第10節 -乖離と解離-

 小さな悪魔との恐怖の邂逅をロザリアの介入で何とか切り抜けたフロリアンは、マリアとの約束の場所であるホテルへとようやく辿り着いた。

 そこはミュンスター中央駅のすぐ近くに建つ四つ星ホテルだ。堂々たる佇まいの大きな建物。ファサードを見上げると最上部には大きなHOTELの文字と、そのすぐ下に王冠のマークが見える。

 そこから視線を下ろして行くと、扇状に並べられた旗に加え、洗練されたホテルの証である四つの星マークが目に入る。

 正面玄関は豪華なガラス張りの扉で出来ており、周囲に設置されたオレンジ色のライトに優しく照らし出されている。

 扉の奥にはフロントへと続くレッドカーペットが敷かれた階段があった。

 フロリアンは逸る気持ちを抑えつつ、豪華な入口扉を潜ると階段をしっかりとした足取りで上り館内へと入った。


 建物内に入ってすぐ、半円形のフロントが目に入る。受付の奥は鏡になっており、広い空間演出に一役買っている。

 内装は華美さを感じさせない落ち着いた雰囲気となっていて、暖色系の淡いライトで照らされる空間は心を安らげるような心地よい雰囲気を醸成している。

 フロリアンはフロントへ早速用件を伝えた。

「こんばんは、クリスティーさんと待ち合わせをしているのですが。」

 するとフロントスタッフは手元の端末で情報を確認するとすぐに返事をする。

「ようこそおいでくださいました。ヘンネフェルト様でいらっしゃいますね?クリスティー様より貴方様をご案内するよう仰せつかっております。奥へどうぞ。」

 フロリアンはスタッフが手を伸ばした先へ顔を向けると、そこには案内役のスタッフがもう1人控えており、深々と一礼をした後に手振りでついてくるように誘導した。


 フロリアンはマリアの手際の良さに感服していた。

 実の所、このホテルへ到着する直前にマリアから新しいメッセージを1通ほど受け取っていたのだ。

〈ホテルへ到着したらフロントへ自分と待ち合わせしている旨を伝えるように〉という内容である。

 彼女と一緒に行動するときはいつもそうなのだが、例えどんな場所へ行った時でも完璧な事前準備が整えられているのが常だ。

 今日この瞬間においても例外ではない。ホテルに宿泊しているわけではない自分のことも含めて、ただ一言伝えるだけで全てのことがスムーズに運ぶように取り計らわれている。

 訪れたことのない場所に急に誘われた時でも、自分が不安なく行動できるのは彼女のこうした特徴があるからだ。

 しかし、こうした彼女の手際の良さに感服すると同時に、少し心に引っかかる点があるのもまた事実であった。

 マリアと初めて出会って以来、5年もの間交流を深めてきているのだが、未だに彼女がどういう仕事をする、どういう立場の人物なのかはよく分かっていない。

 私生活について分かっているのは普段はスイスのジュネーヴで暮らしているということくらいだ。

 長く交流をしてきた今となれば、そうした素性に関することも聞けばある程度は教えてくれるのかもしれないが、未だに詳しく聞いたことがない。

 いや、聞いたことがないといえば語弊がある。これは直感だが、“今は聞かない方が良い”という予感があるのだ。

 ハンガリーで初めて出会った時の事件のことも踏まえて……である。


 そんなことを思いながらスタッフの後ろをついて歩くこと間もなく、奥のロビーへと到着した。

 室内は白と灰のストライプ模様が施された壁面にメダリオンジオメトリック柄のカーペットが敷かれた上品な空間で、天上から豪華なシャンデリアが吊り下げられている。

 壁際にはつややかなテーブルが置かれ、そのすぐ傍には宿泊客が存分にくつろげるように濃紺あるすみれ色の上質なソファがいくつも設置されていた。

 そんな優雅なロビーの奥に彼女の姿があった。マリアはカーテンに遮られた窓の方を向いて立っている。

 いつもはすぐ傍に控えているアザミや、今日の夕方初めて出会った3人の少女たちの姿は見当たらない。この場には彼女一人だけだ。

 案内を終えたスタッフは特に何かを言うこともなく、再度深々と一礼をするとすぐに下がっていった。

 スタッフが去り、2人きりになったところでフロリアンは言う。

「やぁ、マリー。待たせたね。」

