第24節 -内的体験-

 ミュンスター司教区を預かる司教は、部屋に入った瞬間に飛び込んできた光景に目を疑った。

 警察から届けられたという要望と場所だけが記された手紙を読み、内容に従ってこの場を尋ねたが、いざ部屋に立ち入ると中に待ち受けていたのは4人の少女と1人の大人の女性である。

 それも見慣れぬ黒いドレスなどを身に纏った奇抜な面々。金色の髪と赤い瞳が特徴的な少女は、ゴシック風な真っ黒いドレスに身を包み、隣に佇む長身の女性は同じくゴシック風の黒いロングドレスを身に纏う。長身の女性は室内だというのにつばの大きなキャペリンハットを被り、その顔は黒いベールで覆われ表情を汲み取ることは出来ない。

 彼女達の隣に控える3人の少女も奇抜な髪色に加えて、それぞれ和装を改造したようなドレスやパンキッシュスタイルのダメージドレスなどといった特徴的な出で立ちをしている。

 それぞれ一人一人が息を呑むほどの美しさを兼ね備え、見る者を圧倒する神々しいオーラを放つ5人組。

 それは、自分がこの部屋に足を踏み入れたのが何かの間違いではないのかと瞬間的に思うほどに異様な光景であった。


 トーマスが眉をひそめ、険しい表情をしながら言葉を失い立ち尽くしていると、赤い瞳の少女が微笑みを湛えて近付きながら言った。

「ようこそおいでくださいました。トーマス・エルスハイマー司教。私の名前はマリア・オルティス・クリスティー。国際連盟 保安管理部 第6課の主任を務めております。此度のミュンスター暴動に関して、参考意見をお伺いしたくこの場にお呼びたてしました。お忙しい中、要請に応じて頂いたことにまずは感謝申し上げます。」

 物腰柔らかく言う少女は自分の目の前に立ち右手を差し出した。

 金色のウェーブがかったミディアムヘアに、宝玉のように赤く美しい瞳。その輝きはルビーの頂点に位置するピジョンブラッドと呼ばれる宝石にも等しい。爽やかな柑橘系の甘みのある良い香りがほのかに香る。

 くらくらするほどの眩さを放つ少女の姿に見惚れて一瞬ぼうっとしかけたが、すぐに意識を引き戻して挨拶に応じる。

「トーマス・エルスハイマーです。」そう言って握手に応じた。

 そして思う。この少女は自ら国際連盟に所属していると確かに言った。警察の要請から国際連盟の人物と面談?おかしな話もあったものだ。

 しかも、成人を迎えているかも怪しい少女達が国際連盟の所属?

 ますます持ってこの場の状況がいまいち呑み込むことが出来ない。


 怪訝な表情を隠し切れないトーマスに向け、マリアは満面の笑みを湛えながら言う。

「あぁ、私達の容姿から訝しい子達だと思われているのですね。無理もありません。ですが、我々国際連盟の保安管理部は各国地域における治安安定を目的として活動している側面もあります。その職務の特性上、そうした組織の人間であるということを大衆から隠匿するのも重要なものですから。目立ちはしましょうが、この出で立ちを見て自分達が国連の人間だと想像出来る人物もいないでしょう。つまりはそういうことです。」

 マリアはそう言いながら国際連盟の職員であることを証明する証書をトーマスへ提示した。

 そこには確かに顔写真付きで保安管理部 第6課所属の人物であることが記載されている。


 国際連盟 保安管理部 第6課。当然、そのような部門や課に属しているなどというのは嘘だ。

 これは今回のように、マリアが自身の所属を明かすことが出来ない時、対外的に身分証明する場合にだけ用いる形式的なものに過ぎない。

 ただ、提示された証書は紛れもない公式のものであり、国連へ問い合わせを行えば〈確かに在籍している〉という証言を取ることも出来る。

 本来の身分を明かすことが出来ない場合は常に同じ方法をとってきたが、今回に関しても例に漏れずというわけだ。


 証書を確認したトーマスは言う。

「申し訳ございません。いまいち状況が呑み込めていないものでして。教会の者から手紙を渡されました。警察から渡されたというその書面には、此度のミュンスター暴動に関わる意見を聞くための面談がしたいという内容と、この場所が記されたものでしたので伺った次第ではありますが……」

