第26節 -救済の青薔薇は大聖堂に咲く-

 マリア達が宿泊室で聴取の結果を話し合うよりも少し前

 聖パウルス大聖堂 高祭壇 勝利の十字架のたもとにて


 淡い橙の光だけが周囲を微かに照らす聖堂内。暗闇に包まれた神聖なる場所に彼は跪いていた。


 これが人生における最後の祈りとなるだろう。

 誰もこの姿をみることなく、誰の記憶にも残ることはない。

 誰かに聞こえることもなく、誰かに届くこともない。

 終わりの時が来たのだ。


 だというのに、どうしてだろうか。妙な清々しさを感じずにはいられない。

 未練も後悔もなく、己の使命を全うしたという達成感が込み上げてくる。

 生まれてからこの歳に至るまで、神に仕える為だけに生きた人生。

 良きものであったと思う。


 静寂の中に佇んでいると、遠い過去の記憶が呼び起こされる。

 夕刻にあの少女達に呼び出されたホテルの応接室で垣間見た内的体験。あの時に見た過去の光景が今でも鮮明に頭の中に蘇る。


 両親に連れられて、初めてこの聖堂で洗礼を受けた日のこと。

 聖書の内容を読み解くことが出来ず、必死に頭を悩ませていた時のこと。

 信仰の道を共に歩むものだと思っていた人々との離別。

 独りきりとなって尚、貫いてきた意思と歩み続けた道筋。


 その全てが愛おしい。


 そして近年。直線的に加速する科学の進歩の波に呑まれ、人々の心から信仰という概念が薄れていったことを痛感した日のこと。

 神なくして人は非ず。しかし、裏を返せば〈人なくして神は非ず〉ということも出来よう。

 主という存在は人間という生命の存在によってその身を担保されるのだ。


 圧倒的に人を超越する唯一無二の存在と言われながら、人がいなければ存在することが出来ないという大いなる矛盾。

 そのことに人々が気付き始めた時、神という存在は急速に権威を喪失していった。


 私はそれを見た。

 

 人々が心の内で信仰するものは、いつしか神ではなく文明のもたらした科学という光に移り変わった。

 役目が終わった。この身を焦がすほどに努めてきた役目はようやく終わりの日を迎える。


 これが最後の祈りだ。

 この祈りを捧げ終われば私の人生は終わる。

 何を願うわけでもなかった。何を祈るわけでもなかった。

 ただ、思い出という記憶と共に、この聖パウルス大聖堂という人生を捧げた場所で最期を迎えることが出来るのなら……


 それ以上に欲するものはなにもない。

 これより、私は自分自身の死を持って永遠という安寧と魂の救済を得るのだから。




 その時、静かに祭壇に跪き祈りを捧げる彼の後ろで足音が響いた。

 品の良い足音はゆったりとした歩調で徐々に近付き、後方10メートルほどの位置まで来たところでぱたりと消えた。

 次に聞こえてきたのは終わりを告げる神の御使いの言葉であった。


「ずっと、この場所にいらしたのですね。エルスハイマー司教。」


 穏やかで甘美な声。慈愛に満ちた声は自身を優しく包み込むように周囲にこだました。

 トーマスは目を開け、しっかりとした足取りで立ち上がり後ろを振り返る。

 その先に、燃えるように美しい青い瞳を輝かせる少女の姿を見て取った。


「こう申し上げるのも妙な話に感じられるかもしれませぬが、お待ちしておりました。総大司教猊下。今宵、貴女様は私を訪ねてこの場所にいらっしゃるだろうと思っておりましたが故。」


 彼女の頭上には司教冠があり、白いアルバの上に黒色のカズラを纏う。首からは金色の刺繍が施された鮮やかな青色のストラを下げ、ペクトラルクロスが胸元に光り、手には金色の司教杖を持つ。