 マリアは振り返り、フロリアンの姿を確認すると満面の笑みを浮かべて言った。

「来てくれて嬉しいよ。唐突な誘いを受けてくれてありがとう。」

 そう言ったマリアであったが、すぐに伏し目がちになりながらこう続けた。

「フロリアン、早速妙なことを聞くかもしれないのだけれど……変じゃないかな?この格好……」

 軽く握った右手を頬へと近付け、珍しく髪を触る仕草を見せたマリアにフロリアンは言う。

「全然。とても似合っていて、綺麗で……そう、凄く新鮮だ。」

 不器用だがはっきりとしたフロリアンの返事を聞いたマリアの頬に僅かに赤みが差す。そしてはにかむように言った。

「そうか。着慣れない格好をするとどうにも落ち着かなくてね。」

 マリアはゆっくりとフロリアンの元へ歩み寄って言う。「でも、今の君の言葉で落ち着いたよ。どうやら私の不安は杞憂だったようだ。」

 彼女らしい遠回しな言い方だが、その奥にある安堵という感情は本物だろう。それは彼女と交流を重ねてきたフロリアンだからこそ分かることであった。 


 当たり前のことだが、フロリアンがこの部屋に立ち入った時に真っ先に視線を向かわせたのは上品な内装や美しい調度品や上質なソファなどではない。

 周囲の景色全てを差し置いて瞳に捉えたのは、もちろん目前に立つ彼女の姿だ。

 今日の彼女は艶のあるサテン生地を使用したネイビー色のワンピース風ドレスに身を包んでいた。

 肩から肘にかけては花柄のレース素材が使われており、華やかさと上品さが醸し出されている。加えて蝶リボンで引き締められた腰回りから優雅に伸びるスカート部分も、膝からがシースルーになっていて大人びた印象を抱かせる。

 足元もいつものようなプラットフォームやブーツ型のヒールではなく、足首に蝶結びリボンがあしらわれたクロスストラップのハイヒールで合わせられていた。

 バリエーションの数こそ多彩だが、いつも決まって黒基調のゴシックドレスに身を包むはずの彼女がこうして別の装いをしているのはフロリアンにとって言葉通り新鮮であった。

 夕方に会った時にはいつも通りメイクもしていなかったはずだが、今はうっすらとメイクをしているのも見て取れる。

 先程『着慣れない格好をして落ち着かない』と言っていた辺り、この装いの変化はアザミか、もしくはマリアの周囲にいた彼女達の意思によるものなのだろう。

 しかしそれがどういった経緯であれ、こうしたお洒落の全てを今この場で自分に会う時の為にしてくれたのだと思うとフロリアンはとても嬉しい気持ちになった。

「僕も着替えて来るべきだったな。これじゃ今の君と釣り合わない。」

 フロリアンは改めて自分の装いを見て肩をすくめる振りをしながら言う。

「君らしくて良いじゃないか。」マリアは笑いながら言った。

 褒められているのか、けなされているのか分からない言い回しはいつものことであるが、彼女はすぐにこう付け加えた。

「それに、私は君のそういう飾らないところを美徳だと思っているんだ。分かるだろう?フロリアン。」

 非常に遠回しながら、彼女なりの最上級の誉め言葉が自身に贈られたことをフロリアンは喜んだ。

「では、今夜も張り切ってエスコートさせてもらうよ。」フロリアンはおどけた様子で一礼をすると、騎士のように跪く姿勢を取りながら右手を上へ向けて彼女へと差し出す。

「それは頼もしい。お願いするとしよう。」

 マリアはそう言うと、迷うことなく彼から差し出された手に自身の手を重ね、しっかりと握り返したのだった。

 互いに手を取り合った状態のまま、ほんの数秒ほど視線を合わせた2人は互いにその日一番の笑顔を見せる。

 そしてマリアは言う。

「ねぇ?フロリアン。君は今から私をどこへ連れて行ってくれるんだい?」

「君の行きたいところならどこへでも。」甘く囁くマリアに対し、フロリアンはノープランであることを自信満々に明かした。

 そんな彼の返事に笑いながらマリアは言った。

「それなら私が君のエスコート役を引き受けなければならないね。では、夕食に向かうのはどうだろう?ここのレストランの食事は素敵だよ。」

「ちょうどお腹が減っていたんだ。喜んで。」

「決まりだね。」

 マリアは楽しそうな表情でそう言うと、フロリアンの手を引き1階のレストランへ向かった。


                 * * *

 

