にどう伝えるのだろうか。


 アザミの思考を他所に、僅かな間を置いてからマリアは躊躇いなく言った。

「彼は、おそらくもうこの世にいない。彼自身の言葉が、大衆に届くことは二度とない。」


 思いがけない言葉を耳にした姉妹達は一様に硬直し、表情を曇らせた。



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