「想像していたものとは違う。そうおっしゃりたいのですね?皆様、一様にそうおっしゃいます。ですがご安心ください。訝しい装いではありましょうが、我々は地域安定の為に仕事をしていることは事実。更に通知通り、ミュンスター暴動に関わる意見聴取の為に動いていることもまた事実です。」

「いえ、疑っているというわけではないのです。」

「構いません。どうしても信じられないということであれば、国連に直接お問い合わせください。きっとご納得いただける回答が得られるはずですから。」

 マリアはにこりと笑顔を見せ後ろを振り返り、元居た場所へ歩きながら言った。

「必要ありません。わたくしめで力になれることがあれば、喜んで協力致しましょう。」

「ありがとうございます。」

 並べられた椅子の傍まで歩み寄ったマリアは、トーマスの方へ向き直り話を続ける。

「今回の面談に関わる他の職員の紹介もさせてください。まず、彼女はアザミ。私の補佐を務めてもらっています。そして彼女達には記録や様々なサポートをお願いしています。右から順にシルベストリス・アネモネア、ホルテンシス・アネモネア、ブランダ・アネモネアです。」

 紹介と並行して名前を呼ばれた各自はトーマスに向けて軽く礼をした。

「面談は私が担当をいたします。女性ばかりで落ち着かないかもしれませんが、何卒ご了承を。事件終息に向けた取り組みの為にご協力をお願いいたします。」

 言い終えると、マリアは手振りでこちらに来て座るようにとトーマスを誘う。

 トーマスはゆったりとした歩調で示された椅子まで歩み寄り、一礼をして腰掛けた。彼に続いて他の全員も順次椅子に腰を下ろした。


 いよいよ面談の準備が整ったところでマリアが言う。

「早速ですがエルスハイマーさん。4月に入って間もなくこの地で起きた事件について、これからお伺いしていきます。ミュンスター暴動と世間で呼ばれる事件。この事件はカトリック信徒と福音主義信徒の諍いが根本にあると言われています。ミュンスター司教区を預かる貴方の立場から見て、事件はどのように映っていますか?」

「率直に、一連の事件について大変に心を傷めております。先刻、ヴァチカンから発せられた談話にて教皇猊下が仰せになった通り、これらの事件は我々カトリックの意思に基づくものではなく、我らが信仰する道筋からは遠くかけ離れたものです。どのような事由があるにせよ、暴力や争いといったものは容認できるものではありません。諍いに加担する者には今一度、自身の心の内へ信仰のなんたるかを問い掛けて頂き、己の心に巣食う悪しき感情を振り払うよう願いたいものです。」

「なるほど。では、福音主義派の間で囁かれている件についてはいかがでしょうか。この事件の発端は、カトリック教徒による自分達への攻撃が発端となっている、と。」

「誤解です。長きの歴史に渡り、ミュンスターの街では双方の宗派が寄り合い暮らしを営んで参りました。それが突然、何の意図も意味もなく“諍いを誘発する”行為に信徒たちが進んで加担するなど考えられません。言葉は悪いですが、そう仕向けたい何者かによる陰謀であると考えずにはいられませんな。」

「はい、私も同意見です。実の所、ネットメディアでは『両派による諍いには特定の第三者集団の関与が疑われるのではないか』という議論が一部界隈で盛り上がりを見せています。盛り上がりというと語弊が生じますが、事の発端まで遡ったとき、キリスト教に関係を持たない集団の影が見え隠れするという陰謀論の一種です。」

「なんと。そのような話があろうとは。少し詳しく聞かせては頂けませんか?」



 予想通り。この話に彼が食いつきを見せることは必然の流れだ。彼が事件の根幹に深く関与していることを既に承知しているマリアは内心でそう思っていた。

 この面談における未来は当然ながら既に確定を見せている。

 自身の未来視による話の結末はこうだ。

 彼は第三者集団であるネオナチの関与による陰謀論に強い食いつきを見せ、驚く“演技”を打った後にそれが原因であると断定し、自らカトリック教徒たちに伝聞すると申し出る。そのような話に持っていくよう会話を誘導し始める。