 寒風が街路を吹き抜ける。昼の明るさの代わりにその輝きを増した街灯が周囲を照らし始める中、アシスタシアは次の目的地へと向けて歩みを進めていた。

 淡く黄色い暖かな彩を放つ街灯に照らされたプリンツィパルマルクト。この幻想的な空間の北端にある教会こそ次なる目的地だ。

 聖ランベルティ教会。既に大きく視界に捉えていた場所の、目の前に辿り着いたアシスタシアは尖塔を見上げる。

 金色の時計の上方に見える3つの鉄篭を見据え、しばし思考に耽った。


『濃い。周囲に立ち込める尋常ではない濃度の気配。次に事件が起きるとするとやはり……』

 異常を知らせる気配が皆無であったヴィルヘルム大学構内とはもちろん、この街全域を包み込む気配とも一線を画すほどの不吉なものがこの場所を満たしている。

 例えるならば、この建物の周囲全体だけが“真っ赤な濃霧”に包まれているようなものだ。朝焼けに染まる濃霧という美しい自然現象などとはほど遠い。ただ禍々しさのみを感じさせる凶悪な気配が辺りに充満している。

 この地に訪れてからというもの、これらの気配については逐一状況を確認している。聖ランベルティ教会については昼にフロリアンと合流する前にもロザリアと共に確認をしたはずであった。

 今朝は付近のカフェにおいてこうした異常な兆候が見受けられたのみで、この教会については何も異常は見受けられなかった。

 急激に悪化した異常な気配。そうした事実を鑑みても、次に何か事件が起きるとすればこの場所をおいて他にはないだろう。

『ここまでとなれば、事件が起きるまでそう時間もないでしょう。急ぎロザリア様に報告を……』


 アシスタシアがそう思った矢先、教会のすぐ傍を歩いていた一人の男性が突然地面にうずくまった。

 異変を見て取ったアシスタシアは急いで男性の元へと駆け寄る。続いてすぐ付近にいた2人の通行人も異変に気付いて駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか?」アシスタシアは男性を支えながら言う。