 見るものを圧倒するほど荘厳な神秘を感じさせる美しさ。今の彼女は神の御使いという立場で形容するにまさにふさわしい装いであった。

 黒色は死者への祈りを示し、青色は天を指し示す。

 現代において、黒の祭服は11月2日の万霊節、青色は聖母マリアに祈りを捧げる為など、どちらの色もよほど特別な日や理由がない限り身に着けることはない。

 だが、敢えてそうした色を選んで纏う彼女の意図は明白だ。死者へ祈りを捧げる為にトーマスの元を訪れた。

 つまり、この命を絶つために彼女は現れたのだ。


 正装に身を包んだロザリアはトーマスをしっかりと視界に捉えて言う。


「“罪がもたらす報酬は死である”。この言葉の意味はよくご存じのはずです。」

「“なれど、神の下さる賜物は、我らの主イエス・キリストにある永遠の生命である”。貴女は私に死をもたらすためにここを訪ねられた。猊下、ひとつお伺いしても?」

「もちろん。時間は十分ございます。存分に語らいのひと時を持つのも良きことかと。」

「ありがたき幸せ。では、ひとつ。貴女様は私の犯した罪にずっと以前より気付いておられたはず。他者の過去を捉えるという貴女の目からは何人も逃れることなど叶わない。そのはずであるのに、どうして私に対して今まで何もされず、見逃してこられたのでしょう。」

 トーマスの問い掛けに、ロザリアは何の感傷を抱くそぶりも見せずに淡々と答える。

「それが最善であると判断したからです。罪に裁きを与えるにも頃合いというものがありましょう。」

「なるほど。あの少女たちが私から必要なことを聞き出すまで……それが時限であったと。」

「さぁ。貴方のおっしゃる少女達のことについて、わたくしは関知しておりません。わたくしはわたくしの感覚的な判断に基づいてこの時を待っていたに過ぎないのです。」


 ロザリアはそう言うと再び歩みを進めた。一歩ずつ、一歩ずつ、確実にトーマスの元へと歩を進める。

 静寂なる死が近付いている。


 そうしてロザリアが高祭壇の手前まで歩み寄ったのを見てトーマスは言った。


「そろそろ頃合いでしょうか。罪の告白以前に、貴女様には私の心なぞ全てお見通しでしょうから、今さら他に語る言葉もありますまい。して、このことを教皇猊下はご存知なのでしょうか?」

「いいえ、何もお伝えしておりません。全てはわたくしの独断。与えられた権限に基づいて行動しているに過ぎません。」

「左様ですか。しかし、貴女様が手ずから“死を与える”という決断に至ってくださったことを私は感謝しています。教皇猊下であればそこまでのことはなされないでしょう。罪を背負い生きることを御命じになるでしょうから。しかし、それは決して私にとって救いにはなり得ない。」

「主は人の罪を背負うことは出来ても、悪魔が犯した罪を背負うことは叶いません。司教、貴方は悪魔の甘言にそそのかされ重大な過ちを犯した。未来ある学徒たち同士で対立を煽る放言を行い、悪魔の望む混乱を招く行いに加担した暴虐。貴方の罪は我らの尊ぶ信仰の道より逸脱したものとなりました。よって……この世における生命の絶対の裁治権をもって、貴方を滅ぼします。」

「素晴らしきことです。私にとって、何よりの救いとなりましょう。」


 言葉を交わし終え、互いの視線を重ね合う2人の間には長い沈黙が訪れた。

 世界が時を止めたかのような静寂。



 耳を刺す静けさの中、ロザリアはおもむろに右手を上げ、掌を上に向けて言う。

「十字架の言は、滅びへ向かう者には愚かである。しかし、救いに預かるわたしたちにとっては神の力そのものである。〈わたしは賢人の知恵を滅ぼし、その者の賢さを虚しいものとしよう〉。」

 ロザリアの瞳が強い輝きを放つ。どこからともなく風が顕れ、聖堂内を叩きつけるように吹き荒れる。直後、少女の背後に青白い炎が浮かび、大輪の薔薇が花開くように燃え盛った。