 途中で自身が彼にどのような意図をもつ質問をしようとその流れが変化を見せることはない。

 彼はアンジェリカが目論む〈発覚〉の引き金に指をかける人物だ。司教区を統括する立場である彼が、直接的な行動を起こすことで信徒たちに与える影響は計り知れない。

 アンジェリカのことが記憶に無くても、そうした行動に出るよう彼女の手で仕向けられているといって良いだろう。

 ここで重要なのは、彼がその引金から指を外すように仕向ける対話を行うこと。加えて、アンジェリカがどのように彼に近付き、何をキーワードとして騒動に加担したのかについての〈心層〉を暴き出すことだ。

 それさえ突き止めることが出来れば、ホルテンシスが人々に発するメッセージの内容にも一層強い効力が期待できるようになる。


「我々が確認している情報についてのみお伝えしましょう。」


 目論見通りに話が進んでいることを感じながら、マリアはネオナチが事件に加担している可能性について彼に話をしたのだった。


                 * * *


 ザンクトマウリッツ教会から帰路につく為歩くこと20分、目的地であるフロリアンの宿泊先のホテル玄関へと3人は到着した。

 この数日と比較すれば幾分か冷えも弱まり、春の訪れをようやく体感できるようになった日暮れ。ドームプラッツのプロムナードを並んで歩いた3人は今、この夜のことについて最後の確認をしている最中であった。


「フロリアン、気まぐれ猫に会うために外出することは認めますが、無理はなさいませんよう。念を押して申し上げます。自ら死地に飛び込むような行動や発言は厳に慎んでくださいませ。」

「分かっているよ。」

 ロザリアは小さく息を吐いて言う。

「本当に理解していらっしゃるのかどうか、怪しい所ですわね。アシスタシア、くれぐれも頼みます。」

「はい。」護衛と監視の指示を受けたアシスタシアは一言だけ返事をした。

 次にロザリアは青い瞳をフロリアンへと向けて言った。

「それでは、わたくしはここで。明日の午前8時に、また。」

「了解。おやすみ。」


 気さくな物言だ。ある意味では見違えるような彼の変化に、ロザリアは内心で少しばかり驚いていた。

 女性と行動を共にするのに慣れてないなどと言っていたのが遠い昔のことのようだ。

 この街で最初に会った時の硬さなど微塵もない。昨日のやつれた様子も微塵もない。今の彼からは、自身の迷いなどを全て断ち切ったかのような清々しささえ感じられる。

 僅かな時間の間にどのような変化が生じたのか多少なりとも興味があったが、彼相手では過去を視通すこともままならないため諦めるしかない。


 様変わりした彼に、ロザリアは穏やかな表情で目を向けて言う。

「はい、おやすみなさい。」

 これまでに互いの間には存在しなかった友好の結びつきを確かに感じながら。

 挨拶を言い終えたロザリアは1人、司教館へ向けて歩いて行った。



 ロザリアの姿を見送った後、アシスタシアが言う。

「この建物の周辺から監視をさせて頂きます。先程ロザリア様もおっしゃいましたが、あの悪魔を相手にして無謀な行動は厳に慎まれますように。」

「大丈夫、僕を信じて。」


 この自信はどこから溢れてくるのだろうか。アシスタシアは不思議に感じながらも、彼の言葉が虚勢ではないということを明確に感じ取っていた。

 何の力も持たないただの人間。あるのは随分と濃い念を発する守り石のようなものだけ。察するに、黒曜石の類であろうか。

 これほどの思念による守りの力ともなれば、創造主は言うに及ばず。アザミの手によって生成され、マリアから手渡されたものに違いない。

 だが、それだけだ。その石を身に着けているからといって、アンジェリカの脅威から絶対に身を守ることが出来る保証などない。万が一ということがあれば、“こちら側”としても大問題である。