「すみません、少し眩暈がして……でも平気です。1人で立てますから。」

 そう言って男性はすぐに立ち上がるが、顔色は非常に悪い。

「あんた顔色が悪いぞ。少し休んだ方が良い。」

「すぐそこの椅子まで移動しよう。肩を貸してやるから、ほら。」駆け寄ってきた2人の男性が言う。

「ありがとうございます。おかしいな……さっきまで何とも無かったのに。急に、こんな。」額に手を当て、軽く首を横に振りながらしゃがみこんだ男性は言った。

「仕事帰りか?疲れてるんだろう。自覚できない疲れってのもあるらしいからな。無理はするもんじゃない。」

 駆け付けた男性2人は眩暈を起こした男性に肩を貸すと、すぐ近くの椅子まで彼に付き添った。


 男性の無事を確認したアシスタシアは後ろを振り返り、再び教会の尖塔を見上げる。

 間違いない。この教会を包み込む邪気と呼ぶに相応しい気配と空気が、近付いた者に悪影響を及ぼしている。

 先程の男性のように、自覚しないまま疲れを溜め込んでいる人が近付けばあの通り。すぐに邪悪な気に中てられて体調不良を引き起こしてしまう。

 もはや一刻の猶予もないと考えたアシスタシアはロザリアに仔細を報告する為、司教館へ急ぎ戻ることにした。


                 * * *


 三大天使の1人、神意の啓示者の名を冠すレストラン。

 ベージュやオレンジといった暖かな配色の店内には黒のテーブルや椅子といった調度品が置かれ、優雅さとモダンさが一体化した空間が見事に演出されている。

 夕食時で賑わいを見せるレストランの一画、窓辺の2人掛けのテーブル席にフロリアンとマリアの姿はあった。

 入店してからおおよそ半刻ほど。2人は共に至福の時間を過ごしていた。

 華やかな料理と素晴らしいシャンパンを囲み、互いの近況を交えた会話に花が咲く。

 フロリアンとマリアが最後に会話をしたのはおよそ4か月前まで遡る。昨年12月末に会って以来ということでお互いに積もる話も多い。

 2人は海老とアスパラガスのクリームスープを楽しみ、これからメインディッシュである牛ローストサドルとチーズアランチーニへ手を付けようというところだ。


 ここでフロリアンは気になっていたことをマリアに尋ねてみることにした。

「マリー、ひとつ聞いても良いかい?」

「あぁ、もちろん。」

 いつもであれば、口に出そうとするたびに緊張で飲み込んでしまう言葉だが今日この瞬間であれば言うことが出来る。フロリアンは思い切って思っていることを言葉にした。

「夕方に話した時、仕事でここに訪れたと言っていたけど具体的にどんな仕事なんだい?」

 するとマリアは食事の手を止めてフロリアンの目を見つめた。

 やはり聞かない方が良かっただろうか。目測を誤ってしまったかもしれないという感情がフロリアンの中で渦巻こうとしていたその時、マリアはふっと小さく笑って言った。

「秘密……と、いつもであれば言うところだけれど、今回は特別だ。君の言いたいことはよく分かる。何せ、かれこれ5年も交流を深めてきたのだからね。」

 マリアはそう言って手元のグラスのシャンパンを飲み、静かにテーブルへ置いた。

 そして両肘をテーブルに付き、掌を上下に重ねて口元の前に置くと不敵な笑みを浮かべてこう言った。

「君が問いたいのはこうだ。私達がこの地で起きる“事件”に首を突っ込んでいるのではないか。そうだろう?」

「昔のことを思い出すんだ。ハンガリーでのことを。」フロリアンは不安な表情を湛えて言った。それが自身の本心だからだ。

「心配してくれているんだね。ありがとう。私は君のその優しさに随分と救われているよ。」

 マリアがそう言い終わった時、近くのスタッフは彼女のグラスの中が少なくなったことを確認して歩み寄る。どうやらマリアが視線で合図を送っていたようだ。

 スタッフがシャンパンを注ぐ間、2人の間には静かな沈黙が訪れる。シャンパンが注がれる音だけが響き、やがてそれがグラスを満たすとスタッフは一礼をして後ろへ下がっていった。

 テーブルからスタッフが完全に離れたのを見計らってマリアは言う。

「さて、私の“仕事”について聞きたいと言ったね?率直に言ってしまえばそれは今回君が引き受けている任務にも繋がりある話になる。」

「ウェストファリアの亡霊。」

「その通り。今この街はとても奇妙な状況にある。数百年も前に朽ちたはずの亡霊がこの世に蘇ったという、信じ難い都市伝説のような話が突如としてわき上がった。さらにそれらと関わりがあるかのように見受けられる事件が散発的に発生し、その頻度は日を追うごとに増加傾向にある。私の仕事というのはこうした奇妙な事件を根本から解決することでもあるんだ。」

「マリーはどこまで知っているんだい?」フロリアンは自身の知っていることをどこまで話して良いのか探る為の質問を繰り出す。

 しかし、その問いに対してマリアはあっけらかんとした様子で言う。

「君が知っていることは全て、だと思う。」

 神妙な面持ちで聞くフロリアンにマリアはこう付け加えた。

「なぜか、という表情だね。忘れてはいないだろうけど、私はロザリアと“ある意味で”親しい間柄なんだ。彼女が知っていることは私も知っているし、私が知っていることは彼女も知っている。今回の事件に関して、お互いに情報交換をしたからね。」

「ということは、街中に現れる鎧の兵士のことも?」フロリアンは声を潜めて言う。

「もちろん。」マリアはそこで言葉を区切るとフロリアンに顔を近付け、囁くように言った。「“私達”もそれを見た。赤い霧とこの世ならざる鎧の兵士。」

 ここまでの話を聞いて、フロリアンの中で彼女という存在がどういう存在なのかについてひとつの疑念が浮かんでいたが、敢えて口には出さないように努める。代わりにこう言った。

「それじゃ、既に事件の解決方法も?」

 事件の解決方法。それはアンジェリカという少女に一連の行動を止めさせるよう働きかけるしかない。例えそれが実力行使的な方法であっても、だ。

 もし仮にマリアがそのことを知っているとすれば。アンジェリカという存在を知っているのであれば、彼女は……

 だが、マリアは先の質問の答えを濁した。

「さあね。それより、私には事件そのものの解決より気になることがあるんだ。」

「気になること?」

 フロリアンがそう言うと、マリアはいつもの可愛らしい笑みを浮かべて言った。

「話の続きはメインディッシュを楽しみながらにしよう。温かいうちに食べてしまいたい。」

「そうだね。」目の前の料理のことが完全に頭から抜けていたフロリアンは同意した。

 すぐ目の前では既にマリアが肉を口に運び美味しそうに舌鼓を打っている。フロリアンも柔らかな肉を切り分けて口に運び、さっぱりとした味わいを楽しんだ。


「さて、気になることというのは他でもない。この事件に関わる亡霊の話として、君も既に聞き及んでいるだろう事柄についてだ。ウェストファリアの亡霊と遭遇したものは精神が汚染される……そうした話をロザリアから聞かなかったかい?」