 神の怒り。裁きの炎。形容するならそうした言葉こそが相応しい。

 彼女の眼前で立ちすくむトーマスは、しかし燃え盛る青い炎を見つめながら歓喜にも似た表情を浮かべて微笑んでいた。

 魂の救済。現世からの解放。まるで地獄の底にあって、天界から注がれる光を眺めるような面持ちだ。

 風と共に荒れ狂う猛火の青薔薇を背に、ロザリアは微かに呟く。


「代理執行:神罰〈Agnus Dei〉」


 彼女の言葉と同時に、トーマスの周囲を猛火が包んだ。

 青白い炎は瞬く間に彼の全身を呑み込み、呻き声ひとつあげる間すら与えずに全身を滅ぼしていく。

 荒れ狂う風は炎が確実に彼の全身を包み込み、逃すまいとするように周囲で渦を巻く。

 彼は身動きする間もなく全身を一瞬で灰と化し、揺らめく炎と共に天へと立ち昇る。

 そうして渦を巻く青い炎は薔薇の花弁を開くように周辺へと広がり、唐突に消え去った。


 後に残されたものは何もない。


 誰もその姿をみることなく、誰の記憶にも残ることはない。

 終わりの時は過ぎ去った。



「神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強い。」



 ロザリアはそう言うと後ろへ振り向き、祭壇を背にして歩き出す。

 ふと去り際に彼に手向ける言葉をささやく。


“貴方は全てにおける典型であった。知恵に満たされ、美の極致であった。”


「〈誇るべき者は主を誇れ〉。貴方は惑うことなく己の想いを信じ続ければ良かったのです。」


 誰もいなくなった大聖堂内で嘆きを語る不可視の薔薇は、最後に自身の本音を言葉にした。


「それでも……自身が救済を得たというのであれば、それは良い道であったということなのでしょう。主よ、彼の者を憐れみ給え。」


 誰かに聞こえることもなく、誰かに届くこともない言葉を。


                 * * *


 月明かりも星明りも届かぬ大地。目に見えぬ赤い霧に囲まれた地で、空洞となった空間に佇む城塞。

 漆黒の帳が支配するヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学の構内に天使の歌声が響く。


Your vows you've broken, like my heart,〈貴女の誓いは私の心のように壊れてしまった〉

Oh, why did you so enrapture me?〈あぁ、なぜ貴女は私をこれほどまでに夢中にさせたのか〉

Now I remain in a world apart〈離れた世界にいる今でさえ〉

But my heart remains in captivity.〈私の心は貴女に魅せられたままだ〉


 無邪気で甘い声が歌う儚くも哀しい旋律。

 構内の廊下に響き渡るその声の主は“知らない愛”を歌い上げる。

 遠い昔、イングランドの王立ベツレヘム病院で“誰か”が教えてくれた歌だ。


 誰もいない構内。独りきりで暗がりを歩く少女。

 いつもと変わらぬ日常、いつもと変わらぬ夜。


 これが自分にとっての日常だ。これが自分にとっての当たり前だ。

 それなのに……


 心にもやもやとするものを浮かべ、その目は虚ろに宙を見上げる。

 天使のような少女の歌声は“知らない愛”を歌い続ける。


I have been ready at your hand,〈私には全てを差し出す覚悟がある〉

To grant whatever you would crave,〈貴女の望むものを全て与える為に〉

I have both wagered life and land, 〈領土も、この命を賭すことも厭わない〉

Your love and good-will for to have. 〈それで貴女の愛が得られるのなら〉


Greensleeves was all my joy〈グリーンスリーブス、貴女は私にとっての喜びだった〉

Greensleeves was my delight,〈グリーンスリーブス、貴女は私の楽しみだった〉

Greensleeves was my heart of gold,〈グリーンスリーブス、貴女は私の心の支えだった〉

And who but my lady greensleeves.〈私のグリーンスリーブス。貴女以外に誰がいるというのか〉



 アンジェリカは構内でもっとも大きな講堂の入り口で歩みを止めると、そっと扉に手をかけて中へ入る。

 昼間は大勢の学生たちで賑わう講堂内も夜は静かなもので、昼夜それぞれの様子を知っているとあまりの落差に異世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える。