 アシスタシアは、唐突に自分に課せられた重大な責務に気が重くなった。

 だが、そんな思いを知ってか知らずか、フロリアンはにこやかな表情でこう言った。

「アシスタシア。ミクロネシアで僕達と行動を共にしていた女の子のことを覚えているかい?白銀の髪をした子を。」

「イベリス様のことをおっしゃっているのですか?」

「そう。僕達のチームは一昨年からずっと彼女と行動を共にしている。強大な力を持ち、際限なく異能を振るうことができる彼女と過ごす中で色々と理解したことがあるんだ。」

 フロリアンの言おうとしていることが理解出来ず、アシスタシアは首を傾げる。

「遠い昔から今という時代を跨いで生きる彼女には、とても強い願いがあった。彼女はその願いを叶える為だけに千年もの時間を越えてきた。そして、それはきっと他の公国出身で今を生きる者達も同じなのだと思う。アイリスも、ロザリアも。であるならば、アンジェリカだってきっとそうだ。強い願いや思いが無い者が、膨大な時間をただ目的もなく生きるだなんて出来やしない。」

「つまり、アンジェリカにも何か強い願いのようなものがあるとおっしゃりたいのですか?」

「彼女にとってのそれは、きっと“愛を知りたい”ということなんだと思う。そしてあの子はその答えを僕が知っていると思っているし、僕に聞けば理解できるかもしれないと期待している節がある。どういうわけか、ね。だからこそ、僕は彼女に近付いても無暗に殺されるはずがないと確信している。今の彼女にとって、僕を殺すという選択肢はつまり〈自身の願いを否定すること〉に繋がるはずなんだ。」

「貴方の不思議な自信の根拠はそういうことでしたか。確かに、無理矢理にでも理屈をこじつければそのような解釈も出来るのでしょう。しかし、憶測であって絶対ではない。」

 フロリアンはアシスタシアの意見に頷いた上で言う。

「そうだ。絶対ではない。けど確信はある。昨日の夜のことだ。」

「彼女が貴方を尋ねて来たという一件でしょうか?」

「よく考えてみてほしい。立場を変えれば、僕を尋ねて来るという行為はアンジェリカにとってもそれなりの危険をはらむ行為だ。なぜなら、貴女やロザリアのような存在が身近にいるわけだからね。仮に2人が夕食でこの場にいなかったと彼女が知っていたとしても、本人がいないというだけで他に対策がないということまでは見抜けないはず。」

「危険を冒してまで会いに来たという事実が、求める答え……つまり願いの強さに起因するものであり、故に彼女は貴方に対しては無暗に危害を加えることもないと。」

 アシスタシアが言うと、フロリアンは静かに頷いた。

「昔、マリーが言っていたんだ。正義や悪などという観念は、それぞれの立つ立場によって如何様にも変わるものだと。それこそ絶対がないものだと。僕もそう思う。そして昨年、ミクロネシアでの事件を通じてアイリスが言っていたという言葉をイベリスから聞いた。〈目に見えるものが全てではない〉。僕は、自身の目で彼女の真意を測りたい。」

「一昨日、ロザリア様がなさった忠告をこうも簡単に破ろうとは。呆れたお方です。深淵に覗かれて魅せられたというような危うさを感じます。」アシスタシアは溜め息をついて言った。

「理解しようとしてはならない。その気持ちに寄り添おうなどと思ってはならない、か。僕だって、アンジェリカの行いが真に正しいとは思っていない。この街で彼女が起こした暴挙を肯定しようとも理解しようとも思わない。ただ、彼女の中にある全てを悪と断じてしまうことが正しいことだとも思えない。そう、彼女は“知っているけど認めたくない”だけなんだ。」