「性格が豹変するという噂が流れているとは聞いたよ。」

「それだ。あの鎧の兵士を目撃した人物達は皆一様に“人が変わってしまったかのような”振る舞いをするようになるという。けれど、その表現は的確ではないと思っている。」

「というと?」フロリアンはシチリアの名物料理アランチーニを食べて言った。

「これは食事の時にするような話題でもないが、許してほしい。フロリアン、君は解離性同一性障害というものについてどこまでの知識を持っている?」

「一般的に多重人格と呼ばれる症状だと認識しているよ。僕が知っているのはその程度のことまでだね。」

「そう。幼少期などに、その人物が適応できる範疇を大きく逸脱した精神的苦痛や心的外傷を負ったことがきっかけで発症する……と言われるものだ。実の所、例の事件で兵士を見たという人物に起きた症状はこれに近いものがある。」

「亡霊に接することで多重人格を形成したとでも?」

「いいや、きっとあの亡霊達にそんな高尚且つ特別な力はないだろう。彼らに力といわれるものがあるとすれば、それはきっと〈曝露〉という性質だけだ。」

 フロリアンは理解出来そうで出来ないもどかしさを覚えた。

「マリー、少し具体的に話してほしい。」

「要はあの亡霊が“その人物が元々持っている性質をさらけ出す”ということだよ。人であれば誰もが建前と本音というものを抱えて生きている。それは私や君だって例外ではない。ある事柄に対して思う本音があったとしても、社会的には心の内に留めておかなければならないことだってある。または思い出したくない辛い記憶や経験を心の奥底で眠らせたまま生きる人だっているだろう。解離による下意識……あの亡霊はそう言った人々の“真実”をさらけ出させる性質を持っているのさ。」

「性格が豹変したのではなくて、元々そういう人であったことを暴く……」フロリアンは話の内容を理解する為に内容を復唱するように呟く。

 マリアはグラスを手に持つとゆっくりと回しながら言った。

「今、私が手に持つものもある意味では答えの一つだ。アルコールは人の本性を暴き出す性質も兼ね備えているからね。そのきっかけが件の亡霊に置き換わっただけという話なのさ。その他、人は窮地に陥った時にこそ本性をさらけ出すと言うが、本性という言い方がふさわしくないケースもある。辛い記憶が突然呼び起こされてヒステリーを起こした……そのようなケースだ。今回の事件においても、そうしたものがもたらしただろう事例も散見されている。いずれにせよ、亡霊と遭遇した人物達については“人が変わった”というより、その人が“元々持っていた性質”が露わになったものだと私は考えている。日頃から晴らすことの出来ない不満や鬱憤といったものも含めてね。」

 そしてシャンパンを一口飲み、グラスをそっとテーブルに置いて話を続ける。

「さらにこの事件において厄介なのは、そのことに加えてもう一つ別の“要素”が組み合わさってくることだ。」

 別の要素という言葉を聞いてフロリアンははっとした。

「宗教問題か。」センシティブな問題の為、声を潜めて言う。

「ご明察。この地でローマカトリック派と福音主義派の間で唐突に繰り広げられている争いの元凶はそこにある。再洗礼主義も力を持っていたミュンスターの反乱当時ほどではないにせよ、今の時代に至ってもそれぞれの宗派について思うところがある人も多いということさ。それも無意識化で。時代は変わっても、人の思想はそう易々と変わるものではないからね。」


 亡霊事件そのものはただのきっかけに過ぎず、事件が大きくなるのは人々が元々持っている思想や本音によるものだと彼女は言う。

 確かに言われてみればその通りだ。火のない所に立つ煙は無い。元々互いに良い印象を持っていない者同士の間に“きっかけ”と呼ばれるものが発生したならば、すぐさま燃え上がるような争いに発展するだろう。