 だが、アンジェリカにとっては夜の景色こそが自身にとっての当たり前の日常風景だ。


 ステップを踏むように講堂の中央まで行き席に座る。

 おもむろに双頭の鷲のカバンを机の上に置くと、その頭を優しく2度ほど撫でた。

 そしてカバンの蓋を開け、中からサンドイッチと紅茶を取り出して机に並べる。この場所に来る前、大学スポーツセンターに堂々と忍び込んで頂戴してきた代物だ。

 アンジェリカはほっと一息つき、指を鳴らして言う。


「〈レイ・アブソルータ 我が周囲に光在り。柔らかく照らす橙の揺らめきなり。〉」


 すると自身の周囲で無数のろうそくの炎が灯るようにほのかなオレンジ色の光で照らされる。


 絶対の法〈レイ・アブソルータ〉


 彼女の持つ唯一無二の異能。この力をもって唱えた言葉は世界の法律や法則全てを塗り替え、言葉通りの事象を実現する。

 深夜に誰の目に映ることもなく出歩くことができるのも、誰の目に留まることなく食糧を調達できるのも、今こうして誰もいない大学構内に立ち入って自由に行動できるのも全てこの力のおかげである。

 姿を隠すという小さなことから、自然界の法則を捻じ曲げるという大きなことまで自由自在。

 彼女の願うことが彼女の生きる世界にとっての真実。


 アンジェリカは小さな溜め息をついた。

 千年もの間、何一つ変わることのない日常だというのに。千年もの間、何一つ変わることのない夜だというのに。

 今夜ばかりはどういうわけか心がざわつく。


『彼女達はこの世界に対して抱いた絶望よりも強い願いを持っている。アンジェリカ、君はどうなんだ?』


 戯れのつもりで近付いた彼に言われた言葉が脳裏にフラッシュバックする。


『君だって、その願いがあったから、千年もの長きに渡る時間を生き抜いてきたんじゃないのか?』

「わからないよ。そんなこと。」

 頭にこだまする言葉に対し、思わず言葉が口をついてでる。


 信じて裏切られた。

 遠い遠い昔、自身の両親にすら向けられなかった愛。

 教えられた〈愛〉を示した時、多くの人々は自身の周りから去っていった。

 誰一人として自身の傍に近付こうなどとはしなかった。

 それでも。


 ……言えば、誰か一人くらいは違う接し方をしてくれたのだろうか。自分の知らないものを与えてくれる人がいてくれたのだろうか。


 アンジェリカは静かに首を横に振った。

 そんなはずがない。そんなはずはない。だって、だって、だって……



 もやもやとしたものでぐちゃぐちゃになる心を落ち着かせる為、アンジェリカは目の前に置いたサンドイッチに手を伸ばし口に運ぶ。

 この大学に通う学生たちが、友人たちとの待ち合わせなどをする時に食べる軽食。

 新鮮な野菜や絶妙な味付けの具材の美味しさが口に広がっていく。

 とてもおいしい食事。



 それなのに、それなのに。あぁ、それなのに……

 どうして美味しいと感じられないのだろう?

 どうしていつものように楽しめないのだろう?


 どうして、私は泣いているのだろうか。



 アンジェリカの頬を一筋の涙が伝う。

 誰も隣に座る者はなく、話しかける者もない。

 独りきりの夜、独りきりの場所、独りきりの食事。

 いつもと何一つ変わらないのに、なぜ?