 知っているけど認めたくない。その言葉を聞いてアシスタシアは内に込み上げるものを感じ取った。

 ふっと視線をフロリアンから外して言う。

「承知いたしました。お好きになさってください。」

 あまりにも固い意思を見せるフロリアンに、アシスタシアはお手上げといった表情で言い放つ。

 だが、真剣な眼差しをフロリアンに向け直して言葉を付け加えた。

「ですが、もしあの子が貴方に危害を加えるような素振りを見せた際には、私は迷いなくあの子を斬り捨てます。それが私に与えられた指示であり、私にとっての正義だからです。」

「分かっているよ。」


 フロリアンは憂鬱な表情を浮かべて同意を示す。

 全ては憶測、全ては賭けであり結果など見えない。

 もし、自分の考えがロザリアやアシスタシアの言う通り過ちであったとすれば……

 果てにある末路は悲惨なものとなるだろう。

 事実、アンジェリカと対話をしたとして何がどうなるわけでもない。何を期待するでもなく、ただ〈そうするべきだと思うから〉という理由の行動に意味が見出されることなどあるのだろうか。


 日の光は西の空に吸い込まれつつあり、暗闇が再び天を覆おうとしている。

 フロリアンは何もない空を見上げながら、自身の決断が正しいものであることを祈った。


                 * * *


 ネオナチの関与による暴動。

 遠い過去の宗派対立が混乱の道具として利用されている。

 マリアは突き止められている情報の“ほとんど”をトーマスへと伝えた。


「左様ですか。よもやそのようなことの為に、主を尊ぶ人の心が利用されようなどと。宗派を問わず、許し難い信仰への冒涜。事実であるならば、何としても彼らを止めなければなりますまい。」

「同意します。ですが、慎重に動かなければなりません。我々はこの事態を限りなく平和的に解決するために、彼らへどのように対処すれば良いのか方法を探っている最中です。むやみな刺激は新たな混乱と悲劇を生み出しかねませんから。」

 椅子の背もたれに身を預けるような姿勢を取ってマリアは言った。

「慎重にという意見には私も同意しましょう。しかし、可能性については早急に全ての民衆へ情報を伝えるべきではないでしょうか。今すぐにでも公表すべき情報です。」


 やはり。先程からトーマスが見せる話への食いつき具合からして間違いない。

 彼はキリスト教徒の怒りの矛先をネオナチズムに関与する者へ向ける為の起爆剤としてアンジェリカに利用されようとしている。

 彼の持つ立場。彼の持つ権威。彼の発する言葉の重み。

 それらを踏まえればこれ以上にない人選と言えるだろう。

 では、なぜ彼はこうも都合よくアンジェリカに利用される立場に身を堕とすことになったのか。そろそろ原因を突き止めなければならない。


 マリアはふっと息を吐くと、右手を上に持ち上げ指をぱちんと弾いた。

 次の瞬間、部屋の照明が消え暗闇が訪れる。間もなく、オレンジ色の間接照明数基のみ点灯し、室内を淡く照らした。

「これは、一体何のおつもりでしょう?」トーマスの狼狽える声がする。

「急ぐ貴方のお気持ちも理解しますが、我々が真に知りたいと思う肝心なことをまだ貴方から伺っておりません。エルスハイマーさん。」

「真に知りたいこと?」

「えぇ。ここまでの対話で貴方が担う立場から見た暴動への感想と、我々が知り得ている情報の提示、加えて今後についての貴方の意見を伺うということまでは出来ました。しかし、重要なのは〈貴方個人の抱く心情〉です。立場によって為すべきことではなく、貴方が真に抱く個人的な感情。それをぜひ私達にお聞かせ願いたい。」