 今尚、世界各地で繰り広げられる戦争だって元を正せばそうだ。きっかけはきっかけに過ぎず、最たる“原因”と言うものは常に人々の心の中にこそ存在するのだ。

 フロリアンが話の内容を頭で考えていると、ふとマリアが最初の話題へと立ち返って言った。

「実を言うとね、今の私の仕事というのはカウンセラーのようなものなんだ。この地で亡霊を見たという人々と実際に会って、しっかりと話を聞いてあげることが主な務めさ。問題の本質が人々の心の中にあるのならそれを解決する。根本的な解決策とは呼べないだろうが、効果がないわけでもない。とても地道な道のりだ。今日、君が初めて出会った三姉妹もその手助けをしてくれている。」

「トリッシュ、ホルス、ブランダの3人だね。そういえば、彼女達とは……」

 そこまでフロリアンが言うと、残りはマリアが引き取った。

「養子だよ。私達の家族だ。彼女達といるととても賑やかでね。今の装いもあの3人が見立てて、アザミがチェックしてくれたものなんだ。私はいつもの装いで良いと言ったのだけれど、姉妹たちがそれはダメだと譲らなくて。」そう話すマリアの表情は、まるで我が子を慈しむようなとても穏やかであった。


 養子。それにしては見た目的な年齢で言えばマリアと彼女達は近すぎる。ではアザミが引き取った子供達ということだろうか。

 フロリアンは少しばかり思案したが、あまり踏み込んで良い内容ではない。すぐに考えを思考の外へと追いやった。

「ごめん。踏み込んだことまで聞くつもりじゃなかったんだ。」

「君であれば構わないよ。それに、あの3人と話す機会もいずれまた訪れるだろう。その時はどうかまた話し相手になってあげておくれ。」

「もちろん。」フロリアンはすぐに返事をした。迷うことなど何もない。

 快い返事を受け取ったマリアは満面の笑みを浮かべて言う。「ありがとう。」

 そしてマリアはアランチーニを美味しそうに食べてから続ける。

「ところでフロリアン。君の質問にはこれで答えられたと思うけれど、次は私の質問にも答えてもらえるかな?」

「何でも。」フロリアンは快く返事をした。しかし、直後にマリアから問われた言葉を聞いてすぐに言葉に詰まることになる。

 マリアは声を潜めて言った。「ここに来る途中、怖いものを見たね?いや、出会ったと言った方が正確だろう。」

「どうしてそれを?」フロリアンは表情をこわばらせて言う。それが咄嗟に出た返事であった。彼女はアンジェリカの存在を知っているとでも言うのだろうか?

 フロリアンは彼女の姿を思い出して背筋が寒くなる思いに駆られた。

「そうか。これはただの予感だったのだけれど、どうやら正解らしい。何、君がここに訪れ、私と会った時に見せた表情からなんとなく、ね。」

 マリアは微笑みながらそう言うと皿に残った残りの肉を美味しそうに口へ運んだ。

 彼女がアンジェリカについて認識しているわけではないと分かった途端、フロリアンは全身の力が抜けていくのを感じた。あの少女を絶対に彼女へは近付けたくない。

 自身の先走りであったことを理解したフロリアンもすぐに頬を緩めて言う。「そんなに酷い顔をしていたのかい?」

 するとマリアは身を乗り出しながら、少しだけおどけた調子で囁いた。

「あぁ。今だってそうだ。少し怯えた表情をしている。思考の中から追い出そうとしても追い出せないほどの、そんな強烈な印象を与えた出来事が何かあったのではないかと考えた。」

「僕の心を読んでいるみたいだ。」

「言っただろう?私はこの地でカウンセラーのような仕事をしていると。だから今は、尚のこと人の表情や些細な行動が気に掛かるのさ。君が相手なら特にね。」

「そうか。じゃあマリー、そのまま。僕の心を読んでみて。」

 フロリアンは〈らしくないこと〉を言ったと自分でも思った。こんな台詞は彼女の前でしか言えないだろう。

 しかし、これはこの場に訪れる前に考えていたことを実際に確認する良い機会だ。


〈マリアなら、このとりとめもない思考から抜け出すきっかけを自分に与えてくれるだろうか〉


 そして当のマリアは〈思いがけない言葉を聞いた〉という表情を一瞬浮かべたが、すぐに満面の笑みを浮かべて応えた。

「良いとも。君の心の奥底まで読み取ってみるとしよう。」



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