 手に持ったサンドイッチを机に置く。

 すぐ横では温かな紅茶が湯気を立てている。


『君はただ、自身が望むものが〈欲しい〉と、素直に誰かに言うだけで良かったんだ。』


 彼が最後に発した言葉を頭に浮かべながら、アンジェリカは呟いた。

「そんなの、嘘だよ。」


                 * * *


 姉妹たちが部屋に戻り寝静まった頃、マリアとアザミは部屋のテーブルで向き合う様にソファに腰掛けていた。

 テーブルの上にはいつものような紅茶ではなく、白ワインが置かれている。香り高く繊細で、どんな種類のワインにも使用できる高貴な品種であるドイツ産リースリングを使用した高級品だ。

 ワインを嗜む時はチーズと一緒にと決めているマリアの手元にはマスカルポーネとモッツァレラが並ぶ。

 マリアは手にしたグラスを数回揺らし、柔らかな唇にグラスを当てて一口ほど飲む。

 ワインが喉を通り抜ける感覚を味わい、ふっと息をつきながら言う。

「アザミ、各々の状況は掴めるかい?」

「はい。聖パウルス大聖堂にて総大司教の手によりエルスハイマー司教は葬られました。プリンツィパルマルクトではフロリアンがアンジェリカと対峙。彼の問い掛けに動揺を示したアンジェリカは、彼を能力で突き飛ばした後に自ら撤退したようです。撤退した先はおそらくヴィルヘルム大学かと。フロリアンとアンジェリカが対峙する付近ではアシスタシアが控えていたようですが、彼の制止の影響から手は出さなかった模様。」

 マリアは手に持つグラスを再びゆらゆらと揺らしながら言う。

「実に、実に混沌としている。これほどまでに不確定な未来に心を揺さぶられるのは久方振りだ。ハンガリーの一件以来かな。」

「あの時も彼が事件に関わることになりましたが、今回もまた同様ですね。」

「彼のお節介が私以外の人物に向くことに対して思うところはあるが、彼が必要であると判断したことならとやかくは言わない。その身が無事で何よりだ。」

「嫉妬ですか?これはこれは珍しい。」

「君と二人きりの夜だ。お酒の力を借りてこういう本音を語明かす時があってもいいだろう。私は、本心を決して他者に語らない誰かさんのように振舞うことはできないからね。」

「それが彼女の美徳でもあり、弱さでもある。ですが、彼女も間もなくそのくびきから解き放たれる時が来るでしょう。背負う重荷から解放できる可能性を秘めた人物が機構に1人ほど。」

「なかなかに面白い人物だと思う。彼は今イングランドか。互いに嫌悪しているように見えて、実際のところは真逆であるとはね。実にじれったいことだ。科学の偉才と宗教の巨人。お似合いじゃないか。」

 マリアはアルコールで僅かに紅が差した頬を緩め微笑みを見せる。

 ゆったりとした夜の時間が流れるかに思えた矢先、アザミが言う。

「マリー、その彼女が今夜手にかけた彼についてですが。」

「この話の流れでいきなりそこを突くとは、君も相変わらずだね。」情緒のない話の振り方をする偉大なる神の物言いにマリアはけちをつける。

「彼女の恋路など、わたくしにとっては特に関心を抱く内容ではありません。何より、貴女の道行きに関わりのないことですから。」

「そうかい?それにしても、恋路、恋路か。うん、ロザリーにはまるで縁のない言葉がこうもしっくりくる日が来ようとは感慨深いものだ。」

「マリー。」

 この夜の会話の趣旨をずらしてしまわないよう、アザミは釘を刺すように言う。

「分かっているよ。現在の状況の中で特殊であるのは、フロリアンが自らアンジェリカに接近を試みたことだ。しかし、彼には今考え得る中で最強の矛と最強の盾がついているのだから問題ない。深く読み解くべきはもう一方。」

「エルスハイマー司教の殺害について。」

「事実であるとはいえ、物騒な物言いだ。ここでは敢えて“魂の救済”とでも言うようにしよう。彼にとって、奇跡の総大司教の手で天に召し上げられるなど、そう形容する以外にない出来事だろうからね。」

 マリアはそう言うとワインをもう一口ほど口にしてからグラスをテーブルへと置いた。

 少なくなった彼女のグラスにワインを注ぎながらアザミは言う。

「彼がこの地で行ってきたこと。アンジェリカとの邂逅以来見せていた動き。かねてからヴィルヘルム大学の生徒に対する聞き込み調査をしていたことで把握していたとはいえ、些か度合いが過ぎているように見えました。」