 薄暗い部屋の中、目の前の椅子に深く腰掛ける少女の赤い瞳が怪しく輝いている。

 不敵な笑みを浮かべる彼女が放つ不可思議なオーラに圧倒され、トーマスは身動きひとつとれずにいた。

 そんな中、ふと自身のすぐ傍に1人の少女が歩み寄っていることに気付いた。

 独特のダメージ加工が施されたゴシックドレスに身を包む、青紫の髪色をした少女。彼女がそっと腕を伸ばし、自身の肩に手を乗せる。

 彼女の手が触れた瞬間、全身の力が抜けていき、意識が現実の彼方へ飛ばされるような感覚が走る。


 怪しい笑みを浮かべたままの少女が言う。

「それでは、貴方の内なる記憶に尋ねましょう。貴方の心の声を、聴かせてください。」


                   *


 幼い頃から当たり前だった。

 敬虔なカトリックだった両親の元で育ち、自らもまた信仰の道を歩むことに何の疑いも抱かなかった。

 大いなる神とイエス、聖母と聖人たちにより成り立つ世界。

 その中の一信徒として生き、幼少期から成人に至るまで何一つ迷うことなく、この道を歩いて来た。

 この道こそが、自らに与えられた〈生の意味〉であると信じて。


 長きに渡る清廉なる信仰の果てに、使徒の後継者たる司教職を授かり、ミュンスター司教区を預かる身となって幾ばくか。

 自らが歩む道筋に暗雲が立ち込め、光を見失ってしまったのはいつからだっただろうか。

 宗教が世界で絶大な権威と権力を司る時代から、科学の台頭による時代へと移り変わった現代。人々の心から信仰心と呼ぶべきものは徐々に薄れていると感じていた。


 嘆かわしいかな。救いの意味を知らず、与えられることが当たり前だと思う民衆。


 この世界において、神という存在が必要とされなくなってきている。

 奇跡と呼ばれた御業を人の手で再現し、何もかも作り出してしまう様になった時代。

 AIが発達し、誰もが気軽に寄り添うものを手に入れられる時代になって以後、今では信仰に心の拠り所を求める者も少なくなってしまった。


 今の子供たちが学ぶのは純粋なる神の教えではない。

 聖書に述べられる文言を学ぶのは、〈神の教えは如何にして人々の心を扇動していったのか〉という心理学的アプローチから見る研究の為でしかなくなってきている。


 嘆かわしいかな。人間というものはどこまでも強欲に、傲慢になってしまうものだ。


 与えられた安寧を当然と享受し、踏み台とする。

 挙句、神の言葉からその御心を暴こうとする始末。

 このような世界の在り方は間違っている。

 このような世界が正しいはずがない。

 歳を重ねるにつれて沸き上がり吹き溜まる黒い感情。

 消えることのない焦燥と怒り。


 不安、孤独、恐怖、苦悩。私はそれらを遠い過去から抱き続けた。

 秩序、信仰、解放、救済。私はそれらを尊び現代を生きている。

 しかし。


 この世界に生きる多くの人々はそれらを求めない。

 一体いつから、世界は変わってしまったのだろうか。


 おぉ、主よ。憐れみ給え。


 自身が幼かったあの日、洗礼を受けたあの日の喜びは当に消え去ってしまった。

 学生時代、同じ道を歩んでいた仲間と共に語らった日々が戻ることもない。


 歳を重ねるごとに、歳月を経るごとに自身の意識がもたらす息苦しさはついに限界に達しようとしていた。

 何もかもかなぐり捨てて、世捨て人として生き抜くことも覚悟していた。



 だが……

 私の心が苦悩で満ち溢れようとしていた丁度その頃、あの子が目の前に現れた。


『司教様、司教様!お話を聞かせてください!』


 暗闇に差し込む一筋の光。

 救いをもたらす天からの贈り物。

 あの時の私はそう思わずにはいられなかった。信仰について熱心に尋ねて来る少女はまさに天使と呼ぶにふさわしい存在であったのだ。

 科学が宗教を淘汰して、世界が祈りを忘れようとする中において、このような眩しい輝きがあろうとは。


 私の知る全てを伝えた。

 私の思いの全てを伝えた。

 私の感じた想いを全て伝えた。


 彼女は全てを聞いてくれた。

 彼女は思いを汲んでくれた。

 彼女は私に同情してくれた。


 私は彼女の言う通りにした。

 私は彼女の言葉を信じた。

 私は、私は、私は、私には、それしか残っていなかった。