「トリッシュとホルス、ブランダが集めてくれた生徒の証言からも、彼が事件の最初の口火を切るきっかけとなったことは間違いない。だが、君の印象の通り、彼の行いは他の事件に関与した人物達に比べて特殊な毛色を見せていた。

 内的体験。今日の夕刻に直接聞きだしたことで感じた印象で言えば、アンジェリカの関与以前に、彼自身の中にあった意識がそうした行動をとるように駆り立てていたのだろうね。」

 注ぎ口を軽く拭きとり、ワインクーラーへとボトルを戻してアザミは言った。

「疑問に思うことがあります。かの総大司教は彼の動きについて、我々よりも前に仔細を把握していたはずです。にも関わらず、今日まで彼を生かし続けた理由は一体何だったのでしょう。この事件を未然に防ぐという観点で言えば、エルスハイマー司教に対して早々に働きかけを行った方が良かったのではないかと。」

「ロザリーの立場ならそれが出来たはずだ、と。そう言いたいんだね?」

「はい。」

 皿に盛ったチーズからマスカルポーネを選びマリアは口に運ぶ。そしてチーズの味をじっくりと楽しんだ後、注がれたばかりのワインを口にした。

 双方の味を満喫し、ゆっくりと飲み下してからグラスをテーブルに置き、ふっと小さく息を吐いて言う。


「物事には適切なタイミングというものがある。彼女ならそう言うだろうね。加えて、今回の事件の特殊性を吟味してほしい。


 まず第一にロザリーが彼の過去を含めた内心の心情を全て汲み取っていたとして、彼が事件に対して直接的に関与するのかどうかを見極めることは非常に困難だ。

 アンジェリカとの邂逅を経て、何かしら関わりを持つだろうことは理解出来たとしても、だからといって〈その時点で何も行動をしていない彼〉を排除するなどということは出来ない。

『怪しいから殺す』など人の道から外れた行為だし、彼女の信仰にも反する行いだ。


 第二に、彼がヴィルヘルム大学の学生に対する講演を行い、それが結果として学生同士の討論から口論を経て対立活動を煽るきっかけになった点だ。

 この時点で彼がアンジェリカの計略に則って行動を起こし、その悪だくみに加担したことは明白となった。裁きを加える理由は十分に得られたことになるが、事態はそう単純でも無かった。

 周知のとおり、この事件は一度のきっかけが爆発的に拡散していくことによる連鎖反応が核となるものだ。講演を行った後の彼を排除したところで、既に拡散されてしまった事件を治めることは出来ない。むしろ、カトリック司教座を治める人物に何かあったとなれば、そちらの方が大問題だろう。

 それを口実として加速度的に事態が悪化する可能性は目に見えていた。


 第三に、事件を治める為に必要なこととして〈彼の協力〉が不可欠だと判断した。

 現に、私達は彼を重要な証言者として聴取するに至り、その内容を元にして事件を治める方法を導き出したと言っても過言ではない。

 ロザリーはそこまで視通していたからこそ、今の今まで彼に何ら手を加えなかったと言えるだろう。」


 マリアはアザミの考えていた疑問について、ひとつずつ丁寧に解いていった。

 そもそも、ミュンスターという街で起きた事件を詳しく読み解いていった先にある〈トーマス・エルスハイマー司教の関与〉とは具体的に次の通りとなる。


 トーマスは幼少期から老年に至るまで信仰に厚い敬虔なカトリック教徒であった。しかし、近代化が加速度的に進む現代において、若者たちの信仰心の薄れと神に対する敬意の無さを危惧していた。

 その想いが心にわだかまりを生む最中、アンジェリカという少女が彼の心の弱みに付け込むようにして接近した。

 アンジェリカは彼がミュンスター司教座の司教であるという立場と、心の内にある信仰に対する危惧を利用する計画を実行する為に、彼を言葉巧みに誘導する。


 ある日、彼はヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学において〈宗教と科学 カトリックと福音主義の信仰〉というテーマをもって学生たちに講演を行った。