 そして……果てに光は潰えた。




 嘆かわしきかな。



 自ら宗派同士の対立を煽る行為に加担しようなど。

 人々の心の信仰を取り戻す為には、拠り所を必要とするような大きな惨禍が必要だ。

 科学の力では乗り越えることなど叶わない、人の精神に依存する悪夢が。


 結局、少女がもたらしたものは光などではなかった。彼女がもたらしたものは、この世界を恐怖の渦に包み込む惨禍そのものである。

 彼女にそそのかされるまま、私は自らの手で、自らの意思で歴史が編み出してきた尊い安寧と平和を打ち砕いた。

 彼女は私の地位と権威を利用して、己の目的を達そうとしただけに過ぎなかった。

 端的に言えば〈騙された〉のだ。


 それなのに。そのはずなのに。


 心の底から彼女を恨むことが出来ないでいる。

 この生の最後に、希望の光というものを見せてくれたあの子のことを……

 愛を知らない可哀そうな子供。


 神よ、主よ、私の信仰の道は罪で満たされた。

 私は自身の人生、自身の思想を思うばかりで本質的なことを見失ってしまった。

 その末に辿り着いた結末を見よ。罪人はここにいる。

 故に、貴方が私を見放したのは当然のことであった。私が受けた報いは当然のものであった。


 しかし。

 神よ、主よ、全てを等しく愛するというのなら、なぜあの子に愛を与えなかったのか。

 彼女に救いが与えられていたのなら、彼女はきっと。


                   *


 かすれるような言葉が宙を舞う。絞り出される苦悩が部屋に響く。

 意識の底で、自身の記憶を呼び起こしながらトーマスは語った。

 彼が語ることを止めた時、ブランダは彼の肩に置いた手をそっと離した。


 少し呼吸を乱し、足元をふらつかせているブランダをホルテンシスが支えてその場を離れる。

 赤い瞳を淡く光らせ、険しい表情をしたマリアは語り終えたトーマスをじっと見据える。

 光を失っている彼の眼は遠く、視点は現実の空間を捉えない様子で泳いだままだ。

 抱えていた苦悩を吐き出した影響だろうか。彼の頬を涙が伝い、オレンジ色の灯りに照らされ一筋の線を浮かび上がらせた。


 全てを聞き終えたマリアは右手を持ち上げ、ふっと息を吐きながら指を鳴らした。

 部屋には明るい照明が灯る。すると、意識を遠くへ追いやっていたトーマスの目にも光が戻った。

「私は、今何を……何かを、お話しましたか?」

 自身が発した言葉を何も覚えていないという様子でトーマスは言った。

「貴方が感じていることを、そのままに。言葉として受け取りました。」

「それは、罪の告白というべきものでしょうか。」


 トーマスは覚悟した。この少女たちが行ったのは自白の誘導ではなかったのか。

 心理カウンセリングで用いられる催眠療法〈ヒプノセラピー〉を用いられたのかもしれない。年齢退行催眠、トラウマセラピー……考え付くといえばそのようなものだ。

 だとすれば、自分は無意識化で全てを語り聞かせてしまったのか。

 警察に要請されて聴取しているという彼女らに全てを話してしまったとなれば、もはや自分は今までのままでいることは出来まい。


 そう思いかけたが、目の前の少女は特に何も咎めることはないという風に言う。

「信仰に携わる方の想い、この身に受け止めました。先にお話しいただいた内容は事件解決に向けて“参考にさせていただきます。”」

「他に問われたいことがあれば何なりと。」首を横に振ってトーマスは言う。しかし、マリアも同様に首を横に振りながら言った。

「いえ、これ以上は何も。ご協力感謝いたします。お1人で立てますか?」

「問題ありません。では、私はこれにて。」

「アザミ、フロントまで彼をお連れするように。」

「承知しました。」


 椅子から立ち上がったトーマスの傍にアザミが歩み寄る。

 そして、ゆっくりと扉へと向かって歩く彼に付き添いながら同じく部屋の扉を目指した。

 出入り口に辿り着いたトーマスは、退室する間際に言う。

「皆様の尽力が良き未来へ結びつきますよう。」

 そう言い残すと彼はアザミと共に静かに部屋を後にした。



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