 その講演において、カトリックと福音主義の違いに言及し、双方の立場から見た意識の食い違いなどを細かく指摘。また、科学の発展に伴う宗教の衰退にまで言及し、最終的には〈信仰心の薄れが危機を招く〉という趣旨を発言。

 信仰の欠如がカトリック派にあるのか、福音主義派にあるのかという議論を呼び起こす発端となった。

 ここまでが司教が〈直接的に〉事件に関与した部分である。だが、ここまでを引き金として事件は本当の幕開けとなったのだ。


 彼の不用意な発言を含めた講演を聞いた学生たちの動きは早かった。

 ヴィルヘルム大学に通う学生たちは細かく分類された専攻のコースを選ぶが、その中において各宗派の研究を主とする学生たちがそれぞれの観点から討論を開始。

 多感な学生たちの討論はやがて口論へと発展し、挙句の果てには酷い諍いにまで発展した。


 敢えて言うと、〈普通ならばそうはなり得ない。〉


 しかし、アンジェリカの計略はここからが実にしたたかであった。

 同時期にこの地で出現した〈ウェストファリアの亡霊〉、〈見えざる赤い霧〉という有り得ざる存在が災いを大きくしたのだ。

 学生たちが激しい攻撃性を示して互いを罵り合ったのは、〈議論で他者を打ち負かしたい〉という深層心理に含まれるものを亡霊が持つ〈曝露の性質〉で呼び起こしたからである。

 元々、ドイツ有数の学生都市と言われるミュンスターの街において、学生たち同士の争いは瞬く間に大きな波となって拡散。

 小さな騒動はあっという間に旧市庁舎窓外放出事件という最悪の事象へと繋がり、事実がメディアを通じて事件が報道されるや否や、学生を越えて大人達にまで波及。カトリック教徒や福音主義に対する攻撃、或いはその反対の出来事が頻発。

 積もりに積もった市民の鬱憤は聖ランベルティ教会広場からプリンツィパルマルクト周辺での放火と略奪と暴動という形となって具現化した。

 また、この騒動において、大人達の中で拡散を扇動する役割を果たしたのは〈争いを引き起こしたい〉という深層心理を日頃から抱えていたネオナチの思想に属する集団である。

 結果として、彼らの思惑通りに騒動は拡大し、優良人種のみで国家を形成すべきであるという選民思想を再び歴史の表舞台に持ち上げられる寸前までこぎつけている状況と言える。


 以後は、3つの鉄篭に3人の遺体が入れられるなどエスカレートの一途をたどり、大規模デモへの波及という現状へと至る。

 司教の講演を引金に学生から拡散し、そこに目を付けたネオナチによる扇動を通じて拡大した大事件は、当のネオナチ新派に対する市民の報復をもって終焉へと向かおうとしている。


 結局のところ、司教は〈ミュンスター暴動〉〈ミュンスター騒乱〉と呼ばれるこの事件の根幹に関わる働きをしてしまったのだ。

 事件の中心に関与していながら、事件を引き起こす直前も引き起こした直後も〈蚊帳の外〉。

 生かしても毒。殺しても毒。

 そんな彼の処遇をめぐって、ロザリアが安易な決断を下す難しさを感じていたことはマリアの言う通りであろう。


 漠然と頭の中で理解はしつつも、いまいち理解出来ずにいた疑問が解決されたことをアザミは感じた。

 胸にあるしこりが取れたような気分を感じていると、マリアが言う。


「アザミ、君はロザリーのことを嬉々として裁治権を行使するような鉄の女、もしくは感情の無い氷の女だと思っているだろう?」

 彼女が目の前のモッツァレラチーズに手を伸ばしながら発した言葉を理解するまでに少し時間がかかった。

「わたくしには、そのようにしか感じられません。」

 モッツァレラチーズを呑み込み、ご機嫌な表情を浮かべてマリアはソファにもたれかかり、柔らかい背もたれに身を預けながら言った。

「対外的にしか彼女を知らない者は一様にそう言うだろう。でもそれは違う。彼女はある意味では私以上に繊細な人物だ。何せ、彼女の根にあるものは、自身の力の無さに対する絶望という内に向けられた負の感情だからね。ラッセルの幸福論によれば、自身の興味を内に向ける人物はやがて不幸で満たされるというが、ロザリーはまさにその典型だ。」

 アザミは何も言うことなく彼女の言葉に耳を傾ける。

「いくら私が自らを責めるなといっても聞き入れようともしない。内心を打ち明けることもない頑固者。偏屈者。意固地。性悪。

 それはさておき彼女はね、悪い事象の因果が全て自分の力の至らなさにあると考えてしまうようなタイプなんだよ。だからこそ、神から与えられたかの如き力を用いて、世界に害を為す異端を排除するためにこの世界に留まり続ける。

 それこそが彼女が願うこと。魂の救済、自らの贖罪、力を与えたもうた神への祈りの在り方であり、神に仕えると決めた根幹をなすものだ。」

「左様ですか。不可視の薔薇、とはよくも言ったものです。」

 マリアの言葉にアザミは理解を示す。それがロザリアという少女の本質であると考えれば、これまで疑問に思っていたことの全てに合点がいくように思えたからだ。

 なぜ彼女ほどの人物が、奇跡の力をもつ人物が人の世で人が定めた地位のみに留まり力を振るい続けるのか。

 長年の疑問への回答が目の前に提示されたような気持ちであった。


 アザミが今まですっきりとしなかった思考の答えを得たと同時に、唐突に壁際に黒い影が蠢く様子が視界に入った。

 影はやがて巨大な黒い犬の姿を形どり、不気味で低い唸りにも似た声を轟かせて言った。

【はははははは!これは傑作だ。あの鉄の如き聖女が繊細な心を持つ乙女だと?愉快愉快。至極愉快である!マリア、そなたの言葉は実に我を楽しませてくれる。あぁ、いつだってそうだった。この世において、そなたと共に在ることの幸福を噛み締める毎日だとも。】

 部屋の壁に浮かび上がる真っ黒な影。淡い光に照らされて浮かび上がる漆黒の闇。見る者を射貫くかの如き赤く不気味な輝きを放つ目がマリアを見据える。

 アザミはまたも断りなく姿を現した精霊を横目に大きな溜息をついた。

 しかし、当のマリア本人は久しぶりに再会した友人に言葉をかけるかのように気さくに返事をする。

「やぁ、バーゲスト。君も聞いていたのかい?ほら、ここに美味しいチーズがある。マスカルポーネとモッツァレラだ。君もどうだい?何なら、クーラーに入ったワインでも飲みながらね。」

【敬愛するそなたからのせっかくの申し出ではあるが遠慮しておこう。我に人の食は合わぬが故にな。して、ロザリアと言えば先日の夕刻に話したあの女もなかなかに面白いものであったぞ?作られた命。人を模した魂の現身。確かアシスタシアとか言ったか。】

「黒き精霊。君は物事を正確に掴み取る力に長けているね。アシスタシア。私も直接彼女と会話して気付いたことがあるんだ。ロザリーがどうして人形である彼女に自我を与え、人形である彼女を一個の命として尊重し慈しんでいるのか。彼女が実のところ、繊細な心の持ち主であるというのは、そのことからも端的に読み取ることは出来る。」

【ほぉ、それはそれは。また愉快な話であろうな?】

 興味を惹いたという風にバーゲストは言い、マリアへと巨大な犬にも似た顔をぐっと寄せる。

 マリアはすぐ傍に近付くバーゲストの鼻先を優しく撫でながら言う。

「アシスタシア・イントゥルーザ。女性美の極致。彼女はね、似ているんだよ。」

「誰に、でしょうか?」

 アザミもバーゲストと同じように興味を抱いて言う。

 マリアは少しだけもったいぶるそぶりを見せてから簡潔に述べた。


「ロザリアの母親に、ね。」



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